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平成19年度

54号

55号



年間2回発行に代わりました。







































   

あづま路 55号 平成19年7月
 日々是好日!!    落合登美雄
「椰子の実ひとつ」 大橋 春男
「谷間の残雪」
 札幌での高校時代を顧みて
笠原  修
 雲南への旅 中本 保子
 習  慣 依田 武敏
 大木戸句会(俳句集) 大木戸句会
 バス車内での出来事に思う 桂   淳子
 異国の風を感ずる
    横浜山手西洋館を訪ねて
小川日出夫





















































5501 「日々是好日」!!  落合 登美雄  SKK理事長
 私は約35年前に栃木県のゴルフ場に行ったことがある。そのゴルフ場は開場して間もない時で晴天の日であった。気持ちよくゴルフを楽しみ、風呂から上がって応接間にはいると、大きな額に次のようなことが大書してあった。

   ☆長寿も芸のうち.....
1.還 暦(60才) とんでもないよと 追い返せ
2.古 希(70才) まだまだ早いと突っ放せ
3.喜 寿(77才) せくな 老楽 これからよ
4.傘 寿(80才) なんの まだまだ役に立つ
5.米 寿(88才) もう少し お米を食べてから
6.卒 寿(90才) 年齢に 卒業はない筈よ
7.白 寿(99才) 百才のお祝いが済むまでは
8.茶 寿(108才) まだまだ お茶が飲み足らん
9.皇 寿(111才) そろそろ行こうか日本一。

 今 SKKでも高齢化が進み、体調不良で退会もやむを得ない人も出るようになりました。そこで、今必要なのは、皆様の健康は無論ですが、会員の増強です。
 毎月の理事会においても、このことを話し合っています。会員の皆様の理解を頂き会員の増強運動に、ご協力をお願いいたします。偕行社も会員増強に自衛隊の退官者が毎月20名ぐらいあると聞いております。この人達への働きかけも一理かと思っております。
 SKK(相互啓発懇話会)は会員相互の親睦、啓発、豊かな人生造りに資することが目的であり、日本の歴史、文化、伝統などの研究、普及、更に変化する社会環境に対する情報入手 等が会則に明記されております。その目的達成のために理事一同、全力を傾注いたしたく思っております。更にあまり難しい議論にこだわらず、「和」を尊び、楽しい「会話」が満ち溢れる会にしたいものです。
 長寿の元は「頭と足を使う」事だと言われております。大いに、頭と足を使う催し物を企画し皆さんが楽しく、SKKに参加したくなる会にしていきましょう。会員の皆様の健康が第一です。

















































5502  「椰子の実ひとつ         大橋  春男
 -前書き-
  愛知県の三河湾は西の知多半島と東の伊良湖岬に囲まれた湾です。これはそ の伊良湖岬での話です。この岬を人はよく[イラコ]と読むが、正しくは(イラゴ)と濁るのです。
  いま、この伊良湖岬の先端は秋にはサシバという鷹の渡りの名所となり、その渡りの頃には一日、二千人以上の鳥見のバード・ウオッチャー達がこの岬に押し寄せてきます。9月の末から1か月がその時期で、最盛期は10月の10日前後の一週間。
  夜明け前の3時頃から、岬の大駐車場は観光バスで満杯となり、鳥見人は夜明 けまで車中で仮眠を取り、日の出30分前になると、どの車からも人がゾロゾロ降りだし、望遠鏡などをセットし、東の岬の空を見つめ、鷹の飛び立ちを待つのです。
  やがて空が明るくなると同時に、日の出の真下の岬の上から10羽程の鷹のサシバか、舞い上がり輪を描きながら、空に上がっていく。その先陣が大分高くなった頃を見計らって、本隊のサシバの大編隊が岬の森から一斉に舞い上がり、輪を描きながら、上空へと登っていく。その登りざまをバード・ウオッチャー達は『鷹柱』と呼ぶのです。
  15分過ぎるころには空は輪を描く鷹で一杯になり、やがて、鷹柱は崩れ、西に
向かって一斉に流れて、対岸の紀伊半島の伊勢の方に海を越えて飛び去っていきます。
  1時間くらい過ぎると、浜辺でそれらを見送ったウオッチャー達は”ホッ!”とため息をつきながら、まだその余韻にひたって飛び去った西方を呆然と見つめている。このサシバの行き先は沖縄、台湾、華南、フィリピン等の暖かい所で、来春、再び暖かくなった日本に渡ってくるのです。
  以上がサシバの渡りの説明で、長すぎましたが、これが『椰子の実一つ』の前座となります。

 -本文-
  ここからの話は、日本の民俗学の開祖と言われる柳田国男先生が、昭和27年に発表した『海上の道』という論文の一部です。
  この論文は柳田国男が明治30年の夏、東京帝国大学の二年生の夏休みに、三 河の伊良湖岬の突端に一月あまり滞在していた時に見聞したことを纏めたもので 、日本の文化は南方の島々から波にのり、筏か舟にのってやってきたのではなか ろうか、という仮説で綴った随筆風論文です。柳田全集の中では好きな論文の一 つなので記憶しておりました。
 - 彼は毎朝、伊良湖岬の東側の「恋路が浜」という粋な名の海岸を散歩するのが日課になっていた。ところが。その海岸にはさまざまな流れ物が寄せられており船具や船の破片などに会うと、遭難事故の物語が想像されるやら、物により、様々なストーリーが書き上げられるような漂流物も寄せられている。風のやや強かった朝などには、椰子の実が流れ寄っていたのも三度ほど見たことがある。どの辺りの沖の小島から海に浮かんだものかはいまではわからぬが、ともかくも遙かな波路を越えて、渡って来ていることが私には大きな驚きであった。と書いていました。
 この話を東京に帰った柳田国男は、親友の島崎藤村に話す。しばらくしたある日、藤村が柳田のところにやってきた。『あの椰子の実の話貰いましたよ』といい、書いた詩を見せる。

    『椰子の実』
  名も知らぬ,遠き島より   流れ寄る 郷子の実一つ
  故郷の岸を 離れて   汝はそも 波に幾月
  旧の樹は 生いや茂れる  枝はなお 影をやなせる
  われもまた 渚を枕     ひとりみの 浮寝の旅ぞ
  実をとりて 胸にあつれば    新なり 流離の憂い
  海の日の沈むを見れば    たぎり落つ 異境の涙
  思いやる 八重の汐々    いずれの日にか 国に帰らむ

 柳田国男が感動した章句は『そをとりて胸に当つれぱ 新たなり流離の憂い』 で、もとより柳田自身の挙動でも感懐でもなかったのだが、この詩文には自分ながら感動し、詩人と自分との異なりを思い知らされた、と書いています。
 二人は互いに異なる分野に名をなしながら、特に仲がよく、互いに相手を信じあっていただけに、詩人の心と民俗学者の興味の違いに私は”新たなる感動”を受けたのか、『伊良湖岬』の二人の”いきさつ”はいつまでも忘れませんでした。

 そんな次第で、10年前を最初に私は3回、この伊良湖岬にでかけました。その一回目の時です。仲間は湘南地方の烏の大先輩の専門家たち。それぞれ鳥歴も長く、中には以前、大きな『鳥の会』の会員を長く勤めた方も同行していました。その時、予約した宿の店頭に椰子の実が沢山べられていたのに私は気がつき “ははぁ、これは島崎藤村の『椰子の実』を商いにしているのだな、と気がつき手に取ってみました。だが、他の先輩殿たちは店頭の椰子の実には何の関心も示さない。一同、何回もご当地に来ているから関心も薄れているのだらうぐらいに私は思っていました。
   夕食は地元の酒に一同、歓談がはずんで、私は愛想のつもりで、店の主人に聞きました。『島崎藤村の椰子の実は売れますか!』。主人は『殆ど売れませんよ。若い連中には島崎藤村なんてあまり関心がないのでしょう』との返事、なるほどと思っていると、先輩の一人が『島崎藤村の椰子の実って、なに?』と話に乗ってきた。
   私は驚きました。島崎藤村の作詩『椰子の実』がこの伊良湖岬が現場であることを、ベテランのバード・ウオッチャー殿たちはご存じない。さらに『なんの話』と乗ってくる先輩もいる。店の主人もこの話には興味を示さず引っ込んだ。仕方がなく、私が縷々、由来を説明してみました。
   『わしは何回もここにやってきたが、そんな島崎藤村と柳田国男との事など聞いたこともない。でも、いい話だねえ、こりゃあ 一 興味ありだ!』という先輩も。
   末輩の私は、知ったかぶりをしてしまったかな、と思い、『皆さんもご存じのことだと想ったもので-』と言い訳をした。だが、ある先輩は『何回もここにやってきたが、この話は初めて。だけど使える話だね。この話を知って恥もかかずに済むよ』。だが、鳥の一番ベテランの先輩と言われる御方は『藤村は知っているが、柳田国男とはいったい何者かね』と憮然たる面持ち。なるほど、天下の民俗学者も鳥見人には縁がなかったのか。
   私は思いました。『余計なことは話してはならぬ! まして、初めての先輩殿たちとの同行には要注意! どうしても、しゃべらざるを得ないときには、必ず、皆さんもご存じでしょうが一、と一言、いうこと』 さらに思ったことは、人は昔から他人との話の仕方で相手のこころの深さが判るもの。初めての方への意思の伝達方法には気を使うことこそ、常識的な人間のやり方だ。でも、『一般に鳥好きの人は割合に広い物知りの人が多いと聞いていたんだが -』。
   どうやら、日本の鳥のベテラン殿の中には、鳥以外の事にはあまり関心を示さない人もいるようだ。それだけに、鳥だけについてはかなりの知識を持っていらっしゃる。アオバトの死骸を拾い、毛の本数を5日間もかけて数えた人もいる。だが、鳥以外のこと、また鳥の周辺の『文化』『物語』には殆ど、興味を持たない者も多いらしい。 ここで思いだした事がありました。

   昭和9年に、日本野鳥の会を創立した中西悟堂さんが書いていました。「鳥の事しか興味を示さない人。そういう人を『トリキチ君』という。自然保護団体の野鳥の会の会員は自然・文化すべての事象に興味を持ってほしいのだ。けっして『トリキチ君』だけにはなってくれるな」と、いっも語り、随筆などにも書いておられた。
  悟堂さんは、この言葉にある予感を得て、あえて機関誌などに書いていたのかも知れません。植物愛好者などにも、樹の名、花の名だけは驚くほど知っているけれども、昔の日本人が、なにゆえに樹や森に心を惹かれるのか、また、どうして日本の神様は森のなかにいるのか。また、花の伝説などにも関心すらも示さない人が多いと嘆く人もいました。

  自然を知るということは、同時に人間を知ることであり、この国の人間の文化と民俗を知ることでもあるのです。

 感動した文章がありました。
  『新緑の頃になると、私はいつも一つの感慨に打たれる、それは樹齢何百年、何千年という老樹たちも一斉に新芽を吹き、新樹の姿となって若返ることである。若木だけではなく、千年の老樹巨木も新緑になる。人間も動物も年とともに老いていくばかりだが、樹木だけは年に一度は必ず若々しい新樹になる。何故だろう。
  人間も獣も虫も魚も動くことができるが、植物だけは自らの根で大地に縛りつけられて動くこともできない。風にそよぐだけだ。動物は人間も鳥獣も昆虫も語ったり歌ったり鳴いたり叫んだりするが、樹木はただ沈黙している。
  神さまはこの不公平を憐れみ給うて、植物だけはどんなに年もとって千年の老木になっても、年に一度は新緑となり、花さえ咲かせて若返る特権を与え給うた。と私は信じている』かって朝日新聞の『天声人語』を長年書きっづけていた荒垣秀雄氏の文であります。                     終り
























































5503 「谷間の残雪」                    
   札幌での高校時代を顧みて
  笠原 修
  札幌南高等学校は、そのルーツである札幌中学校が明治中期に開校してから、今年で百十周年を迎える。
  この栄えある歴史のなかに、時代に過渡期として二年間、わずか二期だが札幌第一高等学校が存在した。このことは同窓生の多くの記憶にあると思うが、どのような状況に置かれていたかを知る人は少ないだろう。
  札幌一中、一高、南校と次々に名を替えた頃の母校に在籍した私たちは、敗戦のショックに重ねて、学制改革というドラステックな現実に巻き込まれ、人生の形成期に様々な影響を受けた。それから半世紀余、札幌一中と南校をつないだ札幌一高は、歴史の流れに風化されようが、いつまでも母校の歴史に刻まれていくことだろう。
  私が現役の勤め人だった頃、札幌出身の相手から「高校はどこです?」と問われることが再々あった。「札幌一高の二期です」と答えると、相手は不審そうな表情を見せる。そのたびに「じつは札幌一中が学制改革で札幌一高となりまして」と言い訳がましく説明することになった。要するに、私には母校があって、ないような曖昧な立場だったのだ。
  昭和二十三年、GHQからの教育改革として六.三.三制への移行が半ば強制的に行われ、全国の中学校のほとんどが男女共学の新制高校としてスタートした。
しかし、札幌市では抵抗勢力が強かったのか、一中、二中を一高、二高とし、もう一つ存在した私立中学を二分化して配分するにとどまった。そして昭和二十五年、私たちが第一高校を卒業するのを待って、校区制を基盤に市内の男女校は東西南北に四分割され、正式に新制高校として南校が誕生したのである。

  私たちの世代は、いつも時代の波に翻弄されてきた。生まれた年に満州事変が始まり、小学四年生の時に大東亜戦争に突入、国民学校に変わる。六年生の氷雨降る秋、アッツ島で玉砕した二千余柱の英霊を小さな胸に抱いて市内を葬送行進した。その想い出は何歳になっても脳裏を離れない。翌十九年、憧れの札幌一中に入学したが、この年から戦時下のランダムな校区制が敷かれたため、それまで全道から優秀な児童を集めて全国に誇っていた一中健児の質が大きく変化したようだ。
  それでも一中に入学後は[破邪の剣]の講堂で質実剛健の校風に馴染み、最後の雪戦会、兎狩り、あるいは遠く植林地への行軍などを通じて一中健児の矜持を涵養した。
  終戦までの二年間は、その頃の先輩達と同じく援農に明け暮れた。担任だった[リック]こと宮崎先生の「一中生 裸になりて田の中で 米増産の 除草機を押す」は、当時の私たちを表した名歌だ。
  このように生まれながら戦争という時代の影響を受け、旧制中学の伝統や文化を一部は享受したものの、戦後の教育改革にも直面、といっても男女共学は味わえず、すべてが中途半端に過ごしてきたような気がする。それでも一中の伝統を継いで進学校としての意気は高揚し、
暗いローソク送電の下、空腹にコッペパンをかじりながら勉強したことや、担任の先生の閻魔帳に一喜一憂した日々が懐かしい。
  時代の流れのカナメにあって、時代に変化を受け入れ、あのドサクサ期に多少の犠牲はあったが、札幌一中から南校へ教育改革をさして抵抗なく引き継いだ一高の一,二期の存在は大きかったのではないか。そのことを、七十路半ばにさしかかった同期の会合で酒が入ると、 いつも誇り高く語り合っている。
  時代の流れに汚されはしながらも、谷間の残雪のように、いつまでも消えることなく、時代の証人として南校発展の歴史の一頁になれば、と願っている。
   後輩達の更なる発展と活躍を祈りつつ。       平成十九年六月
























































5504 雲南への旅        中本 保子
  私は人間の原点を見せてくれるような、未開の秘境が好きです。雲南は秘境とも言えませんけれど、ナシ族、ペー族、ハニ族、タイ族、などの少数民族が、固有の文化を守り、おだやかに暮らしているらしい雲南にはあこがれていました。丁度、孫息子が大学の休み中でもあり、彼も乗り気になつたので、連れる事にしたのですが、足場の悪い道、手すりのない階段など多くて、毎日、彼に手を引いてもらう事となりました。それでも私は疲れ果て8日間の旅を全行程、何とかこなすことが出来たのは、孫のお蔭なのです。すっかり弱くなった祖母を見て孫はどのように思ったでしょうか。3月4日出発のこのツアーは羽田発、関空経由、昆明直行、添乗員を入れて総勢11名、私達は夢を膨らませて元気に出かけました。

  ◎ 先ず昆明は雲南省の首都です。海抜1,900mもあるのですが、緯度が低いので平均気温は17度、別名春城とも言われます。バスで1時間ほどのところに、石林という名所があります。 日本にも見られる、カルスト台地なのですが、スケールが違います。奇岩の林立する中を1時間余りの登り下りで、私は初日から疲れました。自由見学のマーケットの中は殆どが花やさん、花いっぱい、香りいっぱい、の巨大市場に驚きました。このたくさんの花がどうさばかれるのでしょうか。

  ◎ 麗江はナシ族が60%をしめる古都です。青紺色を基調とした、民族衣装の女性たちが水路で野菜を洗ったり洗濯したり、三眠井と言って飲み水とそれぞれ用水は区別されています。畑で働く姿もあり、荷を背負って歩く姿も、たくさん見ました。女性は働き者と聴いていました。 そのとおりです。男性の働く姿はあまり見かけません。数人でゲームをしているところ、たむろしている所など、 子供をおんぶしている男性はよく見かけました 男は遊ぶ事が
仕事とガイドの王さん(ナ シ族の男性)が言っていたことを思い出します。標高5,596mの玉龍雪山が間近に黒瓦の民家、縦横に流れる 水路、柳の若葉がゆれる美しい街全体が世界遺産で観光客でにぎわっておりました。 支配者であった木氏の古城には城壁がない、なぜならば木を囲むと困になるから。 又入口の敷居には金属が張られています。なぜならば木をまたいでは失礼であるか ら、と。

  ◎ チベットに源を発する長江は玉龍雪山5,596mとハツパ山5,390mの間を急流でかけぬけ、高低差3,900mの渓谷を成して流れ下っています。川幅も狭くて虎が跳び越えて渡ったというところから、虎跳峡と名づけられ世界遺産になっています。遊歩道が2.5キロくらい作られていますが、私はリヤカーに座席をつけた人力車に往復乗りました。遊歩道の終点から更に階段を降りて、急流の轟音と飛沫のかかるところまで行くことが出来たので、大満足でした。

  ◎ 長江は更に下ると金沙江というゆるやかな流れとなります。自然の妙で長江第一湾と称するところ、360度流れが方向転換しているのです。これも世界遺産。私たちは河べりで眺めましたけれど、河べりでも湾曲がよくわかります。ここは水深も浅く、流れも緩やかなので、蒙古のフビライや四川からは諸葛孔明も、近年は紅軍の長征もあり記念碑もあって歴史的な場所です。菜の花に彩られた田園と民家、金沙江の流れ、遠く雪山、実に風光明媚なところでした。

  ◎ 大理はペー族の自治州、海抜は1,800mありますが、緯度が低いので年間を通じて気候のよいところです。ペー族の踊りを見ながら、三道茶を味わいました。一苦、二甜、三回味、一は苦いお茶で人生の厳しさを表す。二は人生の喜びを表すもので、クルミや砂糖の入った甘いお茶、三は人生の辛苦を経て幸福になる事を表す、生姜や山椒などの入ったお茶、ペー族のお茶文化です。又ペー族の住居は三坊一照壁と言う、白が基調の壁、太陽を反射させて三坊の住いに取り込む、合理性と芸術味のある住居です。女性の民族衣装も白を基調とし刺繍のある可憐なもの、帽子の房の長いのは、未婚のしるしとのこと。

  ◎ シーサンパンナ(西双版納)は雲南省の最南、北回帰線の南、亜熱帯に入ります。ラオス、ミャンマーに国境を接し宿泊した景洪はメコン河の上流に位置し亜熱帯ですから、このあたり稲作は三毛作、山間部は寒暖の差大きく霧が多いのでお茶の産地、米作のルーツ、お茶の原産地と言われる所以でしょう。自由市場の広さ、食材の豊かさは驚くばかりです。山間部に住むハニ族の家と平野部に住むタイ族の家を訪問しました。どちらも高床、入母屋風、竹や木を使った粗末な掘っ立て小屋です。いづれも大部屋二つ、ハニ族は階段が別、タイ族は階段一つで中に寝室の入口があります。寝室は見せてもらえません。広い部屋のなかは家具なし、衣類やいろいろ壁につる下がっています。床はすけすけのベランダは水場で、洗濯物が干されています。両家とも足踏みミシンが置かれていたのに驚きました。日本からの中古品かもしれません。ハニ族の家では、中年のお母さんが幼児を見ながら、お茶の接待、パパイヤまでご馳走してくれました。裏の山の斜面は霧の中、茶畑が広がっています。家の中には大きな籠に茶葉を干す男性の姿がありました。
  タイ族の家では、ロングスカートのタイ族の衣装をまとった、きれいな若い女主人がいろいろ話してくれたのをガイドの李さんが通訳、彼女は中学を出ているので、中国語が出来、通訳しやすいと李さんは言いました。彼女の話しによると、タイ族は母系制婿取り、婿は3年のためし期間があり、それでよければ結婚、女性が田畑など資産を継いで農作、男は子守はするが働かなくてよい、など。彼女の家には立派な大きな扇風機が二台置いてありました。学歴があって稼ぎがいいのでしょう。帰りがけに宝飾品の商売の話をしましたが、私たち誰ものらなかつたので少し機嫌が悪いようでした。お茶も何も出ませんでした。雲南の最南と言えども、経済成長の波をまぬがれることは出来ないでしょうから、タイ族もハニ族もこれからはどうなるでしょう。

  インターネットで知識も映像も見られる時代、メディアからも情報はたくさん得られます。私はまだ百聞一見に如かずを信じ、老躯を押して出かけた雲南の旅は掛け替えのない思い出となりました。














































5505 習  慣            依田 武敏
 定年を間近に考えた。「定年になったら朝 いつまでも寝ていられる」しかし生活のリズムも狂い、規律もなくなる。それはいやだ。では起きて何をする?一時間ぐらいの散歩だ。
  定年の翌日から始めて13年になる。一年目は荒川土手に向かい、堤防を歩いて一時間ほど。それがいつの間にか今、毎朝歩いている道に決まってきた。元荒川沿いに一㎞を10分で歩く。一時間で6㎞。もう一つは2㎏のダンベルを持って片腕づつ1㎞毎 300 回の屈伸。始めた頃は雨が降ったら歩かなかったが、歩かないと何となくもの足らず、やがて少々の雨なら傘をさして歩くようになった。
  歩いていて楽しいことがいくつか出てきた。すれ違う人々との朝の挨拶。最初はこちらが言葉をかけても返事の無かった人が、二度三度となると向こうから言葉をかけてくれるようになる。 何年になるのか? 毎朝何㎞ぐらい歩いているのか?暑いとか寒いとか、体調のことなど....四季折々の道端の垣根の草花や木々が花をつけたり、葉を落としたりの変化等など...
  今は藤の花が終わりかけ、躑躅の花が盛りになってきている。日の出も早く、四時~四時半には歩き始める。空気がきれいで清々しい。お陰様で健康維持の特効薬となっている。





























5506    大木戸句会    編 川和作二
  大木戸句会(SKK会員分)  当期(春~初夏) 五十音順

                               飯倉豊司
        薫風や  海女の磯笛  船端に
        新茶汲む  琥珀の滴り 汲み分けて

                                釜谷石瀬
        鳥雲に 交易ルート 海の地図
        岩 庇  目深に宮居  滴れる

                                川和作二
        殴り込むように軒過ぐ  初燕
        老鶯の  鳴き競い合う  山一つ

                                杉野昌子
        山肌の むらさきけむる 芽立ちかな
        おぼろ夜や 窓より見えて 印旛沼

                                関口湖舟
        春あけぼの 宿辺の浜に  潮満ち来
        時かけて  黄楊つつましく 咲きにけり

                                鶴見福治
        春潮や  かたみに揺るる  舫ひふね
        踏ん張りて 木陰の泉 掬ひけり

                                中本保子
        若 楓  覆いてなおも  渓明し
        展望台  関八州の  山笑う

                                深見正男
        嫁炊きし  筍飯の  大盛よ
        ステッキに 頼るリハビリ 草萌ゆる





























5507     バス車内での出来事     桂  淳子 
  先日帰宅のためバスに乗った。平日の昼下がりとあって乗客は中年の女性が七、八人と男性が二人。私は中程の窓際に座り、見慣れた景色をぼんやりと眺めていた。
  次の停留所に着き、かなり年配と思われる婦人が乗り込んできた。彼女は腰がひどく曲がっていて、しかも両手にスーパーの袋を下げてョタョタと足元がおぼっかない。「出発します。席にお座りください」と運転手さんの声が車内に響き、私は当然彼女がすぐ側のシルバーシートに座るものと思っていた。

  ところが、彼女は空いているシルバーシートの前をそのまま素通りし、バスの中程にある二段の段差をゆっくりと昇って、段差すぐ脇の二人席の通路側に腰を降ろした。それを待ってやっとバスが出発した。
  車内にいる誰もが出発を待たされた苛つきから、「何故シルバーシートに座らずにこんな後ろの席に座るんだ」とまるで非難するように彼女をじろじろと見た。
 皆があからさまに不快感を表わしている。

  しばらくして、彼女の目的の停留所に着いた。また下車するまでに時間がかかるのではと多少うんざりしながら彼女に目をやると、なんと彼女は左手前にある支柱につかまり、一段下の段差に足を乗せて、すっくと立ちあがったのだ。
  ここで私は彼女が何故その席を選んだのか理解した。彼女にとって一番つらい「イスから立ち上がる」という動作が最も楽に出来る席だったのである。「彼女のような人はシルバーシート」と勝手に決め付けず、相手の身になって考える、想像力をはたらかせることが必要だと感じた出来事だった。

  どんな時でも暖かい心を失わず、また柔らかい頭を持った人間になりたいものだ歳を重ねると、足腰は弱くなり、頭も堅くなるなど失っていくものが多いしかし精神面では心がけ次第、生き方次第で若いころよりもずっと成長していける可能性があると思う。

 老化を予防する方法 としては、
   ・ ひきこもらない
   ・ 心豊かに感動する気持ちを忘れない
   ・ 趣味を持ち、物を書き、人と話をする

  といったことが挙げられる。 こうしてみると、SKKの活動は老化予防の点からも誠に理にかなった会であると思う。
  講演会、懇親会、史跡散策、会誌発行、旅行会と多種多様であり、それらの行事に参加することで、いつまでも若々しい心を保てるのではないだろうか。
 この様なすばらしい会に出会えたことに感謝し、活動を通じて自分を成長させていきたいものである。


















  


















5508 異国の風を感ずる山手西洋館を訪ねて 
                               小川日出夫
  SKKの自然史跡に親しむ会は副理事長の大橋さんが担当し、私も少しお手伝いをしています。この2年江ノ島、三溪園、川越、武相荘に行きましたが、どこも良いところで、得るものが多くありました。

  今回は横浜山手でJR根岸線の石川町駅が集合場所、集合時間の一時間半前の9時30分頃着くと、すでに大橋さん、鈴木姉妹、桐井さん、落合さん、三枝さん達が居られました。今日は女性が多く16名、男性14名の30名が参加し出発する。 かなりきつい坂もあり、ふうふう言いながら、歩き20分位の所にあるイタリヤ山庭園に着いた。1880年頃イタリヤ領事館のあった場所で、「ブラフ18番館」を見学する。ゆったりした
造りでサンルーム、バルコニーが良い感じである。「外交官の家」はすぐそばにあり、元々渋谷にあった明治政府の外交官、内田定槌邸で重厚な本格的な洋風住宅でした。カトリック山手教会の前を通り「ベーリックホール」に行く、設計したT.Hモーガンは多くの建築を残しているが、現存する山手外国人住宅の中で最大の建物である。「エリスマン邸」はモダンな建物で現代建築の父といわれるA.レーモンドの設計。「山手234番館」は斜め前にあり、昭和初期の外国人向け共同住宅で、玄関のポーチを挟んで左右対称、バラ ンスがよい。

  「山手111番館」を見て「港の見える 公園」で一休みする。公園のベンチに座って缶ビールを飲む、良い天気で気分がよい。

  横浜に来たら食事は中華街であります 所用のある方一人を除いて29名で「萬珍楼」に行く。2階の予約室で三つの丸テーブルで会食。暑い日でビールが美味で、本場の中華料理を充分堪能し、解散いたしました。























   









  









   

あづま路 54号 平成19年1月
  桂林 陽朔 広州
           を旅して   
落合登美雄
  自然という
     言葉の意味
大橋 春男
  穏やかな加齢  栗原  弘
  司葉子さん
  公開講演会後記
富樫 利男
 武相荘と
   白洲次郎夫妻

小川日出夫





















































5401 桂林 陽朔 広州を旅して  落合 登美雄

 昨年の暮、4日間の日程で中国を旅する。成田発9時50分(HH-923)にて空路広州へ約4時間35分の旅であった。

到着するとその日は夕方まで広州の観光である。中山紀念堂、陳氏書院を観光する。印象的だったのは中山紀念堂の寺の立派な彫刻であった。5時半位まで観光し、夕食は広州で広東料理を食べて空路桂林に向う。

約1時間で桂林に到着しホテルには11時位に入る。翌日は船で江下りである。今回の旅行の目的は、江下りでの高く聳える山々の墨絵のような景観を見ることにあった。正に船上からの山々は丁度霧も山にかかっていて、イメージ通り景観であった。途中下船して大鍾乳洞「冠岩」を観光する。鍾乳洞の中はすばらしい眺めであんな大きな洞は日本にはない。洞内でミニ鉄道に乗り、ボートに乗り探検気分に十分浸ることができました。

再び船に乗って江を下る。船中では例によって物売りが来る。酒、桂林の写真集、食べ物等々、種々売りに来る。そして船は陽朔に着く。着く前に船中にて、スリと物売りに注意してくださいとの注意があった。陽朔洋人街(陽朔西街)を散策するも相変らず物売りが付き纏う。無視して観光しないと不愉快になる。

再びバスにて桂林に戻り、桂林名物料理に舌鼓みをうつ。翌日は桂林市内観光、象鼻山に登り桂林市内を一望する。続いて塁影山、七星公園を散策する。公園にはパンダやレッサーパンダが居て愛嬌をふりまいていた。周囲の山々は美しい。最後に再開発を終え生まれ変った桂林市繁華街の新名所桂林正陽街を散策するも、特に話題にすべきものはなかった。そして翌日空路広州へ飛び帰国の途につく。

今回の旅行で印象的だったのは桂林の山々と大鍾乳洞であったろうか。冒頭に述べたように今回の旅行の目的は桂林の墨絵のような山を観るにあったので、満足の旅であった。1年に1回は海外旅行をしたいものである。

 

















































5402  自然という言葉の意味     大橋 春男
 

 「自然」<シゼン>という言葉を、いまほど多く使うことはなかったのではないか。自然保護、自然崇拝、自然科学、自然主義、自然淘汰などなど、探せばキリがない。

 「広辞苑」には、

シゼン<自然>=おのずからそうなっているさま。天然のままで人為の加らぬさま。

○人工・人為になったものとしての文化に対し、人力よって変更・形成・規整されることなく、おのずからなる生成・展開によって成りいでた状態。とある。

 私は30年勤めた放送局を定年退職した後、東京都の環境学習センターの研究生として、1年3ヶ月研修を受け、自然保護運動に参加いたしました。多摩川の河原の清掃、放置された多摩の杉林の下枝おろし、田植えの助っ人、公園の池のドロ浚い等々。
 腰に弁当をぶら下げ、交通費自弁で数年実習をした。65歳を過ぎるあたりから、さすがに体がもたず、都内から湘南に引っ越したのを機会に暇をいただきましたが、肩書だけは残されている。しかし、私の自然保護の信念は捨てがたく、住んでいる市役所が崖の上の樹を伐採などすると、ワシは東京都の環境学習リーダーだが、訳があり湘南にすんでいる。その樹の伐り方はいかん」などと環境リーダーとしての意見を言い、樹木の大切さを語るウルサ爺〝をやっております。

 東京都環境学習センターの実習はきつかったが、地球温暖化による環境破壊も増え、90年後には、東京の下町は海の下になるということも教育されました。

北極、南極の氷山が溶け、ヒマラヤの雪も水となり、海面は1メートルも上がってくる。その分、海は高くなり、下町に海水が流れ込み、街は沈む、という。

 そんなことから「自然」という存在に異常に関心が強く、大昔の寒い氷河時代、日本海の海面が下がり、朝鮮半島は九州と地続きになり、暖流が日本海に流れ込まず日本海は大きな湖と化し、日本列島は寒さに震えた。なども聞かされて環境問題の重要性を仕込まれました。そのためか「自然」という言葉の意味にも大きな関心を持つようになりました。

 7年位前、この「自然」<シゼン>という読み方に対して、はるか昔は同じ漢字でも別の読み方があり、<ジネン>と発音することも知りました。さらにそのうえに、漢字は同じでも、<シゼン>と読む場合と、<ジネン>と読む場合の字の意味が、それぞれ、まったく違うことを知り、驚きました。

 <シゼン>の場合の字句の意味は前に書いた通りですが、<ジネン>の場合の意味はまったく異なるもので、「自ずから然(シカ)る」という意味で、哲学的な不思議な単語だったのです。さらに<ジネン>は<宗教用語>だとも聞きました。

 皆様も漢和辞典を開いて目的の字を見つけると、その漢字の下の読み方に「呉」とか、「漢」とかの表示があり、別々の読み方が明記されております。 (小事典には明記なし)

自然 ― ジネン(呉音読み)おもに宗教用語

        ― シゼン(漢音読み)   普通用語

 漢字が日本に入ってきたのは弥生末期の216年、百済の王仁(ワニ)が論語10巻と千字文1巻を応神天皇に献上したのが漢字の日本への最初の渡来とされております。このように調べてみると、日本の弥生時代とは、稲作が初めて中国より九州にはいり、次第に北上しつつある時期で、やっと百済経由で中国製の漢字がはいり、日本でもこれから文字が使われるかといった頃であったのです。

 最初に中国から日本に入ってきた時の漢字の読み方は呉音でした。 この発音は呉(ゴ)の地方、および江南地方の発音とされています。ついで入ってきたのが漢音で長安の発音でした。

 あの悲惨な前の戦争の時、中国をシナポコペンと呼び、文化の遅れた未開発国としてバカにして戦争を仕掛けたものの、考えればその約2千年前には、日本が未開発国で字もなく、やっと朝鮮半島の百済の仲介で漢字を入れて貰い、「字」のお勉強を始める寸前でした。それに対して、中国での漢字の出現は、なんと紀元前13世紀。遙かな大昔です。大文化国だったのでしょう。

 視点を変えます。

 私たちはいままで、自然とどのように付き合ってきたのでしょうか。

 私たちはいままで、抱いてきた「自然観」を改めて考え直す時ではないでしょうか。

 ここまでは「自然」には二つの読み方があり、その読み方がまったく異なる次元の意味であることを知り、おおいに混乱しました。

 繰り返しますが、呉音読みの「自然」<ジネン>とは「他者の力を得ないで、それ自体に内在している力によって、そうなること。またはそうであること」という意味であり、実対としての森や川を意味してはおりません。

 <ジネン>と読んでいた「自然」に、あえて山川草木などの意味をつけたのは、恐らく明治時代に入り、学校などで国語教育を始める際、日本人が「NATURE」という英語を翻訳する時に「自然」という漢語の字をたまたま思い出し、それを使ってみたら、割合繫がりがよく、ならばと読み方を漢音の<シゼン>に変えてみると、新しい用語として使えることが判ったのではないでしょうか。

(確かな証拠は目下見つかりません)

 参考として記しますが、明治の始め、新政府が新しい教育行政を開始するにあたり、用語の検討をはじめました。いままでの昔からの古風単語では、新時代の科学、技術、教育、政治などの学校教育はできないだらう。しからば、新規の用語を作らねばならない。

 そんな次第から新用語の開発を始めることになったのでしょう。

 かなりの人数の学者がヨーロッパに派遣され、日本に無かった新しい技術用語、社会用語、教育用語を翻訳開発し造語までしたようです。(これは事実です)

 帰国してそれらを整理してみると、理科教育用に(NATURE)に当てはまる語だけは翻訳・作成が不可能であったらしい。いまさら「天」「天地」または「山水」では、再び昔に戻ってしまう。

 派遣団全員が集合、検討した結果、或る御仁が「しからば‶自然〝を<ジネン>ではなく漢音の<シゼン>という読み方にしたら如何か?」との発言があり、名案なり!とのことで、即座に決まったのではないか。(証拠は無いが、論理性はある)

 まさに困った時の神頼みで(自然シゼン)が生まれたのでありましょう。

 なお、中国より仏典を通じて取り入れた漢語は、ほぼ呉音読みのまま‶お経〝などの仏教用語に使われ現在まで伝わっているのだそうです。
                   (藤堂明保 学研・漢和大辞典)

 ですから、‶お経〝を聞いても、中国語風?に聞こえ、意味が判らないのは、そのせいなのでしょうが、反面「意味深長」そうな言葉と幽玄なる音調が仏の言葉として、かえって有り難く民の心に染み入ったのかもしれません。

 いずれにしても、このあたりの調査は続けてみたいと思っております。

 よい参考資料がございましたら、お知らせいただければ幸いです。
























































5403 穏やかな加齢   栗原  弘
 

12月初旬、9ヶ月ぶりで小さな山に登りました。三浦半島の「三浦冨士」から「武山」迄2時間半。3月の不整脈治療以来諦めていた山が、のんびり楽しめたのは大きな収穫でもあり、自信がつきました。
  老後の生き方については最近考えさせられることが多々あります。86才の森光子さんのTVを見て現役と変わらぬ若々しさに刺激されます。新陳代謝が衰え、体力の減退は正常な加齢現象でしょうが。

  ある経文に「無礙故無有恐怖(むけいげこむうくふ)」と言う言葉があります。自尊心や世間体のこだわりを無くすれば怖れというもの煩悶や苦悩は無くなると言うほどの意味でしょうか。癌の宣告を受けたときも、この言葉で精神的に大分救われたように思います。不整脈で倒れ意識を失いかけたときも、死ぬと言うことがそんなに怖いもの、恐ろしいものなのだろうかと思ったりしました。肉体的老化や、苦悩を恐れるのは、生への執着が強いからだろうか。

  無心に生きる。気持ちの持ち方が非常に影響するような気がいたします。雑念を忘れ、こだわりを忘れ、夢中に集中できることがある生き方、老化を防ぐ役をしているような気が致します。楽観的とはこだわらないという意味もあるのでしょうか。趣味を持つ、道楽者の方が、夢中になるものがあった方が老いを忘れさせるのでは、そう考えて大いに遊んでおりますが。

  高齢者のカルチャー指向も盛んですが、高齢者には若者に負けない経験という長い間、積み重ねた財産を持っております。これは素晴らしいことで、誇りを持つべきだが、遠慮してる向きもあるようです。若者はこの年寄りの知恵を無視する風潮が続きすぎたようです。SKKの定例懇話会はこの発表の場でもあります。大いに活用して欲しいと思います。

   現実を考えると、この世は大変なことだらけ、生きてるのが嫌になります。心配し たらきりがありません。自分の子供さえ思うようにはならない。自分の体も思うようにならない。ところが、胃が痛くなるほど心配しても現実は余り変わりは無い。

  肺癌宣告の頃、 自分の病気について考える。末路が近いのでは。苦痛もどうしようもない。悪循環が始まり、苦痛が苦痛を呼び悲壮感がみなぎり、よけいに病状を悪化する。ここから脱却する道は無いのだろうか? 悩んだことも何度もありました。

  病苦に喘ぐ人も、楽しく人生を謳歌している人も皆同じように、いずれ死んでいきます。専門家の医師を信頼して命を任せ。こだわりを捨てて死に向かいたいものです。そう思いながら13年も生き延びてきました。パソコンに興味を引かれました。山歩きの楽しみも知りました。風景が以前より美しく見え、写真を始めました。与えられた生涯を精一杯、最後まで、楽しく、充実させて、煩悶や苦悩で自分をいじめないで、あるがままで良い、生きていきたい。

 組織の老化について考える。
最近高齢、体調不調でSKKを退会する方がおられます。理事長の林さん、副理事長の大橋さんは体の不調に耐えて役務に努力されています。

 新しい力は入会者を迎えることです。そして我々の意志を引く次世代を創ることです。これを置いて組織の活性化はあり得ないように思います。 新しい組織を支える力が必要です。これが無くなったとき組織は解散します。(それも選択肢の一つでしょうが) 

 SKKの公開講演会は誇りを持って語れる講演者、こんな方がお話をされた、講演会の経歴は立派なものだと自負しております。 先輩が築いたこの誇りをずっと続けていきたく思います。

  
























































5404 「司葉子さん講演会後記」  富樫 利男
 

 「あづま路」第52号に、私は「相沢英之先生公開講演会」後記を載せていただきましたが、その文末に、相沢先生の奥さんは、かの有名な司葉子ですので、本来はこの種の講演は引き受けない方ですが、相沢先生に強くお願いして司葉子さんに講師をやっていただくために行動を開始した事を記しました。

 幸な事に、私の努力が実を結び、今回の公開講演会が実現しました。 講演会担当理事として私は司葉子さんと数回事前の打合せを行いました。司葉子さんは芸能生活で極めて多忙であり乍ら、御主人の要請を受けて今回の講演の講師を受諾、女優としては経験は豊富だが講演の講師としては未熟な自分を強く意識して、話題等の内容につきましては、聴講者に喜んでいただくよう、終始考え努力した極めて誠実な方でした。

 公開講演会は60名を越す大盛会で、これは今年度では一位、過去の公開講演会を含めても二位に相当するものでした。

 司葉子さんの講演は、有名人ですが気取らず、自然体で率直にかつ熱をもって長い人生経験を披露する内容のもので、出席者に深い感動と満足を与えました。

 この事は、当日の出席者の方々のからの率直な感想によるものです。

 講演会当日は、司葉子さんの芸能生活50年をまとめた新しいビデオの放映が約20分間ありました。事前の打合で、この為に偕行社にはないプロジェクターやスクリーンの準備が必要になりましたが、この費用は司葉子さんのご好意で負担して下さいました。

  相沢英之先生も司葉子さんも、多額な謝礼無しで講師を引き受け、公開講演会は大成功でした。この理由は、相沢先生と私との旧ソ連抑留以来の深い交流もありますが、基本的には、SKKの講演の聴講者の真面目な姿勢に相沢先生が好意を感じられ、司葉子さんも講演後は同様であったと考えられ、聴講者の品位・姿勢等の質の高さが、高いレベルの講師を招く事を可能にする要因と考えられます。














































5405 武相荘と白洲次郎夫妻    小川 日出夫
 

 今回10月24日の定例懇話会で「武相荘と白洲次郎・正子夫妻」、11月17日の自然史跡に親しむ会で「武相荘を訪ねる」とドッキングしました。

 当初、7月の役員会で11月の自然史跡は町田・鶴川の武相荘を訪ねる計画が先行しました。8月になって10月の定例懇話会は武相荘の住人であった白洲次郎・正子夫妻のことを大橋副理事長に講演して頂くことになりました。これは何時も自然史跡に親しむ会で大橋さんが準備の為に色々と資料を集め整理して皆さんに説明されているのを見て、特に今回の様にユニークな夫婦のことをゆっくり話して頂きたい思いからお願いしたわけです。

 武相荘のことは、町田市鶴川の能ヶ谷にあることは知ってましたが行って居りません。私の自宅から車で約7Kの所にあり、平成13年に公開されて昨今の白洲次郎のブームもあって、年間10万人の方が来館するそうです。そこで大橋さんと下見をすることになり、8月11日に行って参りました。武相荘自体は古い藁葺の農家を改造したもので、特に価値があるものでなく、5000坪の敷地も見るべき所はないのです。

ただそこに住んでいた白洲次郎・正子夫妻があまりにも興味深くて諸々のものが多く残っており展示されてました。

 武相荘に行く前に、大橋さんから白洲夫妻のことを詳細に話して頂いたら、極めて効果的に思われました。所が定例懇話会の十日前に大橋さんが体調を崩し、肺炎の疑いで急遽入院されることになり、何と私が代役をすることになったのです。

 大橋さんから送られて来たダンボール箱に資料がギッシリつまっており、早速読み始めました。講演の原稿がキチンと完成して、話す時間も設定されており、ただ読むだけになって居りました。ただ私は前から白洲次郎について関心を持っていて、ある程度のことは知ってましたが、更に大橋さんの資料でより以上知ることが出来ました。

 大橋さんは白洲正子のことを前から評価されていて、講演でも45分を正子に35分を次郎に割り当てられてましたが、実際には逆の時間で話してしまいました。

 大橋さんに申し訳けなかったのですが、白洲次郎は戦後吉田茂に協力したことを強調されていることが多いが、実は戦前近衛文麿・文隆等の人脈で早期戦争終了の為の活動があったことです。それと彼は自分があれをやった、これをやった様なことを一切、声高に話さなかったことにあります。水面下で活動していたことは今になって判ってきたことで、かかわっていた反戦活動や敗戦を見通していた先見の明は大したものだと思います。

 10月24日の定例懇話会は大橋さんの講演を期待して出席された26名の方々には、急に私が代理で講演することにどう思はれたか心配でしたが、意外に思っていたことをスムースに話すことが出来てホッとしました。終了後の反応も暖かいものがあり、皆さんに受け入られたことが分りました。

 11月17日「武相荘を訪ねる」は少し寒い日でしたが26名の方々が参加され、予定通りに訪問出来ました。10月の定例懇話会に出席され今回参加された方には、充分お楽しみ頂けたのではないかと企画当事者として密かに満足した次第であります。




















































5106 佐久間象山の呼称をめぐる論争  門脇 弘
<「しょうざん」か「ぞうざん」か>
 





































 
あづま路