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平成15年度


42号

43号

44号








































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あづま路 44号  平成15年9月1日
会話のすすめ  横山  登
SKKのあしあと(5) 関口 利夫
旅...雑感 高橋 和子




















































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会話のすすめ    横山  登
 イラクのバクダット下町の本屋街、通りの一角にあるカフェーは、礼拝日の金曜日昼頃になると何時も大入り満員になる。店内のあちこちで水煙草の煙が立ち上ぼり、常連客の会話が重なり合い、反響する。店主は言う。
 「知識人たちは、何時もここで自由に意見を交換し、新しい考えを吸収しょうとしている。私はここがこれからのイラク文化をつくる拠点になることを頼っている」
 イラク政権は崩壊し、街のほとんどが瓦礫と化してしまった。国土は米軍に占解され、銃声を聞かない夜はないという。そういうなかで国民は、今にも崩れ落ちそうなカフェーに集まり、イラクの明日を語り合う。

 日本の明治維新のときもこうだったのであろう。若き志士たちが茶店や料亭に集まり、薄暗い行灯の下で、酒を飲みながら夜を徹してこれからの日本を語り合った。

 18世紀の頃のロンドンには、あちこちにクラブがあった。そこにイギリスの紳士たちが集まり、お茶を飲みながら政治を語り、文学を語り時を過ごしたという。いい香りいい味のお茶、薄明りの空間、その中でお互い友達の輪を広げ、心を通わせあった。

 語り合う場は、それなりに一つの雰囲気を持っていた。イラクのカフェーを取り巻く国土の荒涼たる景色、ロンドンのクラブの薄明りやお茶の香り、明治維新の志士たちが集まった料亭の行灯の明りや酒の香り。人は自然に話の輪に入り、熱を帯び、話題を発展させていく。話し合いの場にはそういった空間があった。 しかし、お互いの話し合いを円滑にする最大の媒体はやはり人である。

日本経済がこれから最盛期を迎えようとしているとき、新宿、新橋等の繁華街の一隅に「赤提灯」といわれている飲み屋があった。
それは一店だけでなく、チェーン店式にこんな所にと思われるところにもあった。店の前に大きな赤提灯がぶら下がっているのが特徴である。ある高名な経済学者が、この赤提灯を取り上げて日本経済発展の原動力は、赤提灯にありと新聞かなにかに書いていたの覚えている。
 中に入るとワーンという喚声にも似た人声と酒の香り、若いサラリーマン達が笑い、叫び、口角泡を飛ばして何かを話し合っている。
 このような話し合いの中からふと、思いがけない新しい考えが閃くことがある。いやそれよりも、若者たちはこうして明日からの働く糧を蓄えているのである。

 SKKとは「相互啓発懇話会」の名前が示すように、お互いが会話を通じて啓発し合っていく会。行う事業も結局はここに落ち着くのである。
 「あづま路」に「SKKのあしあとJと題して関口さんが毎回連載をしている。
最初の r草創期j に、
 r…この集いは毎月実施され、その都度真剣な討籠が行われた。」
 r…建設的な意見も活発に交換された。」
 r…会議は毎月定例的に実施したが、その都度色々な発想が生れた。」
 「会合はいつも意気軒昂たるものがあった。……そのあとの小宴がお互いの団結を培ったことは間違いない。」
このような文章が至る所に見られる。草創期にはいかにお互いが会話に熱中し、真剣に討議し合ったことか。イラクの知識人、維新の志士、イギリスの紳士諸君達にも負けはしなかった。しかし場所は殺風景な白壁に囲まれた借行社か、畳の間の変わりばえのしない居酒屋であった。
 この伝統は当然今のSKKに受け継がれている。最も色濃く残されているのは懇親会においてであろう。よく懇親会に参加した講師の方が、実に楽しい会ですねという言葉を残して帰られる。適度なアルコールが遠慮とか羞恥といった理性を稀薄にし自然に我々を多弁にする。知識や体敦の積み上げによる信条が吐露され、いやでも精神が高揚されていく。
 アメリカの文人エマーソンという人が「人生の最上の楽しみは会話にある」といった。
 楽しい会話とはお互いが心を開いていなければならない。開いた心とは「受け入れる心」「自我自執のない精神」を言うそうだ。要は自由に感じ、自然に思ったこと率直に言う。そうすることによって会話は無限に発展し楽しいものとなる。
 若者とは違ってこの年になると、生きた会話をするには「社交性」を考えねばならなくなってきた。自己主張よりも自己表現に心掛けることが必要となるのではないだろうか。




























































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 SKKのあしあと −5  関口 利夫
        <成熟期 その2> 平成 7年

(1)会員の動向
・ 6年6月には大橋春男が入会した。大橋は少年戦車兵の出身、戦後NHKおよ
  びNHK関連企業の要職を歴任した。後にはNHKの解説委員を次々に講師に
  迎えてSKK公開講演会を活性化させるなど大きな貢献をする。
・ 同7月には平城弘通が入会した。平城は陸士55期、戦後自衛隊に勤務陸将
  補で退官、不動産関係の事業を経営する。一時期、新宿雄叫会(軍歌の集
  い…昭和43年に東が創始)の会長を勤めたが、相前後して入会した柳秀吉・ 大橋・皆本義博・直江清久・井上正規など、同会の世話役の殆どがSKKの会
  員となった。東・横山・関口も世話役である。
・ 友の会の会員数の増大に伴い、間宮・落合に友の会の世話人を委嘱し、6年
  8月25日友の会の会の運営につき打合せをした。この席で、友の会は毎年
  4回の例会を開催することを確認した。
  因みに6年度の会員数の推移は下記の通りであった。
      (3月)37名(6月)41名(9月)45名(12月)49名
  なお、間宮は朝日生命で支社長、本社部長など要職を歴任、朝日生命成人
  病研究所の役員も勤めた。一時期は関口の直属の上司であった。
・ 6年9月6日監事大井が急逝。後任は村山に決まった。
・ 7年1月には前園 秀則が入会した。前園は関口の同連隊の先輩で陸士55期
  野戦重砲兵18連隊で、シンガポール作戦とビルマ諸作戦(インパール・イラ
  ワジ・メイクテーラ)に参加した。6年6月、8年1月に夫々入会した鈴木和男、
  高木長次も同連隊生き残りの勇士である。なお、前園は戦後の同連隊戦友
  会の会長(5代目)である。

(2)平成7年新体制
  7年2月6日、役員の新人事が次のように発表された。
    理事長  東
    専務理事 関口(事務局長兼務)・横山
    常務理事 斎藤・林・落合
    理 事  河内干城・平川隆一・大橋
    監 事  加庭・村山
    顧 問  渡部・山沢・高橋・間宮
   しかし、同年4月に監事加庭・村山から退会届の提出があり、後任として理事の河内・平川が 5月12日付監事を委嘱された。 河内は朝日生命の支社長などを勤めた。関口の親友でSKK創立当初からの会員である。平川は大井の親友で元大山興産(株)の社長、池上自動車教習所監査役を経て東京都自家用自動車協会理事の要職にあった。

(3)7年の友の会例会
  3月28日 NHK見学(大橋担当)               参加者21名
  6月 6日 総会
         マレー進攻作戦実録映写(大橋担当)    出席者28名
  9月13日 飯倉講話「大江戸知ってるつもり」        出席者32名

なお、6月6日の総会において次の事項が決った。
・ 会則の改正(省略)
・ 12月に予定していた第4回例会は平成8年1月に延期し、これを8年度の第
  1回例会(総会)とすることとした。また従来1月に開催してい た公開講演会
  を向後12月に繰上げ実施することとした。
・ 従来行ってきた研究会は例会の行事と位置付けした。

(4)7年の公開講演会
  3月15日 参集院議員 板垣正「これからの日本」      (斎藤)53名
  7月18日 元NHK解説委員岡村和男
                 「どうなる今後の政局」        (大橋)69名
  10月6日 国際青少年問題研究所 青津和代 
                 「オーム真理教の背後を探る」   (高橋)39名
  12月1日 日本テレビディレクター 佐野孝吉  
                 「テレビ製作の裏側の面白さ」   (伊藤)53名

(5)東理事長急逝
 平成7年10月25日、東理事長が急逝した。東には前年8月頃から運営意欲の減退が見られ、7年春には理事長交替を含むSKK改編案を関口に送付したが後日取り消した。このようなことから、当時の東は心身共に相当に疲労困憊していたものと推測されるが、会員にとっては正に晴天の霹靂であった。
  12月、急遽「あづま路 − 東理事長追悼号」を発行した。13名の会員から追悼文が寄せられた。東の人柄を偲び讃える記事は勿論であるが、酒に関するものも多かった。酒豪の東には嬉しい内容であったろう。
 当時(12月末)の会員数は、役員(理事・監事・顧問)12、一般会員50、計62名である。なお内訳は、朝日生命出身27、旧軍出身18(内2は朝日生命と重複)、その他19である。


           <拡張期 その1> 平成 8年

 既述のごとくSKKは、当初教育機関として発足したのであったが、この道程は正に茨の道であった。還暦を過ぎた者のみで、このような事業を長続きさせることそのものが無理であったと思われる。しかし東は会の規模を拡大して、将来は朝日生命から出向社員を迎えられるような団体にしたいとの願望を持っていたのである。 結果的にこの願望は叶えられず勉強会に変貌していったが、これも自然の流れであったろう。

(1)関口理事長就任
 理事長の後任を決めるにあたっては、何回か役員の会合を開き協議が行われたが難航した。役員会では創始者の関口が引受けるのが妥当であるとの意見が大勢を占めたが、関口は終始事務局長のポストに拘り続けた。しかし、結局は関口が引受けざるを得なかった。ただ、事務局長の後任者不在の就任は大変なことであった。
  平成8年1月19日の役員会において、理事長に関口、専務理事に斉藤、理事に栗原・東(隆昭)が新しく選任された。他の役員は留任した。東 隆昭は東前理事長の子息で日本経営合理化協会の企画制作室々長を勤める新進気鋭であり、創立当初からSKKの業務に積極的に協力してきた。

 関口は就任に当って当面の重点課題として次の3点の実現を深く心に
決めた。 
・ 『会員が、会員としての誇りを持てるSKK』に育成すべく、会の明確な方向
  付けをする。 (理由…SKKはどんな会なのか分らない、という批判が、会員
  からも部外者からも前からあった)
・ 諸業務を余裕をもって遂行するため、会員数を120名以上獲得する。
  (理由‥・大きな収入源である公開講演会には毎回60名以上の聴講者が欲
  しいが、そのためには会員以外から不特定多数の聴講者を求める努力が
  常に強いられる。会員数の増大が最も有効な早道である)
・ 役員の業務遂行に対し、相応の経済的補償をする。(理由…従来は全くの
  無料奉仕であったが、補償するのが当然)

 そして1月26日の友の会総会において、関口は先ず会員の誘致を強く訴えたのである。前年度からの継続会員は 52 名であった。

(2)役割分担の決定
  2月6日理事会の合議により、次のごとく役割分担が決定した。
   横山  友の会の企画・運営と「あづま路」の編集・発行
   斉藤  公開請演会の企画・開催
   栗原  会計事務全般
   関口  会務全体の統括・上記以外の事項

(3)会員の動向
 ・年始早々から新入会員が相次いだ。当然のことながら、朝日生命と旧軍関係とが多くを占めた。
   7月2日には安藤 正、7月16日には井上 正規が入会した。安藤は陸士47期、第10師団参謀(北満)・第10方面軍参謀(台湾)を歴任した。SKKでは最年長者である。 井上は陸士48期、陸大卒後陸軍省に勤務し終戦を迎えた。高橋に加えてこの二人の長老の入会により、SKKは更に会員の層を厚くしたと言って良いであろう。
 6月20日、かねて入院加療中であった河内監査が死去した。

(4)研修会
   4月3−5日、ミルックスの新入社員研修が実施され、横山・斉藤・林が担当した。会場はフコク生命研修センター。長期間続いた同社の研修は、同社の都合により今回が最後となった。

(5)京都旅行会開催
   7月18〜19日、落合の企画により京都一泊旅行が実施された。18日午後の保津川下りに始まり、夜は料亭「鮒鶴」にて舞妓さんを交えての納涼川床、二次会は先斗町で楽しむという豪勢なもの。翌日は醍醐寺拝観。予定が急に変更され上醍醐までタクシーで連れていかれたまでは良かったが、その後急坂を徒歩で下ること約 2km、大変な難行苦行の末、時間の関係で、予定の三宝院は遂に拝観出来ず終いになった。京都タワーホテルにて昼食後解散した。思い出に残る旅行であった。参加者27名。

(6)役員手当内規制定
   8月7日の役員会において、「役員等に対する諸手当支給に関する内規」が制定された(内容省略)。これで関口の就任時の目標の一つが達成されたことになる。なお同日、SKK規約を改正、「友の会の運営をSKKの事業の一つとする」ことを改めて成文化した。

(7)東前理事長の一周忌
   10月19日、東の一周忌にあたって、有志が秩父聖地霊園(やすらぎの丘)にお参りし、その後新宿の料亭「いかりや」において偲ぶ会が催された。 「いかりや」は、生前の東がしばしば訪れた馴染みの店である。 参加者は13名。

(8) 8年度の例会行事(講話)
   1月26日(総会)関口  「200里ふたり旅」       出席者31名
   4月26日    大橋  「ラジオ誕生から20年」   出席者22名
   8月27日    井上  「アジア雑感」         出席者38名
  10月22日    直江  「石仏の見方について」   出席者25名

   直江は立教大学卒、日特重車両(株)を経て(株)藤崎興産の役員を勤める。石仏の研究では趣味の域を超えているとの定評がある。

(9) 8年度の公開講演会
 3月 参議院議員 笹野 貞子    
                「女性から見た政界」         (落合)45名
 6月 東京裁判資料刊行会・編纂主幹 渡辺 明 
                「東京裁判と真の戦争犯罪人」   (横山)61名
 9月 芥川賞作家 高橋三千綱        
                「時代小説を書くにあたって」    (関口)44名
 12月 NHKエンタープライズ・ディレクター 岡崎 栄 
                「“大地の子”制作にあたり」     (大橋)50名

(10)8年度末会員数    7年度よりの継続会員 52名
                  8年度の  新入会員  26名    合計78名












































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旅 ・・・雑感   高橋 和子
 夜来の雨に洗われた木々の緑。その間を縫う木洩れ日が優しい。洛北の信仰の山、鞍馬と、貴船の真中を流れる貴船川の渓流は水量を増し迸り出るような瀬音をたてている。川床には、時もよろしく(腹も北山)、京の山菜が運ばれる。
 桂の木の下あたりを小鳥か小動物がツツツッ!!と走る。 すかさず大橋教授が私共の眼をそちらへ向けて下さる。「あっ!!いた!!いた。」「どこ?どこ? みえないわ?」
 まことによき空と人と風景に恵まれた旅のはじまり。

 貴船明神参拝をすませ、歴史と信仰と伝説の世界、標高569mの鞍馬へ向う。貴船鞍馬は、紗那王(毘沙門天の一字からつけられた)牛若丸が学問と武芸の修業をつんだ場である。平治物語、義経記巻一・巻三によれば、人住み荒らし偏に天狗の棲(すみか)となり、夕日西に傾けば物怪おめき叫ぶ、物凄いところとなっている。
 私は健脚の皆様が本堂に参られる間、茶屋にて空想の一時を遊んだ。
……夜ともなれば、鳥の声と風の音。…‥・
 紗那王は人跡のない僧正が谷で天狗に兵法を学び、貴船明神に折っては清盛父子の形代を討ち武術の鍛練に励んだ。一方お能の鉄輪は、女人が夜な夜な貴船に詣でて、呪い打ったりしている。
 人の一念の物凄いエネルギーは、この自然の中でこその物語か。
 私は一人樹齢の宿る老杉の巨木の並ぶ木の根道を通り、奥の院へと向う。沢山のトンボや蝶が飛んでいる。この道は、貴船へつながっているのだなど、自然という舞台装置で、時空を超えた想いを楽しむ。そう言えば清少納言の通った参道(近うて遠きもの鞍馬のつづら折りという道)は今も変っていないとか、登り歩いてみたかったと、現実に戻る。
 もと来た道を戻る道すがらひよいと振り向くと、遠く上のほうから毘沙門天様が片手をかざし、眉をしかめているようにみてとられた。睨まれているのか、見守られているのか判らない妙な気がする。礼をして一歩一歩下化衆生の浮世へ下りる。下界を遠く眺めながら、明日はあの比叡へと思いつつ。

 『鳴川の川床』…
 きれいなところにいるものは、きれいな味がする。とは、鮎のことかしら? きれいな人といると、きれいな気特になるといい。 お料理は品数といい、量といい、私にうってつけ。器も上品。
 舞妓さんと弁財天のことなど話す。(こわいお顔の毘沙門天を拝んだせいか?) 「三大弁天はんは、どことどこにおいやすのどすか?」 竹生島、江ノ島、三つめが出てこない。でも舞妓さんは知っている。なのに知らない風・そぶり。はんなりと「厳島やおへんやろか?」とと小さな声で。「そうかしら一寸遠いわね」なんて言いながら涼風に笑う。ちなみに、実は五大弁天で竹生島、江の島、厳島、金華山、富士山なのだそうです。
 御存知弁才天は、土地豊穣の河神、言語・学問・音楽の神。 吉祥天に代って女天の代表の座にある三大女神の一人で智恵の女神。(毘沙門天のベターハーフかな?)特に智恵の女神というのがよいですね。中でも江の島様は涼しそう。
一年中旅は続きそう!








































43

 

あづま路 43号  平成15年6月1日発行
 伝統の継承  横山  登
 SKKのあしあと(4) 関口 利夫
 国の美風を取り戻そう 大橋 春男
 「粗衣」「粗食」の愉しさ 工藤 とむ























































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  伝統の継承      理事長 横山 登
  商店街を歩くと、至る所に朱色の旗が翻っている。旗には「江戸開府400東京」の文字が躍っている。徳川家康が江戸に幕府を開いたのが慶長8年(1603)で、今年が丁度400年に当たるという。
 時代は、それから更に800年余をさかのぼる。延暦13年(794)、桓武天皇が都を平安京に移された。以来、明治3年(1869)まで1100年近く、ここが日本の都となったのはご承知の通りである。
 その頃、当時の朝廷にとっての最重要課題は、日本の東部、北部に住んでいた原住民(豪族)、蝦夷(エミシ)を平定することであった。そのために、今の宮城県に、エミシ経営の拠点として多賀城という大きな城が築かれた。多賀城には鎮守府がおかれ、鎮守府将軍が城を統率した。
 坂上田村麻呂が征夷大将軍とエミシ平定に向かったのは800年頃。宮城県から岩手県へ兵を進め、胆沢城を築き上げた。鎮守府は胆沢城に移され、それからのエミシ経営の拠点となった。これによってエミシ経営はほぼ安定し、田村麻呂の名は不朽のものになったのである。
 先にも申した通り、エミシ平定は国が最も重視した政策であった。そのために鎮守府将軍は、武将として名のあるもののみあてた。「職原抄」という本に次のような記載がある。「…武略の器に非ざればその任に当らず。代々将軍と称する者は鎮守府の将なり…」
 平安中期以降、「尚武」をもって称される名家は相次いで鏡守府将軍に任ぜられた。しかも、従う兵は、さきに防人として国土防衛に九州にまで派遣された「東(アズマ)の国」の「つわもの」である。「大伴家持」が感激の余り、東の兵士に捧げた言葉は有名である。訳していえば、
   …大君の統治なさる国は広い。人は多い。勇者は少なしとしない。しかし、
   いざというときになって、生死をかえりみることなく、前へ前へと進める勇
   猛の士となると、東男よ、お前たちしかいない。
 この将にして、この兵あり。鎮守府は「武道の府」として重きをなし、日本古代において「武道の伝統」この地に培われていったといってよい。
 1050年頃、俘囚の乱というのが各地で起きた。既に帰服したエミシが中央政府の強圧に抗して再び乱を起こしたのである。前九年・後三年の役が有名である。俘囚長と呼ばれた安倍氏、清原氏、藤原氏。戦ったのは源氏の頼義、義家、頼朝といった「東国武士の棟梁」であった。
 最終的には源氏が奥州を平定し、この部門の棟梁権を獲得する。 1192年、頼朝は「征夷大将軍」の地位に就くことになる。
 征夷大将軍に任ぜられた頼朝は朝廷の体制内に止まることをしなかった。まつろわぬものどもを征服した坂東武者を率いて、朝廷の外にもう一つの政府をつくった。政治、軍事、経済等あらゆる面で、実力的に上に立つ武家国家である。
 頼朝以降も北条、足利から織田、豊臣をへて徳川と、明治維新まで約7世紀近くの間武家による政治がしかれたのである。

 僅かに時代を1200年間、眺めたにすぎないが、その間に培われた「尚武」の風は伝統として、昭和の時代まで継承されていった。
 伝統とは、伝え、受け継ぐことである。しかしそれが、主観的価値判断に基づくか、そうでないかによって、単なる慣習、文化遺産か伝統かにわかれる。伝統は、なんらかの主観的な価値判断に基づいて把握されたものでなければならない。
 戦闘者である武士が、表に出ているときは明らかに「武」が伝統として生きている。江戸中期、戦いもなくなり平穏になると、儒教が盛んになり、武士は文官化されていった。幕末になると、再び武士が表面に出てきて、「武」の伝統は復活れた。
 伝統は必ずしも連続性を必須の条件とはしない。ある時代に忘却されたものが、後の時代に伝統として復活することはあり得る。その時代の人々の価値判断に基づいて再評価されたのにほかならないからである。
  一番大きな「武」の伝統の断絶は、第二次大戦による日本の敗戦であった。占領軍はわが国の歴史や伝統、特に「武」については徹底的に破壊しようとした。「東京裁判史観」によって、武は悪の根源とし、戦争に対する罪悪感を植え付けていった。国民の間には戦争についての思考停止状態が続き、未だにそれらの影響から脱却できないでいる。
 この状態から脱却する一番手っ取り早い方法は、強烈なものが外から侵入してきて、自衛しなければならない態勢をとらざるを得ないときであろうか。その役を果たしてくれるのは或いは北鮮かも知れない。
 「武」の放棄は、「守る」という行為の放棄である。平和を守るためにも、常に暴力の用意が必要である。
 一刻も早い「武」の伝統の復活が望まれる。
























































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SKKのあしあと(4)   関口 利夫
          <成長期 その2>

<平成1年−4年の動き>

(1)大型研修の受注とミルックス研修 
 ・63年末に、朝日生命の予想もしなかった後援者から、東日本住宅(株)という会社の新入社員教育の依頼が舞い込んだ。この頃にはSKKの名もある程度売れて来ていたようである。4日間の研修で講師料60万という魅力的なものであった。新年早々関口が窓口となって折衝にあたり、平成1年3月初旬に研修計画をまとめたが、それまでの何回かの同社社長との接触を経て、結局その人間性に疑問を抱くようになり研修意欲を喪失、理事長・研修担当者協議の結果、これを断ることとした。後援者には折角の好意に背くこととなり大変な迷惑をかけたが、心魂込めた研修を信条とするSKKとしてはやむをえぬ決断であった。

 ・1年2月14日には、横山の後援者(陸士同期生)から横山のもとへ、清水建設の関連会社(株)ミルックスの新入社員研修の依頼があり受注。
4月7〜9日(2泊3日)行徳ステーションホテルで実施、横山・斉藤・関口が担当した。ミルックスの研修はその後色々の階層を含め平成8年まで続き、会の大きな収入源となったのである。
 新入社員研修は毎年4月に実施したが、平成4年には、その他に2月、3月(2回)、11月、12月に夫々中堅社員、課長クラスの研修が2泊3日で行われた。会場は町田市の清水建設クラブハウス、世田谷のフコク生命研修センターが利用された。

(2)会員の動向 
  ・平成1年 5月20日、かねて入院加療中であった常務理事志村が死去
   した。 
  ・ 平成1年11月10日、横山は専務理事を委嘱される
  ・平成2年10月23日、年初から入院加療中であった顧問村野が死去
   した。

(3)会誌「SKKニュース」の創刊 
 会誌の発行は昭和63年8月の理事会において決議されていたものであるが、平成1年7月8日漸くにして「SKKニュース」という誌名で創刊された。早期に届いていた志村の原稿はそのまま遺稿として掲載された。「SKKニュース」は 定期的に12号まで続くが、その後誌名を「あづま路」と変更される。

(4)研究会の発足 
 平成2年には予て懸案の研究会が発足した。研究会は会員が相互に研究発表、意見発表をする勉強会である。 
 第1回は5月25日「最近の株価事情について」落合登美雄が担当した。 落合は1年11月に入会した。同志社大卒、朝日生命の京都支社長などを歴任、後平岡証券の役員も勤めた。後日会員の拡充その他に大きな力を発揮する。
 10月2日には高橋正二が「世界の動き日本の動き」と題して講話した。  この日、東は高橋を友の会の顧問に推戴した。高橋は東と同じく陸士48期、戦時は南方総軍参謀、大本営参謀を歴任し終戦を迎えた。戦後明治薬専(現明治薬大)卒、同大の理事長も勤めた。
 3年の研究会は下記の通りである。
   ・4月30日は渡部の卓話「無題」。
   ・8月 3日は横山が講話「管理者のリーダーシップ」。
   ・10月19日は横山が講話「ボブ・ウッドワード著<司令官たち>より」。
  *4年の研究会は諸種の都合により中断されている。

(5)東理事の講演会開催 
 3年1月22日には「研修人生50年の総括」と題して 東 の講演会を開催した。 この頃は役員(理事・監事・顧問)10名一般会員は18名であったが、会員以外の聴講者も求めるべく会員以外のSKKニュース発送先35名、その他20名にも案内したところ、当日の聴講者は43名であった。会員以外の聴講者のほとんどが朝日生命関係であった。 
 なお、5年1月29日にも東の 「妻と尊厳死」と題する講演会を催したが、こ の時の聴講者は66名である。

(6)懇親旅行会の開催  
 3年11月10日、初めて「友の会」の懇親旅行を実施した。朝日生命寮「木賀の里」に一泊、翌日箱根遊覧。参加者は10名だった。

<成熟期 その1> 平成5〜6年

 暗中模索、試行錯誤を繰り返しながら、その折々の東の適切な方向付けによってなんとか歩んで来たSKKも、このころ漸く成熟期を迎えるに至るのである。以下主なものに絞って記述する。

(1)会誌名…「あづま路」に 
 平成5年4月28日友の会総会が開催された。当時の会員数は役員9名、一般会員は22名であった。 
 この日、会誌「SKKニュース」が「あづま路」と改称された。誌名の変更 は以前から話題に上っており、会員から幾つかの案が出されていたが、結局は、横山案が採用されたものである。SKKが東指導のもと紆余曲折を繰り返しながら歩んで来たことから命名されたものである。 「東」の仮名遣いは現在は「あずま」であるが、昔は「あづま」であった。あえて昔のものを選んだ理由は、昔の日本の「良いもの」を出来るだけ後進に残すという、SKKの考え方を表現したかった訳である。発行は従来どおり1月、5月、9月の3回とした。

(2)会員の郵向 
 この頃、林 寅三郎が横山の紹介で入会した。林は軍歴はないが生枠の自衛隊員として終始した。かっては横山の部下であった時期もあり、二人は強い信頼関係で結ばれていた。陸将補で退官した。後日SKKの要職を勤めることとなる。

(3)公開講演会の正式発足 
 研究会の外に、外部講師を招聘して会員以外の聴講者も招く講演会を積極的に進めようという意見が取り上げられ、平成5年には下記講師を迎えて講演会が開催された。 
 7月24日 東京学芸大学教授 横山了平
               「絵画鑑賞のしかた」         (横山)32名
 10月12日 元ビルマ方面軍参謀 後 勝 
               「ビルマをめぐるアジア情勢」    (東) 33名
                  *( )内は講師紹介者、数字は聴講者数
 12月2日の理事会において、公開講演会を年4回とすることに決定した。
 かくして、SKK活動は概ね定型化、成熟化したのである。

(4)新しい「SKK友の会」の発足 
 創業10年を経て、研修事業は漸く下火になってきた。講師陣の老齢化に併せて、支援組織である筈の友の会が当初期待したほどの成果が得られず、新しい顧客の開拓が出来なかったことによる。 
 平成6年1月28日友の会総会を開催、友の会の規約を根本的に改正して「新友の会」を発足させた。従来の友の会は、SKK業務の支援組織であったが、この日の規約改正により、「新友の会」は『会員相互にそれぞれの人生をより豊かにするための情報交換と親睦を目的とする会』に変貌したのである。そして研修主体の運営から徐々に勉強会中心に活動内容を転換して行くのある。会員はほとんどが「新友の会」に移行した。
 3月4日「新友の会」(以下単に友の会と称す)としての第1回の会合を開催した。間宮千代蔵・飯倉豊司・長坂恵美子など、その後役員となる人材が入会しこの会合に出席した。飯倉は早大卒、朝日生命外務教育部・人事部等の要職を歴任、また朝日実業(株)役員を経て、定年後 朝日生命社友クラブの常任幹事を勤める。朝日生命 100 年史の編集責任者でもある。
 在続会員の深堀泰一、川和作二、綿貫昭など後日大きな貢献をする会員も出席した。川和は朝日生命の支社長を歴任、朝日警備保障(株)の役員を経て入会したが、後日SKKの理事を委嘱される。綿貫は陸軍予備生徒出身。戦後朝日生命の支社長を歴任、外務教育部を経て(株)メディカルサービスの役員、朝日生命社友クラブの常任理事を勤める。後に会員増強の大きな力となる。
 この日、東は会員の増強目標を100名と宣言し協力を求めた。当時の会員数は、役員9名、一般会員28名であった。

(5)友の会における6 年度の研究会
  3月 4日 落合 「中国紀行談」                出席者18名
  6月24日 長坂 「結婚相談からみた現代若者気質]   出席者25名
  9月13日 栗原 弘 [ネパール紀行談」          出席者28名
  12月 9日 深堀 「吉野私談」                 出席者24名
          
 長坂は落合の紹介で入会した。同志社女子大出身、テニス、水泳、音楽など趣味も広く、結婚カウンセラーを25年も経験している。後日多くの会員の誘致に成功する。栗原は朝日生命の支社長、外務教育部を経て、6年2月に綿貫の紹介で入会した。早くからパソコンに精通し、登山、写真、尺八など趣味も多く、後にSKKの要職を勤める。深堀は陸士56期、南方戦線パラオで終戦を迎えた。昭和21年2月21日浦賀に帰還したが、戦後初の天皇のご巡幸の日と重なり、終戦後天皇の閲兵を受けた唯一の部隊の一員となった。戦後朝日生命に勤務、定年後同社社友クラブの役員、陸士同期生会役員として活躍を続ける。

(6) 6年度の公開講演会
  1月21日  弁護士   真山 泰 
               「相続に関する諸問題」       (関口)35名
  4月28日  実業家    今井 寅吉 
               「事業繁盛の秘訣」         (東) 36名
  7月12日  自衛官   石下二等陸佐
               「PKOを指挿して」          (横山)29名
  10月11日 元ビルマ方面軍参謀 後  勝(2回目)
               「桶狭間の信長に学ぶ」      (東) 33名

(7)ミルックス研修 
 5年には2月6日、20日の2回に分けて、女子社員の研修が茅場町の鉄鋼会館で実施された。横山・斉藤・関口が担当した。例年の新入社員研修は6年度から横山・斉藤・林が担当した。

(8)横山の受章 
 6年春の叙勲で、横山が勲三等瑞宝章を受章した。横山については前に少しく触れたが、陸士57期、本土決戦に備えて房総九十九里浜の防御陣地構築中に終戦を迎えた。戦後自衛隊に勤務、陸将で退官。SKKには村野の紹介で入会した。











































4303

 国の美風を取り戻そう  大橋 春男
 “動物園や水族館の動物慰霊碑はヨーロッパやアメリカにはない。日本独特の習慣と言われる。この春の調査では、日本の動物園の7割に慰霊碑があることがわかった。動物愛護週間(9/20〜26)でお彼岸の23日、東京・上野動物園の動物慰霊碑をのぞいた”

 これは昨年秋の某新聞の記事です。夕刊社会面のトップでした。記事は動物園の慰霊碑の調査の結果として、ある都市の動物公園の飼育課長さんが次のように語っていた。「慰霊碑はその設置時期をみると、70年代から増加している。ペットブームや、都市化で動物を弔う場が減ったのと関係がありそうだ」
 まず、どうしてこのような話題が新聞のトップ記事になるのかと首をかしげました。それに、都市化に伴う住宅事情をこの理由に取り上げるのも、ややピントが合わない。
 かって、この国では死んだ愛犬などの弔いは、静かに家族だけで庭の隅に葬むり、合掌してあの世へ送ったものでした。いまでは庭のある家も少なく、その筋に頼み派手な野辺送り(?)となっているので目立ち、立派な慰霊祭などがおこなわれたせいでしょう。
 そんなことから記者の取材となり、トップ記事になったのか。しかし日本独自の習慣だと書いていますが、『習慣』とは繰り返し行われた結果、定着したもののことなので、この場合の用語には相応しくない。むしろ、習俗、昔から続いている習わしと書くべきではないか。視点がズレているのです。この記者が昔から続いたこの習俗の本当の意味を知らず、デスクもまたそれに気付かず、結果としてピント外れの記事になったのでしょう。
 でも、記者が関心をもって取材し、多くの人々が日本の特異な宗教観を改めて知ったのだから、大いに意義のある記事であったことだけは間違いないのです。
 実は動物園だけではないのです。多くのお寺でも、動物供養塔は目に着くところにあって‘倶会一処”“十萬霊供養塔”など立派な石塔と並んで建っています。
 日本では人間は誰でも亡くなれば同じ仲間になります。悪者でも死ねば同じ友人なのです。(このことは日本では昔からごく当たり前の事だったのですが、例の靖国問題などでは、隣の国の人々には理解されず、多くの人々は困惑したものでした)
 ところが実は“あの世ガでは、人間だけではなく生き物すべてが仲間内なのです。
 『山川草木悉皆成仏』という言葉が仏教にあります。山川草木、つまり自然の生きとし生けるものには、すべて仏性があり、人間と同じように死ねば成仏できる。という日本独特の宗教観、自然観を表現した合音葉なのです。もとは約1200年昔、平安初期の伝教大師最澄の教えでした。また、この教えより100年程さかのぼった奈良時代に書かれた『日本書紀』の神代下の部分には『この葦原中国は岩や石、木の株も、草の葉もよく物を言う』とあります。人は自然のすべてに神聖をみとめ、ある者はそれらから語りかけられ、そんな山川草木に畏敬の念を抱いていたのでしょう。単なる石や木や草が人間の姿こそしていないが、人のように語りかけてくる、と大八洲の人々は感じ、それを記憶し、次の時代の人々に語り継ぐため、国家事業の歴史書に残していたのです。
 このほかにも、日本書紀には、鳥たちが人並みに役目を担い活躍をしていました。ただ、人々は岩や木や草や鳥たちが話す言葉が自分たちの言葉とは違い通じないため、あの連中は異語を話す連中なんだと、仲間気炎だけで付き合っていたのでしょう。

 このような日本人の自然観、動物観はわが国特有のもので、欧米のそれとはまったく異なるものです。よく言われますが、欧米の神と人間と生き物との関係は縦の関係で、神がすべてを支配し、三者の序列は厳格です。そのうえ人間は神の命令で自然の生き物すべてを牛耳る権利を与えられており、その権利は絶対、人は自然をどう取り扱っても許されていました。これに対して、日本での三者の関係は、強く一体に結ばれ、並列で循環的存在、だれが偉いかなどの序列はない。人間は神にもなり、時には自然の生き物も神になれる。死んだペットが神仏として祀られることなんて、欧米では驚天動地、とんでもなく神を冒涜する話で、唱えたモノはさらし首にされたかもしれません。

 日本の自然、その代表とも言える日本の森林は国土の約7割を覆っており、この率は世界でも一流です。昔から日本人はこうした自然観にて山川草木を敬い、付き合ってきたのです。まさに八百万の神に守られていたのです。こうした”美しきこころ”はついこの前の戦争まで、ずっと続いておりました。
 しかし、このすばらしい自然観もこの前の戦いでアメリカに負けてすっかり変わった。変わったというよりは、変えさせられたのです。昔からのシキタリはすべてNO!と墨で書き消されたのです。年配者が『昔の連中は山や木を大事にしたもんだ。森には神様がおいでになるからなあ』と若い人達にいえば、『その考え方が迷信だ!科学的ではない。そんな伝説を信じていたので国をあやまり滅ぼされたではないか。もっとアメリカのように近代的、科学的になれ』と反発され、年寄りはだんだんと口を閉じてしまいました。
 その結果、どうなりましたか。自然の崩壊、環境汚染、地球の温暖化など、地球は目茶苦茶になり、世の中の治安もみだれ、家族関係さえもおかしくなってしまいました。

 世情もさまざまに変わった。この頃はあまり使われなくなった〔蚊取り線香〕は以前は〔蚊遣り〕といいました。“遣り”とは〔蚊に部屋から〕勝手に逃げてもらう、という意味の古語で、殺すことではなかったのです。年中行事の”虫追い”“鳥追い”などと同じ意味で、悪さをするから殺してもいいという考えなんぞまったくなかった。
 戦後、考え方がアメリカ的、科学的に強いられると、“蚊遣り”が“蚊取り”に変わり、トタンに蚊は皆殺しだ。ながらく続いた自然の価値観がひっくり返ったのです。ミミズにオシッコかけてもおばあさんから叱られたものです。以前は見事なお国だったのだ。

 負けて、私たちは伝統的精神文化に大きな空自を抱え込んでしまいました。
 しかし、同じ敗戦国のドイツでは、いくたびかの自己の生存を主張し合い、血みどろの闘争をくりかえした過去を背景にしているだけに、たとえ武運つたなく破れたとしても、伝統文化や思想は民族の誇りとして維持しつづけておりました。それが何千年というヨーロッパの歴史では当然のこととされていたのです。戦争に協力した責任などを責められれば、なにが責任だ!戦争に協力するのが国民の義務として当然のことと信じていたのでしょう。しかるに、なぜかわが国は建国以来の民族の精神文化をアッサリと捨て去った。
 アジアの片隅の島国で、外国との駆け引きに疎い田舎者が、初体験の『負け』に仰天してしまったのです。
 だが、日本人の遺伝子にはご先祖からの伝統文化や”しきたり”が焼き込まれているはずなのです。ならば私たちにはその伝統的自然観をも次の世代に語り継ぐ大きな義務が残されているのではないか。とすれば、ぜひ失われた国家の美風を復活させねばならない。
 世界にはいろいろな文明や文化があります。なにも単一の考え方になる必要はサラサラない。世界の平和とは、それぞれの国がそれぞれ文化を掲げ、互いの文明を尊重しあうことから始まるのでしょう。百花繚乱!各民族ごとのさまざまな文化の花が咲き誇る地球こそが美しいのです。今こそ、ご先祖様の知恵を生かして「美しい日本の心」を取り戻さねばなりません。
 イヤー、なぜかただの動物慰霊碑の話から大きな話になってしまいました。


















































4304

 「粗衣」「粗食」の愉しさ  工藤 とむ
 「工藤さん、あなたは粗食だから健康なのよ」とヨーガで一緒の友達が言った。
「えっ、粗食?」びっくりした。
「だって、レストランにはめったに行かないでしょ。私なんかよく友達と食べ歩くの。今日もマカロニにチーズなどいっぱい入ったものを食べてきたの。美味しかったわ」
なるほど!粗食というのはそういう意味に解しているらしい。

 欧米の肉乳製品を「美食」とやや勘違いしているらしい友人からみれば、確かに私は粗食なのだろう。無農薬・無機の玄米に、黒米、小豆、その他雑穀(もち粟、丸麦、押麦)を入れて食べている。素材は最良のものを使用しているのだが、こうした食事は白米や欧米食品をとっている人には「粗食」であるらしい。又「粗食」の反対の言葉が「美食」。辞書に「贅沢な食事」とでているに違いない。

 その昔、前は海、後は山の青森県日本海側 白神山地の麓に生れ育った私は、兄達が海に潜って飽やさざえをとってきて刺し身をつくり、近くの漁師さんが届けてくれる日本海の荒波で育った魚を煮たり焼いたり、母が採ってきた岩のりを味噌汁に、ほうれん草を裏庭からつんできて、おひたしにした食事をよく食べた記憶がある。私の感覚からいえば、美食以上の美食だったような気がする。

 又「粗衣」「粗食」という言葉もあるが、私は着るものも、家では大てい古い着物を二部式にしたり、上着とモンペにつりかえたりして着ている。だから、たしかに粗衣の部類に入るのだろう。

 「粗衣」といえば、私の子供の頃は家で蚕を飼っていて(夜中に目が覚めると、蚕の桑の菓を食べるサワサワサワという音と、そこにあった母の姿が今でも忘れられないが…)上等の蚕は売り、残ったくずまゆで織った着物を着せられていた。ただし、九人兄姉の末っ子の私は、お下りが多かったのもいかにも無駄がなく、物を大切にする生活習慣であったと思う。

 私自身、長年着ている着物は幸い寸法が変らないので、そのまま着ている。馴染んだ服を着ることが出来るのは、これも又一つの輸しみだ。たまには新しいファショナプルなものを着るのも楽しいけれど…。

 体形が変って着られなくなった洋服だけは、孫達のものにつくりかえていた。孫達も小学生の頃までは喜んで着ていたが、しばらくして欲しくないと言う。三年前までは、古い丸帯でベットカバーをつくったり、又客用の布団の綿を打ち直して敷布団に仕立てかえたり(毎年八月になると、マンションの屋上に海辺用のマットをひろげ、汗だくで布団の綿入れに挑戦していた)しては自分を満足させていたが、今はこちらも卒業した。

 母をなっかしみ「粗衣」「粗食」もここまでくれば、最高だと思うが……、いかがだろうか。





































あづま路 42号         


あづま路 42号  平成15年1月発行
  日本再生の夢   横山 登
 成人式について思う 深見 正雄
 SKKのあしあと(3) 関口 利夫
 私 見 高橋 正二
 原発に神様がいた 大橋 春男
 穎宣雑記 下田 穎宣


 








































4201

「日本再生」の夢   横山 登
 ある新聞社が ”「停滞」 日本、江戸時代に戻りたい” という見出しで、こんな記事を載せていた。     
 延べ一千万人を起すアクセスがある会社のインターネットの投票で、「日本再生」といった場合、いつの頃に戻ればと考えますか。という問いにたいして、「高度成長期」「バブル期」に続いて3位に「江戸時代」が入ったというのである。
 戻りたい「江戸時代」とは、いうまでもなく江戸が最も栄えた中期の頃をさすのであろう。

 もともと市場として圧倒的成長をみせたのは大阪である。諸国から商人や稼ぎ人が集まった。広域商業の業務は読み書き算盤ができなくてはならない。寺子屋ができ、子弟の教育水準とともに文化水準が大いに上がった。
 これによって、日本史上最初の大衆社会が大阪に出現したといわれている。
 京都では連歌を愛し、能や狂言が流行したが、大阪では、やや品が下がって浄瑠璃や俳諧、戯作といった手軽なものが好まれ、芝居や相撲という大衆参加の興行がよろこばれた。

 大衆文化はやがて大阪から江戸へと移っていった。
 江戸でも、芝居や寄席、相撲等の芸能が栄え、人々は江戸の魔力に引かれて、次々と集まってきた。また、大山参り、江ノ島参り、伊勢参りと称して、庶民が旅に出ることも多く「行動文化」も盛んであった。江戸文化が爛熟期を迎えるのはこの頃である。
 ある作家はいう。「世界的に見ても、当時あれほど文化が繁栄していた国はなかった。上流階級は別にして、ロンドンやパリよりも永準は遥かに上だったと思う。…‥・」文化水準が上がっていたことは、貧乏な人の子供でさえも手習い塾(寺子屋)に通っていたことでも分る。だから俳句や川柳、絵草紙、絵本等文芸でさえ一般庶民が楽しむことができた。明治維新の成果はこの識字率の高さにあった。
 江戸時代の庶民は自分たちで江戸文化を築き上げ、その中で自らの生活を楽しんでいたのである。
 それに比べて現代の我々はどうだろう。
 私が住んでいる街のスーパー、商店を見る限り、昨年の年末大売り出し、今年の初売りに例年の賑わいはなかった。静かというより何か暗ささえも感じた。デフレ不況の嵐の前に意欲を喪失し、家に篭ってしまった人々の姿が見えるようなきがした。

 新年を迎える欧米諸国の光景をテレビで見ながらつくづく考えた。派手なイルミネーションや花火の中で、何万という群集が踊り喚声をあげて迎える新年。しかし日本には日本で何もデズニーランドの場面をださなくても、幾百年と続いてきた伝統的迎え方があるのではないか。戦後、物資的豊かさだけを追い求めてきたが、このあたりで一度足元を見つめ日本古来の伝統、文化を考え直してみてはどうだろうか。
 イギリスでの話ではなかったかと思う。ある家の庭仕事をしている人の仕事ぶりに感心した近所の人が、私のところもやってもらえないかと頼みこんだ。そのとき、暫く考えていた庭師が断るときにいった言葉である。
 「そんなに働くことだけに時間を使っていたんでは、収入が増えても、それを使う暇がなくなってしまうよ」
 庭師は、収入がふえるよりは、妻と二人で生活を過ごすほうを選んだのである。
 この考え方は、江戸時代の庶民と共通しているように思われる。自分の生活を楽しみ、日々喜びに満ちた日を送っていく。収入は単にその手段に過ぎない。持っている道具は使えるうちは使い切る。慣れたもののほうが使いやすいし、買い変えるよりは、いま持っているのを活用する時間をふやすのが、豊かな生活というものである。このような精神的基盤の上に江戸文化の繁栄は集かれたのではないか。
 これからの日本には江戸時代のように物質面から離れて、精神的、内面的な文化面に目を向けることが必要ではなかろうか。文化を栄えさせることによって、内需の拡大、更にはデフレ不況から抜け出す切っ掛けを掴むことはできないだろうか。物理学賞の小柴氏、化学賞の田中氏のダブルノーベル賞がどれだけ我々の心を明るくしてくれたことか。
 SKKもささやかではあっても、このような日本文化繁栄の一翼を担いたいものである。


















































4202

成人式について思う   深見 正男
  (はじめに)  
 既に処により1月15日成人の日を期して、献血を実施して居る地方自治体があるやに聞き及んでおりますが、敢えて愚見を付言し、多くの方々の御賛同を得て、御吹聴あらん事を願う次第です。
  
 そもそも成人式とは、幼いものが成長して心身の発育を終え満二十才に達した時に、社会がこれを認知し「おめで度う」と祝う儀式である。その儀式が毎年一部の不心得者の無理解により乱されて居る現実は真に嘆かわしいことであるが、然し彼等も根は純真であり、血の気の多い青年が一時的に「ハシカ」の病にかかり高熱に魔される行為と解釈すれば理解出来ない事もない。従来のような地方自治体の長の挨拶、来賓の祝辞等は形式的に流れ、選挙対策又は売名行為として主催者側の一方的な儀式と誤解され易い。
 この際成人式の儀式についての考え方或いはあり方を根本的に考えて、所謂「御仕着せ」式の儀式ではなく逆発想的に彼等自身が自らの手で社会に対して、成人到達を認知させ、或いは認めて貰う儀式としては如何なものか。
 その事について次の事を提案する。
 成人に達した喜びを自発的に具体的に表現する意味で、献血運動を起こし献血をを行う。赤十字社は血液の不足に悩んでいる。若者の血を弱者や病人に提供する行為は彼等の自尊心を高め奉仕の尊い精神が涵養出来る。
 地方自治体はこの行為に対し成人到達の認知と同時に、献血者に対し赤十字社と協同で将来に残るよう出来得る限りの記念品を贈呈して褒章する。献血不能者及び不賛成者に対しては認知のみとし儀式は行わない。尚儀式は廃止して表彰式とする。
 この献血運動は決して義務づけるものではなく、若者側代表者と協議し自発的に
行う運動として普及して行く。
 成人に達した喜びとそれに対する認知。
 自専心を高め奉仕の精神を培い養われ、同時に成人到達の紀念品が飾られるのではないか。
                                       以上

 













































4203

SKKのあしあと−3  関口 利夫
        <成長期 その1> 昭和60年

<朝日生命の研修支援>
 昭和63年3月1日は朝日生命創立100周年記念日である。東理事長はじめ同社出身のSKK会員の関心は高い。この記念日を2年半余り先に控えた60年7月5日の社友会において、同社社長は、この記念日を優績をもって迎えられるよう、新契約面における特段の協力を社友に依頼した。
 8月1日、東から関口へ次のような連絡があった。
 「SKKの朝日生命外務教育部OBとして、100周年記念を前に恩返しボランティア研修をしようではないか」との内容である。関口は一も二も無く賛成し、5日東と同道、朝日生命本社に若原専務を訪ね、下記要領により研修に協力の意志を伝えた.若原は快く丁重にこれを受け止め了承した。協力要領の概要は次の通りである。
1.期間 s60.9 〜 61.12
2.対象 支社・営業所・支部主催の集会(機関長会・組織長会・職員大会
      後援者大会など)
3.講演 時間…1集会 1〜3時間
      内容・・・渉外力強化に関連するもの、その他希望テーマ
4.経費 講師の交通宿泊費は主倦者負担、講師料は無料
5.講師 東 (外務教育部勤務 11年)  登立(同 9年)
      関口 ( 同 13年)          工藤(同 7年)

 早速12日全国支社長あて通知文を発送した。下記は依頼により講演を行った支社と担当講師である。
 土浦支社(2回)…関口     大分支社…登立  大森支社…登立
 甲府〃 く2回)…工藤・関口 大阪〃 …関口   浦和〃 …登立
 宮崎〃 (2回)…東       青森〃 …東     大阪北〃…登立
 津 〃 (2回)…東・工藤    山形〃 …東

<61年〜64年の動き>

(1) 会員の動向  
 ・61年1月の会合には加庭勝治が東の紹介で初参加した。加庭は二・二六
  事件の決起部隊(麻布歩兵3聯隊)の一員である。のち陸軍経理部将校で
  終戦を迎えた。
 ・創業以来少しずつ新入会員がある反面、退会する会員も相次ぎ、会員数
  はなかなか増えなかった。当時は未だに14名である。
 ・その頃は全員参画という趣旨から会員は全員、理事もしくは監事と呼称し
  た。常務理事は山沢のほか志村・横山、監事(会計監査)は加庭と大井が
  担当した。大井は陸士56期、満州国奉天(現藩陽)で終戦を迎えた。村野
  の紹介で発足当初からの会員である。
 ・61年7月には斉藤賢二・伊藤啓子が初参加した。斉藤は陸士58期で戦後
  は十條製紙(株)に勤務、教育分野に20年もいた。発想法で有名な「グル
  ープKJ法」の熱心な研究者の一人であり著書(共著)もある。村野の紹介
  で入会したが、その後間もなく常務理事を委嘱された。伊藤は工藤と同じく
  もともと教師であり、そして朝日生命外務教育部の出身である。
 .志村の受章          
  62年春の叙勲で、志村が勲四等旭日小綬章を受章した。志村は関口の
  隣村の出身で陸士50期、陸大は東と同期である。中支第6方面軍参謀で
  終戦を迎えたが、戦後朝日生命のセールスを勤めた後、陸上自術隊に勤務
  将補で退官した。SKKには発足当初から参加しいる。

(2)「経営偕行塾」の顛末
  62年6月4日の理事会において、渡部から「時にはSKKが主催する研修会を実施してはどうか」という提案があり、討議の結果実行に踏み切ることに決した。SKKのこれまでの活動は相手企業が主催する行事にSKKから講師を派遣するというかたちのものだけであったので、この企画はSKKとしては初めての大事業である。その後の会議では毎回この間題が中心議題となり、暫くの間当初は予想もしなかった苦悩を味わうことになるのである。
  この研修会は「経営偕行塾」と命名され、63年の実施を目指して着々と準備が進められた。何回かの打ち合わせを経て次のような結論を得た。
 ・研修の対象(塾生)企業の一般社員・定年間近な社員・中年女性社員…
  などが検討されたが、最初は中小企業の経営者を対象とすることに決定。
 ・研修の目的と内容 経営者が独力で自己の経営を診断し得る能力を習
  得することを目的とし、経営診断を中心に研修内容を組み立てる。
 ・研修期間 63年5月に開講し、2週問おきに7回(各半日)で終了。
 ・主任講師  渡部
 .会場  偕行社
 ・資金の準備 開講にあたっての諸経費に充てるため、理事・監事からの
  資金カンパを求めた。これに対し11名から計23万円が拠出された。
     (内8方円は寄付、15万円は後日1割の利子とともに返済された)

 塾開講の案内は、63年4月上旬に約100の企業に宛てて発送された。
なお当該企業への訪間、電話による受講勧誘も併せて行われた。しかし、時間と経費と手数を掛けた割には成果ははかばかしくなかった。当初は10名以上の申込を見込んでいたが、到底無理のようなので、最後は受講者5名でも開講する、と目標を修正した。また開講を7月からに延期…と変更して見たがやはり結果は空しいものであった。
 1年近い準備期間を費やしたこの企画が失敗ということは、準備作業に直接携わった担当者にとって大変なショックであったが、また大きな教訓ともなった。失敗の原因は何か。対象の選定を誤ったか、テーマに魅力がなかったのか、参加料が高額だったか…など種々検討がなされたが、対象企業の数の少なさが要因の一つであることは間違いなかった。
 6月17日、合議により遂にこの企画を断念することに決したのである。

(3) 会の名称変更
  経営偕行塾の実施を機に、会の活動分野の拡大を目指し、会名を「渉外力強化研究会(略称 SKK)」から「コンサルタントグループSKK」と改称した。

(4)「SKK友の会」の誕生
 63年8月4日の理事会においては、それまでの経験、特に塾計画の失敗の反省から、顧客層の拡大が急務として取り上げられた。そしてその対策の一つとして 「SKK友の会」という組織を設け、事業推進の支援を期待することとした。その組織づくりのためには一般会員を積極的に募集することが当面の最大課題となったのである。(従来の会員は前述のとおり全員が理事か監事である)
 この友の会一般会員には、研修対象の見込企業の紹介と、併せて新入会員の紹介を期待した。改めて友の会規約を作り、会員に対する特典も成文化したことは勿論である。当時の会員の行動力(老齢?)と専門のセールスがいないことのためのやむをえぬ処置であった。(やや混乱するがこのSKK友の会は後年出来た友の会の前身であるが、内容は全く別物である)
 なお、会の資金が不十分なため、友の会会員(一般会員)はSKKの研究会等に参加のとき 1,000 円 の参加費を負担することとした。一方役員(理事・監事)には月々 3,000 円 の会費を会に納入することを義務付けた。これは役員にとつて厳しい措置であったが、全員がこれを受け入れたのである。

 その後一般会員は徐々にではあるが増加していった。依然として入退会は繰り返されたが63年12月末の会員は役員を含め17名である。

(5) その他
・ 研修会 オリエントファイナンス、甲府のNTT、日本板硝子ほか小型の研修が
  多かった。
  63年2月には村野の紹介により、甲府の(有)大成ビニール販売商会の研修
  (2泊3日)があり、東・横山が担当した。
・ 講演会 63年12月22日外部講師による初めての講演会が催された。講師は
  タイ国在住の佐々木竹之(陸士56期)、テーマは「タイの最近事情」であった。
・ 68年3月偕行社は千代田区五番町から同区九段南の新社屋に移転した。
・ 63年12月11日、SKK事務局に初めてワープロが入り、事務が軽快に滑りだし
  た。
・ 64年は、1月7日昭和天皇の崩御により、年号が平成に改まった。















































4204

私  見  高橋正二
  平成14年10月18日、各新聞一斉に、終戦直後即ち昭和20年9月27日、昭和天皇とマッカーサー元帥との第1回会見記録が、外務省から「公式記録」として発表された。この記録は通訳にあたった外務省参事官奥村勝蔵氏(網戦当時、駐米日本大使館1等書記官、故人)の作成した記録(メモ)が基礎になっているものである。
 この記録の中で、昭和天皇の「戦争責任」に関する御発言が無く、マッカーサー回想録(39年公刊)に明らかにされている内容と相違している点が間者となっている。
昭和20年10月27日付、アチソン政治顧問が米国務長官宛の極秘電報にも、「…‥天皇は、日本国民の指導者として臣民のとったあらゆる行為に貴任を持つつもりだ、と述べた」ともあり、私はマッカーサー元帥回想録の記録が正しいと信ずるものである。
 当時の石渡宮内大臣、藤田侍従長、徳大寺侍従、村山侍医、筧行幸主務官が随従、何れも口を鎖しているが、後年右の内誰かが漏らされたとの噂を仄間したり、当時の内閣書記官長迫水久常氏の講演の中でも、天皇の「責任」の御言葉があったと拝聴した記憶がある。
 奥村氏は今後の問題(特に東京裁判等)を考慮して敢えて記録(議事録に非ず)から削除、或いは最初から記録しなかったのではないかと維察するものである。
 御前会議、二度にわたる御聖断以来「身はいかになろうとも」、即ち決死の御覚悟は一貫して変らず、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の御一念がマッカーサー元帥に対しての「責任」の御発言であり、この事によってこそマッカーサー元帥は感動したのではなかったか。
                                 以上






































4205

”原発”に神様がいた!   大橋 春男
   〔新潟県柏崎刈羽原子力発電所見学一私の印象紀〕
   
 あの戦争が終わってからの半世紀は日本は挙げて技術革新に邁進し、平和で快適な理想郷を築きました。しかし、戦後の20年目あたりから、この地球の表面にはエネルギーによる歪みがあらわれ始め、新しく〔公害〕という言葉が生れ、次に〔環境汚染〕と用語が代わり、いまでは〔地球の危機〕と叫ばれるようになってしまいました。あっと言う間でした。仰天した人々はその原因がエネルギーと知りながらも、快適な生活をつづけるために、汗水たらし新しいクリーン・エネルギー開発に没頭したのです。でもそんな快適さと新エネルギーの両立なんぞ、はたして可能なのでしょうか。
 そのような弱り切った地球に正義の味方〔月光仮面〕のごとく颯爽と登場したの”原子力発電”でした。エネルギー革命の起死回生のエースとしての出現でした。
 されど、なにゆえか、このエネルギーの主戦投手がたいへんな暴れ者。お付きの人間を巻き込んでは悪さをおこない、退場させられかかった。
 さらに、こともあろうに環境間題などから一度、マウンドから降ろされた火力発電所めが選手交代として再登場との話もあらわれ、まさに逆行が始まろうとしている。

 現代の電力の使用量は、わが国全体でも20年前の2倍程、30年前の約3倍半で、これからも年々増えていく見通しです。それと平行して地球温暖化という問題も深刻さを増すばかりです。こんな状況を真剣に考えると、CO2をほとんど出さない地球にやさしいエネルギーとは目下、この暴れ者の原子力発電ぐらいしかないらしいのです。
 勿論、クリーンという面では風力発電、太陽光発電などがあり、欧州では一部に事業化がはじまっている模様です。しかし、すぐに大量な需要に応じられるかについては未知数なのでしょう。そんな有様から、米国も欧州諸国もこのところの世論調査では以前と異なり原発が支持されはじめ、いまのところはこのエースに真面目に働いて貰うほかに手がないようです。にもかかわらず、我が国の原発は騒ぎ以来、当然、停滞したままです。
 国の行く末と、民族のたどる道も探る わがSKK相互啓発懇話会は、自然環境問題にも、またエネルギー間題にも大きな関心を寄せております。そんな時、ちょうど佐波の自然観察旅行の最終日に、『原発勉強見学会』を計画いたしました。

10月18日 (金)。朝、二日にわたった佐波から新潟港に戻り、バスを雇い上げて総員29名が表紀の事故で有名な東京電力原子力発電所へと乗り込みました。
 まず驚いたのは聳える発電所の煙突が見えだしてから正門につくまでのかなりの時間、延々と続いた海岸沿いの黒松の美林でした。案内係の説明によれば、この発電所は海に面して設備され陸地の三面はすべて松林で隔離され、その黒松の本数は226,100本になるよのこと。なぜそんな細かい数字まで判るの?と質間すると”原子力発電所上空は飛行禁止区域のため、ヘリコプターによる薬剤散布ができない。そのため人力によりて薬剤を一本一本の松に散布せざるをえなかった。そんなことから図らずも実数がつかめた”とのことでした。イヤ、それにしても、各地で猛威を振るう松喰虫除去のため、このような手間と労力をかける話には自然派の私はいたく感動してしまったのであります。

 事の始めに感心したせいか、広々とした構内を行く時も芝生の庭に魅せられ、整然たるその佇まいには新時代を担う堂々の威容さえ感じさせられて、こんな筈ではない!この原発はいま話題の問題児だ、”それ”らしく振る舞ってもらわんと調子が合わん、などと首をひねっていました。だが、このズレは最後まで続き、次々と紹介される科学的、技術的な解説、説明、そして見事な展示物など、すべてが立派で安全そうに印象付けられてしまったのです。残念ながら、小生は科学的には致し方なしです。すれ違う別の見学グループの人々もニコニコと楽しく上気した表情で、新聞を騒がせた不穏な根城を吟味する者の顔付きではない。どうもすべての目論見はずれてしまりた様子だ。
 コースの終りにちかく、テニスコートが裁つも並べられるような広さの整然とした中央制御室はその極め付きの素晴らしさです。広い大部屋に僅かなオペレーターがデスクに座り、多くのデーターをチェックしている様はまさに最先端技術そのものの絵柄で、新聞種になったような暗い雰囲気はサラサラなく、リラックスしたその有り様は何とも頼もしげにさえ見えました。まったくアラの気配さえも見つからない。当たり前です。この問題の時期にそんなへマなどある筈ないだろう。ここでドジな詮索まやめることになる。
 そのトタンです。この堂々たる制御室の一部に神棚があったのです。
科学技術最先端のコントロ}ル・ルームに神様が降臨されていた。まさに驚きでした。
 敗戦以来、日本はアメリカ文化に席巻されて神様は山へお戻りになってしまいました。
 若い人々は神様との縁も切れ、へンに神様の話をだすと怪訝な頻をされました。こうして日本の伝統的精神文化がほころび、習俗もしきたりも消え失せました。
 それなのに、この話題の“問題原発”に神様が寄られていたのです。困った時の神頼み、なんぞと申しません。人事を尽くしたのちの超自然的な存在に対する畏敬の念の現れと直感しました。ことによれば日本伝統文化がここから再び甦ってくるかも知れません。
 環境汚染とは、自然を神同然に尊敬し、畏怖してきた日本の伝統文化を無視したために起こった現象です。もし、ここの制御室の若者たちが本当に日本の伝統的精神文化に目覚め、自然に対する畏敬の念に目覚めるならば、もうあのような〔無頓着事故〕はないものと信じたい。さあ頑張れ、若者達よ。君達を信じよう!

 帰りがけ、案内嬢に特にねだって貰った『原子力2001』という資料を帰宅後に広げました。その(日本の電力事情)の項目によれば、我が国電力消費のうち、産業用は比較的安定的に堆移しているが、社会・経済の発展、情報化の進展、生活の快適性の追求など国民生活の向上によって、民生用の電力消費が著しくなっている、とのこと。つまり基盤の産業ではなく、人間の暮らし方による電力消費の急増が問題となっていたのです。言葉をかえれば、快適な暮らしのせいで、原発の問題が超こった、ともとれそうです。頭をかかえました。
 思い出した言葉があります。
ー21世紀の文明は、20世紀の拡大型ではなく、その延長型でもない。それはこの1世紀にわたったわれわれ人間の歩みを改めて振り返り、考え直して、まったく新しい生き方をしなければならない、ということだー
 現在の環境問題に関心をもつ人々の共通の考えかたです。多くの人にこの考えかたを広げねばなりません。

 しかし、それにしても、この発電所の『広報』は肝心なものが欠けておりました。いまは自己宣伝の暇なんぞはないのです。電力企業の事業に対する哲学、環境保護に対する理念が根本的に疑われているのです。設備の安全に自信があるならば、堂々といまの日本にとっても、その自然保護にとっても、この『原発』が絶対に必要であり、さらに、資源のためにも、国をあげた節電の必要性を訴え、いままでのような(電気と水は使い放鹿)といった不躾さを諭す国民運動を積極的に展開すベきではないでしょうか。

 海外旅行から夜帰国した者が感ずる日本の夜の明るさの不自然さ。改めて考えてみるべきでしょう。ヨーロッパにはこんな明るい夜はあり得ません。また、大きなビルなどで夏に上着をき、冬は上着を脱ぐという冷暖房の不思議な珍景ぶり。
 電力消費の見直しが重要なのです。無限なエネルギーはありません。限られた資源を大事に、環境を考慮しながらの暮らしぶりを、国をあげて強力に広報すべきです。
 エネルギーの使い放題の時代は終わりました。有限の地球に生きる知恵を電力会社も国民すべてに周知する必要があります。この原発見学でも『節電』の話は一言もなかった。
 ドイツのエコ・ライフは徹底しています。テレビは見おわると、スイッチを切るだけではなく、コンセントからコ←ドも抜くのです。画面がでていなくても電気は使っていることをドイツ人は知っております。あの国の環境運動は気分ではありません。さすが哲学の国です。日本でも電気を売って商売する会社がこんな節電運動を広げれば、人々はその真剣さを理解するというものでしょう。
 価値観の見直しが迫られているのです。














































4206

穎宣雑記(その2)  下田 頴宣
  ☆ 易者の「たわごと」
暦に就いて。 我が国の暦は代表的なものが二つあります。一つは、安倍晴明(平安中期の人)が唐で勉強し帰国後は朝廷の陰陽寮長官になって暦を編纂し、その子孫が専ら暦の普及に当たり主として皇室を中心に定着しました。それに対して民間には加筏暦と言って加筏氏が代々伝承してきました。
 然し思想や学問は民間に普及してくると、それ相当の効果はありますが、それと共に弊害も出てくるもので、往々にして邪説も出てきます。
 例えば「丙午(ひのえうま)の年の女は、男を食い殺す」というようなことが普及しその弊害は大変なものですが、これは何の根拠もありません。
 但し、丙午の日に生れた人は男も女も、どういう訳か縁遠いということは統計上明白であるので、そのことがいつの間にか誤って伝えられているものです。従って丙午生まれの女の人は全く関係ない訳ですからご安心ください。
 又、大安は吉日で、結婚式は殆どの人がこの日を選び、日頃科学万能の人でも、自分の息子や娘の結婚となると大安を選びます。即ち俗説に従うことになりますが、加茂暦によると、大安は一般に解釈されるような意味ではなく、大いに安かれ、安んぜよ、この日は安らかにしている方が良い、静かにしているのが良いと言うのが本当の意味で、安泰を要する日で、何をしても良いという意味ではなくて、寧ろ逆の意味のようです。然し習慣というものは恐ろしいもので、かく言う私も身内の結婚には大安の日を選びたいと思いますから大きなことは言えません。

・占いは数多くあり更に西洋占い等もありますから、例えば今日の日を占うとしても、或る占いは吉ですが他の占いによると凶とのことがしばしばあるので、どれを採用すれば良いのかに迷い、或いはこれを信用しようとすると、毎日必ず、何れかの占いで凶があることが多く、何も出来ないことになりそうです。また例えば方位を見たとして、凶と出てもどうしても行かなければならなくなることもあって困ります。私は殆ど此れらを使用しておりません。そして若しも凶である方角へ行かねばならないことに気がついた場合は、特に注意して行くことにしております。
 要するにこだわりだしたら切りがなくなりますので、あまりこだわることはしない。然し、はてなと思った時等は注意することにする、といった要領です。

・生年月日を基準とする占いに就いて、私は一抹の疑問を感じております。何故ならば、生年月日時間が全く同じ人が日本中に何人いるかと調べると、計算上ですが50万人に一人いるということになります。これを基準にして計算すると1億人には200人いるということになり、男女別にすると同性が100人いる勘定になります。これは大臣でも乞食でも誰でも同様ですが、常識的に考えて、果たしてこの100人が常に同じような運命を辿るであろうかと思いますと納得出来るには至っておらず、どうしても疑問を感ぜざるを得ず、従って此等を無条件に採用すること
は問題があると思うわけです。

・易占を業としている易者の人達が常識的な見料を頂くことは当然であり、問題ありませんが、易者で法外な見料を要求するような者は殆どインチキだと思って間違いないようです。易経には「高い見料を碩くこと」等のことは、何処にも書いてありません。
 又、大きな問題が惹起した時に、その問題が起こった後で、そのことは自分は予見していた等と言う人がありますが、これは如何なものでしょうか。予見は予め発表してこそ卓見になるのであって、事が起こった後結果が出てから兎や角言うことは誰でも出来るもので、こんなことは先見でも卓見でもありません。
 然し、私の経験では間題が起こる前に筮を執ってその結果を他人に言うと当たらないことが多いものですが、誰にも言わずに黙っていると案外的中することが多く、全く扱いにくいものです。こんなつまらないことは考えないで、無心になれと言うことでしょうか。

・世に、高島易と杯している易者が沢山いますが、これは幕末から明治にかけて易者として活躍した高島嘉右衝門(呑象)がおりましたが、彼は一世を風靡した易占の名人で、我が国の易の歴史の上に決して落とすことの出来ない人物でした。特に明治の元勲の伊藤博文と縁戚関係(縛文に子がなく、井上薫の子を養子とし呑象の娘が嫁した)があり、その関係もあって明治時代の政、官、財界を始め多くの名士との交際も広かったので、自然国家の帰趨に関する占い等も多くありました。
 今各地で高島と名乗っている者はこの高島呑象にあやかりたいとして高島某といつているのです。呑象の没後甥の高島徳右衛門(象山)が易を業としていましたが、彼が大正6年に没して後は高島嘉右衝門・徳右衛門と血のつながる人で易を業としている人はおりません。従って現在各所で高島某等と名乗っている者は悉く、高島嘉右術門・徳右衝門とは無関係のものです。世間には、芸名とかペンネーム等もあり、どんな名前を名乗っても私が文句を言う必要はありませんが、街を歩いていますと時折易者の看板で、高島総本家とか、高島総本山等とあるのを見ますと、一寸どうかなと思う次第です。
 但し自分の行う易は高島流であると言うならば、必ずしも間違いではありません。そのご本人が高島流を本当に知っているかどうかは別問題です。

・大分前になりますが、黙って座れば、ぴたりと当たるというキャッチフレーズの看板を出して流行っていた易者がいました。彼らがぴたりと当たると言いますが、何が当たるのかと言うと多くの場合、例えば、費方はお父さんが小さいときに亡くなりましたねとか、若い頃に大病したことが有りますね等の、要するにその人の過去のことを当ててそれが的中すると、相手は驚いてその後のことは何を言われても全部信用する、といったものが多いようです。然し考えてみると過去のこと等は当てる必要はありません。何故なら過去のことはご本人が一番正確に知っている筈ですから、若し必要がある時はご本人に聞けば良いのであって、そんなことを当てて、それを得々としているのは一寸疑問を持たざるを得ないと言う訳です。

・資生堂や三菱化成の社名は易から取ったものです。資生堂の資生は易の「坤為地」の中に「至れるは坤元、万物資りて生ず」との句があり、坤は陰の最たるもので女性の代表を顕わすものですからこれを取ったものと言われております。
 三菱化成の化成は易の基本理論の一つに創造的進化の原理に基づいて、変化して已まない中に、変化の原理、原則を探求し、それに基づいて、人間が意識的、自主的、積極的に変化していく、このことを化成といい、人が創造主となって創造していくことを言いますが、これから取ったと言うことです。そして、この「化成」の言葉は易経の中の各所にでてきます。

・易経は、考えて見れば奇妙な本です。多くの本に、易経は、占いの書であると同時に哲学書であり、また処世の書である、と述べておりますが、易を深く研究すればする程、神秘的であるが反面には極めて合理的であり、君子の学で真面目であるが、庶民的であり、その深遠なことは到底筆舌に尽くせるものではなく、だからこそ一層の魅力を感じるのでしょう。何しろ、数千年前に出来て、それ以後主として中国で、又日本に於いても何千人もの学者が、しかもその中には、朱氏のような天才的な学者もいますが、その人達が研究に研究を重ねて、未だに分らないことが沢山ある書ですから、我々凡人がいくら勉強しても分らないことが多いのは当たり前だ、と思うと気が楽です。

・『易』は形而上学です0即ちこの勉強は取りも直さず「精神修養」です。従って易者でありながら精禅的に下劣な者らは論ずる外です。また易占は心の正しい人は的中しますが、然らざる人は決して的中しないものです。易者の中に不心得者がいることは残念ですが、老子の言葉にある「天網恢恢、疎にして漏らさず」は決して、言葉のみの言葉ではありません。               以上























                 
           

 
あづま路