平成十八年七月二十日、元宮内庁長官富田朝彦氏(故人)のメモなるものが発表、それに対し私見を一言申し述べてみたい。
(一)メモに対する疑問
一、 メモは昭和天皇ご崩御の前年昭和六十三年四月二十八日付、メモ手帳にそ
のぺ−ジだけに貼り付けられていたもの。その文字がそのままご肉声を記し
たものか不明。勿論公文書に非ず、聞き書きである。宮内庁でもその手帳を
見た者が居ない由。それがどうして写真迄新聞に掲載されたのか?
二、 A級戦犯が合祀されたのが昭和五十三年十月(十四名)
昭和天皇最後のご参拝はその三年前の昭和五十年十一月である。
「A級戦犯合祀にご不満だったのでご参拝をやめられた」との説は虚偽、虚
報、真っ赤な偽りではないか。
(参考)昭和天皇の靖国神社ご参拝中止の理由は政教分離の問題である。
昭和五十年八月十五日、三木武夫首相(当時)が「私的参拝」と発言し
てから一躍政教分離論が盛んになり、天皇陛下のご参拝迄とり上げられ、
内閣法制局長官迄「問題あり」と答弁。
昭和天皇はこれ以上政治問題化することを止められるため、その年の十
一月を以ってご参拝を中止されたので、A級戦犯合祀とは何等関係なし。
三、 内憂外患、騒然たる世相特にポスト小泉候補の靖国参拝を恰も「踏み絵」の
如く追求されている最中、何故今、メモが発表されたのか、偶然にしても出
来過ぎているではないか。
予想された通り、近隣諸国から得たりかしこしの日本叩きの声、これに呼
応するが如く、日本国内に於ても、反靖国派、チャイナスクール優等生達の
「それ見よ」がしの意気込み振り、これを陰謀・謀略が背後に在りと見るの
は僻目か。私は是を警戒したい。これを徹底的に調査追求して欲しい。
(二)当日各紙の冒頭記事
日経…「小泉首相をはじめ関係者が適切に行動することを切に望みたい」
毎日…「いまの状態で首相が靖国神社に参拝するのはやはり適切ではない」
読売…「国立追悼施設の建立、或は千鳥ヶ渕戦没者墓苑の拡充など」を訴えた。
朝日…「A級戦犯が合祀されているところに参拝すれば、平和国家として生れ変
った戦後の歩みを歪定することになる。昭和天皇はそう考えたのだろう。
賢明な判断だったと思う」
産経…「分祀へ政治利用の恐れ」
(三)昭和天皇の御胸中を拝察
一、 天皇はA級戦犯を一括して批判されたわけではない。松岡洋右(元外相)
白鳥敏夫(元駐イタリア大使)は共に日・独・伊三国同盟推進者であり、
天皇は三国同盟を好んでおられなかった。
二、 A級戦犯合祀の選考は厚生省(当時)であり靖国神社ではない。
(註) 松平慶民(最後の宮内大臣)、松平永芳(慶民の子、靖国神社宮司
筑波藤麿(靖国神社宮司)
三、 側近木戸幸一内相の日記
終戦直後昭和二十年八月二十九日に「戦争責任者を連合国に引き渡すこと
は、真に苦痛にして忍び難きところ」、さらに九月二十日に「敵側の所謂戦
争犯罪人、ことにいわゆる責任者はいづれも、かっては只管忠誠を尽した人
々……」と語られておられる。
四、 御用掛寺崎英成「昭和天皇独自録」「A級戦犯代表格の東條英機首相を信
頼しておられた…」
(註) 首相引退の時、その労苦を労らい「勅語」を賜っておられる。
五、 中共からの横槍(内政干渉)を恐れて、中曽根首相(当時)が、昭和六十
一年から靖国神社公式参拝を中止した時、昭和天皇無念の御気持ちを詠まれ
た御製を追憶してみよう。
「御 製」
この年の この日にもまた靖国の
みやしろのことに うれいはふかし
五、 靖国神社、春秋例大祭に天皇ご参拝の代りに勅使をご差遣になっている。
(現天皇も)
三笠宮崇仁親王殿下他各皇族殿下は今でもご参拝を続けておられる。
(四) 結言
メモはあく迄メモである。
但し一笑に付してはならぬメモである。
そして政治利用を厳戒する。
平成十八年七月二十三日 之を記す。
七月二十六日「日・韓・ソ・アジア友好協力会」定例講演会に於いて講演
済み。