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平成14年度


39号

40号

41号





















































あづま路 41号  平成14年9月発行
「和をもって貴し    横山  登
SKKのあしあと(2)     関口 利夫
地球環境問題について 市川 公道
少子化と教育 井上 正規

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 「和をもって貴し」  横山 登
  国を法によって治める。現代にまでつながる法治国家の理念を最初に確立したのは、聖徳太子である。当時はまだ具体的法(律令)が制定されていなかった。それで、国家のあり方を定める法として定めたのが「憲法17条」である。今から1400年前、推古12年(604)の時と言われている。
 その第1条の最初の言葉が有名な
    『和なるをもって貴しとし、忤(さか)ふること無きを宗とせよ』
「憲法17条」が「和の憲法」と言われるようになったのはこのためである。
 当時は、国つ神と天つ神の闘争が猛烈を極めた時代であった。「ヤマト」に「大和」の漢字があてはめられたのは、いつ頃からか?うち続く動乱に疲れ果て、和を切実に求めた民衆の要望から生まれたのであろうか。
 太子が「和をもって貴し」と言った背景には、このような長きにわたる動乱の時代があった。それ故に、太子は「仁」ではなく、「和」をもって最大の徳としたのである。
 「和」は客観的原理であって、人と人との関係の道徳である。太子は更に上下に和があれば、議論が可能であり、議論が可能であれば「理」が実現される。「理」が実現されれば、事は必ずうまくいくと述べられた。「和をもって貴し」とした太子の言葉はこういう考えの上に立っていた。
 だから和の精神は、鎌倉幕府の「貞永式目」に、明治政府の「五箇条の御誓文」に受け継がれた。そして今の言葉で言えば、遺伝子の一部として我々の体内のどこかに残っており、日本社会の基本原理の一角を形成しているのである。
 谷沢永一氏がこんなことを言っている。
 「日本が世界一長寿国である理由は、冷徹で個人主義でギスギスした生活のアメリカに比べて、和を重んじ、仲間を作っていく生活は心の安定につながり、それが長寿をもたらしているのだ」

 7月31日、日産の「フェアレディZ」復活が大きく報道された。日産が名車として世界に誇った「Z」の生産を中止して2年、日産再生のシンボルとしての再登場である。「和があれば議論が、議論が可能であれば道理が生まれ、事はうまくいく」という和の精神は、以外にもこの「Z」復活の原動力となった。
 有名なゴーン社長は、社員に対し「Z」に社運をかけると言う事で意識の統一を図り成功した。和の出発点である。その上で日産の名物のように言われていた各部署間の障壁を打ち砕いた。それからは企画、デザイン、技術、販売等といった各セクション同志の夜を徹しての妥協無き議論、こうして一つの筋道が生まれ、名車「Z」が世に送り出された。
 何かと言うと、日本的経営はもう時代遅れである、これからはアメリカ式成果主義の時代であるといわれる。しかし、日産の他にも、和の精神によって仲間(チーム)力を発揮し成功した例はいくつも耳にしている。

 ソニーがまだ町工場の域を脱していない時代、会社設立の趣意書には「自由闊達ニシテ愉快ナル工場」と記載されていた。そこに躍動しているのは「和」の精神ではないだろうか。

 SKK「相互啓発懇話会」は「ことば」の世界である。言葉によってお互いが啓発しあう会である。ことばを尽くすためには「和」がなければならない。「和」があって議論が生まれ、相互に啓発しあうことができる。
 こうしてみると、1400年の昔、太子が憲法で諭された『和をもって貴し』とする教えは、意識するとしないに関わらず、日本の至る所で息づいている。

 SKKも「和」と「話」を大切に育て、伝統継承の一端を担えたらと思う。
                                                  以上



















































SKKのあしあと 2    関口 利夫
  渉外力強化研究会当時のSKKの業務内容は、現在のSKKとは大きく異なっているため、関係者以外の読者にはあまり面白くないと思うが、貴重な一時期であるので、敢えて歴史に残したい。しばらくの間ご辛抱願いたい。

              <草創期> S59年
<その1>

 
開業早々の仕事として、(1)広報 (2)顧客の拡張 (3)協力者の増強 は必須の課題であった。

 
(1)広報

 
この趣意書は、創業の挨拶状に添えて、約200名の関係者に発送されたものである。

 
(2)顧客の拡張

 挨拶状の発送だけでは徹底を欠くため、関係先を中心に訪問活動を開始したが、その成果ははかばかしくなかった。
 関口は、朝日生命在職当時に関係を持った産業能率大学総合研究所の研修事業担当柴崎課長を訪ね、開拓の要領について指導を受けた。ベテランの同課長によれば、産能大のセールスマンは、それぞれ常に100位の折衝企業を持ち、3〜6年はその担当者と折衝を続ける。契約獲得率は10%ということであった。せいめいほけんのせーるすとくらべると、この方が余程難しいと感ずるのであった。

 (3)協力者の増強

 SKKの趣旨に賛同する者を会員(=協力者)として迎えることとし、とりあえず約20名に呼びかけた。そして昭和60年2月1日『第1回SKK同志の集い』を偕行社において開催した。参集者は下記の14名であった。
 東 隆昭、石井英一、大井得司、及川信夫、河内干城、志村良雄、竹内はつえ、登立さと、本間洋子、八代正雄、
 東富士男、関口利夫、渡部甲哉、村野新一
 この集いでは、SKKについての説明と、あわせてSKKへの協力(顧客の紹介、新会員の紹介)を依頼した。突然の訳の分からぬ案内状で出席し、内容を知って面食らった人もいたことであろう。
 なお、この集いはその後毎月実施され、その都度真剣な討議が行われた。翌3月には、井上正規、前田博、尾和要一の参加があり、逐次会員数は増えていった。

 建設的な意見も活発に交換された。その一例
渡部:前もって対象企業の現状把握が必要
井上:対象企業を絞ったらどうか、例えば無形商品を販売する業種とか.
    また中小企業からの依頼.相談に応じられるような税理士、弁護士
    コンピューターの専門家などをメンバーに入れたら..
前田:早期に事業計画を立てるべき
 村野、前田、河内、井上、石川からは見込企業の紹介があった。

*その後作られた事業計画は壮大なものであった。SKK基礎構築5ヶ年計画によると、5年後(昭和64年度末)において
  1.法人組織                       4.専任講師  5名
  2.事務所を23区内に置き事務員配置      5.協力会員 50名
  3.専業営業職員 7名              6.年商 6000万円
   「捕らぬ狸の皮算用」と言うのはこういうことを言うのであろう。


<その2>

 専門のセールスマンが居ないため、研修会の受注はボツボツであった。最初に決まったのは興亜火災海上保険(株)で関口が担当した。好評を得てその後5年間、年間14〜15回の研修を受け持った。対象は新入代理店研修生である。その他細々としたものが幾つかあった。


<その3>

 昭和60年4月20日には春季大会を開催、工藤とむ、横山 登が初参加した。横山はその後間もなく志村と共に常務理事を委嘱された。
 全体会議は、毎月定例的に実施したが、その都度いろんな発想が生まれた。横山の提案による、SKKの目玉商品としての『ビジネスゲーム』、関口の提案による『セールス管理者向け連続想定事例研究』などもその一つであるが、いずれも日の目を見ずに消えていった。しかし、会合は何時も意気軒昂たるものがあったのである。
 この間、顧問の渡部は、折に触れて会運営についての理論的な助言が目立った。そして村野は、顧客、会員の増強など実際行動面からの貢献が大きかった。理事長の東は、折に触れて理事会を招集して意志の疎通を計った。議事は毎回短時間で終わったが、その後の小宴がお互いの団結を培ったことは間違いない。


















































4103

 地球の環境問題について   市川 公道 
T.今、地球は

 「奇跡の星」地球の環境が少しづつ悪化している。二酸化炭素の増加による地球温暖化、オゾン層の破境、森林破壊、砂漠化、酸性雨、水質汚濁、廃棄物、化学物質など人間活動による地球的規模の環境破壊が急速に進み、大切な地球はいじめられている。私達の子孫は、使い汚され、やせ細った地球で細々と暮すことになるかもしれません。 

U.「奇跡の星」地球とは

 地球と同じような星は銀河系にはない。奇跡と呼ばれる星、生命の存在する星。46億年前に誕生。太陽からの距離1億5000万Km、半径6400Km、平均気温15度、400万〜3000万種の生命が生きている。
 この命を守っているのが大気層である。組成は窒素78%、酸素21%、その他アルゴン0.93%、二酸化炭素0.03%。大気層は飛来する隕石から、また死の光線である]線や放射線、弊外線等から地球の存在する生命を守っている。この大気層は地球上の生命が数10億年という長い時間をかけて創りあげてきた。その微妙なバランスを一瞬のうちに失いかねない危機が迫っている。

V.地球温暖化

 温暖化の主な原軋ま大気中の二酸化炭素の量が増加する為である。これは経済の発展と共にエネルギー使用が増加し、石油、石炭の燃焼が増加した結果である。発展途上国の焼畑農業も原因の一つだ。二酸化炭素は大気層に溜り、地球からの反射熱(赤外線)を再び地球へ返してしまう。温室効果の役目を果たしてしまう。その結果、農業生産が大打撃を受け、世界の食糧供給に影響を及ぼす。海面は1m近く上昇し、水没する地域が拡大していく。京都議定書も各国のエゴで成果は危ぶまれる。

W.森林の破壊(特に熱帯雨林)

  熱帯雨林は多くの二酸化炭素を吸収して酸素を出す。いわゆる地球の肺である。それが過剰伐採や焼畑農業、牧場、鉱物資源の開発等により森林が破癒され、緑のベルトが虫喰い状態になっている。
この状態が進行していくと、砂漠化への道を歩むことになる。

X.水質汚濁

 河川、湖沼の水は工業排水、生活排水により汚され、有害物質が混入し、人体に危機を及ぼしている。地球上の水で、私達が生活に使用できる水の量は0.036%しかない。うまく循環させて使わないと、困窮する時代が来る。

Y.廃棄物

  ゴミ問題は、その収集、処理、始末を消費者、自治俸に責任を転化されている。
殆んどのゴミは大量生産、大量販売、大量消費により発生する。
生ゴミ以外のゴミは生産者に回収、処理の責任がある。ゴミの焼却から出るダイオ
キシンも大変な問題である。
これらのことは行政の命令があれば解決できるのだが、腰が重く、取締まらないの
が行政です。

Z.今、私達に出来ること

 1.エネルギーの節約
  省エネ、節電、自動車の使い方。
 2.水を汚さない
  洗剤 油物 有害物質を流さない。
 3.緑を大切にしよう
   緑を増やす、紙の節約、再生紙。
 4.リサイクルをしよう
  生ゴミ以外は全てリサイクルできる。
                                         以上























































 少子化と教育  井上 正規
 現在の日本の出生率は1.34人です。私は大正初期の生まれでそのころは5人位でした。従って兄弟喧嘩もしましたし、互いに切磋琢磨もしました。男は強い男に、女は優しい女にと教育されました。現在は一人息子又は女で大切にされ、殆ど高校、大学と進学し、将来、サラリーマンなら管理職を目指しています。女も職場に進出し夫婦共稼ぎが多く、子供は小遣いを与えられ、放置された状態です。従って、遊ぶ事に夢中になり、段々悪の世界に走る事が多くなります。昔は、そんな子供は社会の皆さんが教育して、悪から遠ざかるように守ってくれました。今、そんな事をしたら逆に脅かされます。余計なお節介だと。また、働く意欲がないのか一日中盛り場に座っている「ジベタリアン」連中がいるかと思うと、2,3人徒党を組んで弱い者いじめをしている連中をよく見かけます。将来に対する何の希望もなく、その日を無為に過ごしている姿は情けなく思います。自分の人生をどう生きようと勝手だと考えているのでしょうが、少なくとも社会に一歩出れば、自分は人様のお世話になって生きているんだということを悟って貰いたいと思います。食べる事、着る事、遊ぶ事すべて、皆様のお陰だと言う事を自覚していただければと思います。
 
次に、少子化はやがて国を滅ぼします。なぜなら、人工は次第に減少の道をたどり、底辺の仕事をする労働者はいなくなり、外国からの出稼ぎ移住者が多くなり、日本の底辺労働者は外国人ばかりになり、日本は戦わずして、外国に占領されまう。将に、「日本はどこに行く」の道を辿っています。韓国、フィリッピン、中国からの人が多かったのが、今や中近東諸国からも日本に出稼ぎに来ています。
 
また、産業経済面から見まして、今まで日本は加工業と輸出でお金を稼ぎ、食糧資源を輸入して生きてきました。それが今や、加工は人件費の安い韓国、台湾、中国に移り、日本は」逆輸入する状態です。これからの日本の生きる道は、新製品の開発や情報産業や観光産業にに移りました。経済は大きく転換期を迎えています。中小企業は屈服し、倒産、吸収合併が相次いでいあす。今や大企業やスーパーの時代となり、それも世界的規模となり、日本は世界の大企業に乗っ取られようとしています。小泉首相よ、日本をどう再生させようとしているのか、舵取りをしっかり頼みます。
 次に教育問題に移ります。私は、国民教育は教育勅語に明確に示されていると思います。即ち、「父母に孝に兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹己を侍し、以て社会に貢献すべし」に尽きていると思います。教育は学校の独占ではありません。学校は社会一般の常識を教えるところで、真の教育は家庭と社会にあると、私は考えています。ところが今の社会は、家庭で楽しく一家団欒夕餉を共にするところが少なくなっています。各個バラバラで、共に語りあう場がなくなっています。また社会も余計なお節介として、見て見ぬ振りをしています。これが若者を放置し、我が儘にしているのではないかと私は思います。
 
個人主義、金銭第一主義の現代社会に、私は東洋精神の基本である「仁」の精神、即ち、二人の助け合い励まし合い、楽しく生きていく心を持ちたいものだと思っています。今日、自分が生きているのは人様のお陰げ社会のお陰げだと、常に感謝の念を持って過ごしたいと思っています。
 最後に私は日本の皆様に次の言葉を贈りたいと存じます。
「ローマは何故亡びたのか、敵に亡ぼされたのではない。栄耀栄華を極め、子供を生まず、自ら亡んでいったのである。」
まさに日本は今、ローマの辿った道を歩いているのではないでしょうか。





















































    三郎











































    

       













  

あづま路40号より  平成14年6月発行
生き残るのは
    変化できる者
  
横山  登
SKKのあしあと(1)  関口 利夫




































































生き残るのは変化できる者  横山 登
   進化論を首唱したイギリスの生物学者ダーウィン(1809-1882)は「種の起源」の中で次のようにいっている。『最も強い者や最も賢い者が生き残るのではなく、唯一生き残るのは変化出来る者だ』 (全日本空輸入社式での大橋社長の挨拶から)

 「宝塚ファミリーランド」が91年間に及ぶ遊園地の歴史に幕を閉じたという。そういえば、古くから親しまれてきた遊園地が次々と閉園していく。時代とともに若者の遊びへの嗜好が大きく変わったのだという。この変化について自分自身を変えていくのでなければ生き残ることはできない。ダーウィンの種の起源がそれを指摘している。
 毎日見なれている商店街も気をつけて見ると随分と様変わりしている。私が住んでいる街は、駅を降りて100メートル程がアーケードで両側に商店街が並ぶ。そこに残ってる昔からの店は2〜3軒はあるだろうか。京都の老舗を思わせる和菓子屋さん、緋毛氈を敷いた縁台が置いてあった御茶屋さん等は今も懐かしい店として記憶に残っている。しかし、昔のままの生き方の上にアグラをかいて、たまに品揃いを変えたり、安売りをしただけではとてもこの時代についていけない。
 一つの解決策としてテレビでこんな放送をしていた。
 ある会社が不況を乗り切るために徹底した「顧客本位」への転換を試みた。朝出勤したら、社長以下全員が街に出て直接客の声を聞く。24時間、400件を越す電子メール、これら客の声が会社の総ての出発点になった。60%の省エネに成功した商品もあって、業績は上向いているという。
 変化とはある状態から他の状態へ変わること。「顧客本位」へ変化したことによって、この会社は立派に生存権を獲得した。

 同時テロ以来、アメリカでは消費者が自宅にこもり外出を手控えるようになった。そのために家庭向け商品、特に手軽に映画などが楽しめるDVDプレーヤーが爆発的売れ行きを示し、オンラインショッピングやネット競売も大幅な増益となった。その結果、昨年の10〜12月の個人消費は前年に比べて6.0%と大幅な伸びを記録した。一方我が国では、昨年の7〜9月は前期に比べて1.7%減と大きく落ち込んでいる。個人消費がアメリカでは国の経済を引っ張る役目を果たし、逆に日本では不況を一層深刻化させている。
 この日米の違いは、企業や個人が時代に応じて自分自身を変化させていく柔軟性に原因があるのではないか。消費者が家に居ながら買い物や外食をしたい、それなら家庭向け商品に切り替えようという、「顧客志向」を基本にした変化の早さが、アメリカ経済を支えているような気がする。
 歴史を振り返ってみると、明治維新や戦後の改革と日本民族は見事な変化を遂げてきた。だが戦後、時を経過するごとに、意識の中に硬直的な価値観が広がり、戦略的思考が停滞してしまった。それが国の変化を阻害している。

 SKKが恐れることの一つにマンネリズムがある。毎年、後援会や例会、その他の行事を繰り返していれば、油断すると習慣化し、思考が停止して固定した型にはまってしまう。「唯一生き残れるのは変化できる者」の標題は多分にSKKとして自戒の意味が込められている。
 これからも会員の皆様の協力を得て、創造性と新鮮さを失わず、なによりも変化を恐れない会でありたいと思う。
                                          以上















































SKKのあしあと 1        関口 利夫
 SKKが呱々の声を上げてから、そろそろ18年になろうとしている。この辺で一度、今までの歩みを振り返ってみてはどうかとの、横山理事長からの話があったので、整理してみる事にした。本誌には設立から平成12年までを、何回かに分けて掲載する積もりだが、いま残っている不十分な資料を基に、記憶を辿りながらの記述となるので、誤りがあった時は遠慮なくご教示を賜りたい。また、諸所に筆者の主観が入る事があると予想されるが、ご容赦いただきたい。なお、文中の人名は全て敬称略とすることとした。

         <胎 動>
<その1> 昭和54年

 朝日生命を定年退職して数年たった東富士男が、同社外務教育部に関口利夫を訪ねたのは昭和54年の夏頃であった。
 「定年まで後何年?」と東・・・ 「あと4年余りです」と答えた関口に、「もっと早くしろ」と東の言葉は無理な話で、2人とも大きな声で笑ってしまった。

 東(あずま)は、陸士48期、陸大卒で、大東亜戦争では中支69師団参謀で終戦を迎えた。
戦後は朝日生命にセールスマンとして入社し、最後は本社外務教育部に所属し、同社営業部門の教育を約11年間担当して定年退職した。
 東の磊落な人柄と独自の持ち味を生かした講義は、全国の受講生から敬慕されたことは言うまでもないが、同業他社はじめ他企業からも受講希望が多いという特異な存在であった。退職後は(株)流研という教育機関に籍を置いて、企業団体の社員研修等にあたるとともに、同社の講師陣をも指導していたようである。

 関口は、陸士56期、ビルマ戦線でインパール、イラワジ、メイクテーラ諸作戦に参加した。戦後は東と同じく朝日生命のセールスマンとして入社、最後は外務教育部で13年余勤務して定年となった。
 関口と東との付き合いらしい付き合いは、外務教育部での2年間が始まりであるが、関口には東の考え方生き方に共感するものが多く、東に対する畏敬の念と親愛の情は年を追って深まるとともに、2人の信頼関係も次第に強固なものになっていった。その間に、何時からともなく、「関口が定年になったら東と一緒に仕事をしよう」との約束が出来上がっていたのである。
 冒頭の会話にはそんな前置きがあったのである。

 そして4年後、東はまた関口の机の前に立っていた。
「あと何日?」と東。「丁度あと80日です」と関口。「よし、今夜八十日祭をやろう、誰か一緒につれてこい」と言って、時間、場所を書き置いて東はさっさと帰ってしまった。
 18時、東横線、学芸大学前の東の馴染みの店。東は同じ職場(流研)の山沢富治を、関口も同じ職場の飯倉豊司を同道。瞬時に決まった4人の宴は深夜に及んだ。

<その2>

 昭和58年10月16日が関口の定年である。
 その頃東は流研を退社し、(株)メリーチョコレートの常勤顧問として、同社の社員教育を担当していた。また山沢も東と一緒に流研を退社し、日本生産性本部委嘱講師として活躍していた。
 関口は、身辺整理を済ませてから、先ず、経営コンサルタントの勉強をすべく、陸士の同期生、渡部甲哉の門を叩いた。
 渡部は、ビルマのフーコン、メイクテーラの作戦に参加した。戦後、中央大学、明治大学に学んだ後、単独で経営コンサルタント業を始め、この業界で一匹狼で成功した人物の一人である。当時、日本経営士協会の理事長の職にあった。なお、その頃、同期生会の中央委員長も務めていた逸材である。
 渡部の蘊蓄を傾けた真摯な指導は、財務関係に無知な関口にとって大変な勉強になったことは間違いない。

 新規の事業は、協議の結果、東、関口、山沢の3名でやることとなった。3名は折に触れて会合を持って話し合いをすすめた。発足は昭和59年の関口の誕生日(10月16日)ということとし、準備一切を関口が担当することになった。
 数度の打合せにより、以下のようなことが次々に決まっていった。

 名 将 渉外力強化研究会(略称 SKK)・・・ 山沢氏の提案による
 目 的 渉外力強化のための研究を行うとともに、
      企業等の人材育成及び経営の改善に貢献する
 事 業 研究会の開催
      企業等の経営管理者・社員の研修
      講演
      企業の経営診断その他


                 <進 発> S59年

 発足の日は関口の誕生日と決めていたが、その日は仏滅だったか何か、とにかく日が良くないということで、旗揚げの行事はその前日にすることに決めた。
 昭和59年10月15日正午、東・山沢・関口の3名は小田急線町田駅前に集合した。会場は同駅前の「旭寿司」の一室を借用、あらかじめ準備した資料に基づいて諸案件を確認したのち、次のような職務分担を決定した。
   理事長  東 富士男
   専務理事 関口 利夫
   常務理事 山沢 富治
 事務局を専務理事宅に置き、専務理事が事務局長を兼務することとした。
なお、この席において、会に顧問を迎える事に決し、下記の2名を候補者として交渉する事で意見が一致した。
   渡部 甲哉   村野 新一 (両者とも関口の陸士同期生である)
この両者には、後日快諾を得た。

 渡部については、すでに触れたので省略する。

 村野は、渡部、関口と同様ビルマの戦士で、機甲部隊に所属して北部ビルマの作戦に参加した。戦後、中央大学に学んだのち陸上自衛隊に勤務した。陸士56期同期生会の生みの親で、同会の初代委員長を務めた。この頃は同会中央委員および(財)偕行社理事の要職にあった。

 かくして、錚々たる陣容を整えたSKKは、同年12月26日夕刻、新宿の料亭「いかりや」において、第1回幹部会を開催し、堂々の行進を開始したのである。当日の参加者は言うまでもなく、東・関口・山沢・渡部・村野の5名である。


































 SKKのあしあと 7  関口 利男
 























4604


父と別れた日  笠原 修
 
























4605


暦について  下田 頴宣


























45

   

あづま路 45号  平成16年1月22日
神話と歴史の接点を探る 横山  登
SKKのあしあと 6 関口 利夫
四国遍路の旅 小川日出夫
頴宣雑記 下田 頴宣
明けましておめでとうございます。
     本年も宜しく お願い申し上げます。
                    
                 理事長  横山 登
                        役員一同








































451

 神話と歴史の接点を探る    横山 登
 




























452

 SKKのあしあと    関口利夫
 





















453

 四国遍路の旅   小川日出夫





















454

  頴 宣 雑 記   下田頴宣

























































           

 
あづま路