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平成16年度


45号

46号

47号






























 

あづま路 47号  平成16年10月1日
「仁.惻隠の心」    横山  登
SKKのあしあと−8 関口 利夫
好奇心 狭間  馨
なんじゃもんじゃの木 大橋 春男
私の健康法 林 寅三郎

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 「仁.惻隠の心」 (新渡戸稲造) 横山 登
四国の松山市の北部、丘の中腹にその墓地はある。
 大正時代に作られた 97基の石の墓は、みな北西のロシアの方角を向いて、美しく、整然とならんでいる。
 日露戦争時代、四国の松山には最大規模の捕虜収容所が置かれていた。彼等は、外出も海水浴も道後温泉への入浴も認められ、戦時捕虜の博愛処遇は世界の範とされた。
 「しかし、やはり掃虜は捕虜。敵国で生を閉じた無念さは筆舌に尽くし難いものがあったのでしょう。だから墓地は大切に守ってあげたいのです」墓地保存会長の言葉である。この墓地がこんなに綺麗に保存されているのも理解できる。地元の老人クラブ、婦人会、中学校の生徒らが、隙をみつけては清掃を続けているという。
 ロシア人捕虜と松山の人との心温まる話をもう一つ。
 ロシア人の将校が負傷して捕虜となり、松山の収容所に送られてきた。知らせを聞いた妻は、夫の看病のため日本に旅立った。松山に着いた彼女は、早速民家を借りて収容所に通い始めた。政府は彼女に行動の自由を許した。当時は実におおらかな時代であった。なかでも感心させられるのは、この異国の婦人を取り巻く日本婦人のたたずまいである。お月見や村の行事のほか温泉にも常に積極的に彼女を誘って慰めた。また、戦勝の祝賀行列で、市内がお祭り騒ぎに沸き立てば「お国の傷病兵の心を傷つけて申し訳ない」と県知事が彼女に詫びたという。

 捕虜として心ならずも敵国で死を迎えた彼等の心情を哀れみ、墓を祖国の方に向
けて立て、大切に守り通しているという保存会の人達。
 ロシア将校の妻は、敵地に一人で乗り込んできてかいがいしく夫の世話をする。まわりの日本人は、婦人の心情を思いやって折にふれて慰める。更に戦勝祝賀行列では、傷つけられたロシア兵を慮って頭を下げる県知事。
 このように他人を気の毒だ、不憫だと思う心を「惻隠の情」といい、武士が最も重んじた心情の一つである。また、他人への「思いやり」は、「礼」とともに「仁」といい当時の儒教道徳の中心に据えられた。
 5千円札の肖像になった新渡戸稲造博士が、「武士道」を世に出したのは明治32年である。当時は、日本に対する世界の認識はまだまだ幼稚な時代であった。博士は、「武士道」を各国の言葉に翻訳して出版し、日本道徳の何たるかを広く世界に知らしめた。その功績は、三軍の将にも匹敵するものと高く評価された。
 博士は「武士道」の中で「義・勇」の次に「仁・惻隠の心」の項目を置いた。以下「礼」「誠」「名誉」などと続く。
 「仁・側隠」の冒頭は次のような文章で始まる。「愛、寛容、愛情、同情、憐憫は古来最高の徳として、すなわち人の霊魂の属性中最も高きものとして認められた」

この言葉と正反対の極にあるのがテロであろう。
 8月24日、ボルガ航空機とシベリア航空株が同時に墜落した。テロによるものと思われる。
 そして9月1日、武装テログループがロシア南部の北オセチャ共和国の中等学校を占拠した。彼等は児童、父母らを人質にし、人間の楯としてたてこもり、政治的要求をつきつけてきた。およそテロには、行動の限界というものがない。卑劣、野蛮、獣性の限りを尽くす。戦争では核というものが一つの歯止めをつくった。しかしテロにはそうゆう歯止めは存在しない。
 「仁・惻隠」の中に博士のこんな言葉がある。「戦闘の恐怖の其唯中において愛憐の情を喚起することを、ヨーロッパではキリスト教がなした。それを日本では、音楽ならびに文学の嗜好が果たしたのである。」
 イスラム教徒の行動の発する所は宗教に依存している。これから文明が発達し、音楽や文学も広まれば、僅かでも燭光が見えてくるのではないか。私のテロに対する微かなる希望である。
































4702

 SKKのあしあと−8    関口利夫
               <転換期>  平成11年
(1)組織改革への出発
   11年1月19日の役員会では、前年9月に発議された組織改変につい
  ての議題が中心になった。
 ・ SKKの意味づけは、この日までの宿題になっていたが、討議の結果、
  会の名称を「SKK(相互啓発懇話会)」とする、ということで意味付けも
  す べて落着した。冗長で少々変った会名だが、これが正式名称であ
  る。これは新しい会名に「SKK」の字を是非残したい、という全員の一致
  した意向から決められた結論であった。
 ・ 改組は、解散、新設ではなく、規約の改正という形をとることとし、時
  期は12年1月と決まった。
 ・ 新会則(案)は、斉藤が中心となって作成することに決した。

(2)花見会
   3月29日には、役員を中心とする花見の宴が催された。花見は何時頃
 からであったか、毎年実施されて来たのである。この日は好天に恵まれ
、井上、深見など長老も参加し、楽しい一時であった。参加者は12名。

(3)11年度の理事会
   「理事は月に一度は顔を合わせなければ…」という落合からの堆青も
  あり毎月必ず理事会が催された。なお、議事が済んだ後の′小宴も理
  事会の楽しみの一つであったのである。
   この年の理事会は、毎回組織変更の問題が中心であり、併せて例会
   公開講演会、会員増強などが議題となった。
 ・ 6月11日には、「12年1月に組織変更すること」および「友の会規定を廃
   止してSKKの新会則へ移行すること」につき、予め友の会々員の了解
   を得ておく必要が確認され、7月27日の例会においてこの旨を発表、
   了承された。
・  10月5日の理事会において検討された予算では、組織変更後の会費
   の値上げが必要となることが確実と予測されたため、10月22日の例
   会において会員にその旨を予告した。
・  11月19日、事務局長選任の件が理事長より提案されたが、結論を得る
  に至らなかった。なお、12年度の役員候補者の推薦も議題となり、数名
  の名があがった。

(4)自然.史跡に親しむ会
  ・4月29日新宿御苑散策 都内居住の会員で、新宿御苑を知らぬ者が
   案外多いとの声が   あり実施された。場所がら帰途一同でビヤホ
   ールに立ち寄り、ジョッキー乾杯の「打ち上げ」をした。参加者15名。
   担当大橋。
  ・11月12日鎌倉の史跡探訪この年度より、年2回実施したいとの意見が
   出され、「秋の部」がセットされた。北鎌倉駅集合、円覚寺一若宮大路
   一鶴岡八橋宮一大蔵幕府跡の碑一源頼朝の墓一鎌倉宮一永福寺
   跡一北条高時腹切り櫓。 史跡の説明はシルバーボランティアガイド
   協会員に依頼した。例により、鎌倉駅前のレストランで打ち上げ。
   林が担当。参加者2O名。

(5)青森.秋田旅行
    8月5日〜7日に実施された。第1日は青森の「ねぶた祭り」を見て
  青森グランドホテルに泊る。第2日は秋田の「竿灯祭り」を楽しんで田沢
  湖ホテルに泊る。第3日は中尊寺、毛越寺の拝観、散策ののち、仙台の
  「七夕祭り」へ。以上東北三大集りを一挙に走破した快挙であった。
  担当は落合、参加者 42名。

(6)「いかりや」創業3O周年
   鶴岡幸枝会員(入会は2年)の経営する割烹「いかりや」は、SKK創業
  以来、会員の憩い、話し合いの場所として折に触れて利用されていた
  がこの年は同店の創業3O周年にあたり、11月下旬、記念の宴が複数
  日 催された。SKKからは多くの会員が招待され出席した。

(7)11年度の例会.行事
    1月26日 総会                       出席者  52名
    4月20日 講話 中本保子 「ヤボな人生」           36名
    7月27日 〃  西  正 「ライフプランセミナーについて」   34名
   10月22日 〃  大橋   「厚着を始めた地球」
              皆本   「ダイオキシン!」           39名
  中本は東京女高師(現お茶の水女子大)卒、長く高校教諭を勤めた。 入会は6年。 俳句・俳画・旅行を趣味とし、海外旅行は二十数回に及ぶ。夫君(亡)は陸士44期、 尊父(亡)は「キューピーマヨネーズ」の創業者である。
    西は朝日生命定年退職後、ライフプランセミナー講師として活躍を
続ける。落合の紹介で10年に入会。後に理事を委嘱される。

(8)11年度公開講演会
   3月16日 衆議院議員 
             中村鋭一 「陽気に元気に生き生きと」(落合) 4O名
   6月23日 フィットネス・インストラクター
             西本真須美「健康づくり」         (西)  27名
   9月28日 NHK解説委員室専門委員
             平野次郎 「世界6O億と日本」     (大橋) 65名
   12月22日 元陸軍参謀・元参議院議員
            堀江正夫 「アジア情勢と日本の進路」 (中本) 51名

(9)11年度末会員数
   10年度よりの継続会員 89名
   11年度の  新入会員 11名  合計1OO名
  会員数は年度末にようやく1OO名の大台に載ったが、12年度始には、
  また92名に落ち込むのである。
   この1年間は、SKKが新しく生れ変る前夜であり、大きな転換期であっ
  たが、日本の国全体としても大きな転換期となった年である。8月9日に
  は国旗・国歌の法制定があり、9月9日には小渕総理が「歴史,伝統の
  重視、愛国心、道徳教育などを色濃く反映させた教育基本法の改正を
  … 」と訴え、従来タブー視されていた問題に大きく踏み込んだのであっ
  た。


                <新生SKK> 平成12年
(1)新会則の成立
・ 12年1月18日の役員会において、前年度中に検討された新会則案が承
  認され、同月28日の総会に提案された。かねてより例会の折などに、
  改革の考え方を伝えてあったため、本案は原案通り可決され、新生
  SKKが誇り高く前進を開始したのである。次に会則の要項を抜粋して記
  しておく。

  (名称)本会はSKK(相互啓発懇話会)と称する。
  (目的)本会は会員相互の親睦、啓発をはかり、豊かな人生づくり
       に資することを目的とし、次の二項目を主要課題とする。
     1.日本の歴史、文化、伝統などの研究と普及、
       及び次代への継頑
     2.変化する社会環境に対応できる情報の入手
  (活動)例会・公開講演会・旅行及び自然、史跡などの散策
       ・会誌「あづま路」の発行・懇親会・その他
  (会費)年会費4OOO円(毎年度始納入)
       但し、4月以降に入会する会員の年会費は、年度末まで
       の残り月数(入会月を含む)に月額4OO円を乗じた金額と
       し、入会時に入会金 3、OOO円と同時に納入する
  (役員)理事及び監事は総会において選出する。任期は2年
       理事長は理事の互選。南開の取扱いは役員に準ずる
  (会計年度) 1月1日から12月31日までとする


 * 例会は、会の定例打合せの場であり、最も重要な行事である。
    会則に記載はないが、全会員が必ず出席するのが望ましく、
   従って出席時の会費は徴収しない。また、数年前から例会の行事とし
   て、会員による講話が定着していたが、行事内容の充実、改革はこの
   頃から話題になっていた。


(2)12年度役員人事
   新会則に則り、下記のとおり新役員が選任された。(*印は新任)
  理事長   関口  副理事長 横山  専務理事 林
  常務理事 落合・大橋・栗原
  理事    東 ・長坂・*川和・*小松陽太郎
  監事    平川・飯倉
  顧問    渡部・ 山沢・間宮・高橋・*井上・*深見

(3)斉藤専務理事急逝
   斉藤は、総会の準備中に体調を崩し、1月14日緊急入院、22日死去し
  た。
  前掲の新会則の立案が最後の仕事となった。掛け替えのない有為な、
  そして会の中枢的存在であった斉藤の急逝は、会の運営にとって大変 
  な損失であった。また告別式がたまたま総会当日と重なったため、この
  日は慌ただしい一日となった。

(4)2月9日の役員会
  この日、新しい顔ぶれで幾つかの議題が審議され、次の事項が決定さ
  れた。
・ 事務局を林専務理事方に移転することとした。なお、事務局長は林が
  兼務することに一応決まったが、その後曖昧となり、そのまま推移した。
・ 1月18日の役員会の折、出席の顧問から、「緊縮財故を必要とされる折
  から、顧問も一般会員と同様に、年会費や講演会聴講者を納めるよう
  に してはどうかj という発言があったので、これを受入れ、この日改め
  て全 顧問の了承を得た上、12年度からこれを実施することとした。
・ 8年8月7日制定の「役員等に諸手当等支給に関する内規」を改訂した。

次にその全文を記載は省略する。

  (注)役員会には理事、監事、顧問全員が出席、理事会には理事のみ、
    常務理事会には理事長、副理事長、専務理事、常務理事が出席す
    ることが慣例となっていた。

(5)12年度理事の役割分担
  この年度は、2月9日の役員会、同月23日の常務理事会、さらに3月4日
  の理事会を経て、ようやく下記のごとく決定した。
 横山…役員会・理事会・例会       林…庶務・あづま路
 栗原・・・会計  川和…公開講演会  落合・長坂…旅行会
 大橋…自然・史跡を訪ねる会      落合・小松・川和…組織
                                   (会員増強)
  *小松は陸士58期(航空)。終戦後2年間ソ連に抑留された。中央大
 (経)卒。富士通化成(株)に勤務、同社常務取締役の要職を経て、8年に
  斉藤の紹介にて入会した。






























4703

 好 奇 心   狭間 馨
 好奇心が老化防止の妙薬だと言う、殿方がいました。

1 各100u位の庭と畑があり、暇さえあれば、そこで遊んでいる。
 年中、何か仕事が見つかり、庭師不要、菜食生活もできると言う。
           「児の傍に越すか越さぬか庭若葉J
2 水原秋桜子師に惹かれて俳句を15年、480句の句集「道草]を出版した。
 パソコンとパーソナル製本機による自家製本、先ず3O冊、これも好奇心。
 81歳結社同人を辞した。退き際の美学とか。句の怖さを知っている。
3 球技は、「ペタンク」と「グラウンドゴルフ」の地域会長を10年余。
 週に2日程度、近隣・同好の方を集めボランティアしている。
 県代表で福井ねんりんピックに参加し、国体の審判も頼まれるが、上背がなく、
 貫禄が今ひとつ。
4 パソコンが面白い。軍の超短波移動無線を担当、当時のピーナッツ管954・955を覚えて
 いるが、電子革命で「ケ一夕イ」による国民総動員の現代。
 写真も撮り、句を打ち込み、旅行の映像がCDで届くと、ご満悦。
5 2O名足らずのシルバー混声合唱隊が、市のステージに立つ。
 大正演歌で始まり、音符や新譜を覚え、先生を招き、隔週で数年かかった。
 ハーモニーに魅せられた人達、旦那好みは小椋佳あたりか。
  独り遊びで弾く、クラッシクを聞く、CDと合唱する・・音楽は宝庫だ。

☆ 「可愛ゆくなれ、少しは呆けよ」「優しさとユーモアを胸に」と言はれる。
  好奇心で色々生活をデザインすれば、周りの人たちと面白く暮せそう。
 ベタ付き合いでなく、サラリと。頑張らなくていい、6O点でいい。
  殿様も、園芸・運動・声楽等凡そ奥方仕込みで、頭が上がらぬ由。






































4704

 なんじゃもんじゃの木  大橋 春男
数年前に知ったある木の名前をめぐる逸話です。
 こんなとぼけた呼び名の木が日本の各地に、それぞれが凛と吃立していたのです。
 そのうえ奇妙なことには、この不思議な名前をお互いが堂々と名乗りながら、それぞれの土地に聳えるそれらの木の大半が似ても似つかぬ別種の木だったというのですから呆気にとられました。
 改めて申しますと、このおかしな名を名乗る大木が日本各地の49ケ所に51本も唯我独尊といった風情でそそり立っていたのです。そんな次第から樹木の専門家が乗り出しそのすべての木を調べてみました。ところがなんと36種類もまったく似ても似つかぬ別々の木であることが判った、という奇態な話だったのです。
 それにしてもなぜ、全然関係のない別々の木に、おしなべてひとつの‘なんじやもんじや”という不可解な名前が付けられていたのでしょうか。

 植物園鑑の〔ナンジャモンジャ〕の項を見ると、(モクセイ科のヒトッパタゴの別名)とあります。つまり、“なんじやもんじや’とは正式名「ヒトッパタコ」の俗名、または雅名ともいうようなものだったのです。落葉高木で、高さは3Oメートル、直径7Oセンチにもなる木もあるとのことですから、まさに大木。
 いちど聞いたら忘れない名前です。皆様も新聞やテレビなどで見たり開いたりされたことがあるかも知れませんので、かって私が調べてみたことを集めてみました。
 今から6年前(平成10年)、東京は明治神宮外苑にこの木が多いとのことから、
そこに『
『なんじやもんじやの会』があり、詳しい先生が居られるとのことで、知人を通じて尋ね、その輪郭をご教示いただいたのです。主な要点をまとめてみました。

 その先生のお仲間の一人がたまたま昭和49年にNHKのラジオでこの樹についての放送をしたことあったことから、その時の放送台本を見せていただきました。
『明治41年、東京の青山練兵場で日本博覧会が催された時、その会の総裁の伏見宮殿下が、練兵場の一郭に小さな白い花を木一杯に咲かせていた大木を眺め、不思議そうにいろいろとお訊ねになられた。そんなことから、後日、東大教授で史跡名勝天然記念物調査委員の白井光太郎博士が詳細に書類でご説明申し上げ、明治天皇にもその書類を献上しました』
 −その内容−
”なんじやもんじや”の名前の由来は、まず、この木の正式な植物名の「ヒトッパタゴ」の命名からはじまります。いまから150年程前、幕末の尾州の藩士で、また本草学者(植物学者)としても有名な水谷豊文という御仁が、その国の山の中で見たことのない木に会い、仕事柄、関心をよせ、なにか名前を付けねばと考えた。その結果、この木が 「トネリコ」という木に似ていることから、その同種と判断して「ヒトッパタゴ」という名前を付けたとのこと。(この名前のヒトッパとはこの葉が単葉なので一つ葉の名前を主にして、この木によく似た同じモクセイ科の同種の木のトネリコが「タゴ」という別名をもっていたので、それに組み合わせたもの
だったのです。

 この「ヒトッパタゴ」なる木は、明治18年に青山に陸軍の練兵場が作られるはるか以前からこの地に一本だけあり、練兵場設置工事の際も地元からの陳情によって切られずに残され、あたり一帯の名物になっていたとのことです。しかし、その時分にはもちろん「ヒトッパタゴ」なる名前はここではまだ登場してはおりません。つまり“名無しの木”であったのに、住民に大事にされてたことから切られずにすんだので、まずはこの青山という土地とは、深い因縁で結ばれていたといえるのではないでしょうか。
 この木は毎年5月の始めには美しい白い小さな花を見事、木いっぱいつけることから、人呼んで“なんじやもんじや” とか”あんにやもんにや”などといわれるようになったとのことです。またこの場所が旧青山六道辻に近かったことから、”六道木”とも呼ばれていたとも伝えられていました。
 だが、この”六道木”の名のほうはいつとはなしに消え、なぜか”なんじやもんじや”の名前だけが地元で代々受け継がれて、やがてこの木の名前になった、という話です。
 現在、神宮外苑の絵画館の右手にある大きな“なんじやもんじや”は2代目で、明治36年に弱り果てた初代の木から根接木法によって殖やして移植されたのだそうです。

 さて、それから一年程たった話です。
 自宅で柳田国男全集から、ある論文を探しあぐねていたとき、まったくの偶然に『なんじやもんじやの樹』というエッセイが目に止まりました。一昭和6年発表のものです。なぜ、いままでこの論文を知らずにいたのか。まさに『ツンドク』の罰があたったのでした。
 私が神宮外苑で調べた“ヒトッパタゴ”の話に続く同じ木に関するものですが、前述のその時の説は明治41年の話ですから、この柳田エッセイの23年前の話になります。
 独自な見事な論旨でした。私が生れた頃に書かれたものでもあり、なにかの因縁を感じました。この柳田エッセイの趣意は、上記の神宮外苑での話とは異なるもので、前記の話がその木の略歴であるのに対し、日本人にとっての木の名前の付け方、土地の名前、山川草木と人間とのかかわり、など大げさに言えば自然のすべての名称にまつわる『日本人の自然観』とも言える論文でした。

 その全てを記すのはここでは無理なので、一つの要点だけを紹介いたしましょう。
 『各地の“なんじやもんじや” と名乗る樹のうちのかなりの本数が、互いに何の緩もゆかりもない別々の樹であったということが判った。これにより、この樹をなぜ、”なんじやもんじや” と唱えるに至ったか、という最初の大事な理由が、樹の種類以外のなにかに潜んでいるのではないか、と考えさせられた。
 その理由が突き止められれば、人間のあらゆる命名行為の基本的な考え方、物に一つ一つの言葉が付けられるにいたる経過、つまり国語の歴史の中で最も軽んじられていた部分が、このようなことからも次第に興味が寄せられるようになるかも知れぬと思った。
 ”なんじやもんじや”の樹の名がはじめて唱えられた時、それが誰の耳にも、何人の心にも、なるほどもっとも適当な名だ、と感じられたことは、それぞれの国で、それぞれの山で、同じような感動を人々が受けたものだ、と明らかに想像することができる。
 それぞれの山国の、まるで別々の異なった樹に、図らずも偶然に同じ名前が与えられていたとすれば、いよいよもって、こうした命名の仕方や風習が、ただ一人や二人の単なる物好き者の思いつきから、出たものものでないことがわかる。非常に興味の持てる話だ。
 ある土地の“なんじやもんじや”に、その名とは別に“名無しの木” と名付けられていたという所が三か所ほどあった。
 それは、必ずしも誰もが知らなかったと言うだけでなく、見ず知らずのまったくの他人が、勝手にありふれたつまらぬ名をこの木にだけはつけてほしくない、との思いからから、先手として“名無しの木”という名を付けておいたのである。不味い名や思いのこもらぬつまらぬ名なんぞを付けられては、まことに困るとの考えからであろう。
 不味い名とはなにか、思いのこもった名前とはどんなものかは、一口では言えないが、もし、単に名を知らぬから、というだけの単純なりゆうから勝手に‘名無し”と呼ぶとならば、どこの山にも”名無しの木”があふれ、”なんじやもんじや” も多すぎて困ったことになったであろう。これにより、名付けの意義とは、いかに大きな意味があるかと、理解せねばならない』

 いかにも日本の民俗学の開祖と言われる柳田先生らしい視線から述べられており、一本一本の木の名前にさえ、どれだけ多くの日本人がこだわっていたかが、うかがえて感動いたしました。樹木の名付けにあたって、神の”依りつく”木の有り難さをその木の名に表したい、と願っていた昔の山の人々の心根が理解でき、植物の名前とは人間の心とその木との交渉によって付けられていくものだと考えさせられました。


 横道にそれますが、この”なんじやもんじや”の自生地の一つ、対馬ではこの木が海の崖に群落を作って咲かせる白い花が海に明るく映る様子から“ウミテラス”とも呼ばれており、同じ対馬でもそのほかに‘ナタオラシ”の名もあるのです。この木が固いのでこの木を切るナタも折れる、とのことからです。
 別の土地に”カマツカ”という木がありました。木質がしなやかで折れにくいので鎌の柄に使われることから名前になったのですが、同じこの木が他の地方では“ウシゴロシ”とも呼ばれていました。コロシは命を絶つ“殺し”ではなく、牛の力を”制御させる”という意味もある言葉なのです。この木の枝が自由に曲がることから、丸めて牛の鼻輪に作り綱で牛を自在に引き回すことから‘牛を操る”の意味の‘ウシゴロシ”の名前ができたのです。
 このように自然の生き物の名前は、人間の暮らしに密接な関係を持っている以上、名前一つといえどもなおざりにはできません。名は昔の人の思いがかかっているのです。
 日本野鳥の会の創立者の中西悟堂先生が、その著書にたびたび次のようなことを書かれておりました。”昔の人間は誰でも自然にかかわる物語、名付けなどに大きな知恵を持っていた。一木一草の名にもその思いが寄せられ、美しい情のこもった名前がつけられていた。だが、残念なことに、時代が科学優先の現代に変るやいなや、鳥の名前などにも(アシナガコシジロウミツバメ)のようなのが付けられるようになった。腰の白い足の長い海燕という意味だが、分類学的にはまことにはっきりしているが、牛のよだれのようなもので、口がくたびれるだけでとても天然に付ける名前とは思えない”
 同感でした。こんな変な名は名前でではなく単なる記号にすぎません。この名を付けた動物分類学者のせんせいにとっては、先人の築き上げた『自然』の名付けの知恵などよりは、”種別分類法の科学的明確さのほうがもっともっと大事だったのでしょう”

 人間は科学だけで生きられる筈もありません。山川草木の名付けという“自然との付き合い”でも同様です。人間の考え方には‘美意識”が作用いたします。もし、名付けにあたって、学者先生ともあろうかたが、この人間の美学を一顧だにしなかった、とすれば驚きです。人間は科学と美学のバランスの上に生きているものでしょう。学者先生に『日本人の知恵・美意款』が欠けはじめているとすれば一大事ではないでしょうか。
 こんなことを心配していると、”ヒトッパタゴ”と“なんじやもんじや”のように、二つの名前を共存させているいまのあり方は、なんと素晴らしいことではないでしょうか。二つの名では不便だ、というかもしれませんが、これこそ、日本人の知恵の発露でしょう。名の意味は明らかならずとも、魅せられるその名前から、人は自然に感動し、親しみ、自然もそんな#名付け遊び”を楽しんでくれる。

 千葉県佐原市の近くの神崎神社。そこの御神木“なんじやもんじや”にまつわる昔話をひとつ。『むかし、水戸黄門様がこの神社に参詣の折り、その社殿の横に見慣れぬ大木の御神木に気づき、「この木はなんじや」と地元の者に尋ねる。だが、この地の者は耳が遠く「この木はなんじや、なんというもんじや、とお訊ねになられましたか」 と聞き返した。
 ところがなんと、黄門嫌もお歳のせいか「ほう−なんじやもんじや、という木とな。おもしろく、また良い名じやのう」 ーと』

 人間は物語が好きです。人が言葉を手にした時から、おそらく神話が生れたであろうという学者もいます。創作力のある一人が作ったものかも知れませんが、人々はその物語に共感し、そして語り継ぎ、その物語によって人達は過去との繋がりを強め、・多くの集落の者たちがその心とその風土との結びつきを強めていったのでしょう。
 物語とjは単なる事実を語るというよりは、人間の真実を伝えるものなのでしょう。
 思い出した言葉があります。
 一日本では古くから昔ばなしの語り出しの句が、きまっていたようです一
 昔ばなしを聞くとき、語るときの心得でもあり、約束事でもあったのでしょう。 鹿児島県薩摩半島の沖合の黒鳥という小さな島。昔から子供たちが年寄りに昔話をねだると、年寄りはかならず、つぎの言葉を述べてから番った、との記録がありました。

(子供)むかし 語って聞かせえ!−
(老婆)さる昔、ありしかなかりしかは知らねども、あったとして聞かねばならぬぞよ−
         (早川孝太郎着 古代村落の研究〔黒嶋〕昭和16年 より)
 こんなみじかな句にも、昔からの話には人々がそれを信じ、生活の真ん中において暮らしていた様子がうかがわれます。

(参考)
 はじめに書いた〔51本の”なんじやもんじや”が36種の“別種の木”〕の内訳として、
そのうちの何種かを上げましょう
                            (正式の種名)
 ○水戸黄門様の話のナンジャモンジャ  −−クスノキ
 ○茨城県筑波山      〃        −−アブラチャン
 ○茨城県つくば市     〃        −−ヤマコウバシ
 ○千葉県清澄山      〃        −−バクチノキ
 ○ 千葉県鋸山日本寺   〃        −−シヤラノキ
 ○東京都保谷        〃       −−マユミ
 ○東京都J町田の野津田神社 〃    −−タプノキ
 ○横浜市菊名神社        〃    −−ムクノキ
 ○横浜市長光寺          〃    −−クロガネモチ
 ○静岡県三島神社        〃    −−カツラ
 ○長野県大野田二宮神社   〃    −−フジキ
 ○長野県中野市壁田      〃    −−イヌザクラ
 ○長野県下伊那郡伊賀良村 〃    −−タモノキ
  −その他−





































4705

 私の健康法   林 寅三郎
  最近、身体の調子が悪く、病院通いをされる方が多いと開きます。
 特にこの夏は連日の酷暑、八偶の台風の来襲と厳しい異常気象に見舞われ、体調を崩した方が多いようです。各人健康には十分留意して下さい。
 高齢ながら元気に過ごしておられる婦人から、特に「健康法」という程のことではありませんが、健康に気を付けている事項を伺いましたので、紹介します。

1. 睡眠は充分とり、すっきりした気分で目覚める様に努めている。
2. 何時も、はっきりと、大きな声で人と話をする。
3. 健康にいいと言われた事は、必ず1回やってみる。
4. 食事は3食規則正しく食べる様に心掛けている。
5. 栄養のバランスを考えて偏らない様にしている。
6. なるべく外食は避け、手作り料理をおいしく食べている。
7. 1日30分以上歩いている。
8. 便通は毎朝決まった時間にある。
9. 趣味やスポーツなど、夢中になれるものがある。
10. 各種行事には進んで参加する。
11. 毎年人間ドックを受ける。
12. 早期受診に努める。











































あづま路 46号
  

あづま路 46号  平成16年5月22日
 老いるということ  横山  登
 遊 俳 深見 正男
 SKKのあしあと 7 関口 利夫
 父と別れた日 笠原  修
 暦について 下田 頴宣



































































4601


老いるということ  横山 登
 若いときはスポーツが好きで、暇があるとよくソフトボールなどを楽しんだ。そんな頃、大学を出たばかりで将来を嘱望されている若者が、私のところに配属されてきた。
 例によって、ソフトボールが始まり、彼がバッターボックスに立ったときのこと。投手の投げた球は、彼の一振りでアッというまに外野手の頭上を越えて飛んでいった。そのときの振りの鋭さ、今でもバットの唸り声とバシッという玉を捕らえたときの音が耳に残っている。
 「俺もチームでの強打者の一人、新入りに先輩のよいところ見せなければ」と私は大いに張り切ってバッターボックスに入ったのだが。バットは空を切るか、当たり損ないばかり。力の入れ過ぎだと肩の力を抜いて一振り、旨く当たったと思ったら外野フライがやっと。彼との力の差をまざまざと思い知らされた。
 今から30年ぐらい前、私が5O歳ぐらいのときのことである。
 何故こんなつまらないことを何時までも覚えているのかというと、青年の若武者ぶりを目の当たりにして、忍び寄る「老い」の影をこのとき始めて感じたからであろう。若いときに「老い」とは、なんて考える人はあまりいないだろう。 しかし「老い」を自覚し始めると、日常の生活の中に健康維持ということが大きなウエイトを占めることになる。
 私の目下の健康法は唯一歩くことである。歩く速度は大体6kmを1時間というのが標準である。この速度で歩くとまず他人に追い抜かれることはない。かってテレビコマーシャルにこんなのがあった。ある初老の人が道を歩いていて、後ろからきた若者に追い抜かれそうにそうになった。そうなると抜かれまいとムキになって速度を速めだす。そのうちに急にいなくなったと思ったら、近道をして不意に現れ、また得意そうに若者と肩を並べて歩きだす。この心境には大いに共感するところがあった。だが、今は追い抜かれるのが普通になってしまった。他人に負けまいとするあの時の気力は衰え、そんなことには無関心になってしまったのではないか。それだけ「老い」の浸透の深さを感じるのである。
 「老い」は人それぞれに差はあっても、死の前駆者として確実にやってくる。しかも年が進むにつれて速度を速めてくる。特に病という形で侵入してくる時はなおさらである。私にとって老化現象による最大のダメージは、80歳になって表面化してきた足腰の痛みである。足を踏まえようと力を入れると、足全体に電気が走るような疼痛が襲ってくる。
 歩いた後の心地好い疲労感、夕飯のときの一杯のビールの旨さ、夜もお蔭でグッスリと眠れる。これらのことが単なる思い出話しとなってしまったら。
 ここらで「老い」というものをジックリと考え直す必要があるのではないか。 論語の中に「我十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず。五十にして天命を知り、六十にして耳順(シタガ)う。七十にして心の欲する所に従って距をこえず。」この孔子の有名な言葉に、「河合隼雄」氏が次のような解釈をしている。
 『孔子の言葉は、老いたることを単なる衰退とせず、一種の完成としているところに大きな意義がある。
    十五歳で志を立てて、四十歳まではいわゆる自立の方向へと真っ直ぐに進んでいく感じだ。ところが「天命を知る」となって、方向がぐっと変化する。四十歳の方向のみで見ていると、ここから発達はない。五十歳での方向転換を経てこそ七十歳になって完成感が生じたのである。』

 遅すぎるかもしれないが、ここらで方向転換を考えるときかもしれない。今までは年も顧みずに知的面、精神面での広がりを進めてきた。そのために歩くことに基盤をおいてきたのである。
 人間には、心という無限の広がりをもった分野がある。その中で「成熟j といい、「完成」という。生きがいはいきるためにこそ持つべきだとも云う。これらを知るためには、少なくとも横への広がりでなく、より深い、深みへと入って行くことが必要な気がする。


































4602


遊  俳      深見 正男
俳句を趣味とされる方へ

  私は俳句を始めてからかれこれ二十数年近くになるが一向に上達せず、誰からも「良い俳句だ」「良い俳句だ」と言われた例がない。然し私は私なりに「これで良いのだ」と下手な俳句を続けている。
 最近 中谷孝雄先生(作家)の十数年前の随筆に接し、非常に感銘する所があり、私の考え方とをミックスして申し上げることとする。
 業俳に対して遊俳と言う聞き慣れない耳新しい言葉があるが、古くから業俳に対して遊俳と言われてきた言葉である。
業俳とは俳諧を職業とする人達の事であり、昔の宗匠たちや、今の結社の先生方のことであり、対して遊俳とは職業は別に持ちながら趣味として俳諧に精進する人達の事である。
 遊ぶと言っても「学に遊ぶ」とか「芸に遊ぶ」とか言うように努力を怠ってはならないが、然し努力すると言ってもあまりきまじめに堅苦しくなるのではない。遊俳などと言い出したのも聊かのんびりした良い意味での遊び心が欲しいと思うからである。
 近頃の俳句は子規や虚子の頃の句に比べるとたいそう繊細になっているように思われる。それは確かに大きな進歩ではあるが、大らかさに欠けスケールが小さくなったのではないか。またある種の句には大まじめであろうが、その結社の間でしか通用しないような、何を言っているのか意味のとれないようなものがある。新しさのない句は良い句とは言えないだろうが、独善的な表現の難しさはもっとよろしくないのではないだろうか。何かを表現するのは他者の共感を求める為であり、出来るだけ解りやすく表現しないと失礼に当たると思われる。
 和歌は純粋な叙情詩であるが俳句はかなり知的である。俳諧とは元来滑稽の意味であり、芭蕉の初期の作品には古典や和歌をふまえて、それを滑稽化したものが少なくない。ところが明治の正岡子規以後俳句は写生ということになり、滑稽は排除されてしまった。その結果滑稽は川柳の独占という事になってしまった。滑稽の大きさと真の意味を考える時、もう一度滑稽を俳句に取り戻せないものかと願うものである。「笑う門には福来たる」という言葉があるではないか、然しただ「ゲラゲラ」わらわすだけが滑稽の全てではない。閑雅を深め高められたユーモアこそ俳句に望ましいものであろう。子規の俳句における功績の偉大な事は世間周知のところではあるが、天の邪鬼的な見方として老い米寿を迎える人生にはあまりむきにならない方が体には良いのではないかと思う。遊俳とは本来の厳密な意味にがんじがらめになるのではなく、適当な遊び心を持って解りやすく表現のユーモアに富んだ句を作っていく事、そう願う者である。但し俳句というからには季語その他、旧来の俳句独特の約束事だけは厳に守って行かなければならない。「下手な横好き」という言葉がある。それで結構!
 楽しく俳句をしようではありませんか。




































4603




 SKKのあしあと 7  関口 利男
   <拡張期 その3> 平成10年

 会員数の拡充というものは難しく、10年度始の会員は85名であった。つまり前年度末会員から8名の退会者があったのである。理由はいろいろあるが、年間7〜8%の自然減は予測しなければならないのである。
 毎回の定例理事会においても、その都度、新会員の導入が話題となった。

(1)10年度役員人事
   1月16日の役員会において、SKK規約を改正し副理事長を置くこととした。そして10年度の役員が次のよう  に決定された。
    理事長  関口
    副理事長 横山    専務理事 斉藤
    常務理事 林・落合・大橋・栗原
    理 事  長坂・東
    監 事  平川・飯倉
    顧 問  渡部・山沢・間宮・高橋

(2)友の会規定の改正
   同じく1月16日の役員会において次の2件が決定された。
 ・入会金 2,000円を 3,000円に。(良い会ほど入会金は高いものとの山沢
   の提案による)
   *当時、SKKは関係企業は勿論、朝日生命OB、陸士関係者等の間で
   はかなりの高い評価を受けていたのである。
 ・年会費 一律に3,000円に。(前年に否決された年度の中途入会者の割
   引制度が改めて取り上げられ採択された)

(3)新会員名の発行
   新名簿は9年8月に発行が決定されて以来、林を中心として作業が進
  められた。出身地をはじめ、過去の経歴や趣味嗜好など、記載を嫌う会
  員の いることが心配されたが、殆どの会員が応諾したため、内容の濃
  い立派な名簿が10年1月早々に完成し、1月30日の友の会総会において
、 出席者に配布された。爾後、会員に異動がある都度、追加、抹消分が配
  布されている。

(4) 9月5日の役員会
   この日はいろいろな事項が討議された。
 ・会計の健全化について
    公開講演会収入の増加をはかるために、案内文の工夫、講師の選択
  、友の会新会員の積極的導入に努めるほか、
    講師への謝礼   …        50,000円とする(交通費廃止)
   (提案は30,000円+交通費5,000円であったが、理事会で否決された)
    会員の聴講費  … 2,000円を   2,500円とする
     同伴者の聴講費 … 配偶者は   1,500円とする
            その他の同居家族   2,000円とするJJ
    (但し、実施は11年度から)
  *この件は8月7日の理事会において決まったもので、改めてこの役員会  で確認されたのである。
・会の組織変更について
  「SKK本体(コンサルタントグループSKK)」と友の会との関係が分りにく
  い。
  研修会もなくなった現在、本体と友の会を合体し、新しい組練を作っては
  どうか」との提案があり、討議の結果、全員の賛成にて採択され、細部の
  検討を始めることとなった。
,SKKの意味について
  大橋から、「改めてSKKの意味づけを再考すべきである」との発言があった。従来は「渉外力強化研究会」という意味であったが、すでに現在の会の
内容にはそぐわなくなっているため、当然の意見として採択され、次回役
員会までの宿題となった。
・顧問の任期について
  高橋から、「顧問の任期を明確に定めた方がよい」との発言があり、しか
 るべき時に規約に明文化することとなった。
・新入会員誘致協力者に対するお礼について
  「新会員の誘致は会の最重要課題の一つである。特別の誘致協力者に
 対して何らかのお礼をしたい」 との提案が、全員の了承をもって採択され
 た。但し、この措置は規定化はしないこととした。

(5)10月16日の例会
   当日は、SKK創業14周年の記念日である。この日に因んで、会の功労   者として下記の4名に対し、理事長からささやかなお礼(図書券)が贈呈
  された。
     落合登美雄・斉藤 賢二・長坂恵美子・綿貫 昭
   これは、「創業以来10年10月までに5名以上の新会員を誘致し、且つ
  5名 以上現存する」という条件に該当する会員で、9月5日の役員会で了
  承されたものである。
   なお、この日の例会終了後の懇親会では、IO月16日生れの伊藤啓子
  が乾杯の音頭をとった。

(6)自然・史跡に親しむ会
   5月8日、大橋の担当で、「高尾山、薬王院にて高尾膳を食べる会」が実  施された。はじめは高尾山で秋の虫を聞く予定であったが、「そんな粋な
  会より山上の般若湯を…」とのことで今回坊主の給仕で寺の膳をい
  ただき、赤い顔をして下山したということである。 参加者15名。

(7)岐阜旅行
   7月31日〜8月2日。第1日は、日本ライン下り − 犬山城公園散策−
  鵜飼い、、船上宴会。二次会は柳ヶ瀬でカラオケ大会。参加者24名。
  第2日は、明治村見学、夜は長良川橋上で花火大会を見て終る。
  この日の参加者は16名。担当は落合。この旅行も充実した豪勢なもので
  あった。

(8)10年度の例会行事
   1月30日 総会                        出席者 52名
   4月1O日 講話 伊藤 「私の毎日」
            深見 「私の道楽」             出席者 41名
   7月17日 講話  飯倉 「日本経済知ってるつもり」 出席者 46名
  10月16日 講話 大塚昌元「この目で見たロシヤの現在と過去」
                                    出席者 36名
   大塚は陸士58期、ソ連に抑留され昭和23年帰国。明大卒。神奈川県公
  立中学教員を33年間(内14年間校長)勤めた。陸士同期生会の中央幹
  事である。10年1月斉藤の紹介で入会した。

(9)10年度の公開講演会
  3月17日 日本モンゴル文化協会会長阿部純也
                         「今なぜモンゴルか」   (綿貫)46名
  6月16日参議院議員   堂本暁子「今後の政局と国民生活」(落合)48名
  9月25日 NHK解説主幹 小林和男「ソビエトからロシアへ」 (大橋)8O名
 12月4日国際政治・軍事アナリスト小川和久
                         「これでいいのか日本」 (落合)59名

(1O)10年度末会員数
    9年度よりの継続会員  85名
   10年度の  新入会員  10 名  死  亡  1名  合計 94名
 











































4604


父と別れた日  笠原 修
  昭和十八年、札幌の雪が溶けて、そろそろ百花繚乱の頃、父笠原司郎に二度目の召集令状が来た。覚悟はしていたものの、母と我々五人の兄弟姉妹にとって穴の空いた様な淋しさと、一抹の不安に包まれた − そんな想い出が蘇る。歓呼の声に送られて札幌駅から父の古里、新潟県の新発田の聯隊に入ったのは、その年の5月の末頃だったろうか。

 それから半年、父は南方第一線へ部隊を率いて赴く事になった。戦時下とはいえ、将校の立場には多少余裕があったのか、淋しがり屋の父から母と子供達に会いたい旨綿々とした便りが届いた。当時長女は需品廠に勤め、次女は女子師範で地方での教育実習中、そして長男は札幌一中の三年生で勤労動員さ中と暇をとれる状況になかったので、結局小学校六年の私と三歳の妹が母のお伴をして父の”思い”に応える事になった。

 明治節を控えた十一月一日氷雨降る夜、父に会えない無念の兄姉に送られて札幌駅を発った。翌朝函館から洞爺丸に乗船した。戦後昭和二十九年洞爺丸が台風のあの惨劇に逢うとはつゆ知らずに…
 函館港を出た頃、初冬の陽が波に輝き、“海豚”が飛び乍ら船を追ってくる。その横を駆逐艦が護衛してしているのは何とも心強い。間もなく ”敵潜水艦が尾行中”と船内アナウンスに脅されて船室に戻る。すべての窓が閉ざされて早速救命具の着用を促される。平和の世の中では考えられない連絡船での道中だったが、父に会えるという一念のせいか、恐怖は全く感じない六時間の船旅だった。 青森の桟橋は長い。殆んどが上野行きに乗るので、裏日本を通る大阪行きはがらがらだった。それでも父の配慮で、親子三人青線の二等車でみちのくの逝く秋を車窓からゆっくり眺める事が出来た。秋田県に入ると、白鷺が稲刈り跡の田んぼで餌をついばんだり、群れをなして秋空を舞う情景は北海道育ちの我々親子には物珍らしく別世界の旅情を楽しんだ。夕闇迫る酒田沖、象潟の辺りでは子供心にも芭蕉の句が偲ばれた。

 札幌を発って二十八時間、十一月三日午前六時、夜明け前の暗闇の中、軍都 新発田駅に着いた。軍服姿の父が待ち切れぬ思いで車内に入って来て、妹を高々と抱き上げた。妹はしきりに“私のお父さん兵隊さん”と賑やかに連呼している。半年振りに父親ならではの温もりが、握られた手から全身にじ−んと伝わる感激の再会だった。駅舎を出て街の盛り場にかかる頃、朝陽がのぼり、人の往来も徐々に増えてきた。父は今迄の溜まっていた愛情で妹をおんぶしたり、私の手を強く握りしめたりしたが、父と母は意外となぜか無言だった。
 桑原家という加治川の辺にある豪農の離れが新発田の聯隊時代の父の庵だった。広々とした庭園に面して部屋も二、三あったので、私と妹はゆっくり休ませて、もう覚えんが、父と母は父無き后の将来の事など絶え間なく語り合っている様が子供心に伝わって来た。
 その年の十一月三日(明治節)の新発田はひねもす澄み渡った青空の晩秋だった。各々ひと休みした昼下り、親子四人加治川の桜並木沿いをいろいろな感慨を込めて散策した。桜の老木が延々と何キロも続いている。土手越えには稲刈り跡の越後平野がその年の豊穣を誇っている様だ。桑原家の畑で黒ゴマを見つけたり、菜が枯れ落ちた木に真赤な柿の実が青空を彩って、道産児の私には何もかも物珍しく新鮮で好奇の対象だった。暫くして母は妹を連れて一足先に父の実家のある新津の親戚へ挨拶に出かけた。
 父は私を伴って新発田の連隊内を案内してくれた。四十七士の堀部安兵衛が仇討ちをした“銀杏の木”は黄色に覆われ落葉寸前だった。兵隊の教育館は幼年学校の受験場と聞いて血が滾(タギ)った。父の跡を継いで陸軍の士官になるのがその頃の私の夢だったから。

 夕闇迫る頃、桑原家を辞して父と子二人、新発田から新津へ、北上での実家の送別会へと向った。新津の駅裏を横切り、父が学生時代通った線路沿いの約ニキロの道のり、夕闇に一番星が輝き、やがて満天にみちはじめた。
 父はどうしても私を負んぶしたいという。父に甘えて暫らく背中からの”ぬくもり”を感じ乍ら二人だけの会話に浸った。父は“戦争は厳しくこれから赴く南方第一線は死を覚悟しなければならない。立派な母さんを助けて、兄弟姉妹支え合って生きて行って欲しい。兄は六郎叔父(当時ビルマ兵站病院長)の様に出来れば医者になって貰いたいし、お前は志している幼年学校から国に役立つ軍人に成長するのを楽しみにしている。暫くは母さんの側にいて、母さんを大切にして貰いたい”と涙を流し乍ら、訴える様に、やさしく強く、時には手を握り、時には抱き締め乍ら、とめどなく話しつづけた。私も幼い乍ら、これが父との最後になる様な思いもあって、父が元気で帰って来る日をひたすら訴え、祈り乍らも、とめどもなく涙が溢れた。
父が幼い頃、泳いだり、魚を掬った田んぼ沿いの川に下りて、もう実家も近くなったので二人で顔を洗い、ハンカチで涙を拭いて再び手をしっかり握り合って実家の門を潜った。親戚一同が待ちくたびれた送別会の席に着いたのは、もう八時をまわった頃だった。
 武運長久を祈る乾杯がつづいて、新津松坂の古里ならではの民謡が披露される。父は内心とは裏腹のあの精惇な顔に戻り微笑みをたたえ、元気溌刺と挨拶し酒をついで廻っている姿は半世紀以上経った今以って忘れられない。
 やがて嘉助ドン(実家の長男)の提灯を先頭に送別会の参会者全員列になって新津の駅迄父を見送る事になる。甥や姪を何時も何くれとなく可愛がり、面倒を見、思いやり深かった父を慕って親戚や友人、涙乍らの心をこめた見送りとなった。私は母と妹と父の背を追う様に感慨をこめて従った。
 新津駅に着くと、兵隊を満載した数輌が連なって既に父の為に座席が準備されていた。乾杯の酒が振る舞われて、父の簡単な挨拶があって車上の人となる。見送り人の群の中、確か一番前の席に腰を下ろした頃、”勝って来るぞと勇ましく……”の大合唱が兵隊と見送り人の中で湧き上る。
 父は別離の感傷と酒の酔いに任せて赤い顔になり、それでも何時も以上の笑顔をつくって別離のひと言を囲りの人達と語り合っている。時折、母と私達の方に顔を振り向き、”修、紀子、ここにおいで”と言うので車窓の下迄行って温かい大きな手で握手をされる。父の笑顔から涙が滝の様に落ちるのを見て、我慢が出来ず、ホームの柱の陰から、父を見つめる。その時、最愛の夫と永遠の別離になるかも知れぬ母はどんな思いだったろうか、然し、母を見守る余裕など全くない。
 やがて出発を知らせるベルが鳴り響き、汽笛一声、汽車は静かにホームを離れた。別れ難い父は身を乗り出し最後に‘母さん−修−紀子−”そして会えなかった残りの子の名を大声で叫び乍ら去って行りた。
 ホームの片隅で顔が判らなくなる程、涙が湧き出た。これが父と再び会う事のない最後だった。

 ※ 注1昭和十九年九月三十日、マラッカ諸島内ハルマヘラで戦死。
      同年十月未 内報届く。(蒙北派遣 拝所属)
    注2 亡母の日誌参照







































4605


暦について  下田 頴宣
☆易者のたわごと
 我が国に於いては徳川時代迄は所謂「旧暦」が使用されてきましたが、明治5年改正されて新暦になりました。明治初年の日本は欧米の文化、特に科学の発展に日をみはり「和魂洋才」を唱えて西洋文化の吸収にやっきとなり、その後は国民の努力の結果、諸外国が驚くほどの近代国家となり、列強と肩を並べるまでになりましたが、その間に暦も西洋諸国にならって改正されたわけです。しかし旧来のしきたりによる習慣もありますので、いろいろな所に矛盾も生じたことは止むを得ません。特に旧暦を知って考えることは、中国や朝鮮、台湾、タイ、ベトナム等、日本の近隣諸国は日本の旧暦と同様の暦を使っていて、これに関連した習慣も未だに昔の通りに行なっているのは当然ですが、彼らとの間にギャップが起こっており、それが日本が近隣諸国の民との無理解の一原因ではないかと思うほどです。若しも暦の改正の時に、せめて旧暦を全面的に廃止せず、知識としての存在価値を認めていたら、日本人のアジア諸国への蔑視感や優越感はおこらなかったのではないかと考える程です。極言すれば大日本帝国の崩壊の遠因の一つに、改暦による旧暦の完全放棄があることになります。
 改暦による矛盾の一つに七草粥があることは、多分皆様もご存知でしょうが、1月7日は七草粥を食べて一年の無事息災を麻う習慣がありますが、元来これは旧暦の1月7日ですから、新暦では2月の初旬になり、その時期になると天然の七草が成長するので問題ありませんが、新暦の1月7日では未だ七草が採取するに至らないので、温室栽培のものを使っているということになります。
 このような矛盾が至る所に起こっておりますが、知識としての旧暦を知っていることは便利です。
 過日次のような質問を受けました。それは、暦の毎日に、大安、仏滅等の記載があるが、日によって変わっていて、時には同じ大安が二日続くこともあるが何故か、ということでした。これは簡単に言えば、旧暦の習慣をそのまま新暦に当てはめたことによる矛盾だと云うことですが、次にご参考までにご説明申し上げます。
 先ずこれらの名前は6つあるので「六曜」と呼んでおります。
 六曜とは、先勝(せんしょう、せんかち)・友引(ともびき)・先負(せんぶ、せんまけ)・仏滅(ぶつめつ)・大安(たいあん)・赤口(しやつこう、しやつく)を云います。
 暦で六曜を見ますと、大体、上の順序になっているのですが、時に順序が変わっていることがあって、而も何故このように変わるのかが暦を知らない人には疑問となりますが、この順序は次のように決められて規則通りになっております。但し総て旧暦を基本としておりますから、それに慣れていない我々はまごつくわけです。
 旧暦各月の1日に次のように六曜を定め、2日以降は六曜を順序に配当しただけのことです。
1月・先勝 2月・友引 3月・先負 4月・仏滅 5月・大安 6月・赤口
7月・先勝 8月・友引 9月・先負10月・仏滅11月・大安12月・赤口
カレンダーの七曜は連続性がありますが、六曜は機械的に配当されただけですが、月が変わると、次の1日は順序が上のように変わるので、新暦の日では連続性がな
くなることになります。
 又、旧暦には、閏月といって日にち調節の為に1年が13月の年があります。たまたま今年は閏月が2月にありまして1月、2月の次の月は3月ではなくて、閏2月で、その次が3月です。そして閏2月も1日は友引になります。偶然今年はその前日が先勝で順序は狂っておりません。
 六曜の意味ずけも又天文暦法と無関係な迷信です。例えば大安は吉日で何をしても安心な日であろうと、結婚式は大安を選ぶことが殆どの世間の決まりのようで、科学万能を信じている人も自分の子の結婚式には大安を選ぶことになり、やはり親の身になると弱いもので、俗説に従うことになります。ところが大安吉日に式を挙げた夫婦が新婚旅行に出発して、乗った飛行機が墜落したというような悲しい話があります。そうすると暦もあてにならないということになりますが、それはとんでもない間違いです。
 暦の歴史を尋ねますと、その代表的なものの一つは、安倍晴明(平安中期の人)で中国・唐で研鑽を重ね、帰朝後宮中の陰陽寮の長官に就任しましたので、この暦は主として皇室を中心に定着しました。文民間には賀茂暦といって、やはり賀茂氏が代々伝承してきた暦があり、この二つが代表的的であります。
 その賀茂暦によりますと、大安とは一般に解釈されているような意味ではなく、大いに安かれ安んぜよ−−−ここの日は安らかにいるがよい、静かにしているのがよいというのが本当の意味であり、即ち、安泰を要する日で、何をしても大丈夫という意味ではなく、寧ろ逆といってもよい日です。従って大安に婚礼をすることは意味がないから考えよということになりますが、かく云う私でも、子や孫達の婚礼にわざわざ大安を避けてする気にはなりませんね。世間の習慣とは大変なものです。


































45

   

あづま路 45号  平成16年1月22日
神話と歴史の接点を探る 横山  登
SKKのあしあと 6 関口 利夫
四国遍路の旅 小川日出夫
頴宣雑記 下田 頴宣
明けましておめでとうございます。
     本年も宜しく お願い申し上げます。
                    
                理事長  横山 登
                       役員一同

















































451

 神話と歴史の接点を探る    横山 登
 日本の神話と歴史を結ぶ接点はどこにあるのだろう。 私は、今でもその接点は、南九州地域にあるのではと考えている。
 昭和 53〜4年頃というから随分昔のことになる。観光を主にではあったが神話の里、大分、熊本、宮崎、鹿児島と車でまわったことがあった。その時、宮崎にはたしか阿蘇山から入ったのだと思う。阿蘇の草千里の景色は雄大にして荒涼、北海道で見なれていたにも拘らず思わず息をのんだのを覚えている。そのせいか、西臼杵郡の高千穂に入ったときは風景が一変した思いであった。
 ここは言うまでもなく、天孫ニニギノミコトが降臨したと伝えられる地、日本の典型的田園風景が一面に広がっていた。まだ舗装されてない農道は陽の光に輝き、流れる小川は清らかで、今にもその辺りから貫頭衣をまとった神代の人が現れるのではという気がした。
 天孫降臨の地としてはご承知のようにもう一つ霧島山がある。私はこの地こそが正しいものと教えられてきた。しかし、天孫降臨で語られているのは発達した稲作農業を伝えることである。火山爆発のあとのシラス台地は水とてない、おおよそ稲作には不適な、この地に拠点を構えることはありえないのではないか。
 また、ニニギノミコトは神なので天からやってきたという。これは人格神として不可能なこと、やはり海の向こうから船に乗ってきたと考えねばならない。
 九州の最南端の近くに野間半島というところがある。この地には「宮ノ山」「神渡」というミコトに関連した地名が残っていて、「ニニギノミコト上陸地」の碑もたっている。昔はよく遣唐使の船が漂着したのだという。九州でミコトが上陸した地として伝承されているのはこの地しかない。
 ニニギノミコトー行は稲作と養蚕の技術を携えて日本へやってきた。新しい土地に住み着くには何と言っても強力な軍隊が必要である。アメノコヤネノミコト、タヂカラオノミコトといった多くの天つ神が従ったのは当然である。上陸をした野間半島から峻険な山や谷を越え、先住している豪族どもを従えて高千穂に到達するのは容易なことではなかったであろう。
 かくして、天孫族は西臼杵郡の高千穂に日本で最初の根拠地を作ったのである。しかしながら、暫く暮らしてみるとここは余りに狭い。それで新しい根拠地を求めて、現在の宮崎平野の西都(サイト)に進出してきた。西都市は西都原古墳群のあるところで古墳の町といわれている。その中にはニニギノミコトと妻のコノハナサクヤヒメの陵墓と伝えられる巨大な墓も存在する。西都市は神話の町でもある。考古学的遺物と神話伝承が凝集した珍しい町である。
 西都に進出してきた天孫族は、更に南へ延びて今の「日南市」に至った。ニニギノミコトから二代目のヒコホホデノミコ卜すなわち山幸彦は、高千穂の小国にすぎなかった天孫族の日向王朝を、日向一円の山・田・海の三つを支配する王国にまでのし上げたのである。
 天孫族三代目のウガヤフキアエズノミコトは王朝の都を高原町の狭野(サノ)に移した。この辺りは霧島火山の高台にあって稲作には適さない。ところがこの地だけが例外的に水が豊かであって、弥生時代の石包丁などが出土していた。しかも狭野の地は日向の西南端にあってハヤト族を見据える最適の地である。ウガヤフキアユズノミコトは、ここを根拠地として稲作を行いつつ、ハヤトの力を借りて南九州一帯をおさめようとしたのであろう。ここ狭野にはカムヤマトイワレヒコ、後の神武天皇に関する色々な伝承が残っている。天皇がお生まれになったと言うお社、東征のとき渡ったと言う「狭野渡」「馬登」、皇居があったという「宮之宇都」等。神武天皇は、この狭野で、父のウガヤフキアエズノミコトと母親のタマヨリヒメの間にお生まれになった。ほかに三人の兄がいた。四人の息子たちは何時も目の前に巨大な火を吹く山、霧島が聳えているこの地で育ったのである。
 この付近一帯は、カルデラ台地で、しかもしばしば火山噴火の影響を受け、決して豊かな土地とはいえない。聞けば東方遥な地に「大和」という緑に覆われた大変豊かな土地があるという。火をふく山の上から遠く海を眺めながら、四兄弟たちは、神武東征を思い付いたのではないだろうか。そして、新しい土地を求めて乾坤一擲、「大和」に攻め上るという挙に出たのである。
 国分市を南に下がったところに宮浦神社がある。神武天皇が東征前に宮とされていたところ。おそらく四兄弟は、暫く土こに滞在されて、ここからハヤト族の支援をうけて東征の大船団を出発させたのであろう。

 日向神話については前々から興味を持っていた。特に神話を単なるフィクションとして片付けるのには大きな抵抗があった。そんな時「梅原猛氏」の「天皇の“ふるさと”日向をゆく」にあって深い共感を覚えたのである。今に残る遺跡や伝承を妥当に判断していけば、歴史ドラマとして把握できる、多くの神話がまだまだ眠っているのではないだろうか。神話と歴史を結び付ける接点の探索を望んでやまない。








































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 SKKのあしあと    関口利夫
              <拡張期 その2> 平成 9年
(1)会の収支

 9年1月17日の役員会では、会計の問題が大きな議題となった。8年度の収支はまだ余裕があったが(一般会計残320,644円)、今後研修会からの収入は期待できず、収入源は会費と講演会のみである. 早期に対策を考えて置かねばならないということである。いろいろな意見が出た。
  ・ 会員増強キャンペーンをしてはどうか(落合)
  ・ 講演会を夜間にして、勤め人を呼び込んではどうか(山沢)
    …この件は、「現在60才以上の聴講者が殆どであり、夜間にすると却
    って聴講者が減少するおそれがある」との理由で否決。
  ・ 年度中途の入会者の年会費は年度末までの月数に応じて割引してい
    るが、その割引を廃止したらどうか   (渡部)
     …この件は、「例えば9月の入会者は、年度末まで4ケ月で1年分の
    会費を払うのであれば、入会を 1月まで待つ方が得ということになり、
    新会員の導入が難しくなる」との理由で否決。
  ・ 公開講演会の講師謝礼を一律 5万円でなく、3〜5万円で差をつけたらら
    どうか(高橋)…採択。
 結局、収入増のためには、新入会員導入を促進することにより、会費収入と併せて講演会収入を期待するということに落着いた。

(2)SKKの目指すもの

 同じく1月17日の役員会において、大橋から次のような発言があった。「新会員募集に際しては、SKKがどんな会なのか…をはっきり言わなければならない。それを一言で言えるキャッチフレーズが欲しい」
「SKKは昔の日本の美点を後進に伝えることが大切と思う」

 この二つの意見については他の役員も賛成であり、且また関口の考えとも一致するものであった。討議の結果、「SKKの向うべき方向」として、これを総会において宣言すべきであるとの結論に至ったのである。

・1月31日の友の会総会において、関口は、
 「SKKは今後“日本の美と伝統を探る会”“日本の歴史、文化、伝統を振り
 返る会’’としたい」と出席者に訴え、SKKの方向付けを明示したのである。
 序でに触れておくが、この考え方が、後の(平成12年)SKK会則改正にあ
 たって、会の目的の中の主要課題の一つとして明文化されるのである。

 さらに後日、斉藤の起案によって、新会員募集の勧誘状に次のような文言を添えることとし、年度後半から実行に移された。
『SKKは昭和59年にささやかな活動を始めてから13年を経過しました。この間、講演会、研究会、見学会、旅行会、会報の発行などを通じて社会との接点を求めて参りました。そしてその活動の原点は、この美しい日本を受け継ぎ、語り継いでいきたいと言うことで、それを日本の美しい山河、誇らしい文化、伝統に求めてきました。つまりこの国とその心を見つめ、確実なものとして次代に引き継いでいきたいと考えているのであります。
 しかし今の日本は「どこかが狂っている」「このままでは日本がなくなってしまう」と感じている方も多いようです。歴史では日本罪悪論だけが残り、文化も伝統も確実に腐蝕しはじめているようですし、心や魂といったものも薄くなって、和、礼儀、潔さ、実直、質素、責任感といった日本人の誇りは消えつつあるように見えます。反面、こうした状況を憂い、今のうちに立て直さなければといった動きも見えてきております。SKKでは、こうした環境の中で、今後も講演会や旅行会などを通じて日本の現状や将来の動向、時事問題、歴史、文化、伝統そして日本人の心といったものにしっかり目を向けて行きたいと思っております。
こうしたSKKの活動の趣旨にご賛同の方々の「SKK・友の会」へのご参加を心からお待ち申し上げております。』

(3)会員の動向

 1月の総会において飯倉が監事に選任された。
9年も概ね順調に会員が増加した。2月には深見正男、3月には大賀龍吉が
入会した。

 深見は明大卒、朝日生命の役員を経て日通商事(株)の役員を長期間勤めた。一時期関口の直属の上司であった。
 大賀は陸士56期、飛行8戦隊に所属し、ビルマ・仏印等の戦闘に参加、台湾で終戦を迎えた。戦後は科研製薬を経て(株)東京中央クロスタニンの役員を勤めた。後に公開講演会に多くの有名講師を招聴すると共に多数の会員外の聴講者を勧誘導入するなど大きな貢献をする。 坐禅歴60数年のつわものである。

 春の叙勲で、林常務理事が勲四等旭日小綬章を受章した。陸上自衛隊における功績に対する評価である。

(4)会員名簿の改訂

 会員相互の親睦をはかる機会としては、役員会・例会・公開講演会の後の懇親会、旅行会、また後述の自然・史跡に親しむ会などがあったが、多くは旧知の者同士の懇親に終るのが常であった。それはそれとして有意義なことであるが、出来得れば更に一歩進めて、未知の間柄が、「出会い − 触れ合い − 信じ合い」という経過をたどって新しい友人を得ること、つまり会員全員が知り合い親しくなることが望ましい。そのような意味合いから、7月4日の理事会において、次の2項目が提案された。
・ 会員名簿を改訂する。
   従来の名簿には、住所・氏名,電話番号が記載されているのみであ
  るが、新名簿には、その他に出身地・主な経歴・趣味嗜好その他を記
  載することとする。(それによって、お互いが相手に関する情報を、出
  会いの段階からある程度得られるようにすることが狙いであった)
・ 例会時、出席者は胸に名札をつけること。
   なお、この他に例会時の座席を、予め指定席を作って未知の者同士
  を接触させるようにしてはどうかとの意見(落合)も出たが理事会の同
  意は得られなかった。
   当日、名札の件は了承されたが、名簿の改訂は反対意見があったた
  め継続審議となった。
    しかしこの件は8月23日の理事会において原案通り可決され、新名簿
  の発行は平成10年1月とし、総会時   に出席者に配布することに決
  定した。 そして即刻その準備作業に入ったのである。

※ なお、入会申込書には、従来より生年月日記載欄が設けてあったので、それはそのまま継続した。しかし名簿に載せることはなかった。これは将来、会員にバースデーカードを送ることなどを想定したものであり、事務局に保管された。

(5) 自然・史跡に親しむ会

 7年3月のNHKテレビスタジオ見学会をきっかけに、自然観察会や史跡を訪ねる企画が検討されていたが、9年5月第1回として「国営 武蔵丘陵森林公園を訪ねる会」 が実行に移された。担当は大橋、参加者は15名。
 大橋は(財)自然保護協会、(財)日本野鳥の会の会員で情報も得やすいいことから、この後もこの行事の主役を勤めることとなる。大橋の言によれば、第1回の参加者は売店にてヒールを求め芝生で持参の弁当を食べる味に思わぬ楽しみを知り、また松林から聞こえる“ムゼー、ムゼー” というハルゼミの声に、一同しばし聞き入ったという。
 また、参加者からこれをSKKの年中行事にしたらどうか、との声が出て、その後毎年続けるようになったということである。

(6) 京都旅行

   11月19日〜20日、この年も落合の企画で京都旅行が実施された。
   11時半京都駅集合、平等院 − 永観堂 − 哲学の道の見学、遊歩を終えた後、由緒ある料亭「幾松」にて夕食、舞子さんを交えての宴は優雅
であった。宿泊は「からすま京都ホテル」。20日はタクシーに分乗、極楽寺
− 真如堂 − 寂光院 − 三千院を拝観、「京都タワーホテル」にて
昼食後解散。すべてが計画通りに行き、晴々しい旅であった。参加者 28名。

(7)9年度の例会行事・講話

   1月31日 総会                     出席者 34名
   4月10日 講話 皆本義博 「リーダーシップ」  出席者 27名
   7月15日 講話 三枝正治 「体験的女工哀史」 出席者 38名
   10月15日 講話 門脇 弘 「健康になる話」   出席者 38名
 皆本は陸士57期、海上挺進3戦隊にて沖縄戦に参加、戦後陸上自衛隊勤務を経て共和化工(株)役員を勤める他、陸上自衛隊の隊友会理事、浄土真宗本頼寺派門徒総代(埼玉代表)を勤めるなど活動の幅は広い。8年1月横山の紹介により入会した。
 三枝は陸士56期、歩兵158連隊に所属して千島列島の守備にあたり、終戦後のソ連軍の不法侵攻に対戦した。ソ連抑留3年。帰国後は太陽銀行・(株)ヤシカの要職を経て、陸士同期生会の役員として活躍を続ける。入会は7年10月である。
 門脇は法政大(経)卒、評論家として活躍。国語問題協議会会員、また日本童謡の会・良歌保存会理事などの要職にあった。8年10月井上の紹介により入会した。

(8) 9年度の公開講演会
   3月 手相研究家     門脇尚平  「手相への招待」        (門脇)51名
   6月 日本考古学協会会員、 浅川利一
                         「縄文の豊かな文化とロマン」  (斉藤)44名
   9月 カウンセラー    杉浦清治 「今をイキイキ・ワクワクと」   (斉藤)50名
 12月 元NHK解説委員(2回目) 岡村和夫 「当面の政局」       (大橋)52名

(9)9年度末会員数
    8年度よりの継続会員 77名
    9年度の  新入会員 16名  合計93名









































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 四国遍路の旅   小川日出夫
 私が四国八十八ケ所を身近にかんじたのは、平成十一年二月頃毎週日曜日に、NHKTVで放映されていた番組(四国八十八ヶ所遍路の旅)を見てからでした。
 四十年勤務した会社から、関連会社に移って精神的・肉体的にも余裕が出来て、今まで行けなかった海外旅行にも行けるようになりました。国内も行けなかった所にも目が届く様になり、仕事で出張した時と全く違う旅を楽しめるようになったのです。その頃から、旅行会社のツアー説明会に行ったり、ガイドブックなどを読み、事前の準備を始めました。
 たまたま、今年(平成十五年)の春ヴェトナムに行く予定が、イラク戦争などでキャンセルされた為、四国に行くことに致しました。両親の七回忌の年でもあり供養したい想いもあり、納札に両親の戒名、若く亡くなった弟、世話になった叔母のも記しました。
 五月八日東京駅に集合し、新大阪駅から伊予鉄バスで淡路島を通り、鳴門市の霊山寺からスタートしました。二十一名のツアーで夫婦が四組、男性五名、女性四名。六十五才〜七十才の方が主で、若い女性も居りました。
 初日は全てが初体験で、先達(資格のある方で案内役)の後をついてお経を上げたりしましたが、何しろ実家に行ってもお線香すら上げない宗教心・信仰心の薄い私はどれも見様見真似でした。子供の頃、祖母がいぼころりのおまじないで、ぶつぶつ言ってたのが、光明真言だったことも今回分りました。初日は極楽寺の宿坊に宿泊し、二日目は午前中六寺、午後は五寺とお参りしてる内に手順にも慣れ、本堂と太子堂に各々蝋燭と線香を上げ、先達についてお経も上げて、両親らの戒名を書いた納札を納めました。
 仕事の関係で埼玉の秩父に通算七年勤務してたので、秩父三十四ヶ寺の観音霊場には行ったことはありますが、そのころ余り興味がなく、何ヶ所か見たお寺も小さく質素でした。そのイメージがあったので、四国のお寺が各々立派なのに驚きました。ロープウエイに乗り階段を上がりスケールも大きく、全山が霊場になっている所もありました。
 旅行会社のツアーなので、観光も含んでいて、桂浜・道後温泉・金刀比羅宮・栗林公園など見たり、宿泊も宿坊・民宿・旅館・ホテルなど変化があり、楽しいものでした。
 ただ、十四日の旅で洗濯物は全自動洗濯機で処理しましたが、悪天候の時の雨具・靴の始末が大変で往生しました。
 又、普通のツアーの場合と違って、皆様との交流は濃いいものがあり、毎晩食事の後の語らいは楽しいものでした。半周で帰る方、途中から入って来る方など出入りがあり、十三人の方々と最後まで御一緒でした。
 当初、何時ものツアーのつもりでしたが、何日かたつと少しずつ気分が変化してきました。何しろ、宿坊に泊まった時など朝六時から勤行があり、食事の都度とか出発したバスの中でのお勤めと、今まで体験したことのない日々でありました。何時の間にかそれらのことを全て受入れて居り、後半に至っては、何か清々しい気特になって参りました。
 丁度五月初旬から中旬で、四国の山々の緑はあくまで深く胸にきざまれたのです。四国遍路の方々は何回も来られる方が多く、五回以上になると納札の色が緑色になり、さらに回数を重ねると赤・金色などの納札になって、箱の中は色々と入って居りました。百回以上は、錦色になり結願寺の八十八番大窪寺には多くの方の銀色の納札が額に入って飾ってありました。
 私は次に行く時は、秋に行って見たいと思ってます。その時はもっと余裕を持ってお参り出来るでしょう。
 仏教を含め、余りに知らなかったことが多く、遅ればせながら空海・最澄,法然などの本を読み勉強することにしました。
 弘法大師空海は千二百三十年前に出生した人ですが、極めて有能・万能の人で、四国全土をテーマパークにする様なスケールの大きさで、その足跡をたどった今回の旅は、仏教のことと改めて空海の偉大さを感じました。


































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  頴 宣 雑 記   下田頴宣
  ☆ 易者の「たわごと」
 「あづま路」第43号で、工藤とむ様の「粗衣」「粗食」の愉しさ、を拝見し痛く感じるところがありました。私は昨年ですが、「糖尿病である」と宣告されまして慌てました。そしてどうしたら治るか、を考えて約半年後に完全に治しました。
 最初は医師(同期生)が薬を調合してくれて服用しましたが、間もなく血糖値が平常に戻ったので、薬も服用しなくなりその後1年以上時々測ってくれますが全く平常に復しました。医師から r糖尿病も治るのだね−」と言われ、先日測定後に何か特別のことでも行ったのか?と聞かれました。それは戦後のシベリア3年抑留生活のお蔭だと答えましたら、医師は怪訝な顔をして理由を聞いてまいりましたので私の経験を話しました。周囲の看護婦さん達も聞耳をたてて聞いていました。それは次のようなことです。
 戦後満州にいた我々は「関東軍の将兵は挿虜に非ず」との陛下のお言葉があったとの通知を受け、甘んじてソ連軍の武装解除に応じシベリアに抑留されました。配給される食料は粗食で小食でした。 粟、稗、玉萄黍、大豆等、而も生きて行ける最小限と思われるほどの少量でした。日頃大食いの私は絶えず空腹に悩まされ、意地の汚い話ですが、少しの量の質の悪い食料を、全部、血となれ肉となれ、と念じながら良く噛んで食べ、終ると又腹が減ったな、と言い合いながら過ごす毎日でした。所がこんな生活で半年も過ごしましたら、病気と言う病気は全部治ってしまいました。但し胃腸を損ねた人は助かりませんでしたが、それ以外の者は痩せてはいましたが病気は治り、後は気力さえ失わなければ生きて行けるものだと言うことを体験させられた訳でした。
 私はかねがね、人間は自然から与えられた大変 大きな力を持っているものである。この力を上手に活用することによって殆ど総ての病気は自分の力に因って治すことが出来るものである。昨年満 1OO才になられた、医学博士の塩谷信雄氏のこの言葉を信じているものであります。医師から糖尿病と言われた時はショックでしたが、よしっ!自分で治してやろう、と決心し、米麦は勿論食べて体内で糖分になると思われるものは徹底的に排除し、ジャガ芋人参等の野菜類を中心とする食事とし、量は生きる為の最小限で我慢しました。そうしたら痩せはしましたが半年後には完全に治りました。医師にこのことを報告しましたら、医師は我が意を得たり、とばかり大声で「そのとおり」と叫びました。
 一寸お断わり申し上げますが、私がこうして治したからと言っても、糖尿病の人が全部同様のことを行なって治るかどうかは,医師でもない私は保障出来ません。小食をすれば、栄養失調となり、他の痛気になった時に抵抗力がなくなり、取り返しのつかなくなることも考えられます。 私の申し上げたことは自己流の単なる治療法であることをご認識下さって、若しこれを実行する場合は必ず信頼できる医師にご相談されるよう、呉々もご注意下さい。
 序でに前述の塩谷博士の言葉の続きを申し上げますが、人は自然から与えられた大きな力を使えば殆どの病気は自力で治すことが出来るものである。だが多くの人はそれを知らない。又は知っていても如何にしたらその力を出すことが出来るかを知らない。そして病気になると医者の所に駆け付けて、高い値段の検査の機械を使って検査し、挙げ句の果てに沢山薬を貰って、薬清けになっている 云々。
 この自然から与えられ「偉大なる力」を出す方法ですが、個人差もあると思われますし一概に言うことは難しいことです。私は易学を少々噛っておりまして、易は何故当るかとの疑問を持ちました。 永年に亘って思考錯誤を重ねておりますが、病気を治す自然の大きな力と相通ずるものがあるのではないかと感じております。そして結局の所は人間が生命に危険を感じた時に自然に発揮される本能の力ではないかと思っております。 本能に因る偉大なる力は、一例として何方でもご存じですが「火事場の馬鹿力」があります。私は易を学ぶ方々に、易占を的中させるコツは最終的には、この偉大なる力を意識的に発揮することを覚えることだ、と言っております。考えて見るとこの事は取りも直さず「病気を直す自然から授かった自分の力」の発揮とも通ずるものではないかと思っております。そしてその為の最初にして最大の要件は自らがその力を持っていることを堅く信ずることです。その力を発揮する事に因って、必ず病気は治ると確信することにあるようです。
 次に、体ををリラックスさせ無心になっていわゆる無我の境地に入ることですが、易では筮竹を捧げ持って日を閉じ息を止め無我の境地に入って笠竹を割く動作があります。この無我の境地になった経験は私にはありませんが、座禅とかヨガとかと同様ではないかと思います。
 此等のことを前提として、具体的には、呼吸法です。人体は誰でも約 60兆の細胞で出来ていると言われております。毎日その中の数万或いは十数万の細胞が死滅し、それと略同等の細胞が生まれてきます。即ち新陳代謝が行われて、悪い細胞を排除し新しい細胞を作るのです。これを行なうのは全身を絶えず循環している血液によってです。動脈によって全身に綺麗な血を送り、汚れた血は静脈で心臓に帰して、心臓には肺から空気即ち酸素を送ってこの酸素に依って血を清浄にすることはご承知の通りです。考えてみますと肺で日常の呼吸している場合は肺の容量の 1割か 2割しか使っておらず、反対に言うと 8〜9割りの酸素は汚れたままだということになります。これでは、血液の清浄化が充分には出来ないことになり、当然新陳代謝をしても良い細胞を作ることは出来ないというわけです。従って暇の許す限り深呼吸をして絶えず新しい酸素を肺に送ることです。それによって汚れた血液を清浄にして、綺麗な血液を全身に絶えず送り新陳代謝に依って良い細胞を常に作って行くことが、先ず健康法の第一です。春秋の筆法ではありませんが、健康を常に保持する方法は、常に深呼吸する事である、と言うことになります。 こんなことは本来ならばお医者さんが教えることで私如きが偉そうなことを言うのは烏滸がましいと思いますが、気のついたことを述べました。何らかのご参考になれば幸甚に存じます。呼吸法の細部に関してもいろいろありますが、長くなりますし何れ機会がありましたら改めて申し上げます。



























 
あづま路