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      SKK(相互啓発懇話会)        




                 

  平成17年度


48号

49号

50号



 
 




































 

あづま路 50号  平成17年9月
菜園小屋での話題  落合登美雄
介護老人施設等の利用料が変わる 鈴木  博
29回の海外旅行と我が人生 中本 保子
高野山から熊野古道へ  小川日出夫
日本外交史第26巻 「終戦より講和まで」を読んで  釜谷 新治
紀の国 木の国 熊野古道の大楠に出会って 大橋 春男
亡き母への挽歌 門脇 弘
定例懇話会の資料訂正とお詫び 玉村 義孝
編集後記 林寅三郎























菜園小屋での話題        落合登美雄
  8名で菜園小屋を作り農作業を始めて10年近くになる。 この小屋では月1回第4土曜日に一杯飲んで、農作物の作り方・肥料の施し方や害虫の退治方等々を話題にして話し会をもつのである。時には政治の問題、女性の問題、長生きの問題等話題は豊富である。或る時、某氏が一枚の印刷物を私達にくれたのである。其の印 刷物の中味は「ぼけたらあかん 長生きしなはれ」という紙であった。既にご存知の方もおありでしょうが、中味に感心したので紹介します。

1.年を取ったら出しゃばらず、憎まれ口に、泣きごとに、人のかげ口、愚痴 いわず。
  他人のことは褒めなはれ。聞かれりゃ教えてあげてでも、知ってい ることでも知ら
  んぷり、いつでもアホでいることや。

2.勝ったらあかん、負けなはれ。いずれお世話になる身なり。若いもんには花持たせ、
  一歩さがってゆずるのが、円満にいくコツですわ。いつも感謝を忘れずに、どんな時
  でもヘェおおきに。

3.お金の欲を捨てなはれ。なんぼゼニカネあってでも、死んだら持っていけまへん。
  あの人はええ人やった、そないに人から言われるよう、生きてるうちにバラまいて
  山ほど徳を積みなはれ。

4.というのはそれは表向き、ほんまにゼニを離さずに、死ぬまでしっかり持ってなはれ。
  人にケチやといわれても、お金があるから大事にし、みんなベンチャラいうてくれる。
  内証やけんどほんまだっせ。

5.昔のことはみな忘れ、自慢バナシはしなはんな。わしらの時代はもう過ぎた。
  なんぼ頑張り力んでも、体がいうことききまへん。あんたはえらいわしゃあかん、
  そんな気持ちでおりなはれ。

6.わが子に孫に世間さま、どなたからでも慕われる、ええ年寄りになりなはれ。
  ボケたらあかんそのために、頭の洗濯生きがいに、何か一つ趣味持ってせいぜい
  長生きしなはれや。

   あづま路発刊50周年を祝し、何か参考になればと思い記しました。
                                               以上








































H17年10月 介護老人施設等の利用料が変わる
                                      鈴木 博  
  私の母は、いま89才です。この5月から江戸川区内の「特養」(住民票も此処に移し、生涯に亘って入居可能の施設、有料老人ホームとは違う)に入居中です。
  H12.4月介護保険制度が発足し、その後、何度か経験則に基ずき見直しがなされましたが、この10月に、また改訂されることが決っております。
これは同じ要介護でも施設入居者に比べ在宅介護者のほうが費用負担が重いという不公平をなくすという理由からです。
  在宅の場合  自己負担(月額) 約 10.4万円(全国平均)
           内訳は   食費   約3.1万円
                  居住費   5.2万円(光熱水費用を含む)
                  介護保険 2.1万円(1割負担)
  施設の場合 自己負担(月額)    5.6万円
           内訳は   食材料費  2.6万円
                  介護保険  3.0万円(1割負担)
  これがバランスをとるために在宅負担を減らすのではなく、施設入居者の負担分を上げることで不均衡を是正するというのが骨子です。
  これにより、私どもの負担は月11万円(個室料5.4万円を含む)から14〜5万円に変ります。この施設は本年5月に完成、入居者48名が全員個室です。一方で本人は毎月介護保険料を支払っております。

  さて、私たちの所得課税対象からは「配偶者特別控除」がなくなり、医療保健の自己負担割合は変らず、さらには「給与所得控除」や「配偶者控除」、「特定扶養控除」などの各種控除の見直し(ではなく廃止の方向)が政府税調から提言されている。
  行政は高齢者や勤労者(サラリーマン)という弱者に、より大きい負担を強いているように重く感じています。
   とは言え、父はH12.4月介護保険法の発足時から、そして母も、この法の恩恵にあずかり、私ども兄弟夫婦はこのお蔭で、精神的に、肉体的にどれほどの負担が軽減されて来たか。またこれからも………
私たち家族にとって、介護保険は、さまさまです !
                                           以上


































29回の外国旅行と我が人生(続)  
                              中本 保子
  去る四月の例会には、35名の会員の方々、私の拙い話をお聞き下さって有難うごさいました。小川日出夫様、栗原弘様には準備等他、大そうお世話になり感謝しております。

  ふり返って見ますと、至るところ説明不足の上、時間の関係で「まとめ」も省いてしまいました。誌面をお借りして補足させて頂きます。

29回の外国旅行でトラブルが数回ありました。

1. 平成七年のスリランカ。「解放の虎」と称するタミル人の暴動で、コロンボ宿泊がペントータに変更。空港は厳戒態勢で政府の車に武装警察官が付き、空港の外に運ばれて旅行社のバスに乗り換え。イギリスの統治時代に優遇されたタミル人が独立後、多数派のシンハリ人による政権に不満を持ち、暴動をくり返していると聞いた。

2. 平成六年のエジプト。デンデラ宿泊がアレキサンドリアに変更。終始、警察の先導車が付添う。 ハトシェプト神殿で日本人観光客が十数人射殺された事件は、二年後の事。

3 平成九年パミールを越える旅。ペシャワールからアフガニスタン国境のカイバル峠まで二人の兵隊が我々のバスに同乗してくれた。タリバンに征服された時である。国境近くの膨大な難民スラムが思い出される。

4. 平成十年の南アフリカ。アパルトヘイト(黒人隔離)が解除。二十年幽閉されていたマンデラさんが政権について十年ほどの頃。黒人の住宅建設を第一の政策にかかげられたが、まだ黒人スラムは解消せず、ケープタウンの海岸線を埋める。白人の別荘との対比が目に浮ぶ。まだ黒人ガイドも育っていない。南アに暴動はなかったが、アフリカ各地で民族間の内戦が多い遠因は、植民地時代にあると聞く。

5. 平成十四年イスラエル旅行計画は、出発五日前に外務省ストップのため中止。

6. 昨年のカンボジア、ベトナム旅行は鳥インフルエンザの流行の為、参加者激減。

  今日未だテロの危険は世界中に広がっています。娘が独立して経済的ゆとりができた昭和四十八年から、母の介護のための五年間をのぞいて、29回の海外旅行ができたのは幸運です。
  国外に出ると、植民地時代の名残をとどめる国がいっぱいです。例えばパプアニューギニアはドイツ、オランダ、イギリス。ベトナムはフランス。カラコルムの山にかこまれたパキスタン北端のフンザも、ミール王国の頃、イギリス植民地時代があったと聞き、その名残があるのに驚きました。
  日本は植民地支配は受けていませんが、台湾、朝鮮を支配しました。司馬遼太郎さんの台湾紀行の中に、統治がうまく行ったとされる台湾でさえ、霧社事件のような原住民と宗主国の警察との間に摩擦が発生し、たくさんの犠牲も出る。要するに原住民の尊厳を傷つける植民地支配はいけないと言われています。私たちは朝鮮の方たちの尊厳を傷つけたことも多々ありましょう。平成九年の北京は香港返還で喜びにあふれておりました。
  福祉元年と言われた昭和四十八年に福祉先進国の北欧三国を訪ねました。収入の50%をこえる税金、消費税も高率の国が安定した社会を築き、満足している人々の姿を見ました。低収入の人々の為に住宅政策が大切なことも学びました。
  毎朝六時十五分から十分ほどのワールドレポート(NHKラジオ第一)の放送は海外に駐在するジャーナリストや、その国に在住されているレポーターの方々のお話で、私の外国旅行と連動しますと一層旅の思い出がふくらみ、人生の喜びも増します。

  前理事長横山氏の御逝去、心よりお悔やみ申し上げます。
本当にお世話になりました。


















































高野山から熊野古道へ  
                        小川日出夫
  前から一度行ってみたい所が熊野でした。丁度SKKの旅行で高野山・熊野の企画があって、渡りに舟でありました。白浜温泉と勝浦温泉に泊り、盛り沢山の内容はスケジュールが一寸きついものの楽しそうなものでした。
  高野山には二年前、四国巡礼のお札参りで参拝して以来でしたが、何回来ても癒され所です。奥の院に至る両側の20万基を越す墓碑は、親鸞・法然から信長・光秀・初代団十郎にいたる巾の広さで、このことは誰でも受入れる弘法大師空海の思想なのでしょう。
  空海が高野山に場所を決めたのは、彼が30才までの修行中、山野を巡っていた頃見つけたのかも知れません。約1190年前に開創し、現在に至る高野山を旅することは、果てしない旅を続けている空海にめぐり合える様なことでもあります。
  古来、紀伊の人々は骨のぼりといって、亡くなった人の骨を高野山に撒いたそうで、その後熊野にお参りしたそうです。
  高野龍神スカイラインを通って、白浜温泉に着いたのは夕方で、思ってたより鄙びた所でした。塩味の温泉に入り、我々だけの宴席で大いに盛り上がった後で、更に部屋で二次会があり、空海・最澄の話も出て格調高く締めた夜でした。

  二日目も晴天で、白浜周辺を巡り潮岬で昼食後、熊野古道を目指しました。
  大門坂より入った参道は趣きのある坂道で、樹齢800年の夫婦杉を見たりして那智の大滝に着きました。 TVで見てたそれとは違い素晴らしい大滝で、那智大社の御神体であることが良く分りました。
  奈良の吉野山から熊野まで大峰奥駈道で170Kで、その昔役小角を始祖とする修験者たちのルートの一つでもあったのでしょう。那智の火祭りの準備で階段の手すりが外されてる所を467段上って、青岸渡寺・熊野那智大社にお参りして勝浦温泉に向いました。
  ホテルは随分大規模で、客も多くて賑やかな所でした。風呂が6ヶ所あり、その中で洞窟風呂は海に面して仲々のものでした。

  三日目は朝から雨で、その中を熊野速玉大社に行きましたが、朱色の柱が美しく雨に映えてました。 険しい山道を進む内に瀞峡に着き、ウオータージェット船でで瀞峡めぐりをしました。
  昼食を含めて2時間すごし、益々雨が降りしきる中、熊野本宮大社は煙るようで墨絵の様でした。
  関西空港で打上げパーテイ。天候不順で昨年秋鳥取空港でえらい目に会ったことを思い出すも、最終便で無事羽田に向ったのでありました。
│ 
 本旅行は平成17年7月7日〜9日実施               以上













































 日本外交史36巻 「終戦より講和まで」を読んで  
                                    釜谷 新治
「日本外交史」とは
  財団法人鹿島平和研究所の明治百年記念事業として企画され全33巻、別巻5巻に編纂されており前編13巻までは、幕末開国より明治時代を経て、大正中期のワシントン会議に至る期間を、また後編14巻から32巻までは、大正末期から昭和の激動期を経て、戦後の概ね昭和45年に至る期間を取扱っている。
  第26巻は、連合軍の6年8ヶ月におよぶ占領管理の期間で、原則として日本に外交権はなく連合軍が、直接軍政を施かず、日本政府を通じ間接管理を行なった期間である。

第26巻に記述されている主要項目
 1.終戦措置
    ポツダム宣言受諾直後における連合国との交渉停戦の大命8月16日4
    時
    終戦直後のわが方連絡機構
    連合軍の進駐
    降伏文書の調印
    直接軍政、軍事裁判、軍票使用の阻止(南朝鮮に直接軍政の施行)
    戦犯容疑者の逮捕
    在外公館との連絡
    外交機能の停止
    在外外交官の引揚
    アジア諸地域と終戦
    在外軍隊の復員
 2.連合国の日本占領及び管理の基本方針
    占領及び管理の基本としてのポツダム宣言
    ポツダム宣言実施の為の基本文書
    占領及び管理の基本方針
 3.統治権の制限
    間接的管理 最高司令官の指示により国内行政事項を処理
    外交機能の停止 ドイツの場合の統治権は英・米・佛・ソにあり
    統治権の地域的制限 ポツダム宣言第8項
 4.日本管理の機構と方式
    管理機構 極東委員会−米国政府−連合国最高司令官−日本政府
    管理方式 間接管理
 5.連合国の占領及び管理下の政府連絡機構 終戦連絡事務局
 6.連合国の占領及び管理下における外交
 7.国際情勢と占領及び管理政策の転換 米・ソの対立等
 8.政治関係管理政策
    非軍事化−軍国主義体制の否定
    民主主義的政治体制の確立
    政治関係管理政策の講和後の日本外交の実施に制度上に及ぼした影
    響
    天皇の地位の変化、外交に関する国会内閣の権限の変化
  9.社会関係管理政策
    教育関係 教育基本法の制定、教育内容等の変更
    宗教・言論報道等 宗教・国家の分離、軍国主義の排除、言論報道の自
    由
    社会制度 華族家族制度の廃止、社会保障医療、児童保護、婦人の解放
    労働関係 労働三法の制定、公務員の一部法の制限
10.経済関係管理政策
    財政金融 軍票の不使用、戦時利得税と財産税の創設、均衡予算と自立
    化
    民間外資 外資導入のための受入体制
    貿易管理 政府貿易−制限付民間貿易再開
    財閥の解体・独占禁止法の制定 過度経済力集中排除
    農地改革 自作農創設
    賠償
    対日援助 ガリオア、エロア基金
 
 ◎ 第26巻で特に関心を持った事項
 1.天皇制の維持
    マッカーサー会見 間接統治
    イタリヤ(英米管理)国王ポルトガル亡命
    ドイツ(米英佛ソ管理)地域分割直接管理
    朝鮮南北朝鮮に分断
 2.国旗の使用
    1949(昭和24年)マ元帥許可
 3.停戦大命の伝達
    満州 竹田宮恒徳王
    支那 朝香宮鳩彦王
    南方 閑院宮春仁王
 4.教育基本法の制定
      連合国総司令部の指令に基づくものではなく、田中耕太郎文相の発意
   による教育法という見地からみて直接憲法につながりのある基本的な問
   題に ついてのみ必要な規定を設けることを建前とした。
      この立案は、教育刷新委員会の第一特別委員会における慎重な審議
   を経、占領下のこととて総司令部の承認を得て行われた。両院は1948
   年7月教育勅語の失効に関する決議を採択した。
 5.1945年12月15日「政府による国家神道(神社神道)の保護、支援、
   保全、監督及び弘布の禁止」に関する覚書(所謂神道指令)が発せられた
   。
   靖国神社等もひとしく宗教法人とされた。
   これは英米伊等の国が公共宗教は信教の平等から除いているのでその不合理
   を免れない。
 6.防衛力の保持について
     日本管理に関するアメリカの政策は、他の極東委員会の構成メンバー
   たる諸国の必ずしも支持するところでないことは勿論で、ことにソ連がこれ
   に反対であった。1950年1月にはいってソ連が極東委員会や対日理事
   会での審議を拒否して以来その機能を停止し、これに伴い従来の連合国
   による対日管理はアメリカの単独管理の様相を呈することになった。これ
   に拍車をかけたのは朝鮮戦争の勃発(1950年6月25日)であった。 こ
   れが為新たに警察予備隊の創設と海上保安庁の増員であり連合国の日
   本管理は、日本の民主主義的政治体制の確立という基本方針は堅持しな
   がら国際情勢の急激な変化に伴い、占領当初の方針に重大な修正を加え
   、日本の自主自立を促進し、進んで日本を極東における反共対策の防壁
   としょうとするに至った。
 7.家族制度の廃止
    我国の家の制度は、封建制度と密接に結びついた家族制度で戸主によ
   って統率され戸主が長男により継承される制度であったが、憲法24条に
   より廃止された。辛うじて親族の範囲、親族の扶養等につきこの美風が維
   持されるに留った。
                                              以上























































紀の国 木の国 熊野古道の大楠に出会って
                                 大橋 春男
  旅行初日の高野山めぐりに続く二日目は、白浜温泉から白浜泉都めぐりで有名な海岸の千畳敷や三段壁などの絶景などに感動し、午前のコースを終えました。昼食後は潮岬の遠景をたのしみ、有名なミカン、モモなどの果樹園の道を抜けて目的の熊野古道へとバスは向ったのです。山道は次第に険しく、スギ、ヒノキなどの見事な美林を蛇行しながら終点に到着でした。

  わずかの休憩の後、一同はいよいよ「熊野古道」の登り口に勢ぞろいです。
  古来からこの地は紀伊山脈によって、遠からぬ奈良や京都といった「都」からも関係を絶たれていた山奥で、熊野とは「」つまり辺境の地、奥まった場所という意味があったのです。近代になっても交通の不便のために開発からまぬかれたのでしょう。昔からこの地に入るには多くの峻険なかなりの「古道」があり、そのままいまでも現存されて、このたびその殆どが「世界遺産」となった訳です。 まさにここは山、滝、岩、大樹、といたるところに神が宿っている自然信仰の地だったのです。
  また、この地は日本古来の山そのものを崇める山岳信仰の修験道の聖地でもあるので、本来ならば徒歩でかなりの日数をかけて歩くべき神の道ですが、例によってバス道が整備され、われらの旅も「古道の旅」とはいいながら、実は観光バスによる数時間の「今様熊野早駆け」だったのです。
  写真などで見た古道は苔むした石畳で、草鞋でなければ歩けないのでは、と危惧していたのですが、石組みのがっちりした道でした。山の斜面を切り開き、大きな石を組み揃えた段々です。前日の高野山の山道とは異なり、やや手を入れすぎたかと気になる石組みです。手をいれたのなら、より“古道”らしさを残すべきだったのではないか、などかすかな気掛かりが残ったものの、登りはじめると間もなく道も狭まり、一段一段と「古道」が蘇りました。
  一同は古道の入り口に用意された杖をたよりに坂を登っていきます。突然ガイド嬢から“この左の家は明治の終りごろ活躍した生物学者で民族学者の有名な地元のさんのお使いになっていたおうちです”との説明がありました。熊野ならばいずこかで熊楠先生のなにものかには会えるか、と予想はしていたもののあまりの突然さに驚きました。あのヨーロッパを中心に博物学で活躍した大学者の研究室のひとつが、熊野古道の登り口に今でも鎮まっていたのです。

  5分程のぼると古道はだいぶ狭くなり、苔むした無造作な道になったあたりに、石段にはみ出して巨大な大樹が一本聳えていました。幹は大分古びて痛んではいるものの、残っている樹皮は確かにクスノキです。樹高15メートル以上、幹の径2メートル。幹の太さなどから推定すると樹齢7〜800年程度の巨木です。熊野で初めて会う大楠です。息をのみ両手をまわすとそんな筈もないのに、生き物の鼓動が聞こえそうな感じです。下から登ってくる同行一同の通行の邪魔になるので、残念ながら大楠から別れて石段を上り始めましたが、未練がましく二度三度と振りかえるざまでした。

  古道はさらに上へ奥へと続くのですが、程なくの滝で有名な那智神社に到りました。私たちは古道からはずれて、境内にはいりますと、数日後の那智の火祭りの準備とかでかなりざわついていました。ハッとして奥を見ると、なんと雄大な滝です。途端に茫然です。気づくと私は滝を遥拝していました。実はこの神社の祭神は「那智の滝」そのものだったのです。高さ133米、滝の落ち口の岩で水は三本に分かれて落ち「三筋の滝」の別名があるとのこと。滝壷は豪快な飛沫で霞んでいます。まさに神の化身でした。
  このように自然そのもの、たとえば小さな形のよい小山や異様な岩、そして大きな樹そのものなどが祭神となっている神社は、日本にはかなりあるのです。古い神道時代からの名残りでしょうが、日本の神社の祭神は、すべてが神様、偉人だけではないのです。自然そのものもが偉大なる存在として神に祀られていたのです。まさにわが国が世界に誇る多神教、八百万神です。大自然のもろもろもが神として祀られる、日本ならではの宗教です。いや宗教というよりは、むしろ日本の古代習俗と申すべきでしょうか。

  この滝の音に耳をすましながら、古道のクスノキのことを思い出しました。
  現在活躍中の民俗学者、谷川健一がその著書に書いていたことです。「南方熊楠の父親が、紀州の藤代王子社の大楠をお参りするたびに、えも言えぬ感情を覚え、自分の子に『熊楠』という名をつけた」とのことでした。
  また、南方熊楠自身もこの楠について、次のように書いております。「紀伊の藤代王子社のほとりに、むかし、楠神と名づける古い楠の大樹があり、子供が生まれると郡内の人々はこの神様に参拝して、楠の一字を名に付ける風習があって、熊楠という名前などは何百人あるかもしれないほど多かった。自分の兄弟たちも9人のうち6人までは楠の字を自分の名の下に付けた。さらに、私は楠の樹を見るごとに口にいうべからざる特殊の感じを発する。また、この楠が自分の先祖であるとも周辺の人々には言っていた」
  千年を超えた老樹に対して、私たちもしばしば木の神が存在するかのような気配を感ずることがありますが、熊楠は楠の木の精が自分の中に入っている、と感じたのでしょう。

  いままでクスノキ(植物学における正式表記)の漢字には=楠=の字を使ってきましたが、作家白洲正子によれば「この木の名は樟と書くのが正しく、普通は楠と書くことが多いが誤りで、『真品は日本には産せず』と書いており、この木が比較的に南の暖かいところに自生しているので、そのような誤用が生じたのであろう」と書いています。しかし、一般には楠の字を当てているのが多いのですが、このノートでは植物学表記に従って私の記述の部分だけは「クスノキ」とカタカナ表記にいたします。
  白洲は「木」という自著で「何といっても人目を驚かすのは伊勢から熊野へかけ点在する大樟であろう。ほとんど神社仏閣に注連縄をはって祀られているが、そのような樟に接するとき、私は歴史の重さを感じずにはいられない。それらの古木は神武天皇の東征も伊勢神宮の発生も上皇たちの熊野御幸も黙って見つづけて来たに違いない。その偉大なる沈黙の姿には人間を圧倒するものがあり、私を戦慄させずにはおかない」と書いています。
  この木の名の由来には多くの説があり、樟脳の素の木だけに香りが強いことから、(香す)クス (薫す)クス (薬木)クスノキ (奇木)クスシキ などが使われています。
  中国では樟の字をあてて楠はつかわないそうです。材は色つやがよく虫の害にも耐えるので、建築、船材、家具、彫刻などに使われてきました。飛鳥時代の仏像や、古代の遺跡からでてくる丸木舟の多くはクスノキ材が多いのです。

  「日本書紀」=神代上=(720年)にもクスノキが登場しておりました。
“スサノオノミコトの息子のイタケルノミコトが天降る時、スサノオは多くの木の種を息子に持たせた。イタケルは筑紫(九州)から種を播きはじめ大八洲の国の全部に木の種を播き、すべての国土を青山にした。”
  さらにわが子の治める国に舟がなければ、さぞ不便だろうと考えたスサノオは、その場で自分の髭を抜いて放つとスギの木になり、胸の毛を抜いて放つとヒノキになった。尻の毛はマキの木となり、眉の毛はクスノキとなった。さらに、スサノオはそれぞれの木の用途も決めた。「スギとクスノキ、この二つは船をつくるのによい。ヒノキは宮殿をつくれ。マキでは民の棺桶をつくる。その為には沢山の山に木の種子を多く播け!」と、息子に命じたという。
  この種播きの結果、現在の日本は国土の68%を樹木で覆われているのです。世界のトップクラスの森林率です。「木の国−日本」は神代の時代からその建国方針が、神話の中にも記録として残されていたのです。単なる伝説ではなかった。
  スサノオの話を荒唐無稽、デタラメ、無価値と思われるでしょうか。実はこの神話の中にこそ、古代の日本人の宗教、哲学、道徳、風俗や習慣などの影が見事に写しだされているではないか。そして、こうした神話が、この民族の世界観、人生観、その知性と徳性とを探ることのできる貴重な資料だ、とも言えるのでしょう。
  事実、ヒノキは伊勢神宮の20年に一度の式年遷宮の建築用材として、いまでも木曽の山から運びだされておりますし、太古の遺跡などから発見される丸木舟の多くが殆どこのクスノキでしょう。
  丸木舟になるクスノキは当然、海水にも強い。その典型が厳島神社の海に立つ朱塗りのクスノキの大鳥居です。華麗そのもので、日本三景の一つの安芸の宮島のシンボルになっています。自然木そのままの鳥居が、島全体の御神体を守っているのです。

  また熊野那智神社をふくめこの地の熊野三社の御札には、三本足の烏による烏文字が記されています。三本足のカラスとは神武天皇御東征のとき、熊野から大和に入る険路の先導となった大烏です。「八咫烏」ヤタガラス と呼ばれていました。話は飛びますが、この三本足の烏は現在でも日本サッカー協会のマークになり、多くのサッカーフアンに親しまれております。民俗学的にも三本足のカラスとは多くの意味のある存在ですが、財団法人「日本野鳥の会」会員の小生としてもこの三本足のカラスには大いなる関心をもっています。

  古道の大きなクスノキから受けた神の気配から、日本書紀、厳島神社の鳥居、八咫烏まで話題が広がりましたが、事実、あの古道を登り、クスノキの霊気にふれると、自分も古代人になったようでした。SKKの旅行会は早駆けとはいえ、日本の古代にふれる心の旅なのかもしれません。また、いつの日か,ご先祖様たちに会える旅に出たいものです。
                                         以上





























































       亡き母への挽歌             門脇 弘
慈母観音の如き母 学生時代は毎日手紙を
  東京帝国大学医学部付属看護科二十四期生ということで『東大新報』の平成四年十一月四日付「済南病院での懐かしき日々」も書かせて戴いた母菊代(九八)は、平成七年の四月二十日夕刻六時二十分、この世の行を終えて霊界に旅立った。それまで、との誤診、買出しの大豆二斗を背負ったまま、足を滑らせて氷のでの宙吊りほか、多くの死線を突破してきたが交通事故に遭い、それが寿命を縮める引き金になったと思う。
  長野市緑町松田屋魚店の店先で魚を見ていた時、わき見運転のバイクにはねられ老川外科に運ばれたが半日で意識が戻り、歩いて帰宅したものの十年後に歩行不自由となり、二十年後にはトイレにもってゆくようになった。しかし正規の断食や西式健康法を実践してからは風邪一つ引かず、全くけずに昔の友人の名や地名、時代感覚も青年よりはっきりしていた。新聞は社説まで読み、「細川首相の侵略発言は勉強不足だし、防大生を恥辱と言ったり離婚を奨めたり外国で日本の悪口を言ったりする大江は人非人だ」とも言った。そして『窓(第六部)』には「来し方を顧みて日本の繁栄を願う」と題する自叙伝も書いた。
  私達二人兄弟を(弟尚平・東大新報に手相記事を連載中)ともども慈母観音の如くになり育ててくれたが、私は幼児より虚弱で喘息のため五年も休学し私の看護は並大抵ではなかったと思う。だが私も西式健康法を励行して健康体となり、日産生命に入社して三十二年十ヵ月、唯の一度も遅刻せずに精勤した。経済的、精神的、肉体的に何度か死と直面し、神と先祖の加護によりすべてパスして来たが、それだけに母が何時死んでも心残りなきよう全力を注いできた。大学四年間は毎日長野宅の母親に手紙を書いたし、母からも三日毎に返事が来た。沖縄、台湾、韓国、北京、タイ、シンガポール、ハワイ、アメリカやブラジル等まで国内、海外の旅行には必ず母を連れて行ったし、『東大新報』から夜十一時頃、掲載紙ができているとの電話を貰うと私はパトカー並みに取りに行き母に読ませた。歩行困難となってからは車椅子でタクシーや電車に乗せ、長野宅、九段の桜、新宿御苑や井の頭公園などに月に二度位の割合で連れて行った。母は「お前を育てるには並々ならぬ苦労をしたが、もうお前からその何倍も返して貰った。何時死んでも悔いはない」と涙ぐんだ。
通常、盥回しは悪い意味に使われるが弟宅にいた母を無理に私宅に連れて来て死亡の日まで三年程一緒に暮らした。私の子どもも朝晩と外出・帰宅時には真っ先に母に挨拶をし、おかずも一番形のよい物をまず母に出した。貧しくはあってもこの点で母は最も幸福だったと思う。
  十年前脳出血で臨死体験をした母は「美しい花が咲き乱れて言葉には言い尽くせぬ楽園だった。今度倒れたら生かそうとはしないでくれ」とも言い、死の三日前「三十人位の若者が丁寧に挨拶しに来た。偉そうなひげの男もうやうやしく挨拶した」と言った。
  四月二十日には弟が私宅にやって来て母や私と歓談し、二時出発。三時に東大教授令嬢嫁ぎ先の豊倉康夫博士夫妻を取材。五時三十分帰宅。母は「随分待ったよ」と言って濃い柿茶を飲み、「急ぐ原稿があるから三階に行くよ」というと「そうするがいい。私も夕食まで少し眠る」と言い、胸騒ぎがして六時二十分、降りると血の気がなく、脈を一つ打って永眠となった。渡辺正博士と弟がすぐ駆けつけてくれ、父や長男の時と同じように死後硬直は全くなかった。「元気で歩けるようになり、南十字星をもう一度見たい」と言った母は、今すべての束縛から解放されて世界を縦横無尽に飛び回っているのかも知れない。
(エッセイ集「窓」第13集 明窓出版編集部 編 より)















































    定例懇話会の資料の訂正とお詫び 
                           玉村 義孝
  7月22日の定例懇話会での小生の拙いスピーチの中で、1ページでの「この文字を読めますか」の中で「弓巾 」(一字で弓偏に巾)の読み方を「ユズハ」と書いてしまいました。
  これは間違いで、正しい読み方は「ユハズ」と読みます。大変申し訳なく思っております。お詫びして訂正させていただきます。
  なお小生スピーチ資料7ページの「難読・難解な姓氏」の33「弓巾 」・「ユハズ」と正しく書いてありますのでご参照下さい。
   間違いの訂正ついでに「弓巾 」についての説明を加えておきます。
「弓巾」 は弓の弦をかけておくところ。普通は弓弭、弓筈等の文字を当てていますが「弓巾」の字もあり、中国でもわずかに生きている漢字であります。
  この言葉も「万葉集」や「日本書紀」にもみえ「吾が爪は御弓の弓波受(ユハズ)」などとあり、誠に古い言葉であり姓でもあります。

  苗字や地名の9割はやまとことばで、漢字で書けば大和言葉または和語などと書き、固有の日本語のことであります。
  豊かな自然とすばらしい四季の変化のなかで人々の纏綿たる情緒が育てた苗字や地名は心の財産として大切にしていくべきであります。

 本居宣長が
    「敷島のやまと心を人問はば
              朝日ににほふ山ざくらばな」
と歌われました。将にやまと言葉はやまと心そのものと言えると思います。
  昨今の市町村合併にともなう新しい地名は、人々の心や豊かな自然や四季を無視しており、大きな疑問と怒りさえ覚えています。SKKの先輩の皆様どうお考えでしょうか。
                                      以上
















































     50号編集後記          林 寅三郎
  『あづま路』第50号発刊、。心からお祝い申し上げます
 御投稿いただきました皆様、本当に有難うございました。 このたびは紙面の都合もありイラストを省略しましたが、特に充実した「あづま路」を発行出来ました。厚く御礼申し上げます。
  関口利夫氏の「SKKのあしあと−4」によりますと、SKKは当初『SKKニュ ース』という会誌を平成1年7月8日に創刊し12号まで続けた後、平成5年4月28日SKK友の会総会で『あづま路』と改称されたのです。
  この会誌の名前は、SKKが創始者東氏指導のもと、紆余曲折を繰り返しながら歩んで来たことから命名されものです。
  ここに改めて、歴代の理事長の御指導のもと、会員の皆様から戴きました絶大な御支援御協力に対し深く感謝申し上げますと共に、今後とも倍旧の御指導御支援を賜わりますようお願い申し上げます。

  次に<会員の移動>にありましたように、横山 登氏が逝去されました。
            謹んでお悔やみ申し上げ、心から御冥福をお祈りいたします。
  横山氏とは自衛隊勤務中、福岡県久留米市の陸上自衛隊幹部候補生学校で私が副校長、横山氏が校長という立場で初めてお会いしたのですが、それ以来公私にわたり御指導御鞭撻をいただき、自衛隊退官後も私が SKKへ入るのを導いて下さったのです。
 まことに円満で微笑みを忘れず、敵を作らない人でした。またアイディアに富み、いろいろ着想を示されますが、一度決したら意思を変えることのない信念の人でもありました。
  芸術にも関心があり、自分の論文のイラストは自分でつくられました。 声は明るく、歯切れも良く、電話などでそのお声を聞くと元気付くと皆から言われていました。
崇拝する大先輩の御逝去、まことに痛恨の極みです。

  先日、一寸した不注意で顔に怪我をしました。
当日朝から、史跡の探訪ということで、鎌倉市内の寺院・古跡等数箇所を歩いて回りました。夕刻軽い疲れを感じながら家路につきました。家の戸が見え、帰ったなと思った瞬間、階段を踏み外し倒れて顔面をコンクリートに叩きつけていました。額に瘤ができ、目の周りに隈ができました。大事には到りませんでしたが、体の老朽化を感じるとともに、踏み外した足は昨年手術をして歩くのに一寸重みを感じていることも思い出しました。

『 転ばぬ先の杖 』と言う言葉があります。その意味は、 「つまずいて転ばないよう、あらかじめ杖をつくっておくこと。 転んでからでは間に合わない。転ぶ前に用心して杖を突け」

  私のような体の老朽化した高齢者は、杖は持たないで行動する場合、十分気を付けて行動するよう、そしてまた一寸した不注意が大きな事故を招くことを身をもって体験いたしました。

  SKKの会員には、喜寿、傘寿の祝いを終えられた高齢者の方が沢山いらっしゃいます。時にこの言葉を思い出し、健康管理に努め御自愛下さいますようお願いいたします。


  次は来年1月の発行を予定しています。(原稿〆切予定12月15日)
皆様の積極的な御投稿並びに「あづま路」および「SKK」についての忌憚のない御意見をお待ちしております。






































   

あづま路 49号  平成17年6月
戦後六十年 タブーの精算  大賀 龍吉
昭和天皇と 雑草 大橋 春男
恩師.西勝造 先生を想う 門脇 弘
「中本保子さん講演会」後記  小川日出夫




































戦後六十年 タブーの精算
                                   大賀 龍吉
 三月二十五日(金)軍事評論家郷田豊先生による特別講演会が行われ、出席者に
多大の感銘を与えた。
先ず横山理事長より挨拶。終戦六十年、日露戦争百周年に当る今年。日本を再生 するためには戦後六十年のタブーを直視して清算せねばならないが、特にその中の日中関係につき日本屈指の専門家である郷田先生にずばりメスを入れたお話をと述べ。次いで紹介者の大賀から講師および特別ゲストの畠奈津子女史の御経歴と現在の御仕事を紹介した。
 郷田先生は陸幼を経て陸士に在校中に終戦、戦後航空自衛隊入隊。ドイツ指揮参謀大学卒業、空将補で退官。現在日本クラウゼウイッツ学会会長、アジア友好協力センター代表、国策研究会顧問等々深い戦略面の学識をもとに幅広く御活動中であり、特に日中関係については、ここ数年間に十七・八回訪中し中国の党・軍・政界の要路と忌憚ない討論を重ねて来られた。又多くの著書・講演を通じて日本再生の問題点と今後の進路について精力的な活動をされている。
 又百人斬訴訟を支援する会において先生の知遇を得た畠奈津子女史が偶々福井から横須賀へ来ておられ、特別ゲストとして御家族と共に出席されたので、若干時間割いて御話を伺うこととした。畠女史は若い独身女性だが、既に「チベットの悲劇」「拉致の悲劇」を、更に昨年「百人斬裁判を斬る」を出版された憂国の漫画家で、日露戦争百周年に当り今年は「東郷大将と乃木大将」の出版を準備中である。又昨 年から月間新聞「郷守人(キモンドー)」を発行し日本再生のために七面八臂の活動をしておられる。三年前記者に「二十四才の若さで国家を語ることに気後れはないですか」と問われて、「国の将来を考えどう行動するかを語るのは、日本人として当然です」と力強く答えられたと言う。
 先ず郷田講師より世界の三極たる日・米・欧は中国に対して長期的な展望がなく、日中間には五十年間本音の交流がなかったと述べ、
   更に (一)異常な中国 
       (二)異常な日本
       (三)三つのタブーの清算に於てその実態と問題点を述べられた。

(一)異常な中国

 1.共産党の一党支配
    憲法と現実との極端な背離。例として国防大学等での体験を示した。
 2.国際的非常識の横行
    政治家、外交官、軍人に共通。例として公海、領海等の概念がわからな
    い。
   現在のトップは文化大革命の時の学生で勉強していない。
 3.不安定要因の顕在化
    例えば所得格差、石油輸入、水資源、食糧等。

(二)異常な日本

 1.誇りを忘れた政治家
    昭和二十八年社会党堤議員により提案され全国会一致で採択された
   「公務死、 所謂戦犯についての名誉回復」についての国会決議を知らな
   い、又は忘れている議員が甚だ多い。
    この決議によって日本には所謂戦犯はいないのであって、A級戦犯分
    祀論は国会議員として恥ずべきことである。
 2.対中基本姿勢のゆらぎ(三つの錯覚)
   @歴史認識は中国と同じでないと日中友好が成立しないと思い込んでい
    る。
   A靖国問題。中共の結党以来の方針と思い込んでいる。日中友好元軍
    人の会の遠藤元中将が毛沢東に会見した時、毛沢東はむしろ日本
    に感謝すると言った。(即ち漁夫の利を得たこと)責任は中曽根元首相
    である。
   B正しい歴史認識は一つしかないと思っている。民族・国家の数だけある
    の は世界の常識である。
 3.無責任なマスメディア
     特に朝日新聞は裏で暗躍して親中・反米路線をとっている。

(三)三つのタブーの清算
 1.憲法改正
 2.教育基本法改正
 3靖国参拝
   小泉構造改革は物心両面でやるべきである。特に終戦六十年経過し、
  精神面で極度に悪化した敗戦後遺症の回復のためには、三つのタブーの
  直視とこの抜本的清算以外にはあり得ない。就中靖国参拝については、
  昭和二十八年の国会決議に則り粛々と首相が公式参拝し、天皇の御親拝
  を実現せねばならないと述 べた。

  終りに、T.ドイツと日本の戦後処理の違い。
       U.ベトナム戦争後のアメリカ。
       V.日本はアジアの盟主(大東亜会議の理念を生かせ)について
 述べた。

  次いで、畠奈津子女史より無実の罪(朝日・毎日及び本田記者の作り話)
 により、死刑となった野田・向井両少尉の冤罪を晴らす裁判支援について熱
 誠をこめた話があり感動を誘った。
                                         以上









































昭和天皇と雑草     大橋 春男
  昭和天皇が崩御されてから17年になります。
なぜか、いまでも時々、思い出すエピソードがあります。ひょっとすると、この話をご存じの方もおられるかも知りませんので短く記してみます。
  放送局の現役時代(20年前ごろ)の話です。番組の関係から親しくなったある出版社の重役さんの紹介で天皇陛下の侍従さんたちと親しくさせていただき、都内の古いビヤホールで『生を飲む会』に参加させていただきました。土曜日の午後になると、三々五々集まり、生ビールを飲み2時間ほど歓談する会です。侍従さんとともに宮内庁のかたがたも加わりメンバーもふえ、遂には入江侍従長もお出でになり入り口にて当番さんに会費をお払いになり、冗談をいっては一同を笑わせ、美味しそうに生ビールを飲んでおられました。ある時、私からその時のお供のお一人に“ある侍従さんが陛下のお住まいの吹上御所の雑草を刈り取ったら、陛下からいたくお叱りを受けたとの話を聞いたことがありますが、本当ですか、”と伺ってみました。
  “なぜその話に興味を持たれたのですか?”とのこと。“天皇陛下が自然を愛され、特に植物にもお詳しいと聞いていたので、どんな事情があったのか知りたかった、”と答えた。
  そのかたは“陛下から叱られた侍従さんがご自分でその顛末を書いた随筆があるので、コピーをあげましょう”と。数日後、郵便で『侍従物語』と称する侍従さん達の随筆集の部分コピーが送られてきた。かなり詳しく書かれた文なので、要点のみを書いてみます。(この随筆集は昭和60年に市販されたもののようでした)

 《 昭和40年ごろの事。私が侍従を拝命してから間もなくの出来事でした。
 暑かった夏も峠をすぎた9月のはじめ、庭園課から『吹上御所の広芝のお庭の草が繁ったので、那須から陛下のお帰り前に手を入れたい』との申し込みあり。(広芝とは江戸時代からの地名で両陛下のお住まいの御所の前庭一帯の呼び名で、両陛下はこのお庭の草むらで戯れるキジやコジュケイなどの野鳥にいたく関心をもたれていた)私は早速その広芝に行ってみると、そこには名も知らぬ野草の薮で、いたる所に繁茂しているススキは、御所にまで寄り掛かっている状態。両陛下が那須へのお留守中に繁茂したものだろう。早速、係りと相談して雑草を部分的にでも刈り取ってしまおう、と頼んだ。係りは少々変に思っていた様子でもあったが、私は特に気にもかけなかった。
  なにしろ私には『御所』という言葉の印象が、当時強く感じられ、京都御所や桂離宮、修学院離宮などのお庭とは、この吹上御所は比較すべくもない荒れた状態にみえ、むしろ、両陛下のお住まいのお庭ととしては、これでは誠に申し訳けないと考えたわけであった。
 やっと刈り上げも終り、9月中旬、両陛下は那須からお帰りになった。
 ところが、吹上御所からすぐ来るようにとの連絡。陛下からのお召しだという。私はお庭をきれいにしたのでおほめの言葉でもと期待しつつ、まかりでた。
 「どうして庭を刈ったのかね」
 「雑草が生い茂ってまいりましたので、一部お刈りいたしました」
 「雑草という草はない!」
私はとっさに陛下のおっしゃる意味がよくわからなかった。
 「どんな植物でもみな名前があり、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の 一方的な考え方でこれを雑草としてきめつけてはいけない。注意するように」
というようなお叱りを受けた。私はこうべをたれておへやをでた。
なるほど、その後、陛下のお言葉からは雑草ということをお聞きしたことがない。

  学者の本を調べてみた。「雑草とは、作物に対する一群の植物のカテゴリーであって、植物学的、生物学的概念ではない。人間が自分のために栽培し収穫しようとする作物に対して、作物以外のすべての植物や、招かざる客として作物栽培の場に入り込む植物のことを指す。栽培されたもの、という意味からは雑草はナチュラルな存在である」と。
  つまり、陛下にとっては、吹上御所には招かざる客として入り込む植物はあり得ないとおっしゃるのである。吹上の植物はすべて陛下にとっては招いたご愛草であって雑草ではなかったのだ。こよなく自然を愛される陛下にとってはすべての植物がご愛草なのでった 》

  以上が、吹上御所の植物をただの雑草だと思って刈りとってしまった侍従殿が、実はこれらの草たちこそが、陛下にとられてのご愛草だったと知らされた一幕だったのです。
  だいぶ時を経た話ですが、昭和天皇と自然の生物との心のつながりを物語るエピソードとして、私にはいまだに忘れられない素晴らしい話題の一つなのです。
  入江侍従長さんをはじめ、生ビール好きの侍従さんたちも数人が亡くなられました。あらためて哀悼の意を表します。
  さりながら、生き残った者どもの『生の会』は今もほそぼそと続いているのです。
                                   以上





















































      恩師 西田勝造先生を想う  
                          門脇  弘
  SKK定例懇話会でも健康についてお話をさせて戴いたが、西式健康法については今なお曲解誤解が多い。『週間朝日』(平成12年11月5日号)では香川靖雄女子栄養大学副学長が「あ、これは西式健康法ですね。よく知っていますが、科学的な根拠はなく古い健康法ですよ」と発言しているし、林髞慶大教授や杉靖三郎東京教育大学教授も悪口を言っていた。そこで西先生に200回以上もお会いした私は、語り部として本誌の読者に真実の姿をお伝えしたいのだ。

難病を根治できる医聖
  私はNHK出版『日本の創造力』(全15巻。近代・現代を開花させた四百七十人)に西勝造や野口英世など七人の伝記を書かせて戴いたが、西先生こそ予防医学の完成と無薬無刀で難病まで根治できる王道を築いた点でヒポクラテスや扁鵲(へんじゃく)耆婆(ぎば)を超える医聖だと信じて疑わない。この西先生に私達兄弟は親身も及ばぬお世話になった。今も西先生を想う時、「感謝」とか「恩人」などの言葉では到底表現できぬ感情に「西先生はやっぱり神様だったのだ」合掌して涙ぐむ。

すべて知っておられる方
  上京して大学に入学した昭和三十年の六月に西先生は講演会の控室に参上した私と弟の顔をご覧になり「大水の心配のない所にいますか」と聞かれた。結果は下宿の南沢泰一氏宅が大水で床下浸水となり、二日ほど通学ができない事態が発生した。
  大学二年の秋にはお米が買えず、兄弟で純生野菜食を始めた。西先生には黙って始めたのだがすべて知っておられ、十七日目に手紙を戴き、弟と西先生宅に伺うと「毎晩、夜十時過ぎにつっかけ下駄を借り、デコボコ道を大きな籠をさげて八百屋まで野菜を買いに行くのは大変だろう」と言われた。その八百屋だけが夜遅く入荷し、指摘の状況で食糧の野菜を買いに行っていたのである。この時には兄弟とも八日の断食をした時以上にすごく痩せた。「野菜の摂取量が少なかったのでしょうか」と伺うと「量は十分だが、いつかは東横のれん街に行って美味しい物を食べたい、と考えたのがいけない。この野菜が最高の食事だという感謝の気持ちがなかったことと睡眠を三時間位しかとらずに働き過ぎたのが原因です」といわれた。すべて指摘通りの行動や心境だったので驚いた。
  ある天気晴朗なる休日、浅草観音に弟と参拝したが、坊主に飲まれるのは馬鹿らしいとお賽銭をあげずに祈願だけして帰ったことがある。すると西先生はお祈りした言葉の内容まで指摘され、信仰の問題についても教えて下さった。「いいか、女遊びを一度でもしたら学費の援助は即座に打ち切るよ」と言われて毎月、西先生から直接手渡された学費の使徒は切符番号まで克明に記入。卒業直前にその家計簿を持参したら「全部判るから見る必要はない。しかし大きな買物で○と△が付け落ちていますよ」と言われたので帰宅して点検したらそれだけが漏れていたので驚嘆し│た。しかし今考えても不思議なのは西先生からの学費は二倍にも三倍にも使えたことである。
  亡父の先輩で進駐軍にも接収された霊南坂の三階建て中西伸次氏の豪邸を訪ねたのは大学三年の秋であった。同氏は私達兄弟にすごく好意を持ち、「毎月話に来給え」と言われ、人事興信所で身上調査もしたらしく「兄弟揃って千人中の主席だそうだね」とも言い、家宝の茶器まで見せてくれた。中西氏は秀吉を崇拝した駆引きの上手な男で、金子慶治氏(鈴木商店)に直接聞いた話だが、中西氏が屋台店を出していた所を後藤新平伯の馬車がぶつかって屋台を倒したので、苦情をねじこんで後藤伯の書生になった男だという。西先生にこのことを話したら、「違う。馬車が通った瞬間に中西氏が自分から屋台をひっくり返したのだ」と言われた。中西氏は一年後、「一人娘・公子の養子に来てほしい」と弟に言い、「お兄さんは姪と結婚してくれ。教授になるまで面倒をみよう」と長野の母に二度も長文の手紙をくれたので西先生に相談したら、「その話は挫折するから当てにしてはいけない。あなた方ご兄弟も、もうその位のことは判るようになったでしょう」と言われた。そこで私は亡父が鈴木商店勤務時代の上司・瀬戸口又氏が社長をしていた日産生命を、弟は三原桂という父の友人が調達実施本部長をしていた防衛庁を受けた。
  時は過ぎ、中西氏は建設中の東京タワーの土台が大きく見える慈恵医大付属病院の特別室に胃癌で入院。タワーが上に伸び、夕日のシルエットを私達兄弟は見舞いに行って何度見たことだろう。「今からでも西医学をやれば助かるが、やれる環境にはないでしょう」と西先生の言われた通り手術後重態となった頃には中西家では見舞いに行った私達兄弟を会わせず、長崎大卒の甥を強引に養子に入れてしまった。 あれから四十八年。人生には多くの「イフ」があるが、もし弟が福田赳夫首相令嬢と結婚した越知通雄氏の如く中西家の養子となっていたらどんな人生となっていたか、それは神のみが知る事柄に属する。だが「公子」という名前には縁があるようで、現在の弟嫁は「公子」である。

西先生は門脇一家の恩人
  昭和三十四年三月、無事に大学を卒業させて戴き、私は日産生命に入社。生まれて初めてのお初穂一万一千百六十円を、弟は防衛庁事務官として採用され、初めての俸給八千九百円をそっくり持参し、長野の母も呼んで一緒に西先生宅にお礼に参上した。西先生がその後、ハワイに出発される夜、兄弟して羽田国際空港までお見送りに行ったら、「あのお金でこの背広を作ったよ」と言われたのが最後となった。
  後日、京都の朝倉栄士氏に「私は今まで大勢の学生のお世話をしてきたが、門脇兄弟のような実直な男は初めてだ」と西先生は言われたそうである。忠犬ハチ公は主人の上野英三郎東大農学部教授の教授会席上での急逝後、渋谷駅まで十年間、毎日迎えに通い続けたそうだが、私達兄弟も西先生が昭和三十四年十一月二十一日に昇天の翌月から二十一年間、毎月揃って多摩墓地にお参りを続けた。以後中止したのは変節でなくこれ以上の報恩の道を悟ったからである。西先生は門脇一家の恩人であるだけでなく人類の救世主と仰がれる日もそう遠くはあるまい。
                          以上
                         (東大新報「赤門ひろば」より)


























































「中本保子さん講演会」後記 
                             小川日出夫
   以前から中本さんが海外旅行に行かれた後、写真入りの旅行記を作成されて何回か拝見したことがありました。デジタルカメラを操作し、編集までされることも驚きですが、旅行の後何時もきちんと整理されることは、仲々出来ないものです。
  現在、私は定例懇話会を担当している為、会員の皆様から講演して頂く方を決めるのが難しくて苦労して居ります。昨年など土壇場で予定してた方が駄目になり、「手打ちそば教室」や「三河島水再生センター見学」など目先を変えて行ないましたが、面白い企画と言われた反面、SKKは遊びの会ではないとキツイ反応もありました。
  その様な時に中本さんにお願いしたのは昨年の春でした。他に誰も居られなかったらとのことから始まりましたが、中本さんは旅行の整理もそうですが、講演会の準備も細心で実に行き届いたものでした。テーマは中本さんの人生を旅行に重ねて話して頂くことにして、何回もお手紙を頂いたり打合せをしたりで、途中からこの講演会は皆様に喜んで頂けると確信しました。
  中本さんの旅行は32年前からでその行先は世界中に渉り、普通あまり観光客が行かない中央アジア、シルクロード、インド、ネパール、スリランカ、ミャンマー など含まれており、その行動範囲の広さは驚くべきものです。
  これからもお元気で旅行を楽しんで頂きたいと心から思いました。
  懇親会で中本さんから自分自身の整理も出来てとの、逆にお礼を言われ恐縮しました。
  まだ聞き足りない様な所もあり、旅行先のことを又伺いたい思いであります。
 私も中本さんの様に元気で、世界各地の行きたい所に旅をしたいと思った講演会でした。
                                                                               以上















































 


あづま路 48号   平成17年1月25日
アメリカ的民主主義
   日本的民主主義
 
横山  登
SKKのあしあと−9 
         (最終回)
関口 利夫
出雲の旅 小川日出夫
本能に起因する超能力 下田 頴宣
憧れのカリブ海クルーズ
      とオーランドの旅
落合登美雄

                            名前をクリックして下さい








































 アメリカ的民主主義 日本的民主主義  
                               横山 登
 アメリカ大統領選挙が終わったばかりであるが、この選挙は「4年に一度の民主主義講座」と言われているそうである。 新開にはこう評されていた。
 「大統領選挙では、投票、開票の混乱など、はてな? と思う面が多々あるが、それも含めての民主主義の教室なのかもしれない」
 確かにアメリカの大統領選挙には、私達が見ていてもおかしいと思う点がある。中でもはっきりしているのは、得票一位になった候補が、その州に割り当てられた選挙人を全部持っていってしまう「勝者総取」制。更に選挙人の数の各州への割り当てが人口に比例していないことなどがあげられる。
 この選挙人制度の基本は1787年の合衆国憲法で定められた。今から約2O0年前である。近代共和政体をはじめて確立した世界最古の成文憲法だそうだ。そんな時代にできた制度が今もなお生き続けているということに、誇りを持って強訴したいが故に講座の中にあえて、はてな?を残しておいたのかもしれない。
 アメリカはご承知のように、旧大陸を出ていった人達が新たに新天地開拓を目指して寄り集まってできた国である。
 彼等は、勇敢なパイオニアとなって荒れた大地に挑んでいった。アメリカの民主主義とは、このパイオニアによる辺境開拓の歴史、生活のなかから渉み出てきたものの考え方、生活態度である。日本の民主主義が、大戦後マッカーサーの指導強制によってでき上がったのとは訳が違う。
 彼等は適地を求めて定住し、粗末な丸太小屋を作り、鋤、鍬をふるって開拓していった。何か問題が起きれば、隣人同士が集まって協議し解決していく。だがその範囲が広まるにつれて、とても独りでは処理できなくなる。それで自分の代わりに信頼できる代表者をえらんで、その者に全権を委任し協議させるようにした。そのかわり、決定されたことには全面的に服従し協力していく。これがアメリカ民主主義の本領である。
 第一次大戦後、国際連盟を提唱したことで名高いアメリカのウイルソン大統領は次のようにいっている。「民主主義というものは、その国の国民性や歴史、生活より生まれてくるもの、また育てていくものである。決して一朝一夕に作られるものでもなければ、模倣のできるものでもない」だから、国の民族性、歴史、生活環境などが違うように、民主主義も各国によって当然違ってくる。
 日本にも日本的民主主義があるはずである。日本的民主主義とは。 私はそれを聖徳太子に求めたいと思う。
 太子は律令制度を確立し、法によって国家を治める法治国家の理念を最初に確立した人である。その理念とは「十七条憲法」によって示され、近代まで受け継がれてきた。
 北条氏が武家としてはじめて権力を握ったとき、拠り所としたのは聖徳太子である。「貞永式日」は「十七条憲法」をまねて作られたと言われている。後醍醐天皇の「建武の新政」も太子の理念を理想として措かれた。近代の扉を開いた明治維新にしても 「五か条の御誓文」の原型は「十七条憲法」にあることはご承知の通りである。このようにして、太子の理想、理念は1,4OO年に亘り連綿として近代まで受け継がれてきたのである。
 それでは太子の理想、理念とはつきつめていえば何だろう。一言で言えば『和』の精神である。民主主義の理念であり、平等の理念でもある。 儒教では、「仁」をもって最高の徳とした。しかしトナ七条憲法」では「仁」ではなく、「和Jをもって最高の徳としたのである。あの有名な言葉「和をもって尊し1が第一条で語られ、「十七条憲法」の中心に置かれた。
 太子の「和」は決して対立する二つの意見をこで割るといった安易なものではない。太子は上下に「和」があれば、議論が可能であると考えた。議論が可能であれば、「理」が実現される。「理」が実現されれば、事は必ずうまくいくというのである。太子の説いた「和」の背景には十分に議論を重んじる姿勢がある。
そうした議論がなければ、「和」はいたずらに阿談迎合、妥協に陥ってしまい、民主主義は、′根本から崩れてしまうことになる。
 ある大新聞が 「親が子供に一番大切にしてほしいものは」というアンケートをとった。一番多かった言葉は、意外にも『思いやり』である。二番目がこれは妥当と思われる『健康』であった。以下 3,4,5と9番までつづく。
 『思いやり』の心とは、「和」の基底をなす。聖徳太子によって生みだされた日本的民主主義は、このアンケートに見る通り、知らないうちにもわれわれ日本人の心の中に脈々と脈打っているのである。
(あづま路第41号「和をもって資し」とダブルところがあります。ご了承下さい)





























































  SKKのあしあと ー9(最終回)  
                  関口 利夫
(6)新会則を地で行く第一回講演会

   12年3月28日の公開講演会は、大賀の斡旋により、作家・日本画家の出雲 井晶氏を招聘して、『日本の神話』を聴講した。 会の目的の主要課題に「日 本の歴史・文化・伝統などの…」を盛り込んだ新生SKKの、第1回の講演会に 相応しい講師を得られたことは奇遇といえまいか。聴講者は73名を数えた。

(7)手引書作成不発に終わる

   諸行事が完全に実施され、また担当者の変更があっても、行事が滞りなく行われるためには、手引書が必要との考えから、関口は先ず例会と公開講演会の手引書案を5月9日の理事会に提案したが、検討は中途半端となり、その後も活用されることはなかった。

(8)講演会テーマに関するアンケート実施

   講演会に関する会員の希望を吸い上げるべく、8月4日の理事会において、希望テーマのアンケートを実施することに決定した。対象は在籍会員 100 名。回答締切の10月末日までに 80 名の会員から記名回答が寄せられた。
   <アンケートの結果>
  大項目では、「国際関係」137、「政治」97が多数を占めた。
  小項目では、「IT革命」35、「健康保持」 35 で第一位であった。
  この他に希望数が多かったのは下記のとおりである。
  「憲法・教育基本法」「環境汚染」「教育」「近現代史」「日本史」
              (この集計は、後日全会員に配布された)

  *講演会は、「まずテーマの決定」…会則の目的の主要課題を踏まえた上、 会員の希望も考慮する。
   「次に講師の選定」というのが、基本的には好もしい順序であろう。 最初に講師ありき、では逆である。
   このような考え方からアンケートを実施した訳であるが、たまたま翌13年3月の講演会に、井上の斡旋により(株)富士通元社長山本卓真氏を講師として迎えられたことは幸運であった。(これは上記アンケートの結果とピッタリと符合したものであり、且また会の目的の主要課題2にも合致するものである)

(9)自然.史跡に親しむ会

・5月2日 小石川東京大学植物園
 大橋が林野庁グリーンサークルの講師をしている関係から説明役を担当。
 都会の中のこんな大きな植物園の存在に一同驚いたようである。今回は場所
 柄、真面目に弁当をひろげた、とのことである。参加者25名。
・7月13日 東京江戸博物館・サッポロビール工場見学
 博物館見学後、ビール工場にて製造工程を学ぶ。終了後、工場にて打ち上
 げ。予算超過となる。担当は落合、参加者24名。
・11月16日 府中郷土の森
 人工の森林として有名な地。秋の一日紅葉を楽しみ、帰り道に千年欅を観
 察する。打ち上げは駅ビルの和風レストランで一同懇親メーターを上げた。
 担当は大橋、参加者23名。

(1O)四国旅行

8月13日〜15日催された。長さ3911米の明石海峡大橋を渡って、先ずは徳島の阿波踊りを満喫し、翌日は785段の参道を登って金刀比羅参り、午後はバスで松山城、子規堂の見学を済ませたのち道後温泉に一泊、最終日は、しまなみ海道を経て帰途につく。途中、生口島にある平山郁夫美術館の見学で締めくくった四国旅行は豪華なものであった。担当は落合・長坂、参加者31名。

(11)事務局打合

 10月31日、理事長、副理事長、専務理事、会計担当常務理事の四者会談がもたれた。年度末を控え、細部にわたって本音の意見交換が行われたことは、会運営にとって非常に有効なことであった。また関口は、理事長の考えの徹底がいかに難しいものであるかも、改めて確認したのである。

(12)12年度の例会・行事

  1月28日  総 会                          出席者52名
  4月28日  講話 笠原 修 「ハワイ・ロングステイの日々」      39名
  7月25日  講話 大井幸枝 「武道のこころ」              37名
  11月2O日 講話 工藤とむ 「源氏物語に親しんで」          42名

  笠原は北大(経)卒、朝日生命に入社。札幌ほか数支社の支社長、本社部長等の要職を歴任後、日通商事の役員を長く勤めた。8年1月の入会である。
鈴木博、玉村義孝、中川公道など有力会員を導入した功績は大きい。
工藤は前に少し触れたが、東京女高師(現お茶の水女子大)卒、旧制県立
青森高女および東京の高校にて教鞭を執る。のちに朝日生命に入社、外務教
育部勤務を経て昭和6O年に入会した。茶の湯、ヨガを良くし、源氏物語の研究
は二十数年に及ぶ。
  大井(非会員)は、朝日生命外務教育部の出身。若い時から 「なぎなた」一筋に修行を積み、併せて日本のなぎなた界の組織づくりに努めた。このような功労が認められ、11年秋の叙勲で勲五等瑞宝章を受章した。全日本なぎなた
 連盟の常務理事である。今回は会員扱いで特別招聘された。

(13)12年度の公開講演会

  3月28日 作家・日本画家 出雲井晶
                  「今なぜ 日本神話なのか」    (大賀)73名
  6月28日 アサヒビール名誉顧問中条高徳
                  「時代に学び時代に生きる」    (大賀)68名
  9月26日 政策科学研究所々長 永野芳宣
                「2O年後の日本のかたちを考える」 (飯倉)43名
 ll月3O日 朝日生命体操教室校長・オリンピック金メタリスト塚原光男
                  「果てしなき挑戦」          (川和)48名

(14)12年度末会員数

  11年度よりの継続会員 92名
  12年度の  新入会員 14名  合計 106 名
  12年度未でようやく 106 名に達したが、念顧の 120 名には未だ程遠い
  感じである。事実13年度始の継続会員は 103 名であった。

(15)関口理事長辞任

  就任時の目標達成には未だ道半ばであったが、運営が概ね軌道に乗ったものとの判断と、併せて健康上の理由から、関口は年度末辞意を固めた。
13年1月16日の役員会の了承を得た上、同 24 日の総会において正式に辞任した。後任には副理事長の横山が選任された。

 当初の予定どおり、SKK創立から平成12年までの道程のあらましを記してみた。会員の個々の略歴は、都合上、役員就任者および講話担当者などごく一部の人だけに限ったのでご了承いただきたい。12年度末在籍者は別表に掲げることとした。(割愛)
 なお、記録の不正確、筆者の思い違いなどで、記事に誤りがあったかとも思われるので、発見された節はご教示いただきたい。
 最後に、会に在籍中に鬼籍に入られた方々のご冥福をお祈り申し上げると共に、この間ご協力をいただいた各位に、改めて深甚の謝意を捧げて筆を擱くこととする












































   出雲の旅    小川日出夫
  今年の旅行は参加人員の減少など紆余曲折があり、出発まで幹事が苦労された様です。結局、8名が参加して早朝の羽田空港に集合、米子空港に向いました。
 初日は良い天気で米子空港に到着、8人乗りのレンタカーに乗車し美保神社に行きました。運転は鈴木博さんで松江に勤務されてたこともあり、道に詳しく美味しいお店の情報も多く持ち大変助かりました。美保関灯台を見て、七類港の隕石を展示してあるところを回り、出雲市に行き昼食です。出雲大社のそばにある荒木屋での食事は、出雲そばで四段重ねもの初めて味わいました。
 出雲大社は鈴木さんのネットワークで、千家さん(宮司の縁者)の紹介もあり、庁之舎(チョウノヤ)での説明とお茶を頂きました。若い神官に案内され奥深い本殿で参拝し神酒記念品まで頂戴しました。私は37年前参拝したことがありますが、当時のことは余り記憶になく今回は47メーターの国旗掲揚塔の日の丸に強い印象を持ちました。
 気持の良い天気のなかで日御崎神社から灯台を見て、玉造温泉に到着し早速湯量の豊富な温泉に入りました。夕食後、安来節とどじょうすくいショーに行きましたが、専用会場には各旅館から来たお客さんで盛況、中々面白いものでした。帰路川沿いにある足湯に入って旅館に戻りました。
 二日目の朝は雨です。昨夜遅く温泉に入った時は、満天の星空であったのが、台風の影響でしょうか。雨の中、熊野大社に向う。立派な所で静かな佇まい、参拝客はまばらでした。落合さんの推薦された和紙の資料館に回るも休日で、それでは別な所ということで近くの「八雲立つ風土記の丘資料館」に行きました。丁度、播磨国風土記の企画展がありこ入場したところ、ボランティアでガイド役のおじさんが張切って説明してくれました。 ナビ付ワゴンはフットワーク良く、次の縁結びの八重垣神社に回る。ここも立派な神社で、裏にある池で紙片に硬貨を乗せて早く沈めば良縁のいわれとあり、すでに手遅れの人も試して居りました。
 その後松江市内に戻り、小泉八雲の旧居に赴くが、武家屋敷・松江城とセットにした入場券を売っておりお客さんも多い。旧居は当時の郡長から借りたそうで、思った以上に広く庭も立派で当時の姿が見られました。
 すぐ前が松江城で、船に乗って堀川めぐりをするも、これが中々良くて5O分程楽しめました。良く手入れされた木々を見ながら回り、低い橋の下を通る時は屋根を低くする装置があり、雅びな時間でありました。
 松江城の天守閣を見てから、昼食予定の店に連絡するも休日で、次の足立美術館に向い、途中で食事をすることになった。結局14時すぎ中華食堂で食事の後、私の一番行きたかった所に着く。想像して,た以上に建物は広く立派で、手入れの行き届いた美しい庭園も見るべきポイントがいくつもあり、素晴らしい。収蔵品も横山大観が主体と聞いていたが、他にも一級品のものが沢山あり感心しました。
 皆生温泉に向う途中、由志園の前に止まりパンフレットだけ頂く。ここも庭園と牡丹が有名な所だが、遅くなった為、旅館に向う。夕食は蟹づくしで充分堪能する。風雨が強まり、明日がどうなるかと各々心配しながら休んだのでありました。
 矢張り心配していた通り、朝から風雨が強く台風到来であります。早々に朝食を済ませ白兎海岸を目指して出発です。海沿いをひた走り午前11時には到着するも外には出られず、横目に見ただけで鳥取空港に急ぎました。少しでも早い出発に変更出来るか交渉したら、何と19:5Oから13:1Oになったのです。台風が来る前に帰れる。夕方には帰宅出来ると一同大いに喜んで、空港食堂で解散パーティになりました。所がものの3O分もたたない時アナウンスがあり、羽田からの飛行機が荒天で着陸出来ず、13:1Oはキャンセルになって仕舞ったのです。目の前が暗くなるも、新幹線に変更しに鳥取駅に急行するが、新幹線もストップ。やむなく駅の案内所でホテルを世話してもらい、鳥取に泊る羽目になったのです。
 皆さん大人で旅にはアクシデントは付きものと気をとり直し、ひと休みのあと、台風で風雨が一段強い中、食事に出掛けました。鈴木さん推薦の「匠」はしやぶしやぶを初めて作った店で、一泊余計の分そこで楽しみました。
 翌朝は台風一過で市内見学に行き、玄忠寺では荒木又右衛門の墓・鈴木百拙の襖絵を見て、鳥取砂丘に回り馬車に乗ったりした後、昼食を済ませ空港に行きました。
出発するまで2回目の解散パーティを行なったあと、16:5Oの飛行機で羽田に向ったのでありました。    以上





























  本能に起因する超能力について 
                         下田 頴宣
 貴方は大変な超能力を持っておられますよ、と言われると、多くの人は、えっ!本当ですか……と疑い、持っていることを自覚している方はあまりないようです。私は心理学者ではありませんから学問的なことに関しては専門の方にお任せするとして、経験したこと或いは知ったこと等で本能に起因する超能力と思われる事に就いて申し上げたいと存じます。
 何方でもご存知のように、動物は皆本能を持っております。私は植物にもあるのではないかと思っておりますが、動物の本能の力は時として驚異的な力を発揮することがあります。例えば、山火事が起こる時に、その山に住んでいる動物達は本能的に危険を察知して火事が起こる前に全部他の場所に移動するそうです。又、昔の日本の家屋は殆どが木造で天井裏には鼠が住んでいました。夜はごとごと天井を駆け回っていましたが、その家が火事になるときは、鼠達は事前にそれを感知して火事が起こる前に全部いなくなると聞いております。人の場合ですが「火事場の馬鹿力」という言葉は誰でも知っています。火事になると年取ったお婆さんが大きな箪笥を独りで外に担ぎ出して、人々を驚かせました。火事が終わってからでは誰も動かすこともできない等の話は屡々聞く話です。
 ファーブルの昆虫記に依ると、縞蜂という蜂の雌は卵を産む時には青虫のような長虫の体内に産卵します。卵が糖化して幼虫になるとその幼虫は長虫の肉を食べて生長するのですが、産卵の時に長虫を殺してしまったのでは、その内は腐ってしまうので食べられなくなります。さりとて生かしておくと反対に食べられてしまいますので、母蜂は産卵の際に長虫を生かすでなく、殺すでない状態、即ち仮死状態にして産卵するのだそうです。こんなことは人間の外科医でも、そう簡単には出来ないのだそうです。縞蜂の母親は誰からも教わることもないのに針一本で立派にこれを行っているということは、正に本能に起因する超能力でしょう。
 要するに人間を始め動物の本能は、生命に危険を感じた時、又は子孫を残す時に本能が之に応じて特別の超能力を発揮するようです。これらのことは話を聞けば多分何方でも納得なさると思います。 私の申し上げたいことは、こんな大きな力を我々が持っているならば自分が必要と思った時に意識的にこの力を発拝することが出来たならばどんなに素晴らしいことではないか、ということです。
 一心岩をも徹すと言う言葉がありますが、必死になると思いがけない大変な力を出すことが出来ると言うは昔から知られておりますし、それほどでもない事で日頃我々が何の気もなく行なっていることの中にも意外なことが沢山あります。例えば、神様を拝む時には拍手をしますが、これに依って神様に通じるように願って拍手するのだそうです。仏様を拝む時に蝋燭に火を灯し、鐘をか−んと鳴らすのは何れも自分自身の精神統一を出来易くすると共に仏様に通ずることを祈念する為と聞いております。そしてこの拍手にしても或いは蝋燭の火、鐘の音等総て科学的にも精神統一をし易くする方法として証明されていると聞いております。その他昔から各々の家に伝わることの中にはいろいろの伝統的な事があり、中には不思議にも近代科学に依っても正しいことが証明されていることすらあります。
 前々から私は易占をやっておりますが、易占の時に笠竹を両手に持ち少し扇型に開いて目を閉じ息を止め、もうこれ以上息を止めることが出来ないと思う瞬間に右手の親指と人差し指とを効かせて、さっ!と筮竹を裂く動作があります。どの易占の本にもこのことは書いてありますが、何故そうするのかを書いてある本はあまりありません。私は目を閉じ息を止めてこれ以上息を止めることが出来ない時、即ちこれ以上息を止めたら死んでしまう危険の状態に自分を追い込んで、其れに依って本能的な超能力に訴えて結果を出して、それを数千年来の歴史のある易経に頼って判断するのが易占であると思っております。 何れにしても前述のように、折角我々は本能に基づく超能力を生まれながらにして持っているのですから、自分の希望する時にそれを発揮できたらどんなに素晴らしいことかとかねがね思っておりました。それで拙文、愚考をも顧みず書いてみました。各位のご叱正をお顔い申し上げて、筆を擱きます。
 尚、自分のことで恐縮ですが、私は昨年初めに胃癌と診断され、3月に胃の楠出手術を受けその後専ら療養に励んでおりましてご無沙汰で申し訳ございませんでした。お蔭を以ってその後の経過は極めて良好で近い将来には又出席できると楽しみにしておりますので、何卒宜しくお願いもうしあげます。他事ながらご休心下さい。
                                  以上













































 憧れのカリブ海クルーズとオーランドの旅 
                               落合 登美雄
  
 昨年の秋、15時45分成田空港発(CO−OO6)にて空路ヒューストン乗り継ぎでフロリダ州オーランドへ旅立った。成田→ヒューストンの所用時間は約11時間55分、ヒューストン→オーランドは2時間27分で合計14時間22分の長旅であった。
 今回の旅行はカリブ海クルーズが目的である。日程は8日間。到着した日はホテルに宿泊し、翌日バスにて出航地ポートカナペラルへ出発。昼頃いよいよ豪華客船「ソブリンノブザシーズ」(73,000トン)に乗船する。
 3泊4日のカリブ海クルーズの始まりである。正に動くホテルといった感じであるが、船が大きいためか全然揺れない。この船には乗組員800名、乗船客1200名ということであった。
 乗船の際、必ずマスターカードかダイナースカードを提示して、現金に変るシーバスカードを作り、そのカードがないと乗船できない厳しい仕組みになっている。何故なら、船内では現金は一切使えないのである。船内での食べ物飲み物は無料であるが、アルコール類と買い物は有料でカードを使うのである。
 船内を説明すると、船は最上階が14階で12階までは特別室になっている。特別室といっても特別の人だけが利用するのでなく、立派な椅子が各階にあり誰でも自由に利用できるようになっていて、アルコール類やソフトドリンクが備え付けてあり、自由に飲みながら外の景色や青い海を眺めることができるのである。11階にはプールがあり、隣りに大きなレストランや喫茶室等がある。ここでの食事喫茶は時間に制限がなく、何時でも自由に飲み食いが出来るようになっていた。バイキング形式であった。プールの横では種々のゲームが開催されていた。傑作だったのは、太ったお腹の大きい男性のコンテストがあった。小錦級の男性女性が相当数乗船している。他に女性競馬も有った。これは女牲が馬の模型を持って競争するのである。若い女性が水着姿でのゲームには目を楽しませるものがあった。
 1O階より下はパーサーズデスク(24時間総合案内所)や、ドライクリーニング&ランドリー、写真ビデオサービス、医務室、ビューティサロン、免税店、ギフトショップ、図書室、映画館等々何でもありで、至れり尽くせりである。船内の楽しみは映画であり、ショータイム、キャプテンズカクテルパーティ等様々である。
 アメリカ的だと思ったのは、入船当日、災害に備えて救助訓練が7階のデッキで行なわれたことである。4時に老いも若きも幼子も全員が、橙色の救命胴衣を身にっけて階段で7階に集まり、災害時の心得等の話があり、また階段で各々自室に戻ったのである。その移動する光景は傑作であった。
 乗船して3日日、BAHAMA諸島の首都ナッソーに入港、オプショナルツアーに参加してナッソー市内を日本語ガイド付きで観光する。BAHAMAという島は人口約3,000人で淡路島位の大きさの島である。島の中はオーム鳥等が放し飼いにされていて、フラミンゴショウがメインであり、海と自然を眺めるといった美しい島であった。Royal Caribbeanという建物を散策する。そこにはとても大きな水族館があり、大きなマンタや鮫、鯛など多くの魚が泳いでいた。圧巻だったのは、建物と建物の間の渡り廊下のような所である。それは渡り廊下ではなくスイートルーム付きの部屋で、一泊300万円とのことだった。今までに泊った人は、マイケルジャクソンとサウジの王族が泊っただけで、日本人は誰も泊っていないと面白く話していた。
 この時期はハリケーンの襲来時期で下船予定の島が、全部観光できなかったのは残念であった。 かくして3泊4日の船旅は終わったのである。
 下船後はオプショナルツアーに参加するようになっていて、ケネディ宇宙センター、ディズニーワールドやシーワールド等の観光に参加した。
 7日目早朝、専用バスで空港へ。6時45分(CO−1O87)の飛行機、ヒューストン乗り継ぎで帰国の途についた。
 今回の旅行は楽しく、また心に残る温かさを感じた旅行であった。1年に1回は海外旅行をしたいものだ、とつくづく思った次第です

































                           

 
あづま路