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平成18年度

51号

52号

53号














































   

あづま路 53号 平成18年10月
「メモは
   あくまでもメモ」
高橋 正二
 知床を歩く  小川日出夫
 シルバーシート  栗原  弘
 闘 病 記 中本 保子
 ベルツ水と
     ベルツ博士
門脇  弘





















































5301 「メモはあくまでもメモ」    高橋 正二
ー 元宮内庁長官のメモに一言 ー

 平成十八年七月二十日、元宮内庁長官富田朝彦氏(故人)のメモなるものが発表、それに対し私見を一言申し述べてみたい。

(一)メモに対する疑問

一、 メモは昭和天皇ご崩御の前年昭和六十三年四月二十八日付、メモ手帳にそ
  のぺ
−ジだけに貼り付けられていたもの。その文字がそのままご肉声を記し
  たものか
不明。勿論公文書に非ず、聞き書きである。宮内庁でもその手帳を
  見た者が居な
い由。それがどうして写真迄新聞に掲載されたのか?
二、      A級戦犯が合祀されたのが昭和五十三年十月(十四名)

  昭和天皇最後のご参拝はその三年前の昭和五十年十一月である。

  「A級戦犯合祀にご不満だったのでご参拝をやめられた」との説は虚偽、虚
  報、
真っ赤な偽りではないか。

(参考)昭和天皇の靖国神社ご参拝中止の理由は政教分離の問題である。

    昭和五十年八月十五日、三木武夫首相(当時)が「私的参拝」と発言し
  てか
ら一躍政教分離論が盛んになり、天皇陛下のご参拝迄とり上げられ、
  内閣法制
局長官迄「問題あり」と答弁。

    昭和天皇はこれ以上政治問題化することを止められるため、その年の十
  一月
を以ってご参拝を中止されたので、A級戦犯合祀とは何等関係なし。
三、      内憂外患、騒然たる世相特にポスト小泉候補の靖国参拝を恰も「踏み絵」の
  如く
追求されている最中、何故今、メモが発表されたのか、偶然にしても出
  来過ぎて
いるではないか。

   予想された通り、近隣諸国から得たりかしこしの日本叩きの声、これに呼
  応す
るが如く、日本国内に於ても、反靖国派、チャイナスクール優等生達の
  「それ見
よ」がしの意気込み振り、これを陰謀・謀略が背後に在りと見るの
  は僻目か。私
は是を警戒したい。これを徹底的に調査追求して欲しい。

(二)当日各紙の冒頭記事

日経…「小泉首相をはじめ関係者が適切に行動することを切に望みたい」

毎日…「いまの状態で首相が靖国神社に参拝するのはやはり適切ではない」

読売…「国立追悼施設の建立、或は千鳥ヶ渕戦没者墓苑の拡充など」を訴えた。

朝日…「A級戦犯が合祀されているところに参拝すれば、平和国家として生れ変
   った
戦後の歩みを歪定することになる。昭和天皇はそう考えたのだろう。
   賢明な
判断だったと思う」

 産経…「分祀へ政治利用の恐れ」

(三)昭和天皇の御胸中を拝察

一、      天皇はA級戦犯を一括して批判されたわけではない。松岡洋右(元外相)
  白鳥
敏夫(元駐イタリア大使)は共に日・独・伊三国同盟推進者であり、
  天皇は三国
同盟を好んでおられなかった。
二、       A級戦犯合祀の選考は厚生省(当時)であり靖国神社ではない。
 
 (註) 松平慶民(最後の宮内大臣)、松平永芳(慶民の子、靖国神社宮司
 
     筑波藤麿(靖国神社宮司)

三、 側近木戸幸一内相の日記

   終戦直後昭和二十年八月二十九日に「戦争責任者を連合国に引き渡すこと
  は、
真に苦痛にして忍び難きところ」、さらに九月二十日に「敵側の所謂戦
  争犯罪人、
ことにいわゆる責任者はいづれも、かっては只管忠誠を尽した人
  々
……」と語られておられる。
四、    御用掛寺崎英成「昭和天皇独自録」「A級戦犯代表格の東條英機首相を信
  頼し
ておられた
  
(註) 首相引退の時、その労苦を労らい「勅語」を賜っておられる。

五、 中共からの横槍(内政干渉)を恐れて、中曽根首相(当時)が、昭和六十
  一年
から靖国神社公式参拝を中止した時、昭和天皇無念の御気持ちを詠まれ
  た御製を
追憶してみよう。

     「御 製」

   この年の この日にもまた靖国の

    みやしろのことに うれいはふかし

五、    靖国神社、春秋例大祭に天皇ご参拝の代りに勅使をご差遣になっている。

(現天皇も)

  三笠宮崇仁親王殿下他各皇族殿下は今でもご参拝を続けておられる。

   (四)     結言

メモはあく迄メモである。

但し一笑に付してはならぬメモである。

そして政治利用を厳戒する。
平成十八年七月二十三日 之を記す。

 七月二十六日「日・韓・ソ・アジア友好協力会」定例講演会に於いて講演
  済み。

















































5302     知床を歩く    小川 日出夫
                         − SKK 旅行会より ー

 今回のSKKの旅行は知床でした。

  私は網走までは行きましたが、知床は初めてで行きたかった所です。

  当日は羽田発1030なのでゆったり行ける筈が、通勤ラッシュにぶつかり
 ヒヤヒ
ヤしました。何とか30分遅れの930には合流出来ました。

  ツアーのメンバー29名で、SKK21名のほかに戸田の女性グループ6名、京
 都から
参加した夫婦でした。今回は会計を担当することになり、早速雑費
  5000
円を皆さんから集金しました。(計105000円)

 女満別空港には1220に到着し、JTBの添乗員藤田永美さんが待っていて
 、網走
交通のバスで朝日ヶ丘に向う。秋晴れで気分良く展望台から広々した
 景色に見とれる。

オシンコシンの滝を見て知床5湖に行く。1湖から5湖まで点在しており
 、今日は
1湖、2湖の周辺をハイキング。初日から結構歩きました。18時頃
 、岩尾別温泉ホテ
ル「地の涯」に到着する。早速露天風呂に行くと、なんと
 混浴で中年の御婦人が3人
入ってました。夕食のあと、笠原幹事長の部屋で
 二次会あり、知床の初日は終わりま
した。(保険料11,825 持参つまみ代
 4,974
 夕食時飲物代20,213 計36,412

  翌朝5時起きで朝風呂に入る。近所を歩きたい所だが熊が出るから注意と
 のことで
断念し、朝食バイキングに行く。早目の出発で815にウトロ港に
 向うが旅行者が多
いのにはおどろきです。知床は道路が少ない為、海上から
 見物する。観光船オーロラ2
に乗りました。遠くに知床五山が見えて、近く
 は岩場がそそり立つ仲々の風景であり
ます。1時間30分のコースを満足し
 た所で、またバスに乗り、フレペの滝に向かい
ました。ここには案内人が居
 り(千葉出身の西尾青年)、植物など詳しく説明してく
れ、途中エゾ鹿に会 うが、極く自然の出会いでありました。滝はウトロ灯台の下にあり、入り江
 の奥から流れ落ちているのが見えました。2時間程のコースでしたがバス

 戻り、羅臼に向いました。途中知床峠から国後島が良く見えましたが、意外
 に長い
122q)と思いました。遅めの昼食は毛ガニが出ました。他の料理
 は道産子の笠原
幹事長から細かく説明頂いた為、良く判り美味でした。

 次は標津を経由し、野付半島にあるトドワラでしたが、広大な湿地が広が
 り、立ち
枯れた木が淋しい風景でありました。ここも随分歩き、帰りは馬車
 で帰りましたが、
皆さん元気でよく歩き本当に驚きでした。17:30すぎ、養
 老牛温泉の旅館藤やに到着、
又早々温泉に入るも、ここは混浴でありません
 でした。シマフクロウが来る宿で、カ
メラが設置され部屋のモニターで見れ
 る仕掛けでしたが、残念ながら来ませんでした。
夕食で少し飲みすぎたり、足が痛くなったりで、風呂に入って早々休みました。

(昼食時飲物代8,180 夕食時飲物代31,290 計39,470 累計75,882)

今朝も天気良く、宿の周辺を歩いてみましたが、何もない所で自然そのま
 まの状態
でありました。7:30朝食で、ゆったり9:00出発。摩周湖に行きま
 したが、裏側から
見たのは初めてで美しさを再認識しました。そこから予定
 外のコースで多和平展望台
に寄り、釧路湿原に向いました。塘路駅から釧路
 駅まで五駅あり、40分程湿原の中
を走行するもので、新旧の水門・蛇行す
 る釧路川など見ごたえがありました。

 昼は和商市場などで自由昼食となり、私は近くの船員会館でうどんセット
 など頂き。
又バスに合流し、釧路湿原の温根内木道を歩きました。今回は色
 々な所にハイキング
コースがあり良く歩きましたが、天気も良く皆さん元気
 で事故もなく楽しめたのは結
構なことでありました。ただ私は何時も歩き慣
 れた靴を履いて来なかったことは遺憾
でした。

 ツアーの中に参加する方法も特に支障もなく、むしろ色々なコースを選択
 出来て、
費用も安く良かったと思います。SKKの内舎人として参加致しまし
 たが、仲々大変
でありました。集金した雑費も、少し節約したことで女性に
  2,000
円男性に1,000返金出来ました。御協力頂き感謝致します。

 釧路空港を1730出発し、羽田には1910到着。自宅には21時帰りまし
 た。
 少々疲れましたが、思っていた以上に良い旅でありました。
























































5303 シルバーシート 栗原 弘

 胸部に数ヵ所電極を付けフラットデジカメのような器具をベルトにつけて、24時間心電計(ホルター)を付けた。普通の生活をして下さいとのこと。定例の夕食会のため新宿のホテル迄でかけた。食事とか、階段歩行とか生活の変化部にチェックを付けることになっている。
 「携帯電話の電磁波に誤作動しますから近づかないで下さい」
の指示で、電車は都
合良くシルバーシートに座れた。若者も座ってるが私は当然の権利のように座った。

隣の人が携帯の操作を始めた。「すみません、私、機器を付けてるものですから」胸を示すと「すみません」とさっと止めてくれた。気まずい気分はない。

 以前に注意して不愉快な気分を味わったことがある。若い子がシルバーシートでメールを打ち始めた。「ココは携帯はオフ」と言ったとたんに気まずい空気、女の子は席を立ってしまった。「意地悪爺ィ」、そんなお節介をする馬鹿は居ないのに、気の弱いじいさんはふさぐ。

そうだ人にお願いするときは最初に「すみません」言うんだ。善人ぶった人に注意されるのは嫌なんだ。

礼儀とかマナーは無くなったと言う。「親の顔が見てみたい」と思う。親のその親は我々世代、我々のマナーもなくなったのかなあ。その後2人ほど携帯のかけ始めに「すみません」とお願いした。皆すぐ止めてくれる。携帯をかけるのは文化なのかなあ。

 夕食会は結構アルコールが入ったが、心電図の異常は睡眠中にあった。
























































5304 闘 病 記   中本 保子

  三月末、私は右足の変形性股関節症のため人工骨との置換手術を受け、一ヶ月入院しました。小学四年、盲腸炎で入院以来のことですから、興味半分、三食昼寝つきで別荘へ行くような軽い気持ちで入院しました。

  老化現象には違いないのでしょうが、医者は老化とは決して言いません。頑張りすぎと言うだけ、超高齢でも手術に心配はないとのことで決心をしました。

  ふり返ってみると私は50年に及ぶ独身、その間30年の教員時代は海へ山への生徒引率の仕事はまぬがれられません。飛龍登山は大雨の中で全身ずぶぬれ、下山が遅れて留守隊に心配をかけました。大菩薩峠から大菩薩嶺へは何回登ったことでしょう。

50歳を越え、娘が独立した頃からは趣味として、毎月一回の山歩きを楽しみました。

夏休みには北アルプスの縦走にも出かけました。南ア農鳥岳から奈良田への大門沢の下りや、北ア烏帽子小屋から高瀬ダムへの下りなどは、私の足の力の限界を越える厳しさだったように思います。これらが関節を痛めた遠因ではなかったかと思われるのです。 近因はやっぱり一昨年のスペイン旅行でしょう。旧市街は大型バスが入れませんから 徒歩になります。毎日、一万歩を超える石畳の道が私の右足にダメージを与えました。 50歳、60歳の頃はまだ回復力がありました。80歳を越えれば、筋肉も衰え回復しません。昨年七月のSKK旅行(高野山・熊野路)では、みなさんに手を貸して頂いてようやくの状態でした。

関節は痛めぬほうが、手術などせぬほうがよいに決まっています。併し痛めてしまったら、近代医学を信じ、有能な整形外科医を信じて手術にふみきるがよいのでは、経験を通して今、思っています。幸いなことに私はきわめて有能な先生に出合い、経過もきわめて順調でした。
 手術は出入り四時間ほど、『中本さん終りましたよ』との先生の言葉で目が覚めました。用意しておいた自己血を、血圧が下がったその夜、輸血しました。血栓ができぬよう弾力のある、ぴったりした膝までの医療用靴下を両足にはかされ、血液をさらさらにする注射が続けられました。熱は38度台、39度まで上がった日もありました。寝返りは看護師さんの補助で手術した右足上に、股間には大きな重い枕が入れられました。トイレは看護師さんの付添、左足だけで車椅子に乗ります。血液の酸素量をはかっては酸素吸入。などなど苦しい一週間で、私はこの手術が簡単なものではないことを知りました。

二週間目に熱は37度台に下がり、徐々に制限は解除され、車椅子は自在に乗りまわせるようになり、リハビリも進みました。杖歩行と階段の登降ができるようになると退院です。私は四週目に入ったときに退院許可がおりてしまいましたが、家庭の都合もあり、少しのばしてもらい丁度一ヶ月で退院しました。

 手術後しばらくは違和感もありましたが、かったるさや、どん痛からは完全に解放されて、今は軽やかに歩けるようになりました。あとはリハビリで筋力をつけることだけです。転ばぬよう無理をせぬよう気をつけて、これからが余生の再出発でしょう。

  入院中、殆ど毎日、勤務を終えて病院にかけつけてくれた娘。大学生になった孫息子は入学式の帰りはスーツ姿で、その他時々気軽に寄ってくれてとても助かり、家族の有難さを、あらためて感じました。又入院中の無聊をなぐさめてくれたものに、俳句とスケッチがあります。身体が動かなくとも、空を眺めているだけでも、また過去の思い出に浸っていても、句が浮かびます。枕辺の花をスケッチするのも楽しみの一つになりました。私にとって大イベントとも言える入院生活の体験です。

 (病院は 新宿区戸山町 国立国際医療センター)

 (執刀医は桂川陽三先生)














































5305 ベルツ水とベルツ博士 門脇 弘

 終戦後、まだ沖縄が本土復帰以前にパスポートを持参し、母や弟と沖縄西会の懇請で講演のため沖縄を往復したことがある。屋良朝苗主席、星立法院長、大浜信泉(のぶもと)早稲田大学総長紹介の実姉(石垣島在住)諸氏の手相取材も叶い、収穫多き旅行であった。講演会場控室に古賀善次・花子ご夫妻が、同道の母、私と弟に挨拶に見えた。花子夫人が言われるには、母(明治三十年生まれ。平成七年九十八歳で他界)に対して「もしかしたら旧姓・塩沢菊代さんではありませんか」と言うのだ。よく聞くと、明治三十一年生まれの花子夫人は東大医学部付属看護婦講習所二十四期の同窓生であることが判明し、数十年ぶりの対面でにわかに活気づいた。古賀善次氏は尖閣諸島の大地主で中国が領土権を主張していることを嘆いていた。花子夫人とは何回も母らとお会いしたが今も印象に残る内容の一つは「ベルツ水」のことである。

 母は雪国の長野出身で、冬期はヒビや赤切れに苦しみ、このベルツ水でずいぶん助かった。これはベルツの処方で、苛性カリ、グリセリン、アルコール、水などの混合液で、母がよく作ってくれて門脇家の常備薬となった。合い性がよかったのか、皮膚の荒れ止めには抜群の効果を挙げ、凍瘡初期に塗布して目を見張る著効があった。水と油という相反する成分でも調和した割合いならマヨネーズという傑作が出来るが、分量が不適合で撹拌すると両者は分離してしまう。ベルツ水も柔肌の赤ちゃんや荒れ症の人などには最適の割合いが存在する筈で、母は知悉していたに違いないが、聞くこともなく他界してしまった。外で美味しい食事をした時には、帰宅してからそれに近い味の料理を作ってくれた母のことだから残念に思う。母は昇天当日まで頭はシャープで、『東大新報』の平成四年十一月四日付に「済南病院での懐かしき日々」を書かせて戴き、中村粲(あきら)先生にもお贈りしたが、「大正十年に勤務。病院長は牧野先生であったがドイツに留学され、後任には徐院長が見えた」部分も中村先生が調べたらそのとおりで、済南事変の詳細も直接聞きたかったと残念がられた。ベルツ水については『ベルツの日記』(原題を『黎明期日本におけるドイツ人医師の生活』と言い、日本人妻ハナとの間に生まれたトクの編集になるもの)にも再度目を通した

けれども記述がない。森まゆみ著『明治東京畸人伝』『ベルツの加賀屋敷十二番館』や安井広著の大著『近代医学導入の父・ベルツの生涯』にもない。宮本武蔵の『五輪の書』や正宗・虎徹の名刀作りのように『万里一空』で「みずからご工夫されたし」という微妙な加減は奥義に属するものであろうか。

 ベルツは、患者がドアを開けて診察に入室する物腰から、病気の所在と程度とをピタリと当てたと伝えられる。ヒポクラテスや耆婆(ぎば)や「垣を隔てて病人を診る」神医・扁鵲(へんじゃく)のような力を備えていたのかも知れない。

 ベルツは明治九年に来日して東京医学校(東大医学部の前身)のお雇教師となり、日本人花子さんを娶(めと)り、明治三十八年帰国まで三十年近くを日本で過ごした。

多数の優れた弟子を育て、日本の風土病を研究し、転地療法として草津温泉や大磯を発見した。そして既述の化粧水「ベルツ水」の発明者でもある。後年、ベルツは「日本は西洋医学の成果を受け入れたが、それを生んだ精神を学ぼうとしなかった」と言って日本を去ったというが、今も東大医学部付属病院のある丘に立っているベルツの胸像は、臓器移植とか遺伝子操作などの昨近の医療事情をどんな感慨で見守っているのだろうか。もし彼に筆舌の力を与えたらどんな回答をするのか、尋ねてみたい気がする。




































   

あづま路 52号 平成18年6月
高齢者とともに    林 寅三 郎
飛鳥U
 日本一周デビュウクルーズ 
             参加して
伊藤 啓子
「相沢英之先生公開講演会」
             後記
 
富樫 利男
「定例懇話会」  後記 小川 日出夫
北里柴三郎博士への冷遇 門脇  弘





















































5201 高齢者と共に    林 寅三 郎
1. 最近SKKの会員で、体調不調を訴える方が多くなりました。
会員の多くの方が高齢者で、この体調不調も高齢者の「老齢化現象」がその一因ではないかと思います。
2. 高齢者の「老齢化現象」は誰にも避けようがなく平等に訪れ、かつ進行性のものなのです。つまり 「人間の成長は成熟期が過ぎるととまり、その後の加齢による年齢的変化により、身体の細胞数が年とともに減少し、内臓等が縮んで軽くなり、機能の働きが悪くなること」です。
3. 一般に、人によって差はありますが、白髪になったり、毛が薄くなったり、皮膚にシミやイボができたり、皮脂の分泌が悪くて皮膚がかさついたり、日がかすんだり、耳が遠くなったり、歯が抜けたりします。唾の出が悪くなったり、味覚が鈍くなったり、咀嘔が十分できにくくなったり、のどの反射が低下してその結果、むせやすくなったりします。また、胃の粘膜が萎縮したり、消化液の分泌が減ったり、胃腸の運動機能が低下し、その結果、便秘がちになる、などの変化が起こります。
 その他、てきぱきと能率的な行動が取れなくなったり、転宅、転職、気温の変化
についていけないなど、環境に適応する能力が落ちてきたりします。
4.高齢者の病気の特徴
  「老齢化現象」が出る年齢になると、同じ病気でも症状の現われ方や経過が、 若い者のそれと異なります。
  その特徴は次のようものです。

(1) はっきりした症状を示さない。 
    (重症の肺炎なのに微熱程度しかない)

(2) 気がつかないうちに意外と進んでいることがある。
    (典型的な症状を示さないため、発見が遅れる)

(3) 幾つもの病気があり、治療が思うようにいかない。
    (一つの臓器が故障すると、その影響があちこちに波及)

(4) 経過が長い。

(5) 時に急変することもあり。

(6) 治っても体力が容易に元に戻りにくい

(7) 高齢者は訴えが乏しい。
     (家族や周囲の人は日常の動作、表情、話し方、機嫌の良し悪し等に注意特に
     「いつもより元気がない」「急にロ数が少なくなった」「食欲が落ちた」時は 
     !注意信号!早めに手を打ってほしい)

5、 高齢者は「老齢化現象」による自分の体調を自覚し、避けて通れない余生を見
  つめ直し充実した日々を送りたいものです。

      参照文献 : 財団法人 高雄病院院長 中村仁一氏 著書
               講談社 「老いと死から逃げない生き方」

















































5202  「飛鳥U日本一周デビュークルーズ」に乗船して」                                   伊藤 啓子
 七・八年前だったでしょうか、カーフェリーで四国に向ったとき、東京湾上に真白な客船が目に入りました。″アレ飛鳥よ!″と叫ぶ声に周囲の人々は一斉に目を凝らしました。そしていつかあんな素敵な船に乗って見たいと、恐らくほとんどの人が思ったことでしょう、私も同じでした。その一瞬夢のような思いが、この度実現してしまいました。
 昨年はお正月の京都旅行以来体調がすぐれず、やはり八十の坂は容易ではないなと、少々弱音をはく目が続き、薬の種類も増え、マッサージ、カイロプラテックなどに通いはじめていました。そんな時ある旅行社より立派なパンフレットが届きました。
 ″飛鳥U目本一周デビュークルーズ″あの時見た飛鳥が新しく生まれ変わって目本最大(五万トン・全長二四〇米)の豪華船となり、来春デビューするとのこと、暇に任せて見入っていて気付いたことは、客船に診療室があるということでした。年を重ねる度に海外旅行の心配は途中体調が悪くなった時のことです。診療室があるのならばと、少し心が動きました。更に乗船さえすれば、動くホテルです。三食ひる寝つき、何もしなくても目的地に連れて行ってくれるという、良い事ばかり目につきました。しかしそのクルーズは来年のこと、今は健康に気遣わなければ……。ふと夢に終るかも知れないが来春の乗船を目標に健康を取り戻すことをがんばろう!と考えつき、勇気が湧いて来ました。早速申込金を払い、誰にも話さず、パンフレットはしまいました。
 カイロプラクテックが私の体に合ったのか今年に入ってから体調がよくなり、プールや遊び事など再開出来るようになりました。そこへ旅行社より残金振り込みの催促があり、いよいよ決心するときが来たのです。その時今の健康が私の背中を押してくれました。最後のチャンスかも・・・と。ところが間近になって″旅のしおり″が届きますと、これまでの旅行と違うことが沢山あって、不安が大きくなって来ました。
特に「ドレスコード」です。つまりフォーマル・インフォーマル・カジュアルと指定されているのです。目く「クルーズでは服装のマナーが大切です。夕方以降はドレスコードにそった服装をお召し下さい」「ひとりひとりのお客様がその夜にふさわしいおしゃれをして、船内の雰囲気を盛り上げる目的で生まれたルールです」とのこと。イブュングドレス・カクテルドレス等どう考えてもこの婆さんに似合いません。やっぱり駄目かな、とクルーズ中止のことも考えましたが、娘達に励まされて、箪笥から引っ張り出した昔の訪問着などで、どうにか準備をしました。
 いよいよ乗船当日、三月二十日素晴らしいお天気です。横浜港大桟橋にまっていた飛鳥U! それは巨大な白亜のビルの様にそびえ立っていました。
 心の不安を押し隠して、颯爽?と乗船しました。
 乗客はプロムナードデッキ(七F)にシャンパン片手に集まっています。
 向い側の岸壁の大勢の見送りの人や見物客との間に、五色の紙テープが無数春風にゆれています。やがて銅鑼が打ち鳴らされ船は静かに埠頭をはなれました。 徐々に目の下の海が広がっていくのが印象的でした。テレビなどで話題になった客船の出港風景は見応えがあるのでしょう。白い航跡がだんだん大きくなり、埠頭の人々の姿が小さくなっても、ヘリコプターはしばらくの間飛んでいました。自室に戻り荷物をほ
どき、これからの船内のくらしに備えました。クルーズのはじまりです。

 二十一日午後二時神戸港入港、最初の寄港地です。ここから乗船される方も大勢い
ました。船内の様子を見て廻り、午後神戸市内を歩きました。午後十一時出港。

 二十二日瀬戸内海終日航海です。朝九時頃瀬戸大橋をゆっくり通り抜けました。デッキの上では皆さんカメラをかまえていました。しかしその後雨模様となり、島々は霞の中にぼんやりと見えるだけでした。船内では乗客の避難訓練です。合図と共に救命胴衣を着けて、七デッキに集り、救命ボートの降ろし方・乗り方など教えられました。ふと映画の場面など思い出して、あらためて波立つ海面を見つめてしまいました。
 社交ダンス教室・映画上映・カジノゲーム・ピアノバー等々、盛り沢山の華やいだ空間が演出されています。私は小野寛先生の万葉集の講座とテノール歌手のコンサートを楽しみました。
 夕方五時半より正餐ということでフォーマルの指定でした。正装の紳士淑女のデナーを始めて経験しました。なかなか優雅なものでした。私もいろいろ迷い着物を準備してきましたが、日本の着物はどんな華やかな場所でも見劣り、することなく、立派に通用することを確信しました。

二十三日長崎港入港、九時オプショナルツアーあり。出港五時、埠頭では小学生の
蛇踊りを披露して出港を祝ってくれました。

 二十四日日本海終日航海です。早く目覚めたので、船室のバルコニーにでますと、丁度水平線上に、太陽が昇りはじめていました。素晴らしい眺めでした。
やがて隠岐の島々があらわれ、その緑の島の間を航行しましたが、その島影が消えたあとは洋上に何ひとつ目にするものがありません。ストレッチ体操に参加し、二回目の万葉講座と映画、ショッピングエリアをひやかして、夜はマージャンサロンを覗いたら運よくお相手があり、楽しみました。

 二十五日富山湾伏木港入港八時。アナウンスがあり、デッキに出ると滅多に見られない″立山″が春霞の上に姿を現しています。快晴でした。オプショナルツアーあり。夜は富山のローカルショー″おわら風の盆″風情のある盆唄と踊りを堪能しました。

二十六日終日航海。わが故郷秋田沖を航行しているのに、鳥海山も男鹿半島も見えずがっかりです。大型船が陸地の近くを航行する事はないと思いながらも、つい期待してしまいます。村上和雄先生の「遺伝子オンの生き方」の講義はお話上手で難しい遺伝子について興味深く聞かせてくださいました。夕食前に、十二Fのグランドスバに行きました。海の上で陽光の降りそそぐ中、お風呂に浸るのもこの旅なれぱこそです。

二十七日小樽港入港八時。オプショナルツアーあり。小樽港はかって欧米航路や樺太航路の基地として華々しく活躍し栄華を極めた商都です。雪の残る運河沿いの倉庫群は黄金期の名残りをとどめていました。小学生のブラスバンドに送られて五時出港です。

二十八日終日航海です。津軽海峡を通り太平洋に出て、いよいよ横浜へ。 今夜はフォーマル指定で、正餐の前にキャプテンバーテーがあり食前酒を頂きました。最後の夜なので私も最高のおしゃれをしてみました。
 そろそろ緊張も限界近くなりましたので、明日の横浜上陸に備えて、出張のマッサ
ージを頼み、早目にペットに入りました。暁方この航海ではじめて、ペットの大きな
揺れに目を覚ましました。翌朝船室のバルコニーがびしょぬれになっていました。

 二十九日 犬吠崎五時頃通過。朝食すぎに房総半島の山並みが右舷に続き、やがて館山の灯台、はるか先には城ヶ島など見つつ東京湾の入口です。さすがに大型貨物船やタンカー等、多く見られるようになりました。
 二時頃横浜港入港。この大きな船の着岸に興味を持ってしぱらくデッキに立つ。二隻のタグボートに押され三十分近くかかって、静かにさん橋に横づけされました。やがて船長や乗員の皆さんの見送る中を上陸となりました。

 とに角船旅の過ごし方は十人十色、何でも出来る自由、なんにもしない自由もあるのです。したがってその過ごし方は自分が決めるのですから、いつもの旅とはひと味違います。一人参加で始めての船旅、しかも豪華客船ということで、とまどいはありましたが。 そこは年の功(?)というか、厚かましさというか、二日日頃より、自分のペースで動けるようになり、食事やお茶のとき、或いはデッキ海を見ているときなど、臆せず誰彼となく、お声を掛けて会話を楽しみました。乗船客の多くはリピーターで船旅を何回も経験しているのに驚きました。飛鳥に乗るために台湾から来た方にもお会いしました。やはり七十代の御夫婦が一番多く、車椅子の方、ステッキ着用の方なども見られたのは、移動の楽な船旅なれぱこそです。船旅の快適さが忘れられないと、次回のクルーズを予約する方もおりました。
 エレベーターを降りる度に右舷・左舷を確認しなければ、自室に戻れない自分を笑いながらも、思いがけないこの船旅でr旅は非日常を楽しむものもの言葉通り、ナイトタイムのエレガントな雰囲気や、さまざまなスポットで、めくるめくような時間が流れたことは確かです。そして診療室のお世話にもならず無事帰りつきました。

 お互い足許の怪しくなりつつある年代のS・K・Kの皆様も、世界一周(九十日間)は無理としても、国内の短期のクルーズはいろいろあるようです。どうぞおためしを!
























































5203 「相沢英之先生公開講演会」 後記 
                                富樫 利男
 本会の理事で陸士の同期生である小松さんが病気により理事を退任し、彼の後任として今年から私が理事に就任しました。そして担当業務として公開講演会を依頼されたのです。
 この仕事は、ふさわしい講師を探し当てるのが最重要任務ですが、元陸軍少尉である私は、通常の理事の皆さんよりは相当に高齢で、若くて有能な講師を発掘するのは苦手です。然し、考えれば方法はあるもので、終戦後共に旧ソ連に抑留され、エラブカ収容所で抑留生活を過ごした相沢英之先生に交渉して講師を引き受けて頂くことが出来ました。
 エラブカ収容所には、抑留日本軍将校の約4割に相当する約9千名が収容されており、抑留帰週後は日本の総ゆる分野で活躍しました。相沢先生は、その中でも一番の出世頭と言えるでしょう。
 公開講演会の演題は、「日本、これからの景気と政治経済の行方」で、内容は可成り難解なものですが、それを一般の方々に容易に理解出来るように、平易な語りロで、長年の国会議員経験によるエピソード等を巧みに加えて、親切に解説的に話して下さったと思います。

 相沢先生の奥さんは、かの有名な司葉子さんです。抑留生活を共にした私等エラブカ会の多くの会員が、若くて美しい女優を相沢さんが妻にした事を羨んでいます。
























































5204 「定例懇話会」後記  小川 日出夫
 4月の定例懇話会は、皆本義博氏の講演「真実の裏側」でありました。
 一昨年の4月に「沖縄戦の概要と統率」と題してお話し頂きましたが、今回はその後編で、特に現在係争中の渡嘉敷島の集団自決に関するお話と、皆さんが戦後どの様に生き抜いたかを語って頂くことに致しました。
 渡嘉敷島のことは、昭和48年5月に文芸春秋より刊行された「ある神話の背景」曽野綾子著で詳しく書かれて居りますが、真実の裏側は複雑でした。

  私は戦争に対して少なからずアレルギーがあります。昭和19年小学校入校ですから幼児期のトラウマからなのでしょう。断片的に記憶している風景は鮮明ですぐ蘇ります。その頃住んでいた世田谷梅ヶ丘の自宅二階から新宿方面を見た時、夜空の端から端まで火の海となって、サーチライトに照らされたB29の機影が幻の様でした。
又、真夜中空襲警報で満月に照らされてる下を、防空壕に避難したこともそうです。思い出したくない記憶も色々とあり、父方の親類に縁故疎開した時の惨めな日々。小学校1年生に、戦車のキャタピラめがけダイナマイトを背負って飛びこめと教えられたことなどです。

 皆本さんにお願いしたのは、今回は戦後どのように生き抜いたかを中心に、係争中のことにも触れて頂くことでした。
 皆本さんは優しい方で、何時も対等に接して頂き、ファンになりました。
 活力溢れて準備周到、色々教えて頂くことが多かった皆本さんに心から感謝すると共に、定例懇話会の益々の発展を念じて居ります。














































5205 北里柴三郎博士への冷遇 
                               門脇 弘
  去る三月二十二日に放映された「その時歴史が動いた」の北里柴三郎博士紹介は、殊のほか興味深くスクリーンに釘づけされた。
 それは第一回ノーベル賞候補となった北里博士が、「小僧、小僧と先生は私を呼んでいました」と私に話してくれた町田辰次郎元国際電信電話社長(伝染病研究所で受付係)には手紙を戴き、弟の処女出版『手相への招待』(明治書院)のロ絵にも飾ったこと、また町田氏は私達の結婚式に乾杯の音頭も取って下さったこと、さらに三木武夫元首相夫人運転の車で町田・私・弟の三人が同乗して加藤根っ子の家会長の式典にも伺ったことなど、間接ながら縁が深いからだ。
 また、北里博士の許で伝染病研究所時代に細菌学の研究をしていた野口英世(ノーベル賞候補に三度もノミネートされている)の伝記も私は書いており(NHK出版 『日本の創造力』全十五巻)、私達兄弟は大学四年間、英世博士の甥英栄氏宅に下宿、英世博士実姉イヌさんが健在だった昭和三十四年頃に会津まで赴いて手形も頂戴し、「野ロ英世と生命保険」の記事(平成七年十一月十五日号『東大新報』)も書いているなど、北里博士とは幾つもの接点があるからである。
 NHKテレビでは、北里博士がコレラやペストに対する輝かしい業績を紹介していたが、今回は世界的医学者の北里博士が母校の東大では冷遇されたことに触れる。
 さて日本の近代医学は西洋医学の輸入に始まった。幕末からオランダ医学の輸入は行われていたが、主流は漢方医学であって、明治元年に新政府が西洋医術の採用を決めたのは「漢方は戦場での役に立ち申さず」というのがその理由で、富国強兵の大方針が政府に漢方医学を捨てさせ、近代医学を生んだとも言えるわけである。
 明治七年の統計によると、全国の医師 28,262 人の中、漢医は23,015人、洋医は僅か 5,274人(漢洋兼務もあって合計数は合わない)で、それも正規の学校教育でなく、独学でオランダ医学を身につけた人がほとんどの時代であった。
 東大医学部は洋医養成の目的で生まれた。明治七年、幕府が開いた種痘館の流れを汲む東京医学校がスタートで、十年には東京帝大医学部に変わった。設立の目的は明治十三年に出た教育方針の「本部は医生を教導し、医学を拡充するに適せる人材、即ち医学士を養成するをもって要務とすべし」の文字で明示されている。
 主流はドイツ人であった。明治十年のスタッフは総理・池田謙斎と総理心得・長与専斎を除いた十―学科の教官は「外科・シュルツ」「内科・ベルツ」などすべてドイツ人であり、イギリス医学も試みられたが、国情が日本に似ているということからドイツに切り代わり、東大はドイツ医学の分家として出発した。
 当時、各地に府県立の医学校が設けられたが文部省はこれらに「医学士三人以上を置かなくてはならない」と規定し、医学士は東大以外からは生まれぬので、東大の全国支配の基礎はこの時に作られたといえる。そして東大の意にそぐわないものは厳しく冷遇された。よく例に挙げられるのが北里柴三郎博士である。
 北里博士は明治十六年に東大を卒業、内務省に入り、ドイツに留学、コッホに入門、八年後に帰国した。当時、博士は国際的に名声が高かったが、帰国後は少しも重要視されなかった。内務省畑の北里博士が官僚嫌いの東大に嫌われたのが原因だといわれているが、東大と北里博士との学問上の対立が一層輪をかけた。その一つは「脚気菌事件」である。ある東大教授が「脚気菌を発見した」と発表した。脚気は当時の国民病で大きな話題を呼んだが、これを北里博士が批判して感情的な対立にまで増幅した。更に「竹内菌事件」がある。東京・芝の竹内氏が疑似コレラに罹り、北里博士の伝染病研究所がコレラ菌を検出して真性だと断定した。ところが収容された病院で東大系の医師が再検査を行い「コレラ菌ではなくコレラ菌に似たコンマ菌しか発見されない」と発表し、両者は新聞紙上で論争を繰り返し、あとでなおも二人の弟子は論争をむし返して争った。対立が尾を引いたまま、北里博士は遂に母校に帰らなかった。博士がのちに福沢諭吉の奨めで伝染病研究所を創設し、また大正六年には慶大に医学部を作ったことや、今その慶大が東大のライバル視されている遠因もこうした対立にあるという学者もある。慶大への医学部設置も半ばなものではなく、北里博士は構想から教授の選定、授業内容、校舎や病院、看護婦養成所の建築に至るまで直接かかわるほど全精力を注入しているのだ。
  「科学としての医学」でなく「国家利益のための医学」として生まれた日本の医学はその後もさまざまな歪みを生み続けた。後年、ベルツは「日本は西洋医学の成果を受け入れたが、それを生んだ精神を学ぽうとしなかった」と言って去ったという。今もベルツの胸像は東大医学部のある丘に立っているが、昨今の医学会の現状をどんな感慨で見守っているのだろうか。

































   

あづま路 51号 平成18年1月
新春を迎えて    林 寅三 郎
年頭有感 二題 高橋 正二
「長持ち」と
  「食器洗い乾燥機」
 
工藤 とむ
三渓園を訪ねて 大橋 春男
湯島聖堂・ニコライ堂巡り 小川 日出夫
佐久間象山の呼称論争 門脇  弘





















































5101 新春を迎えて  林 寅三 郎
  謹んで新春のお祝いを申し上げます。
 会員の皆様には、お元気で爽やかな新春をお迎えののことと、お慶び申し上げますとともに、旧年中賜りました御厚誼に厚く御礼申し上げます。特に昨年夏突然SKK の理事長を拝命し、慣れぬこと故、多くの方々にいろいろと御迷惑をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます。まことに至らぬ者ですが、なにとぞ今後とも密接な御指導・御協力を賜りますようお願いいたします。
 理事長になりまして、SKK設立の目的を再考してみました。会則には次のように記載されております。
<SKKの目的>
 本会は、会員相互の親睦・啓発をはかり、豊かな人生づくりに資することを目的とし、次の二項目を主要課題とする。
(1) 日本の歴史、文化、伝統などの研究と普及、および次代への継承。
(2) 変化する社会環境に対応できる情報の入手。

この目的に従い、SKKとして今後検討すべき事項を思いつくままに挙げますと、
○ 主要課題(1)の我々が研究した日本の歴史・文化・伝統等を如何にして次代 に継承するか。
この課題はSKK会員全員が意識し行動すべきことであって、会としては集会 等を公開勧誘し、一般人の参加導入を計画的に行います。
○ 主要課題(2)変化する社会環境
・ 高齢化する社会
最近街に出ると高齢者によく出会い、わが国は高齢者が増えたなと痛感して います。来年2007年は、あの団塊の世代の方々が60歳になり、わが国の高齢化は一気に進むことになるそうです。
わがSKKは会員の3割が傘寿の祝いを終えられており、高齢化はさらに進むと考えられ、この対策が今年の極めて重要な課題であります。
高齢者はその豊富な識見と経験からわが会の宝であり、尊敬と愛情をもって 接し、会の催す集会には積極的に参加していただき、御指導いただくよう努めなければなりません。 ただし、高齢による身体の感覚の衰えには十分留意し、危害予防につとめることが肝要です。
  ・ 国際化する社会
    新聞の広告欄で週刊誌の広告を見て気が付いたのですが、カタカナで書かれ た言葉が多いことです。外国の人名・地名ならわかりますが、ビジネス、スポーツ等の外国語そのものならまだしも、フリーター、ゲームソフト等の和製語も見られます。
何故このようなカタカナ語が多くなったのか。言葉社会に混乱はないのか。  一説にはパソコンによるインターネットが盛んになり、わが国が国際化されてきたためだとも言われています。最近ではインターネット、ホームページ 等のIT用語(情報技術用語)も盛んに使われるようになりました。
カタカナ・略語辞典が必要になるかもしれません。

  以上の中で今最も重視すべき課題は<わがSKKの高齢化対策>だと思います。  会員の皆様がマンネリ化を脱し、積極的に集会に参加しようという意識の向上を図 るにはどうするか、私のこの任期に課せられた重大な使命と考えています。
皆様の積極的な御協力・御提言をお待ちしています。

















































5102  年頭有感・二題            高橋 正二
 一、     先ず以って 謹而奉祝皇紀二六六六年新春、皇室の弥栄を寿ぎ奉ります
  政府の「皇室典範に関する有識者会議」で最終報告書を小泉首相に提出、本年の通常国会に提出したい意向を報ぜられている。希わくば日本悠久の伝統を汚さぬよう、早急の結論を出さぬよう慎重に運んで戴きたいものである。
二、      椛島有三氏(日本協議会会長)が「祖国と青年」昨年八月号に、「昭和天皇の見解─大東亜戦争の原因について」を掲載されている。これは昭和二十一年三月から四月にかけて四日間五回にわたって五人の側近に対して、戦前の歩みを回顧された昭和天皇の談話の一つであり、戦後最初に語られた内容で、木下道雄侍従次長の「側近日誌」と寺崎英成御用掛の「昭和天皇独白録」を基調とされている。昭和天皇の御慧眼、その御達見、日本国の元首(象徴ではありません)として外患をどのように御心痛遊ばされておられたか、その要領のみを謹書してみよう。

1.大正八年ベルサイユ講和条約における日本の人種平等案の否決(詳細な  説明を省く、以下同じ)
2.アメリカの排日移民法の成立
3.ワシントン海軍軍縮条約
4.日英同盟の廃棄
5.青島還付の強制
6.支那の反日教育
   上記の如き外患に続いて当時の国内、内憂に就いて次の如く述べられている。

  「困難な世界情勢を憂え、祖国の前途を気遣う人々は、清新・強力な政治を求め、こうした国民の声に応えようとしたのが軍部のいわゆる革新将校たちであり、手段を選ばぬ行動であったが、その行動は祖国の前途を憂いにあった」
 「国民の不満を追うて軍が立ち上がったのであるから、たとえ軍の中心勢力たる少壮客気の者達が手段を選ばざる無謀を敢えてすることがあっても、これを抑止するということは難事中の難事であった。何故ならば、これら無謀な行動も国家の窮状打開という憂国的行動と一脈相通ずるかの観を呈していたからである。
    私はこれら無謀な行動を招来すべき結果に付いて非常に憂慮したが故に、機会ある毎に軍の首脳者に対し諭すところがあったが、下克上の風潮流行し、首脳者の訓戒も部下に徹底しない。さればといって、私自身直接に下級将校を面諭することは、軍の指揮統率の上から許されること(以下不明)」とおのべになっておられる。
    かって二・二六事件の時、昭和天皇の御激怒、「私自ら鎮圧に
」とまで仰せられたと閃聞していた私にとって、今このお言葉を拝読し、嗚呼、かれら革新将校達に対する御憐憫の御心中を拝し、肝銘特に深いものがある。一時は反乱の徒として戸山原刑場にて処刑された憂国の士よ、以って安心して冥せられよ
























































5103 「長持ち」と「食器洗い乾燥機」 
                        工藤 とむ
 押入れの片付けをしていて、二年程前の日本経済新聞に《女性が買いたい「ハイテク家電」》という見出しで上位十品目の表が掲載されていた記事が目についた。
(1) 薄型テレビ
(2) 食器洗い乾燥機
(3) 洗濯乾燥機
(4) サイクロン方式掃除機
(5) マッサージチェア
(6) 高画質デジタルカメラ
(7) 排気を抑えた掃除機
(8) 生ゴミ処理機
(9) ターンテーブルのない電子レンジ
(10) DVDプレーヤー
これをみて驚いたことは、なんと我が家には十品目のうち一つもないことだった。 二位の食器洗い乾燥機は結婚して新生活を始める時に購入する「ブライダル家電」の 定番になりつつあると、その記事に書かれていた。
  そうか、今の時代は何種類もの食器を使って楽しく豊かな食事の出来る時代なんだ と改めて思った。私の新婚時代は、終戦から一年程過ぎた頃の田舎での生活だったの で、日常の食事はかまどで煮炊きし、水道もなく、井戸水で茶碗、おわん、箸、それ に小皿と小丼ぐらいを手でチョコチョコと洗えばおしまいだった。(かまどの焚火で 真黒になった鍋底を洗うのには一苦労だったが…)
  嫁入り道具も箪笥、長持ちを用意出来た人はごく稀で、今や長持ちは死語になって しまい、若い人達の欲しいものも「長持ち世代」と「ハイテク世代」では全く違って しまった。

・ テレビは別に薄型でなくたって、ゴロン型でも映る中身は同じじゃないか。
・ 電子レンジの中の皿が回ったって回らなくたって、冷やご飯を温めてくれればそれで十分。 と「長持ち世代」の私はついつい考えてしまう。
  天日で干した洗濯物には、乾燥機で乾かしたものとは違った、太陽の匂いが込めら
 れているようで、昔の暮らしにもまだまだ捨てがたいものがあるように思う。
  SKKは《真空管ラジオ》から《薄型テレビ》まで、さまざまな暮らしを体験し、それぞれの時代の生活の知恵を身につけた人たちの集まりでもある。
  会員相互の心の潤滑油の役を果たしながら、ハイテク家電的な活動を取り入れている
SKKに、心からの感謝をし今後ますます発展することを期待している。 
























































5104 三渓園を訪ねて  大橋 春 男
  11月18日の水曜日。いい案配に天気に恵まれました。  秋の『自然・史跡を訪ねる会』は横浜市本牧の名園三渓園でした。ここは横浜の明 治・大正期の大富豪、原三渓氏が私財を投じて築いた広大な日本庭園です。特に重要 文化財と称する多くの仏堂や塔、茶室などが自然の地形に配置され、見事な調和を作 り上げた芸術作品ともいえる名園です。
 平成9年5月の「国有武蔵丘陵自然林を訪ねる会」を第一回として発足したこの会も、早いもので8年を経過いたしました。ない知恵をしぼっての計画に会員の皆様の積極的なご提案、ご支援をいただき、どうやらここまで継続させていただきました。 あらためて会員皆様にお礼を申し上げます。
 この日も秋の柔らかい日差しに誘われたのでしょう、24名の参加でした。
 園内施設の案内と説明は三渓園ボランテイアガイド?にお願いしたのですが、ちょうど一年前に林野庁グリーンサークルの野鳥観察会がここで開かれて、小生も同会の野鳥担当の講師として参加し、今回同様にボランテイア殿に園内を案内をしていただいたのですが、その際のガイドは案内業務をはじめてまだ数ヶ月だったとのこと で、 必ずしも満足したガイドではなかったようでした。
 そのため、SKKの今回のためのガイド依頼にあたってはただ施設の名前や簡単な由来だけではなく、この園の開設者の理念、意図、文化的説明も合わせてのガイドを願いたい?との依頼書を園事務所に提出したのです。その結果だったのでしょう か、
今回の案内をしてくれたガイド氏2名はかなりのご努力をなさったのでしょう。1年前に小生が購入して読んだ『原三渓物語』にもなかった三渓のプロフィールや時代背 景などを、解説の合間などに挿入して、興味深いお話?にしたてて案内してくれました。

 小生は改めてその翌日、園事務所にその旨のお礼の電話をいたしました。短い見学時間の設定で大急ぎでの見学となりました。時間見積もりの失敗でした。
 しかし、見学が終わり最後のガイド氏の締めの際、会員の某氏から?三渓さんはど んな理由から著名な寺院のシンボルなどをお集めになられたのですかとの質問が でました。一応、予定の見学コースを完了し、最後の締めをガイド氏が語った後の質問だったのですが、時間も過ぎており、ガイド氏は腕時計を見ながら話せば長くなる のですが、明治の頃、仏教は廃仏毀釈という仏教排撃の運動に見舞われ、お寺は攻撃 の的にされて運営不能になった。大きなお寺ほどその被害を受け、取り潰し寸前になった。それを三渓さんが一部の建造物をここに移築して救ったのではないかと推察しています?と説明されたのです。しかし、食堂の時間が迫っていたせいか、それ以上 の質問も出ず、お開きにになりました。私からガイド氏にお礼の挨拶をいたし、一同は昼食の予約の食堂に向かいましたが、なんと参加人員の数人が見当たらないことが わかり、私はじめ理事の二名が探しに出るなどの予期せぬ出来事などから、 あのガイド氏の最後の説明の廃仏毀釈の意味が皆様に理解されたかどうかの確認をする暇 もなく、食事終了にて解散となるにいたりました。小生にとってはどうも気になる幕切 れだったのです。

 後日、SKK理事会が開かれ、林理事長から?三渓園についての報告を『あづま路』に記すべし、との指示があり、その報告の中で『気になる幕切れ』の補完を改め させて頂くことにした次第です。

│ 実は当日のガイド氏の最後の説明に質問をした会員の疑問は、2ヶ月前にこの園の下見の時にも小生も感じ、パンフなどを読んでもその肝心な箇所の詳細は不明ですし、また、先に事務所で買った『原三渓物語』という三渓氏の生涯記を読んでも一代記で ありながら、肝心の文化財を集める意図の明確な記載はありませんでした。だが、こ の一代記で判ったことは三渓氏の『文化』に対する深い理解と熱い情熱でした。さらに、当時の実業家としては稀ににみる教養の深さでした。
 ガイド氏が最後に説明した『廃仏毀釈』による寺院建造物などの荒廃した有り様には当然、三渓氏は愕然とし、この暴挙に怒り、それらの文化財の移転保護に全力を注いだことは理解できます。
 『廃仏毀釈』については小生もその概略は知っていたものの、三渓園の重要文化財 がそのままこの歴史的暴挙と結びつくとは小生も実は考えが及びませんでした。 たとえば、この園の『京都の旧燈明寺三重塔、および本堂』や『旧東慶寺仏殿』の 見学の際、小生も気になったことがあったのです。『東慶寺』といえば、現在、鎌倉 でも有名な寺で?女の駆け込み寺とか、?縁切寺とかの名前で有名で、毎日多く見学者が押し寄せている寺です。個人的にもここの『向寮塚』には義兄が眠っており、財政的にはかなり恵まれている寺に思われ、なのに何故、寺宝でもあるそこの仏殿が、ここに移されているのか不思議な思いがしておりました。また『三重塔』も聖武天皇 の勅願寺の京都の燈明寺にあったもので、この園でも東慶寺仏殿などとともに重要文 化財級の立派な建築物です。(移築は記録では大正3年)そんな大事な寺宝がなぜ人 手に渡されたのか。なぜ、横浜に移転されているのか。なぜ、三渓氏の財力と交換で手放されたのか。

 三渓氏はあらゆる文化にもたいへんに造詣がふかい教養人でした。財力だけにまかせて、やたらにただ収集するだけの行為は考えられません。けれども、この園の主な建造物の多くは寺院のものです。価値ある寺宝を集めるきっかけは果してなんであったのか。なぜ明記してないのか。
 ガイド氏が最後に話された、あの『廃仏毀釈』という短い言葉で、私はいままで疑 問に思っていた〔寺宝の移転〕の意味が明確に理解できたのです。

 三渓氏は単なる財産家ではなく、文化に理解のある教養人で、横山大観や下山観山、平櫛田中などのおおくの著名な芸術家を援助して世に送りだしておられる大実業家で した。
 そのほかにも、佐々木信綱、芥川龍之介、夏目漱石、そして、かの『古寺巡礼』の和辻哲郎など多くの芸術家や学者などとの交際も多かったのです。
 当然、あの明治の始めの暴挙『仏教絶滅』への救いの行動は理解できます。
 三渓氏は慶応4年の生まれ。原家に婿入りしたのが明治24年。文化保存運動に関わりだしたのは明治36年あたりで本人は35歳の頃だったでしょうか。

 ここで簡単に明治初期の仏教を巡る事情を私の乏しい知識から記してみましょう。
 はじめに、日本の古来からの神道と、インド、百済経由で入ってきた仏教(538年頃)との関係です。当然に揉め事が起こりました。?神か仏か崇佛派と排佛派との激突です。勝利は崇仏派となり、仏教は日本に上陸、?神も仏もとなりました。 そして二つの信仰は折衷して融合調和し、神宮寺などが現れ、二つの宗教は両立した のです。
 西洋では異なる宗教の並立は難しいが、日本では両立し、現在に至っているのです。  一神教(西洋など)と多神教(日本)の違いです。 │
 しかし、日本では歴史的にみれば、この外来宗教の仏教を排撃する運動が明治初期にも再び起こりました。二度目の危機だったのです。神道家などを中心に各地で寺院や仏像の破壊、僧侶の還俗強制などが起こりました。この時には多くの仏殿や仏像が壊されたそうです。仏教絶滅の危機だった。この暴挙により日本の多くの仏教寺院は 危機に見舞われ、立ち行かなくなった次第です。

 ここで救いの手を差し伸ばした一人が、文化を守る三渓氏だったのではないか。
 黙っていれば朽ち果てる運命の文化財を大金を出して引き取り保存した、推察できます。三渓園の入場時のパンフにもこの事、つまり、なぜここにおおくの重要文化財が集められたのか、これについては少しも触れておりません。何故か。小生の推察で すが、それは三渓氏の意思として、恩着せがましい言動として受け取られる事を避けて、伏せられたのでないか。印象的な白川郷の合掌造も、御母衣(ミホロ)ダム建設のための水没から救ったもので、おなじ発想からの行為だったのでしょう。勿論、この合掌造は昭和30年代に三渓園へ移転されたのですから、すでに三渓氏は昭和14 年に亡くなっており、意思を継いだ財団法人三渓園保勝会の決断だったに相違ありま せん。
 どうやら、三渓氏、および同財団は個人的な業績を前面に立て、それを誇るといった行為からまったく隔絶した存在だったのでしょう。俗っぽいこの時代に珍しき行動 です。
 あの観察会当日にガイド氏が短い時間に言わんとしたのは、以上の事実だったのではなかったのではないか。あと数分、小生が融通をつければ、ガイド氏はこの程度の事 実は述べてくれたもしれません。進行係の小生としては誠に慙愧に耐えぬ次第でした。改めて陳謝します。
 なお、前記した『原三渓物語』とは新井恵美子氏の『原三渓物語』(神奈川新聞社発行)です。1,500円で三渓園事務所で売っています。ただし『廃仏毀釈』に関しては触れておりません。念のため。

 三渓園の梅の頃、また春の桜の時期も良いようです。お勧めいたします。改めて三 渓氏の志が感じられるかも知れません。
 次回の『自然・史跡を訪ねる会』は18年5月頃。行き先は鋭意検討中です。














































5105 湯島聖堂・ニコライ堂巡り 
                    小川 日出夫 (H17.10.18)
  今回のニコライ堂見学は、7月に亡くなった前理事長の横山さんから4月に頂いた 電話から始りました。ニコライ堂には横瀬さん(横山さんと同期生)が関連されて居り、7月にでも実施の御意向でしたが、中本さんの講演会が予定されて居り、10月に決定したのです。
  何かの話で釜谷さんからニコライ堂だけだと時間に余裕があり、湯島聖堂も一緒にどうかとの提案があって、山の上ホテルでの昼食をはさみ湯島聖堂・ニコライ堂を巡るコースになりました。元々、湯島聖堂とニコライ堂をつなぐ聖橋があり、御茶ノ水駅のそばですが、私は行ったことがありませんでした。神田の学校に通ってたのですが、その頃アルバイトに追われて居た為であります。
  湯島聖堂は2回下見し、当日聖堂の扉を開けてもらうことと、簡単な紹介をお願いを致しました。聖堂が上野から現在の場所に移転したのは、五代将軍綱吉の頃(1690年) で、その後4回火事で燃えてます。今の聖堂は昭和10年再建されたもので、設計は伊東忠太でした。彼は築地の本願寺・江ノ島の児玉神社も設計しました。東京駅・日銀本店を設計した辰野金吾の弟子であり、辰野金吾はニコライ堂の建設に係ったジョサイア・コンドルの教え子でした。

 ニコライ堂はイアン・カサーツキン・ニコライが1875年から建設し1891年に完成してます。ニコライは25才の時来日、函館・東京でロシア正教布教の為尽くしました。コンドルも25才で来日し工部大学造家学科(東大工学部建築科の前身)の初代教授になり、辰野金吾を始め多くの建築家を育成しました。コンドルは鹿鳴館・上野博物館・古河別邸など多くの洋館を設計し、奥さんは日本人で亡くなるまで日本で働きました。
 昔の湯島聖堂を撮影した写真が聖堂にありましたが、ニコライ堂の建設中、足場から撮ったとされてました。全く正確の違う建物が聖橋をはさんで近くにあり、色々な人々の関りが織りなして興味が尽きません。

 横山さんのリクエストで始まった今回の見学は、亡くなられて3ヶ月後に実施されましたが、御一緒出来なかったことと、御紹介頂いた御礼を申し上げられなかったのは誠に残念でありました。
 横瀬さん、釜谷さんからも何かとお世話になり重ねて御礼申し上げます。




















































5106 佐久間象山の呼称をめぐる論争  門脇 弘
<「しょうざん」か「ぞうざん」か>
  「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」という川柳があるが、「ダニューブ川のさざなみ」のドイツ語名ドナウや「ジュリアス・シーザー」を「ユリウス・カエザル」と呼ぶなど、地名や人名の読み方の違いは多い。
  作家の野坂昭如氏と話した時、名前の呼び方に触れたらアキユキが正しいとのことだった。丸尾長顕氏を取材時に名前の呼称を伺ったら、「正式にはナガアキだが、チョーケンさんという人が多いのでチョーケンでもよいと思っている」とのことであった。
  ところで佐久間象山の呼称も今なお二説に分かれて、それぞれ自説を主張して譲らない。

 NHKの大河ドラマ『花神』(五十二年)や『勝海舟』(四十九年)では象山に扮して南原宏治や米倉斉加年が出演したがショウザンと発音していたし、NHK『日本史探訪』でもショウザンであった。『言苑』『辞苑』『広辞苑』(第一版)では新村出博士はゾウザンとしているが、『広辞苑』(第二版)ではショウザンと改変されている。
 象山が攘夷派の刺客に暗殺されたのは明治になる四年前の元治元年(一八六四年)だから今から百四十二年前だ。わずか百四十年ほど前のことでも名前の読み方がまちまちになるのだから、歴史の真相は把握が難しい。
 ショウザン説を見ると、漢学者でもある象山が自分の号を漢音と呉音とを混ぜたゾウザンなどの読み方をする筈がない、また気性が陸象山に似ているからそれにあやかったのだ、それに象山の晩年の弟子で九十まで長生きをした久保成翁が自分たちはショウザン先生と呼んでいたという証言、それから狂歌にも「大砲を撃ち損なってべそをかき、あとの始末をなんとしょうざん」とある、などである。
 片やゾウザン説では第一に松代に象山という丘阜があり、佐久間は江戸や京都にいても懐かしんでいた。天保七年、二十六才の時に帰藩し、それまでの号を捨てて山名をそのまま号としたと、彼自身が言っていること。
 第二に彼は多くの志士と違って程朱学派であり、陽明学には批判的で、陸象山とは学問も信条も異にしていたことを彼自身が明言しているのを、他郷の人が知らなかったこと。
 第三には彼は人がショウザンと呼んでも意に介さなかったこと。
 第四に呉音と漢音の混用(井上哲次郎博士)というが、古来両音混用の人名は多く栄西(えいざい)を始め平賀源内(げんない)、由井正雪(しょうせつ)などもこの事例である。
 第五に所持品にSSSなる文字があるのを決定的なショウザン説とする人もあるが、佐久間・修理・子明と考えることもできる。事実、本名修理のほか号にも子明、滄浪、清虚、左翼、信狂などとSを頭文字とするものを使い分けていた。
 第六に徳富蘇峰は勝海舟の晩年によく訪ねていたが、「海舟は象山をはっきりゾウザンと言っていた。ショウザンと呼ぶのは間違いだ」と言っていること。
 第七に『勝海舟自伝』にも明記のあること。因みに海舟の妹は象山の最後の妻女であり、海舟は象山の義兄で象山とは最も近い婚姻関係にある。
 第八に「浅井冽作詩『信濃の国』には『象山(ぞうざん)佐久間先生も…』の1節があり『広辞苑』の出版元岩波茂雄も生前には愛唱者だった」(岡茂雄氏)こと。
 第九に『広辞苑』編集室主任であった市村宏博士は松代出身で佐久間と因縁あり、初版はゾウザンとしたが後任の陽明学派である井上哲次郎博士はショウザンと改変してしまい、市村博士が何度提唱してもショウザンに固執したこと。
 第十に松代出身の宮本仲氏は著書『佐久間象山』(岩波書店)でゾウザンを主張、諸橋轍次博士もゾウザン説を採り、昭和九年に信濃教育会ではゾウザンに統一する旨を文部省に進言している。
 井出孫六氏は『日本経済新聞』(五十七年十二月日付)の文化欄で蚊里田神社の幟
と本誓寺の文献を引用し、「ぞうざんではなくしょうざん」なる論文を書いたが、私は六十二年五月十六日、清水保羅先生の案内で象山の菩薩寺・松代の蓮乗寺を訪ね、住職の早川要義氏からゾウサン説の有力な証拠が井出氏発表のあとで現れたことを聞き、五月十八日、長野市立図書館に行き『信濃毎日新聞』(六十一年七月二十九日)で「象山雅号の由来」なる記事を確認した。発見者は書家丸山楽雲氏(三八)でゾウザンの呼称が正しいことを五百字ほどの漢文で述べている。矢沢頼忠象山記念館長や書家・高橋雲峰氏は「直筆は松代町にもなく本物なら極めて貴重」で、これがゾウサン説論証の第十一である。
 第十二として井出孫六氏は反切により漢字の音を説いているが、最近市村博士は『信濃教育』誌で「象は所蔵の反」の所にはショのほかにソの音もあり「象のうそぶくに似たり」なる前文から、当然ゾウザンと呼ぶべきだと主張している。ショウザン、ゾウザンのほかに学問的にはショウサンが最も正しいという学者もいるが、呼称の討議も重要だけれども、要はその人を正しく理解し、正当に評価する方がより大切であると識者はいう。

 ともあれ、和製ダヴィンチともいえる象山は先見の明がありすぎて悲劇の人となった。池島信平はジャーナリストは世の中より半歩前を歩むべきだ、一歩じゃ進みすぎる、と言っていたが、オピニオン・リーダーというものは世の中より何歩前を歩いているのがいいのか、これは大変に難しい問題である。





































 
あづま路