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平成20年度

56号

57号



年間2回発行に代わりました。







































   

あづま路 57号 平成20年7月
「ありがとう!」 
   「すみません!」
落合登美雄
「神代植物園と深大寺」 大橋 春男
「近頃思うこと」 東  隆昭
「胆嚢切除闘病記」 鈴木  博
 成城学校のこと 小川日出夫
 大木戸句会 川和 作二
 SKKの魅力と将来への期待 高崎栄一郎
 お見合いを通してみた
       現代の女性
長坂恵美子
 SKK元顧問高橋正二さんが逝去  編集子
  高橋さんの思い出  大橋 春男





















































20701「ありがとう!」「すみません!」  理事長 落合登美雄
  「ありがとう」「すみません」という言葉は、いつの時代でも、人に接する限り欠かせない大事な言葉です。ところが、最近の若者や、子供達の中で、その言葉が少し薄れているのではないかと思える状況が多くあります。
 先般、春休みでしたが、二年生ぐらいの女の子が自転車で通りかかりました。学用品を落としたので拾ってあげたのですが、何にも言わずに受け取り、黙ってサーッと行ってしまったのでした。私は「ありがとう。すみません」位の言葉はあると思っていたのですが残念でした。言って貰いたくてこう申し上げているのではありません。 最近は凶悪犯罪が横行しているので、知らない人には声をかけるなと、親が日頃教育している結果なのでしょうか? 中国地方(広島県北部)、 出雲地方では「ありがとう」という言葉を方言で「だんだん」と言います。これは頭を下げなさいと言う意味であると解釈しております。
 春頃だったと思いますがテレビで「ありがとう、すみません」運動について放送していました。その中で幾つか感動した事柄がありましたので紹介いたします。
(1)ある田舎の郵便局の配達員さんが、雨の中、切手を貼るのを忘れて投函し  た78歳の女性の手紙を見つけ  て、遠路はるばる「切手が貼ってありませんよ」と言って家まで届けたと言う話。
(2)54組の縁組みを媒酌したご夫婦を慰労するための同窓会を開き、108名の  夫婦が集まって、媒酌人に感謝  した話。
(3)「お母さん、長い間時間をかけて、産んで育ててくれてありがとう」と言う10歳の女の子の話。
(4)70歳のおばあちゃんが、バスに乗ろうとして、駅に急いだが間に合わず   乗り遅れてしまった。丁度タクシー  が通りかかり、それを見た運転手は、おばあちゃんをタクシーに乗せて、次のバス停まで急ぎ、間に合わせたと
  いう話。おばあちゃんはタクシー代を持っていなかった。「タクシー代はいりません」と運転手は去っていった話  。
 他に、まだまだ沢山の「ありがとう、すみません」の事例を挙げていました。以上のような立派な行いをする人が多くいらっしゃる中で、反面「ありがとう、すみません」の声が少なくなっているのは悲しむべき事ではないでしょうか? 毎日暗いニュースが報道されます。通り魔や凶悪犯罪がなくなり、「ありがとう、すみません」と感謝の気持ちが伝えられる、明るい、楽しい、健全な社会を、1日も早く構築できるよう望むのは私だけではないと思います。
                                                                以上 

















































20702  「神代植物園と深大寺」 副理事長 大橋  春男
  予定は5月21日(火)でしたが、夜明けからの大雨で中止。自動的に次週の火曜日5月27日となりました。当日は抜けるような青空。参加者は20名でしたが、当日11時の集合なのに、1時間前には既に10人以上が正門前に待機です。こんなに早い集合も珍しく、地理的な意味での早出なのか、出し物目当てなのか、または、ただ好天気のなせる技なのかは不明です。私事ですが、湘南から7時に家を出ました。
 二日前にこの植物園のボランティアの会長さんから電話があり、何人ぐらい参加するのか、
良かったらボランティアが案内しましょうか、との問い合わせがあり、植物園にボランティアがいるのも初めて知り、是非!と、お願い致しました。
 実は『自然に親しむ会』のテーマにこの植物園を決めるに当たっては担当の小川、大橋は事前に二回ほど下見をしました。しかし、SKKの企画会議に提案するのは約4ヶ月ほど前なので、季節ものや自然ものの場合には、たびたび予想とかけ離れた現象に遭遇する事もありました。今回は植物園がテーマで季節ものが主題となるためにSKKの仲間、小川さんとも良く話し合い、企画会議に提案したのです。共同提案の小川さんとは4ヶ月前の下見も一緒に実施しましたが、主題のバラ園の感じはその時点では見当も付かず、結局、実施日の一月前に小生は再び同園を訪ねましたが、この時期の植物園の変わり様は激しく、本番の際のバラ園の迫力と申しますか、素晴らしさは、下見の場合にはさほどに感じられませんでした。
そんな事などから、この『自然.史跡』の企画はあえて申せば、実施日と同じ季節の1年前に下見を行い、そして入念に検討すべきが理想なのかも知れません。

 SKK『自然.史跡』の第1回は平成10年の『高尾山と薬王院の懐石料理』でした。この会が本格的に活動を初めて、まず始めに提案され、実施されたのがこの『自然.史跡』だったのです。この行事を手始めとして、年2回ほどの実施を10年にわたって続けて参りました。まことに自然の移り変わりは早いものですね。
 このたびの『自然.史跡』の”見せ場”は何と言っても、バラ園の迫力と多くの種類の巨木の威圧感でした。特に『ユリノキ』の大木の立ち姿は見事でした。原産は北米東部で、そこでは高さは60m以上にもなるとの事。新宿御苑の大芝生の真ん中に聳えていたこの木は見事でした。大正天皇の立太子のお祝いに明治の終わり頃、アメリカから贈られてきたものだそうですが、赤坂迎賓館の回りのこの木の街路樹の素晴らしさも見事です。5月頃、近くにお出かけの節には是非ご覧になって下さい。この木の見分け方は、葉の形が職人さんの着る半纏を上下に引っ繰り返した形なので、すぐ分かります。別名は『ハンテンボク-半纏木』とも呼ばれているのです。
 この木と共に感動したのは、特に案内をお願いした同園の4名のボランティアの皆様の技能の高さでした。小生も『自然派』でして、テレビの放送局員を定年退職してから20年近くになりましたが、この間、林野庁の『グリーン.サークル講師』、東京都環境局の『環境学習リーダー』等引き受け、年間6~7回の自然観察会を実施しております。勿論ボランティアですが、自分の経験から勘案しても、今回の神代植物園のボランティアの皆様の高度な知識、技能は見事でした。シャベリ過ぎず、不足ならず、それぞれの見学者のすき好みに合わせて、的確な解説と自然の持つ雄大なる迫真力を見事に、そして僅かな言葉で訴える技は見事でした。あらためて、大蔵様(1班)、村本様(2班)、菊地様(3班)、佐久間様(4班)にお礼申し上げます。
 深大寺の蕎麦店「玉之屋」にて一同は名物そばを頂き、その後、植物園の隣の古刹『深大寺』の見学でした。天台宗の寺院。奈良時代の開基。室町時代に世田谷吉永(よしなが)が再興したものですが、小田原北条氏の滅亡と共に没落し、徳川家康の助力で再興。現在の建物はその後に再建されたものです。
 名物そばをいただき、疲れも出てきたあたりで解散となりました。一同良く歩き、当初の計画では、再び植物園に戻り、各人、自由な観察をする積もりでしたが、大分疲れも見えるにおよび、この寺の境内で集合写真を撮影し解散となりました。みなさま、お疲れ様でした。
























































20703 「近頃思うこと」 東 隆昭
  地球温暖化、気候変動、世界人口70億.....世界的食糧不足を克服する
  地球環境再生への第一歩は...

 地球の温暖化、環境汚染はいつから始まったのでしょうか?
昔は、車も石油化学製品もなく、空気はあくまでも青く、水も空気も澄み、汚染は皆無だった。人間も猿や熊や犬猫と同じ動物だったのに人間だけが進化しすぎたのか...どうも地球環境汚染は人間が行った産業革命の近代化、現代の車社会、グローバル化が真犯人?
人類登場は400万年前、新人(現代人)は約3万年前とも言われますが、地球の環境汚染は私達が生まれ育った昭和、平成のたった100年足らずの出来事です。
 話題独占の地球温暖化問題は、世界人口増大、食糧増産による森林破壊、石油化学製品の氾濫、つまるところ人類の便利さ、快適さを求め続けた「結果」に他ならないでしょう。せめて多少不便でも100年前の生活環境に戻る事が必要なのかも知れません。

 少し昔は食糧自給率100%だったのに、食の変化で現在の日本の食糧自給率は39%以下、国家目標の45%達成は不可能とさえ言われています...さて、そこで日本の食糧自給率を高めるには、資本主義の大原則、利益追求だけの形を改め、多少、手間暇と費用がかかろうとも「地産地消」「自給自足」の気持ちを持つことでしょう。
 日本の食糧自給率の低さは、パン、ミルク、肉食...といった原材料を輸入に頼る嗜好.消費変化も一因。(終戦後の学校給食に見られるアメリカの占領政策とも言われているが...)また鶏、豚、牛...家畜の飼料はほとんど輸入に頼っている。人間も家畜も食料輸入が途絶えれば日本は絶滅?
 一方でメタボリックシンドロームが注視され、カロリー過多による肥満、糖尿病、贅沢病と言われる現代病が蔓延しつつある。肥満は短命、出世に関わる...と世界中がダイエットブームです。
 そんな中で日本は世界一の長寿国、医療の進歩もあるが、今は栄養のバランスの良い日本の寿司や豆腐に代表される「和食」が健康食として世界的ブームになるほどです。
 しかし、伝統的日本料理の材料の自給率となると...(豆腐25%、味噌31%、マグロ37%、エビ5%、小麦粉13%、油揚げ25%、ショウガ21%...)これで日本食というのは変? 昔から食べ物は生まれ育ったその土地で採れるものしか無かったし、それを食べるのが身体にも一番良いと言われています。安いからと言っても海外のものは手に入らなかった。「地産地消」そのものだった。現在は、魚もすぐそこで捕れる近海モノが高く、遙か彼方からの輸入モノの方が安いのも大問題だ。北欧では販売商品に流通距離.マイルが表示され、輸送による燃料消費量が商品選定条件になり、地元産品を優先、地域消費が定着している。
 日本の食糧自給率低下の要因は、
要因① 技術立国日本、原材料を輸入し勤勉さと知恵で加工し、世界へ輸出して発展してきた歴史
    。(原材料.農産物輸入&加工工業製品輸出)
要因② その歴史上での農業.畜産の減少。少子高齢化による後継者減少。(第一次産業の衰退
    、農業.畜産は商売にならない)先進国というコスト高。
要因③ 石油.ガソリン等の高騰。食物が代替えエネルギー(エタノール)、 バイオガソリン製品に
    転化。
要因④ 地球温暖化、海流.気候変動による世界的農.水産物の変調。
要因⑤ グローバル化による公害の蔓延。人口大国、中国.インドの台頭、 食料輸出国から輸入
    国に変わる。
要因は限りなく続いてしまいそうです。
 日本の応急処置は先ず「食の欧米化」から日本の気候風土にあった「地産地消」「自給自足」生活を普及するのが第一でしょう。

 地球温暖化の原因とされる「CO2」の急激な増加、その「CO2」を吸収してくれる「緑」の減少、生物を存在させる酸素を供給してくれる「緑」を育て守る事が唯一の特効薬でしょう。
 「緑」を育てるには淡水が必要だが、地球温暖化による砂漠化が急速に進んでいる。中国の黄砂問題も森林破壊が一因(木材輸出は既に中止している)だが、水資源開発、植林、緑化技術での日中相互の協力は欠かせない。
 日本の食料輸入に伴って生ずる輸出国の水使用量が、一年間で427億トンに及ぶ。これは国内の食料生産に使う年間農業用水量の8割に相当する。使用量 の1割は枯渇が懸念される地下水で日本の食糧確保にも大きな影響を及ぼす。地下水が涸れるとさらなる食料価格高騰につながる。

 今後、隣国中国との関わりは益々重要となってくる。中国のGDPの伸び率は目を見張るものがあるが、平均賃金は都市部の北京、上海で約5万円、日本への食料生産拠点になっている山東省や遼寧省は約2万5千円、(月額.日本円換算)だが、労働条件も終身雇用.退職金義務化.地域格差是正などの変化で、中国では人件費も物価も急激に上昇している。安い労働力もこれまで、日本の中国からの輸入も、進出企業の経営戦略も見直しを迫られている。中国製造品で成り立つ100円ショップが1000円ショップになるかも。
 中国では自然災害も著しく、昨年の洪水、今年1月には50年ぶりの大雪で豆の値段が3倍、豚肉.白菜.ニラ等1.5倍~2倍に急騰した。国内消費が優先で日本への輸出は制限され、野菜の輸入量は40%減だ。ここぞとばかり国産価格も急騰している。
 中国製冷凍餃子問題もうやむやで終わりそうだが、相互の利益、生活環境変化の一致を見ないと解決は難しい。日本は隣国中国の自然環境変化にも関心を持ち続けなければならないし、安いだけでの他人頼り生き残り再考の時。
 地球温暖化の犯人が人間で、特に先進国の責任となれば、砂漠化を防ぎ、水資源確保、食糧増産の科学技術の確立こそ技術立国.日本の使命と言えるでしょう。

 サントリーも環境緑化事業に乗り出した。植物による都会のビル屋上.壁面緑化だ。土を使わず、保水性のあるウレタン新素材「パフカル」を使用し、屋上菜園も実現させている。市場規模はすでに2007年度で800億円に拡大している。公害助長型で利益を上げるのではなく、環境保護育成でも利益を出せる良い手本である。
 日本の林業も海外の木材輸入で衰退の一途だったが、国産材唐松などのゆがみを直す製材乾燥技術が完成し、国産材使用で採算が取れるようになった。数多くの放置されていた国有林、日本林業には朗報だ。建材輸入国としては無計画な世界の林業破壊にも歯止めがかけられる技術開発で素晴らしい。

 また、日本全体の長期債務残高は1192兆円という赤字国ではあるが、国際宇宙ステーション建設(日本の「きぼう」が稼働)に1兆円を超す巨費を投資。次世代のために宇宙ステーション内にも「緑と花」が咲くことを祈りたいし、今年は、北京オリンピック、洞爺湖サミットも開催される。世界中での「地産地消」「緑の復活」をあらゆる面でスタートさせたいものです。
























































20704「胆嚢切除闘病記」   鈴木 博
 平成19年10月21日、前日(土曜日)夕方から、夜眠れぬほどに腹部の痛みがとれぬため、午前5時自宅近くの都営新宿線篠崎駅前タクシー乗り場に行き、そこで病院に行くためタクシーを待つ。日曜日早朝のためか30分以上待った。
 目的地の江戸川病院到着後Dr.小林の診察を受け、腹部X線、CT検査の結果、矢島Dr.から詳細な説明を聞く。
 診断の結果、即入院、即手術を行うとの事、すでに400例以上の成功例ある由で胃カメラで胆嚢を目視しながら、胆のう管にバイパスを作り胆管を救うと同時に胆汁の流れを良くする、更に胆のうを切り取る。これは盲腸と同じで、無くとも支障がない由、 この前年7月、我が人生で初めてのケガでの入院生活、又11月には日本大学歯学病院で手術、延べ60余日にわたる入院と、体力低下のせいか更に今回、腹部も鳩尾(みぞおち)周辺の激痛に絶えられず緊急に駆け込み、CT,X線、内視鏡等々、殆どの検査を受け、分かったことは、胆嚢管に石が詰まっていて胆汁の流れが止まっている、更に胆嚢が全体に化膿している、当初は内視鏡で、患部を切除するとのDr.の説明でしたが、内視の結果この胆嚢管が微妙な位置に癒着し炎症を起こしていて、開腹手術をしないと除去できない。(以上消化器内科)
 次に外科部門との打合せで、手術は11月7日(火)と決定、病室も外科へと移る。当日は0時15分オペ室に入り、手術台に乗せられ、脚にストッキング様のものを着用させられたあと、脚全体を空気圧で機械的に圧力を掛ける装置で脚部がうっ血で血栓が飛んだりしないための装置だ。点滴から打たれた麻酔のせいかすぐに意識がなくなり、次に名前を呼ばれたのは、手術が終わってから。私を起こした女性に時刻を確認すると14時20分とのこと。術後の話では、胆嚢は全摘、石は小さいものが四つあったそうだ。
 術後、2日~7日間くらい切開部が猛烈に痛く、寝返りは出来ない、自力では起き上がれない日々が続いた。同室の患者が教えてくれた、今が一番つらい時ですよ、日がたてば、一日一日良くなりますよ、と言われた通り日に日に良くなり、10日後の退院となりました。
 この間(丸々4週間)お見舞いや、励ましの言葉を頂戴したことは、私にとってどれ程力強く、背中を押された思いであった事か、感謝、感謝です。
 過去に直近の2年間、同じような症状(みぞおちが痛い)があり、常に、緊急入院的に診察を受けましたが、何れも原因が分からず否応なく日帰りさせられた。
 今回、矢島Dr.に「先生なぜ、胆嚢異常が分かったのか」伺ったところ、 それは血液検査の結果ですよ、、、といとも簡単な返事でありました。はあ? それが今まではなんで判明しなかったのか非常に疑問が湧きだしたことと同時に、この矢島Dr.は、説明の中で手術例が多くあり、心配しなくて良いですよ、との話があり、信頼感が湧き、ああこのDr.に安心して任せようと思ったものでした。
 一方で食事はまずかった。入院中に8kgも減った。管理栄養士は色白の美人で山本梓(あずさ)さん。看護師は秦(はた)さん渋谷さん、皆さん親切だったなあ。11月18日、退院後の初通院は11月26日と決まり、大勢の人に見送られもせず、軽い身支度で約1ヶ月間お世話になった病院を爽快に後にした。














































20705 成城学校のこと       小川日出夫
 4月の定例懇話会で板橋安さんから「成城学校と児玉源太郎のこと」の講演があり、年来の望みが叶いました。成城学校のことは前から本などで 旧制中学とか現在の成城学園に関連がある程度は知っていました。
 それが平成17年5月に自然史跡に親しむ会で江ノ島に行った時、児玉神社を見学し祀られている児玉源太郎のことを板橋さんから説明して頂いた事がありました。それは板橋さんが成城学校の出身であり、児玉源太郎が成城学校の第7代の校長だったからです。
児玉源太郎は明治36年に就任し明治39年7月に亡くなるまで在籍してましたが、ほぼ平行して日露戦争と重複しています。
成城学園は大正デモクラシーの影響もあって自由教育と 成城学校本来の陸軍武学生徒の養成とが相反しており、分離したもので、昭和4年に独立しています。 更に小原国芳氏が多摩川学園を創立しました。
 板橋さんの講演で、ご自宅の三鷹から通学された状況とか、シャンソン歌手の芦野宏さんが同級生で、兄弟4人が成城出身など、興味深い話が多く、成城学校の一部を垣間見た思いでありました。私は板橋さんとは一回り下の年代ですが、SKKで昔の軍隊のこと、
戦争の事など直接ご本人から教えて頂けることは望外の幸せです。





























20706    大木戸句会    編 川和作二
大木戸句会より当期(春、夏)雑詠を 紹介いたします。(作者名五十音順)

                              飯倉 豊司   
            薫風や  ちぎれちぎれに  子等の声   
           師の墓に 賛美歌捧ぐ 新樹陰 
        

                              釜谷 石瀬   
            昼深く  風吹き抜けの  夏茶の湯   
           ハンカチの  樹や花秘めて  聖五月
  

                              川和 作二   
            葉隠れに  声より小さき  雨蛙     
           薫風に  面舵いっぱい  相模灘
    
 
                             杉野 昌子
            菓子作り  励む一日の  走り梅雨       
           風鈴の  幾十の音や  旅の駅


                              関口 湖舟
            姫こぶし  厄除根付  妻に買い
           神輿渡御  四辻あたり  沸騰す


                             鶴見 福治
            墨堤の  雨後の葉桜  きらめけり
           夕焼空  われにまだある  里ごころ

                             中本 保子
            孔明を  讃ふ碑のあり  蓮咲ける
           這松に  一陣の風  雷来る


                 以上SKK会員の作品を抜粋しました。





























20707  SKKの魅力と将来への期待     髙﨑 栄一郎
 平成19年,落合登美雄理事長からSKKへの入会を勧められ,まずインターネットで調べました。栗原弘副理事長が運営されているホームページからSKKの概要を知り,納得して6月の公開講演会(塩川正十郎元財務大臣)から会員に加えていただきました。
 さらにホームページの「あづま路」40号(平成14年度)から48号に連載された関口利夫氏の「SKKのあしあと」を読んで,SKK誕生の経緯とその後の歩みを知りました。その後,平成19年11月の旅行会(八重山諸島)を含めてSKKの活動に参加させていただき,しだいにSKKの風土に慣れてきたように思います。
 SKKに入会して1年の新参者が,SKKを語ることはおこがましいとは思いますが,私が感じているSKKの魅力と,将来への期待を述べさせていただきます。

◆ SKK3つの魅力
 SKKには多くの魅力がありますが,とくに次の3点が特徴的だと思います。
 (1)高い理想
 (2)重厚な実績
 (3)組織的な活動
(1)と(2)については,昭和59年の発足以来の24年にわたる歴史が物語っています。現在のSKKの5本の柱である「定例懇話会」,「公開講演会」,「旅行会」,「自然史跡に親しむ会」,「あづま路の発行」すべてが着実に機能し,重厚な実績となっています。
 これらの活動はきわめて組織的に運営されています。これは役員の皆さまの献身によって支えられているからだと推察します。

◆ SKKへの期待
 SKKの発足時の理念は,『渉外力強化研究会』(SKK)の名の下に,「渉外力強化のための研究を行うとともに企業等の人材育成及び経営の改善に貢献する」でした。この理念は変遷を経て,現在の『相互啓発懇話会』(SKK)の目的は,「会員相互の親睦・啓発」に要約されています。会の理念や目的は,このように時のニーズに応じて変わってよい,あるいは変わるべきものだと考えます。そこで現代の一般的なニーズ,とくに中高年に見られる傾向とは何でしょう。 
 その一つは「健康志向」であり,さらに「歴史・伝統への関心」も高まっていると考えます。他方では一般的な傾向として,講演会は聴衆を動員する力を失いつつあるのではないかと思います。
 健康志向と歴史・伝統への関心の両面を満足するものが,「自然史跡に親しむ会」です。このことは,今までに参加させていただいた「明治神宮の森」(平成19年10月),「神代植物園と深大寺」(平成20年5月)の2回の体験で感じました。
 自然史跡だけではなく,単純なウオーキングを加えたところで,健康志向の活動を再評価してはどうでしょう。


















  


















20708 お見合いを通してみた現代の女性 長坂 恵美子
 何でもありのこの世の中、何処にでも出会いの場はありそうに思うけど自由の中の不自由というのかなかなか良いご縁に出会うチャンス無いと、旧態依然として変わらぬお見合いを希望する人は後を絶たない。だが、慌ただしく移りゆく社会状況に平行して、女性の気持ちもどんどん複雑になって真意は計りしれないものがあり、大変難しい。
 要するに今の世の中は、衣も食も住も性も全て満ち足りていて、全く飢餓感がない。家からも結婚、結婚と圧力を受けなくて済むし、今決断しなくても、嫁ぎ遅れてしまうと言う切迫感もない。従って20代で結婚する人は減少。女は子供を産んでこそ一人前と言うかっての見方は皆無、女性の社会進出はどんどん進み、仕事を持たない女性は少数、学歴はどんどん高くなり、大学院、博士課程まで修める人も増えている。キャリアの道を選ぶもよし、家庭に入るもよし、全く自由、結婚しないと決めている訳でもないし、今すぐ焦って相手を見つける必要もない。さしあたって経済的に困らないし、一人でなかなか快適だ。結婚も良いけど相手次第とお見合いにやってくるのだから、理想は何処までも高く、妥協がない。次から次へと選ぶ、選ぶ。
だが、自由度は増し、選択肢が増した分だけ自分の思いが不鮮明になり、決め手が分からなくなり苦しんでいる人が多いのも事実である。彼女たちを取り巻く周囲にも大いに問題はある。先ず親、大変理解があり、娘の言うがまま、意見を言ったり、この辺でと強く押すような親はほとんどいないと言っても過言ではない。「離婚が怖くない今のご時世、無理矢理結婚させても仕様がない」もっと割り切った母親は「この子が結婚しないのならしなくて良い、一人でいてくれれば私達の老後は安泰だから」と言う。本当に子供の幸せを考えているのかしら? 昔の親のような権威、自信というようなものは全く失われていると思う。特に父親の存在が見えない。
 世の中がどんなに進み変わろうとも、男と女の立場は根本的に違う。女性が男性に伍して同等、あるいは上回る存在になってしまい、子どもを産み、育てる事を放棄してしまってはお先真っ暗だ。すごい危機感を覚える。5年、10年後には出生率は現在の半分になるとテレビが恐ろしい数字を出していた。それは女性だけに問題があるのではなく、男性にも大いに問題があり、言いたい事は山ほどあるが、今はとにかく、女性が優位に立っている事は事実である。お見合いの日取りも場所もお付き合いも、結婚も、みな女性に決定権があるようだ。これで良いのか?
「俺に付いてこい」と力強く女性を引っ張って行ってくれる男性「出てきて」と私は言いたい。























   









  





      
20709 SKK元顧問 高橋正二さんが逝去されました  
 元顧問 高橋 正二 さんが、平成20年6月16日 96歳 逝去されました。氏は陸士の48期です。平成2年、創設者の東初代理事長の紹介でSKKに入会されました。戦中の経歴は南方総軍参謀、大本営参謀、戦後、明治薬科大学理事長を、また世田谷偕行社、郷士大学学長を歴任されました。尊皇に徹し、自分の信条を貫かれた人です。
 SKKでは顧問として活躍され、公開講演会、定例懇話会等で貴重な講演を数回行い、貴重な戦争体験等を我々に伝えてくれました。大切なSKKの貢献者でした。写真は平成14年10月の「太平洋戦争はなぜ
起きたか」の講演の様子です。
 生前のSKKに対するご協力に感謝申し上げますと共に、衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。合掌























   









  





      
20710 高橋さんの思い出 大橋 春男
   ここで思い出したエピソードを、一つ紹介いたします。
 高橋さんが、まだ壮健でいらした頃の事。渋谷のある店でSKKの役員一同の懇談会があり、高橋さんも参加されておりました。会議も終わり、ビール。お銚子などが並び、簡単な“打ち上げ”が始まりました。しばらくして賑やかな語り合いも一段落ついた頃、高橋さんから「いい気分になったんで、昔話を思い出しました。聞いて下さいますか」とのお話しが隣に座っていた私にありました。

 その高橋さんから聞いたその時のお話しを、正確に記しましょう。
『私(つまり高橋正二さん)はあの大東亜戦争に負けた時の大本営参謀でした。昭和20年9月2日の、アメリカ戦艦ミズーリー号艦上での降伏文章調印式の段取りをアメリカ側と取り決めた本人ですが、無事に儀式も終わり、正式に戦さが完了したのですが、私はそのあとは何となく、呆然として、いっこうに気合いが入りませんでした。そんな私を見て、家内がボソボソと語ったことがありました。「時代が変わったんですよ。いつまでも戦争のことばかり、考えていても仕方ないでしょう。ご存じのように私の実家は北海道でも大きな薬問屋です。気分転換にでも、二人で実家の商売を手伝ってみませんか」と言うのです。元大本営参謀に薬屋をやれと言うのですが、たしかに、いつまでも、くよくよしていても致し方なし。そんな訳から、私は人生の大転換を覚悟いたしました。

 そのためには、まず薬剤師の資格を取らねばならない。いろいろ調べて、ある薬科大学の学生になりました。33歳の学生なんていやしませんや。しかし、まあ、世の中も大きく変わったんだから、出直しといこう!、と言うわけで、一生懸命、薬のことを勉強し始めたんです。
 ところが、時あたかも、大学ストライキの荒波が、日本中を逆巻く頃と重なってしまいました。私は転身のため、本気になって薬学にいそしんでいるのに、学生諸君達は、勉強などほったらかしにして、ワアワアとストライキに夢中ですわ。
 私は唖然とすると共に、学業に専一すべき学生達が、ストライキに夢中になる姿に腹が立ち、このストの学生リーダーに申し入れをしたのです。 [学生は勉学に勤しむのが仕事じゃ、直ちにストは止めたまえ!]
 ストの学生達は、なんじゃこの親父!という険しい顔で受けて立ったが、私はかっての大本営参謀。そんな悪学生なんぞ、屁とも思わん。出る所へは出るぞ!と怒鳴る。
 そんな大騒ぎを一週間ほど、繰り返しているうちに、なんと、この大学だけは、とうとう、ゼネストから抜け出してしまった。ところがどうです。これに驚いたのが、大学の教授や理事たちですわ。キョトンとして、あっけに取られておりました。イヤ、私にとっては、この程度の作戦なんぞはアメリカとの戦いに比べれば、子供だましじゃ。
 こんな次第で、この大学だけは、あの全学連共闘の大波の中で、一校だけが無傷 で本来の学業に勤しんでいたのです。ここでオマケの話があります。
その翌年、私は大学を卒業すると同時に、この大学から、無理難題を押しつけられた。つまり、大学の理事になれというのです。そして、なんと数年過ぎると、こんどは大学理事長まで押しつけられてしまいました。人生とは、どこで、どんなに変転していくのかは、まったく、わからんもんですなぁ。』
 亡くなられた高橋正二さんのご冥福を祈りながら、記しました。























   









  









   

あづま路 56号 平成20年1月
 ”良  心” 落合登美雄
  「シダレザクラ」 大橋 春男
  蕉門の里を訪ねて 釜谷 新治
  『緑』に親しむ 東  隆昭
  ぶらり旅
根岸 繁子
   日本軍の南京占領  南方 隆一
   大木戸句会  川和 作二
   八重山五島巡り  依田 武敏





















































”良  心”  

                       SKK理事長 落合 登美雄
 同志社大学の正門入り口に石碑が建っています。
「良心の全身に充満したる丈夫の地に起り来たらんことを」 と書いてあります。
良心とは辞書によると「自分の行いに対して善悪を判断する心」とあります。今現代社会において全国的に「良心」が欠如している企業が如何に多いことか。6月から始まった北海道の食肉品の偽装、菓子製造業者の偽装、そして赤福や吉兆といった伝統のある老舗会社の偽装、建築会社の建築材料まで偽装 等々...何おか 言わんやである。
 こうなると人間はいったい誰を信じ、誰に頼ったらよいのでしょうか?その不信感は誰もが感じていることでしょう。最近コンプライアンス(法令順守)と言う言葉がよく出てきます。今の社会に対する警告では無いでしょうか。
 清水寺で毎年書かれている平成19年の漢字は「偽」でした。書いた僧侶も、今年こうゆう字を書くなんて...と言っていました。今一度社会全体で「良心」と言う
心を真剣に考えるべきではないでしょうか。
 昔から「企業は人なり、人は心なり!」と言う言葉があります。心には「良心」は勿論のこと、大きな心、豊かな心、温かい心、人を愛する心、等々様々な心がありますが、その各々の心が人を育てるのです。私達は年々高齢者になっていきますが、目標を設定し、クオリティオブライフを追求し、やらされているのではなく自らがやるんだと言う気持ちで、人生を楽しく過ごしたいものだと思っています。
 偽りの心がない、常に良心を持った人々が生活する、明るい美しい社会を生き抜きたいものです。日頃思うままを記しました。          以上

 

















































 シダレザクラ(枝垂桜)     
                                       副理事長 大橋 春男
 「あっ」...思わず息をのんで、私はその場に立ちつくした。いまのいままで見
 ることのできなかった前方の風景は、一瞬パノラマとなって私の視界に、どっと飛
 び込んできた。その視界の中心に、まさに待ち望んでいた「滝桜」があでやかな全
容を惜しげなく、はるか私の前にあらわしたからだ。...

 随筆家の牧野和春さんの『奥州の滝桜』の一節です。
 『滝桜』とは福島県三春町に咲く樹齢1000年以上のシダレザクラ(枝垂桜)のこの地元での名前ですが、高さ19m、枝振り、東西25.2m、南北18.4m、幹廻り11m、見頃、4月中旬から下旬。
  かの有名な『岐阜県根尾村の薄墨桜[ウスズミザクラ](エドヒガン)』や『山梨県武川村の神代桜(エドヒ
ガン)』とともに日本の三大巨桜の一つとされています。 実はこの『滝桜』というシダレザクラもエドヒガンの変異の一種なのです。この桜の咲く三春町の三春とは梅、桃、桜がいちどに咲くので 町の名前になったという優雅な名前です。
 エドヒガンとは日本の野生種サクラ九種のうちの一種ですが、花の色や大きさなどに変わり種が多いので、シダレザクラの殆どがこのエドヒガンの園芸品種と言われています。
  シダレザクラとはご存じの方も多いように、普通の桜の枝は上、または横に延びているのに、このシダレザクラだけは漢字の枝垂桜の通り細い枝が殆ど垂直に垂れ下がって花がつくので名前になったのです。
 民俗学者の柳田国男先生の『しだれ桜の問題』(昭和五年)によれば、「もともと、桜とは必ず山に咲いているものという感じは村に育ったものならば誰もが持つ感じであるが、ところがしだれ桜だけは山にはあまりなかった。どちらかというと里の木とも言えた。
 だが、里でもしだれ桜は元々民家の木ではなかったようで、どちらかといえば大抵は堂なり、祠なりの傍である。多くは寺に属したものが多かった。寺のしだれ桜で有名なものは、まず京では祇園の長楽寺の夜桜、東京では上野の観音堂の秋色桜がある。そんなことから推察すると、ことによると霊場、特に死者を祭る場所に是非ともしだれた樹を植えなければならぬ理由が、、前代にはあったことを意味するのかもしれぬ。本来、山野に生えており、伐り残されて自然に残ったと言うような種類の樹ではないだけに、一層、最初から人間の意志が加わって残されたものではないか(中略)
 しだれ桜の問題にいま一つ、明らかになっていないものがある。何人かがこの樹を何かの理由で里に植えたのではないか。習俗とは前代住民の生活、または考えの反映に他ならないからである。一つ考えられるのは(勿論、一つの仮定ではあるが) 心霊がこの樹に依ること。また大空をいく死者の霊が地上に降り来たらんとするには、特に枝が垂れ下がり、地面についている樹を選ぶであろうと想像される。すなわち、亡くなった人の魂が空から里の地に舞い戻る際の依る樹が、このしだれ桜ではなかろうか。それ故に、寺には必ずこのしだれ桜が植えられているのでは..」 
 そういえば先日、本門寺の大坊の庭にも枝垂桜がありました。その気になってその後、お寺の枝垂桜を探すと、殆どの寺の庭、または入り口にこの枝垂桜が植わっていました。先日、鎌倉の某寺に見事な枝垂桜があったので、そこの僧に ”なぜ、お寺にシダレザクラがあるにですか”と尋ねました。僧は ”昔から、どの寺にも 枝垂桜を植えるものだったのでしょう”とのこと。柳田民俗学的な説明はありませんでした。
 次元を変えた話です。シダレザクラはなぜ枝垂[シダ]れるのか。その謎は...。以前からは枝の上側と下側の伸びる速度の差ができ、上側の成長速度が速いために枝垂れてしまう、が定説になっていたのです。ところがだいぶ前、日本女子大の中村輝子教授の研究により、この枝垂れる原因は、[枝全体の成長速度が枝垂れない品種よりより早いため、枝や葉の自重によって枝が垂れ下がり、そのあと木質化が起こって、その形が固定されるから、と言うことが判った]のです。
 しかし、このように科学的に立証されてしまうと、民俗学的な深みのある考察などの不可思議さははかなく消え去ってしまいそうに思われますが違います。私はあくまでも、枝垂れの美しさは枝垂れてきた枝が地に達するやいなや、死者が天と地を往来可能になると言った話の方が真実に思われて、お寺に残るシダレザクラを大事に言い伝えたいと思い続けていくつもりです。科学は人間の世界観を変えるものではないのです。
























































蕉門の里をたずねて   
                                         釜谷 石瀬
 当初八月伊賀上野、京都、滋賀にかけて蕉門の里を訪ねる予定であったが、何
分猛暑のため半ば諦めていたところ偶然同じ地縁に繋がるM君から高野山参拝
帰路是非伊賀上野に立ち寄りたいとの申出があり、十月九日急遽実現の運びに至った。同日私は早朝東京を出発、関西本線伊賀上野駅に於いて十七時四十七分着の彼を待受け同夜上野シティホテルに宿泊した。
 明くれば十目快晴、八時ホテルを出発して上野公園に向い芭蕉記念に着いた。
 此処は芭蕉関係の資料、遺墨、俳諧関係の文献を収蔵している鷹栖な建物である。偶々この日は「芭蕉と土芳」展が聞かれていた。服部土芳は蕉門伊賀連衆の要、芭蕉の高弟で今年は土芳の生誕三百五十年に当たっていたのである。

   露けしや 芭焦土芳の 能書展    石瀬

 この日前庭には朝早くから数名の老人が、落葉掃きをし焚火で暖をとっていた。  順路により次に伊賀流忍者博物館に立ち寄った。これは伊賀の土豪屋敷を移築した、何の変哲もない茅葺の農家であるが、屋敷内は、防御用のドンデン返し、仕掛け戸、もの隠し等を設え、忍具も展示されていた。
 これより俳聖殿の前に出る。昭和十七年芭蕉生誕三百年記念に建設された聖堂である。全体は芭蕉翁の旅姿をあらわし、丸屋根は旅笠、下の八角堂は袈裟、柱は杖、俳聖殿の本額は顔を表現したものとされる。
 毎年十月十二日には芭蕉祭が行なわれ、全国から俳句の献詠が寄せられ優秀作品は、堂内に展示される。思えば我々の訪れたのはその二日前であった。因みに芭蕉忌は旧暦十月十二日である。
 次に上野城への道をとる。上野城は「白鳳城」という異名を持つ。はじめ筒井定次が、大和国衆を率い伊賀入園を果たし城郭を築いたが、筒井の廃絶により藤堂高虎の支配するところとなり、大改修を施し、城下町を整備した。幕藩時代は藤堂藩の支藩として上野は十万石を領したとされる。石垣の高さは三十米これは日本有数である。天守は慶長十七年暴風雨により倒壊し、元和偃武により再建されることがなく明治を迎えたが、川崎克氏が私財を投げ打って再建された。

   伊賀なべて 秋澄む天守に 登リては  石瀬

 城坂を下り赤坂町の芭蕉生家に着く。芭蕉は豊かな身分ではなく無足人(郷士)の家に生れた。しかし五千石の侍大将藤堂新七郎良精の嫡子良忠(蝉吟)に仕え、良忠より俳諧の手ほどきをうけた。元服して忠右衛門宗房と称し最初の俳号を宗房(そうぼう)と名乗った。 生家は格子構えの町屋で、裏庭には最初の著作「貝おほひ」を執筆した書斎釣月軒がある。

   破芭蕉 窓に小机 一つ置き    石瀬

   部屋住の 生家菊活く 厨かな   同

 生家の近くに松尾家の菩提寺愛染院がある。境内は秋明菊が咲き乱れていた。此処には芭蕉の遺髪を納めた故郷塚と愛人とも親族とも言われる寿貞尼の墓があるが、檀家以外は立入り禁止の制札があリ墓参は叶わなかった。
 続いて上野市街最南端に位置する蓑虫庵に至る。蓑虫庵は芭蕉の高弟服部土芳の草庵があり、私の親戚はこの近くにある。士芳は服部保英と名乗る槍一筋の武士で生涯独身を通した。芭蕉の俳論の集大成とも言える「三冊子」の著者で、岩波文庫に収録されている。芭蕉は庵開きの祝句

    蓑虫の 音を聞きに来よ 草の庵  芭蕉
                 を贈ったので庵の名としたと言われている。

    蟻穴に 入る草庵の 庭乾き    石瀬

     濡縁に 秋の蚊遣や 庵閉ざし   同

 この日十五時JR伊賀上野駅発二回乗継ぎ京都に着いた。宿舎は私学共済直営の白河院であった。此処の庭園は素晴らしい。由来はもと藤原良房の別荘で、白河天皇に献上し法勝寺が建てられその跡である。その夜朝にかけて降雨があった。

     京しぐれ 庭に灯ともす 池の松  石瀬

 翌朝まだ細雨が残っていたが、落柿舎(向井去来の別荘)又の機会に譲るとして東海道線膳所に向かった。膳所の見所は義仲寺である。此処に義仲寺同入句会のリーダーS君がいるので、案内を頼んであった。この寺は旧東海道に沿い、古くは粟津ケ原と言われた場所である。琵琶湖に面し景勝地である。朝日将軍義仲は、この地で義経・範頼の軍勢に敗れ哀れ三十一才で落命し葬った寺である。後年見目麗しい尼僧が、義仲の傍らに庵を結んだ。里人は訝り問うに、「我は名もなき女性」とのみ答えた。この女性こそ義仲の側室巴御前であった。尼の没後この草庵は「無名庵」と名付けられた。芭蕉は貞享年間度々来訪し宿舎とした。大阪御堂筋花屋にて元禄七年十月十二日逝去したが、その遺言に「骸は木曽塚に送るべし」とあったのでその目のうちに長櫃に納め舟により淀川を遡り十三日昼義仲寺に安置した。墓は義仲の墓の隣に建てられた。境内の池の中に翁堂があり、正面に芭蕉座像、左に丈草、右に去来の木像が並ぶ 膳所の次にJR石山がある。石山寺は開基良弁、西国霊場第十三番札所、如意輪観音が祀ってある。伽藍山を負い瀬田川に臨む景勝地である。階段が急である。途中石積場がある。

    石山の 石より白し 秋の風   芭蕉

    石山の 石にたばしる あられ哉 同

 本堂より俯瞰すれば谷は初紅葉していた。本堂脇の源氏の間は紫式部が「源氏物語」を執筆した所とされている。

    初紅葉 本堂隣る 源氏の間  石瀬

    秋麗ら 石山寺は 石累ね   同  

                おわり   平成19年10月20日
























































『緑』に親しむ  東 隆昭
                           
ある色彩の本に
 『一本の草の緑。一枚のはの緑。
     緊張や怒りをときほぐし、
        くつろぎを芽生えさせてくれるのが、緑』と書かれていました。
      明治神宮の森
 地球環境の変化が目に見えて現れ、問題化されています。
 人の生活も生活環境変化によるストレス、アレルギー、化学物質過敏症のシックハウス症候群などは、誰でも突然発症する可能性のある現代病です。
軽度の場合でも何となく頭が重い、ぼんやりするなど体調不良を起こし、精神不安定になってしまいます。まさに、人間がつくった病です。これを克服するには、地に”草花.樹木”を育て、人間に空気と命を与えてくれる植物たちの『緑』を復活させることが大切なようです。
 米国NASAも宇宙船内の空気浄化に植物による気化化学物質の除去を30年も前から研究しているそうです。
 また、人間は人口密度が1平方Kmあたり2,000 人を超えると「花木」を買おうとする欲求が起こり、2,700 人を超えると「自然」を欲しがるといわれています。
 現在、東京23区での人口密度は約 13,000 人/1平方Kmという事は、もはや自然を求めるというような段階ではなく『自然を渇望している』状態です。充分うなずけます。

 家の庭先、マンションのベランダ、店舗の入り口の園芸は大昔からのものですが、昨今のガーデニングは有望なビジネスとなり、ビルの屋上緑化、壁面緑化が条例義務化されるほどです。つまるところ、人間には「自然=緑」の生活環境が不可欠なのでしょう。日本人の心には昔から自然と緑を大切の思い、身近に親しむすばらしい生活習慣があります。 ”地球温暖化防止”と大げさに構えなくとも、庭先やベランダでの植栽、プランターミニ菜園も良し、かわいいスモールガーデン作りも良し、「人と植物」の関係を大切に、気軽に『緑』を育んでいきたいものです。














































 ぶらり旅    根岸 繁子
             
 いろいろな事に興味を持ち直ぐに倦きる私が、俳句だけはよく続けていると思う。
短い鉛筆と紙切れがポケットにあれば、それで充分。知らない町へのぶらり旅が好きな私に、俳句は格好の趣味であり、切り離せない日記のようなものかも知れない。
 遠方の、俳句をやっている友人との長電話も楽しいけれど、最近は、拙句を添えての便りをすることにしている。旅先からの葉書は殊に悦ばれ、先方からも同様の返信が届き、楽しませて頂いている。

   友もまた、俳句三昧 からす瓜

 残された命も大かた見えてきた。これから先も明るく楽しくを旨としながら、無理はせず、背伸びもせずの拙い俳句と、マイペースの旅を続けたいと思う。




















































 「日本軍の南京占領」    南方 隆一
 東中野修道先生の講演を聞いて
                             
  9月26日の講演を聞かせて頂きまして感じたこと、思ったことを書いてみました。まず、歴史という人間が生きてきた事実は一つであっても、国という政治の中では、あらゆる作戦、謀略、宣伝を使っても自国に有利にし、勝つということ。それが事実でなくとも、事実であるとしてしまうことがあると感じました。
 今回の先生の講演内容は、台湾にまで行き、国民党の極秘文書を探され、中国の中央宣伝部がいかにして日本軍のしていないことをでっち上げたか、当時の南京の地図、そして日本軍と国民党軍の配備位置と動き、当時の海外新聞の報道事実をあげて、詳しく説明されました。国際法に照らしての、禁止事項もあげられ、日本軍はそれを守り、違反してないことも話されました。
 私は日本人が日本に誇りを持ち、自信を回復するためには、何でも一方的に日本の責任という自虐的発想から脱却して、国際政治はお互い様、今も同じく各国の利益追求は変わらないという -特に欧米- 観点で客観的に見ないと、国としての独自性と誇りは保たれないと感じました。
 まだまだ未熟な思いですが皆様のこれからのご指導をお願いいたします。




















































 大木戸句会    協力 川和作二
      大木戸句会より当期(新春)雑詠を紹介いたします。(作者名は50音順)

                              飯倉 豊司
        ありあけの 月残しけり 初御空
        初山河 色変わりゆく 山の襞

                              釜谷 石瀬
        あらたまの 金色の千木 鳩放つ
        謹賀新年 くわえて獅子の 舞了る

                              川和 作二
        三輪車の ベルにも小さき 注連飾り
        若菜摘  もぐらの穴に 足とられ

                              杉野 昌子
        初日の出 拝む新居の 大窓に
        会津城 指呼にありけり 初景色

                              関口 湖舟
        藤色に 孤高ゆかしき 初筑波
        一族を 寄せ老武者の 年酒かな

                              鶴見 福治
        糟糠の 妻ゐて温し 今朝の春
        去年今年 老いたるなりの 道は在り

                              中本 保子
        庭隅の 水仙生けて 年明くる
        一人酌む 屠蘇も又よし 留守守り

                              深見 正男
        客もなく 妻と二人の 年酒かな
        酒強し  倅も強し  年酒酌む


                              以上SKK会員分を抜粋   




















































 “八重山諸島あこがれの五島めぐり”      
          を振り返って
    依田武敏

 最高気温11度の埼玉から、最高26度最低気温20度の沖縄へ。夏物一式をザック に詰めて、羽田発14時25分発のジャンボで那覇空港へ、時間通り到着した。曇り空 、東京なら暗くなってる時間なのに沖縄はまだ日が差している。1時間30分ほど待 って再び石垣島へ向かう。
 石垣空港は雨、予報では3日間晴れだったが先が気になる。19時45分石垣島鍾乳 洞へ、私にとっては石垣島は2度目の旅になる。ここ「レストラン竜宮」にて遅めの 夕食『石垣長寿料理 竜宮風』をとる。前回は満席で気忙しかったが今回はゆったり ビールで疲れを癒す。鍾乳洞は昼夜、天候は関係なく見学できる。白い美しい姿を見 せてくれたが電飾が少し多くなった感じである。30分ほどの見学後送迎バスで 「ホテル日航八重 山」、21時過ぎにチ ェックイン。












 翌21日は8時出 発、朝食は6時30 分から、皆さん元 気で予定通り出発、 石垣港から竹富島 は10分程で到着、 我々15名は小型バ ス1台貸し切りで竹 富島観光、赤瓦と 珊瑚で出来た石垣 の家並みを水牛の ひく車でゆっくり見学、30分で一巡り、40分程の自由時間で島一番高い展望塔へ、 360度の展望を満喫した。
 竹富島から西表島へ、曇り空ながら時々日も差す天気、高速船は約30分で西表大 原港に到着した。小型バスで由布島に。宣伝広告にある水牛車で西表島から海を渡って由布島へ11時40分到着。昼食をとって島内の自由見学、周囲は何キロもない島、それでも小学校跡の建物、亜熱帯植物、メラネシア
文化の面の彫刻等を展示した小さな建物など見て回る。再度牛車で西表島、更にバスで大原港へ。
 仲間川ジャングルクルーズは両岸に生えるマングローブの密林を舟で4キロ程上流までさかのぼり南国の風情を楽しませてくれる。上陸して、約 4mにもなる天然記念物のサキシマスオウの樹を見学する。帰りの船中で仲間川のシ ジミをガイド兼パイロットが見せてくれた。蛤の3,4倍程の巨大シジミにびっくり1時間のクルーズで大原港に戻る。
 石垣島まで高速船で30分程で戻り、さらに同じ船で小浜島へ、添乗員は半数近く のツアー参加者とともに石垣島に残り、我々だけで迎えのバスで今日の宿「はいむる ぶし」へと向かう。「はいむるぶし」とは土地の言葉で「南十字星」と言う意味でな かなか洒落たリゾート風ホテル、広い敷地で移動用のカートまで用意されている。機会を作って是非
一度訪ねてみて下さい。中央棟のレストランで6時より8時まで夕食バイキング、アルコールは別勘定で少し高めのようですが、ビールの差入もあり十分に食べ、飲める楽しい一時を過ごしました。午後8時半から地元「サンシン」と「横笛」の生演奏「稲福ひとし」の一人舞台で約1時間10曲程、語りを入れ、地元民謡を主に新しい曲も取り入れて沖縄独特の雰囲 気を醸し出しました。風呂棟も別棟で23時まで、歩いて5分ほどの所、夏服でも風が 心地よい。
   3日目(22日)は小浜島のゆったり観光で9時20分出発。 広いサトウキビ畑、ススキの様な花を見ながら、人気TV ドラマ「チュラさん」の舞台めぐり、沖縄独特のお墓を車 窓に見ながら、チュラさん展望台へ、西表島を望む海は独 特のコバルトブルーを見せ、珊瑚礁の白波「リーフ」の線が印象的で
した。 石垣島に戻り、島の観光へ、中国奴隷船の話を聞きながら唐人墓地を詣で、昔の石垣島の生活を再現した「八重山民族園」で昼食後ゆっくりと見学する。
 日本百景にも選ばれ沖縄で一番美しい海岸と言われる川平湾(カビラワン)の透明度の高いコバルトブルーの海に驚嘆する。透明な海は白 砂を見せながらだんだん明るいエメラルド色
にさらに濃紺にグラデーションがすばらしい。 グラスボートで海底漫遊、珊瑚や魚達が手に 取るようだ。 帰路、海の色コバルトブルー がテーマのような焼き物を石垣島窯元で見学、 焼き物の好きな方はたまらない魅力でしょう。 バンナ展望台より八重山諸島、石垣島市内な ど360度の展
望を楽しむ。石垣の伝統的な織物を「ミンサ織」工芸館で見学、土産シ ョッピングで今回の旅はおわる。
 石垣島空港での待ち時間に夕食をとり19時30分石垣発、那覇空港50分待ち同じ飛行機で21時10分沖縄を発った。羽田着の遅れを心配したが23時15分着。帰宅等の人たちを除いて9人が新宿ニューシティホテル0時20分着で無事今回の旅は終了しました。 天候に恵まれ全員無事帰郷、非常に楽しい旅でした。この文が楽しかった旅の思い出へのよすがとなれば。
 反省の弁 旅は楽しく終わりましたが、羽田着が23時20分となり楽観的な観測が裏切られ最終便、忙しい思いをさせました。最悪の事態で予定を立てなければいけないと言うことが身にしみました。                   旅行幹事 




















































 
 
あづま路