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平成21年度

58号

59号



年間2回発行に代わりました。







































   

あづま路 59号 平成21年7月
少子化と高齢化社会を思う 落合登美雄
ニミッツ提督と東郷元帥 皆本 義博
“雁風呂” 大橋 春男
「進歩恐るべし」 飯倉 豊司
高齢者の生き方を考える  高崎栄一郎
大木戸句会当期雑詠  川和 作二
奇数「3」の不思議と「勘  東  隆昭
上野公園・谷中霊園を巡る  小川日出夫





















































59-01「少子化と高齢化社会を思う」   
                  
理事長 落合登美雄
 
  昔、「人生50年」と言った織田信長の戦国時代のことを子供の頃よく親から聞かされたものであるが、今や現代社会は人生80年、100年と言う時代になってきています。高齢化社会になったのは、医学の進歩と高度化、薬品の向上、生活環境の改善、等などが影響していると言ってよいでしょう。老人問題、介護の問題はテレビ新聞等で毎日のように報じられています。2055年には4人に1人が75歳以上になり、100歳以上の高齢者は07年に初めて3万人を突破した。平均寿命にしても男79歳、女85.8歳(06年簡易生命表)と世界にあって長寿国としてトップ級に位置している。
  しかし一方において、死亡者数は高齢化の進行で前年比3万500人増の114万3000人、戦後最多だった昭和22年の113万8238人を初めて上回り、6年連続100万人超えとなった。出生数から死亡数を引いた自然増加数は、初の2年連続マイナスとなり、平成19年に比べて自然減32,000人に拡大した。出産適齢期の女性人口が減りだし、出生数が伸び悩む中、高齢化で死亡数は増え続けており、今後も自然減は拡大し続けると見られる。一方平成20年の婚姻数は73万1000組(前年比1万1000組増)で2年ぶりに増加、離婚数は25万1000組(同4000組減)で6年連続減少した。(平成21年6月産経新聞調べ)
 朝日新聞の社説によると、1人の女性が生涯に産む子どもの平均数を表す合計特殊出生率が昨年は前年より上がって、1.37になった。'05年に過去最低の1.26まで落ち込んで以降3年連続上昇だ。だが生涯未婚は2割、生涯子どもは産まないは3割と報じられておるが、人口を維持できる水準子供数は2.07人と言われている。初婚年齢は28.5歳と晩婚になっ
ていて、30年前の24才時代は去った。安心して結婚、出産、子育てができるように、若い世代への支援を思い切って強化することが必要である。しかし今、夫の協力を得ようにも、週60時間以上働いている人は、30代の男性で約5人に1人と長時間労働は相変わらずだ。出産を機に仕事を止める女性も多く、労働環境の改善は課題である。
 以上のようなことを考えて、高齢者には養護施設の増加と充実、そして介護師、看護師の増加充実をして何時でも将来に夢を持って暮らせるように社会保障制度の構築、 少子化対策については、(働きたい主婦が93%に及んでいるので)働きながら出産育児ができて、仕事と家族生活が両立出来る職場の提供、が必要と思います。国はもっと無駄を省いて福祉の充実を計って頂きたいと思うのは私だけではないでしょう。     以上

















































59-02  ニミッツ提督と東郷元帥  皆本義博
激戦の沖縄で見た友情   
 激闘を続けた沖縄本島も、最後の局面にいたり、我々の慶良間諸島の日本軍は、当面の米軍と対峙しつつ、乏しい火器、弾薬で辛うじて島の一角を保持していたのだが、ほとんど食糧も尽き、その上最大の問題は、医官も戦死し医薬品や衛生材料も全く皆無の状況であった。
 昭和20年5月中旬のある日、米海軍の大型駆逐艦が減速しつつ慶良間海峡に入り、流暢な日本語で「日本の皆さん、薬品も衛生材料も尽きたことでしょう。太平洋戦域最高司令官の命により、海岸に揚げます。銃砲撃は致しません」とスピーカーで伝えた。
疑う部下を叱咤し薬品梱包を持ち帰ったが、兵も村民も傷病者がどれほど救われたか、戦う相手の友情に心の底から感謝した。

ニミッツ記念館の日本庭園
 私は松尾文夫氏(共同通信マーケッツ社長)と服地健夫氏(元海上幕僚長。現隊友会副会長)の推挽でニミッツ元帥の生地テキサス州フリデリスクバークで合衆国太平洋戦争博物館が主催する太平洋戦争沖縄シンポジュウムに参加した。福地誠夫氏(福地健夫氏の御尊父、元横須賀地方総監)はニミッツ元帥と親交があり、福地健夫氏も元帥の生前、数度交誼を重ねられ、そのお導きで私は同行した。
 チェスター・ニミッツ元帥を顕彰し「アドミラル・ニミッツ記念海軍博物館」が設立されたが、その後戦争の歴史を後世に残し歴戦者の功績を顕彰し、若い世代の教育のため統合し総合博物館が建設された。この博物館には国内は勿論 日本からも資料を集め米軍の勝利を誇示することなく、歴史的価値の高いものである。
 このニミッツ記念館に日本庭園「平和の庭園」が設けられているが、東郷、ニミッツ両提督の敬愛関係を永遠に保存すべく、東郷平八郎初代舞鶴鎮守府長官官舎の書斎アズマヤと日本庭園一心池を模し、両国関係の方々の協議の上、旧海軍関係等有志団体の募金で建設された。

東郷元帥を崇敬するニミッツ提督
ニミッツ士官候補生は、東郷司令長官率いる日本艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃滅した1905年、海軍士官学校を卒業し、その時から東郷元帥を崇敬していた。遠洋航海で日本に来航し、皇居でのお茶会に招かれ、その席で東郷元帥の講話を聞き、元帥と言葉を交わし、ネルソン提督と並び称される東郷元帥に心から傾倒していた。
 1934年 東郷元帥の国葬には、ニミッツはアジア艦隊旗艦戦艦「オーガスタ」の艦長として参列した。
ニミッツ元帥は、勤勉、秩序、謙虚、義務を重んじた厳格なドイツの躾教育で過ごし、父の早死で祖父チャールス・ニミッツから日本の武士道精神に似た精神をたたき込まれた。1955年秋、アナポリス海軍士官学校での卒業50周年ホームカミング行事で、期の最先任のニミッツ元帥は、士官候補生によるパレードの観閲官を辞任し、同期の人々と夫妻で交歓を続けた。元帥はアーリントン国立墓地の権利を辞し、サン・ブルノのゴールデン・ゲート墓地の小区画で、多くの人々の墓石と同じ規格を選んだ。
 また、横須賀にある日露戦争時の連合艦隊旗艦「三笠」が荒廃のまま放置されていた。これを「日本人よ、これでよいのか」と、その復元を訴えられ、自ら募金等された。
 今日 横須賀の地に記念艦「三笠」が展示されているのは、ニミッツ提督の尽力によるものなのだ。
























































59-03    “雁風呂”     大橋 春男
 上記の表題は俳句の春の季語で“がんぶろ”と読みます。人によってはこの表題とは別に『雁供養』と言う単語を使う人もいたようです。

 昔、奥州外ヶ浜(津軽)の村人たちは、春になって雁の群れが北の国に帰ったあと、浜辺に散らばって残っている、多くの小枝を拾い集めては風呂を焚き、雁を供養するためにみんなで入浴をするという習わしがありました。
 雁は秋、北の国からこの日本に海を渡ってくる時、海の上で羽を休める時の用意にとかならず木の小枝をくわえてやって来るのだそうです。しかし、陸に着けば半年後の北への帰りまでは、もう要らなくなるので、その小枝を海岸の隅に積み上げて置き、それぞれが別れ別れに日本の各地に飛んでいく、と土地の人びとは思っておりました。

 やがて暖かな春になる。この雁たちは再び、自分たちの生まれた北の国に帰るためにこの奥州の海岸に集まり、去年の秋、ここに積み上げて置いた小枝を捜し出しては口にくわえ、北の国へと海を渡って飛び立っていくのです。
 しかし、この半年もの日本の暮らしのうち、幾羽かは人間に捕らえられて食われてしまったり、または病 に掛かって死んだりする雁もかなりあったのでしょう。
雁の群れが北へ飛び去ったあとには、毎年かなりの小枝が海岸に置き去りになっているのです。

このことは、つまり、この海岸に残された小枝とは、北に帰るためにこの地に集まれなかった雁たちの悲しい運命を表しているのです。
 食われてしまったのか、それとも病で死んでしまったのか。哀れな鳥たちの、悲しき巡りあわせを物語っている 村人たちはこの雁たちの供養のためにと、浜に残された小枝を集めては風呂を焚き、みんなで湯浴みをし、通りがかりの旅人にも風呂を振る舞うと伝えられております。

 短い“語り草”ですが、いかにもあわれを誘う不思議な、そして美しいお話しとして遠い昔からこの土地で詠われてきたのです。これからも、日本人と自然との関わりを表す典型的な物語として、いつまでも語り継がれて行くことでしょう。
























































59-04        「進歩恐るべし」             
            
パソコン エピソード二題     飯倉豊司
1.手紙では困るんです
 年末の大掃除で客間の天井灯の笠が毀れた。ここは建築時はシャンデリアを下げていたが、維持も掃除も面倒なので、10年くらい前、某メーカーの天井付けサークライン(4連)に取り替えたものだ。
 4つのうち1つの笠が欠けているのは、どう見ても様にならないので、修復のため、近所の電気器具販売店を訪ねた。
 店員に相談すると、面倒くさそうな態度。メーカー名を言ったら200~300頁のカタログ集を出してきて「どの品か見て下さい」と言う。商品分類を辿って見たが、該当するものは見あたらない。「ないよ」と言うと「メーカーが違うのではないか? 10年も前だと販売は中止しているかも知れない」と買った方が早いといった口ぶりだ。仕方なく東京のサービスセンターを聞き出して帰った。

 メーカーのサービスセンターへ電話する。音声テープから聞こえる電話の声、「家庭用電気器具の用件は○番」とか「音響機器は○番へ」.......とか電話のキーボード番号を押せと言う。暫くして「照明」が出てきたのでキーボードを押したら人の声が出た。担当者(男性)が言うには、「問題の器具の型番を教えろ」とのこと。「型番は何処にあるのか」「器具に書いてあるはずです」。笠を外して調べたが、4灯とも見つからなかった。結局この相談も空振りに終わった。
 2週間ぐらい後、市内の大型販売店へ実物の笠を持って相談に行く。ここなら修理部があって、メーカーとの取り次ぎも大丈夫と考えたからだ。担当者と前回と同様のやり取り。「型番は?」「ない」「笠にはないから、本体を外してきて!私達が見ます」と要求された。家に帰って再び脚立に登り、本体の照明灯を外す。今度は老人には無理なので、息子に手伝わせる。ネジが錆び付いて苦労する。漸く4連の中の一つがその晩に外れた。
 翌日、本体の4連の1つの照明灯を段ボールに入れて、大型店へ運ぶ。折悪しく前日の係員は不在で、照明売り場の責任者らしき中年の男が出てくる。「昨日持ってくるように言われたので」と段ボールを開けると、面倒そうに「型番がそんな所に書いてあるとは思えない」と言う。「折角持ってきたのだ。兎に角、中を見てくれ」と蛍光灯を包む本体の内部のネジを開けさせた。その結果出てきたのはコイルを巻いたマグネットと配線だけ。記号も数字もなかった。
  仕方がない。もう諦めるか、と思ったが、腹の虫が治まらない。帰宅後このメーカーの大阪本社へ電話をかけた。交換台から係へ、係の話では「修理相談センターという部署があります。有料ですが、番号や型番が分からなくても、相談されては如何がですか」と言う。
 修理相談センターへ電話する。女子事務員が出る。関西なまりだが、きびきびした感じ。「本体の写真を撮ってサイズを知らせて下さい。ご用件はパソコンのメールで御願 します」と言う。私は「メールが出来ないので、手紙と写真を送ります」と。その時の彼女の返事、「手紙では困るんです」????
 今の事務処理は紙のやり取りでは不便なのだ。と私が気づいたのは、その日の晩方に なってからであった。
 善は急げ!十粁先に住む長女(主婦)に頼んで写真と用件のメールを送った。
翌々日午前、早くも電話があり「お客様がお求めの部品はありました!」と。「地獄で仏」とはこのことか。私は係の事務員さんに感謝すると共に、今後、パソコンメールの習熟を誓ったのであった。

2. 5万円の新品パソコンを100円で売ります。
 2月の休日の昼、町田市内に買い物に出掛けた。休日の駅前中央通りは賑やかだ。
 町田市は、小田急線、JR横浜線の足に恵まれ、戦後急膨張した町で人口は42万人を超える。駅の周りには戦前の新宿を思わせる古い商店街が並んでいたが、そこへ割って入るように新しく大型店が出現した。沿線住民の懐まで狙っているのか出店相次ぎ、この10年間ピーク時には百貨店5店、スーパーは10店を超えるオーバーストア(過当競争状態)となった。私達消費者にとって物価が安いのは有難いことだが、足腰の弱い店は次々と潰れて行く。
 今日も明日から閉店という量販店の前に、閉店セールの看板が見える。その向かい側の量販店の前では、飾り風船で作ったアーチの奥から売り出しのマイクの声が響く。
「皆様、5万円のパソコンを100円でお売りします。宣伝販売中ですので先着10名様までとさせて頂きます」
 その前を通ってみると、テーブルに白布の台、店員と思われる男女2人が見受けられたが、お客らしき人は一人も見えなかったので、そのまま通り過ぎた。
 自分の買い物を済ませた帰路、閉店セールの量販店で見切り品の買い物をして、外に出ると、先ほどのパソコン宣伝販売の声が耳に入る。「5万円のパソコンが100円で買えます。もう3台売れました。あと7台です」
 そのまま去り難く、又好奇心もあって、風船アーチの奥をのぞいて見る。若い制服を着た女子販売員が親しげに寄ってくる。「新品のパソコンです」と言ってビニールの包装から出してきたのは、ノート型パソコン。確かに誰の手にも触れなかったようなメタリック
の品の良い小型機械だ。(台湾製か?字が小さくて読めなかった)性能や操作方法を聞く。
「旅行中に使えるか?」「使えます」「インターネットの能力は?」「普通のパソコンと同じです」だんだん聞いていくと、「動かすには回線使用料が2,900円かかります。それから6,500円払って頂くと、もっと多くの機能が使えます」と言う。「エエッ 100円で使えないの?」と聞くと、「機械は100円ですが、回線使用料を頂かないと動きません」と言う。
 漸く分かったのは、彼らは機械を餌に回線使用料を売っているのだ。丁度携帯電話をタダにして加入権を売るように。それにしても先に3人が買ったと言うが、その人たちはどうしたのだろうか。新手の催眠セールス、気をつけなければいけない。「頑張れよと言って別れた。














































59-05 高齢者の生き方を考える       高崎 栄一郎
  高齢者世帯の年間収入(所得) 若い人に道を譲ることを理由にして,65歳ごろから所属する社団法人やNPO役職すべてを辞退した。その私が後期高齢者の仲間入りをしようとする時点で,SKKの理事に指名されたことは,大きな名誉ではあるが戸惑いでもある。
 そこで改めて高齢者の生き方について考え直してみたい。そのためには,まずインターネットを検索して高齢者の経済条件に関するデータを求めた。

1.高齢者の収入
 政府が公表した平成20年(2008年)版の「高齢社会白書」によると,高齢者世帯の収入(所得)の平均は,300万円程度。200万円未満が4割強を占める。
 ここで高齢者世帯とは,65歳以上の高齢者だけの世帯、または18歳未満の未婚の者が加わった世帯をいう。
  区分  高齢者世帯(65歳以上)   全世帯
 100万円未満       15.7%     6.0%
 100万円~200万円未満       27.1%    12.9%
 200万円~300万円未満       18.5%    11.8%
 300万円~500万円未満       25.5%    23.6%
 500万円~700万円未満        7.0%    17.9%
 700万円~1000万円未満        3.6%    15.2%
 1000万円以上        2.6%    12.8%

· 高齢者世帯平均 301.9万円
· 全世帯平均 563.8万円

注記:平成21年5月発表の「平成20年国民生活基礎調査の概況」(厚生労働省)によれば,平成19年の高齢者世帯平均は298.9万円,全世帯平均は556.2万円であり,どちらも前年より少ない。

2.高齢者の収入の内訳
 高齢者世帯平均収入301.9万円の内訳は,稼動所得54.5万円(18.0%), 公的年金・恩給211.9万円(70.2%),財産所得15.7万円(5.2%),年金以外の社会保障給付金2.5万円(0.8%),仕送りその他17.2万円(5.7%)である。
 世帯(平均1.60人)1人当たりの所得は189万円であり,全世帯(2.74人)の1人当たりの所得205.9万円と大差はない。念のためであるが,高齢者世帯平均収入301.9万円には,54.5万円の稼動所得が含まれているので,稼動所得のない人,つまり働いていない人の平均所得は,当然その分だけ低いはずである。財産所得とは,家賃・地代,利子・配当金の所得をいう。

3.高齢者の満足度
 平成17年(2005年)の内閣府の調査によると,日本の高齢者のうち経済的に「困っていない」57.1%,「あまり困っていない」28.3%、合計85.4%である。この合計値は,米国72.2%,ドイツ70.1%,フランス60.0%,韓国50.4%よりもかなり高い。
◆恵まれている日本の高齢者
 日本の高齢者の経済的な満足度は,米国や欧州主要国の高齢者のそれよりも高い。これは国民年金,厚生年金,企業年金などの諸制度と関係があると思う。現在の深刻な不況下において,派遣労働者が突然解雇されることはあっても,高齢者の年金支給が打ち切られるようなことはない。
 このような社会福祉を私たちの次の世代にも享受してもらいたいと私は願う。

◆高齢者の生き方を考える
 後期高齢者としての人生を生きる上で,次の3点を心がけたいと思う。
 その1つは「知的に生きる」である。この複雑なグローバル経済や錯綜する国際情勢を理解したいものである。そのためには新聞や図書を読み,できれば勉強会にも出席したいが,そのような時間を持てるのは,働いていない高齢者しかいない。われわれの勉強は単なるボケ防止ではなく,知的な人間の義務でもあると思う。
 もっと重要な心がけは「健康に心がける」である。加齢とともに病気のリスクは増大する一方であるが,自分のためにも,周囲の者のためにも,病気にならないように努力しなければならない。健康増進の心がけの基本は歩くことだといわれる。また散歩は「痴ほう」の予防にも効果的だといわれている。私はつとめて歩くとともに,腰痛対策のために水泳を始めたが,腰痛が治まった後も,諸悪の根源であるメタボの増長を防ぐために水泳を続けている。
 3つ目の心がけは「社会に貢献する」である。その方法は,奉仕活動に従事したり,慈善事業に寄付したりするだけではない。身体の不自由な人を手助けすることも,SKKのような任意団体のお世話することも社会奉仕につながっている。
 もうひとつ,「趣味を持つ」ことも重要である。さらに同じ趣味の仲間と交流することの意義も大きいと思う。現在のところ,私には趣味といえるものがなく,良い趣味を持っている人をうらやましく思っている。できれば没頭できる趣味を見出したいと思う。





























59-06    大木戸句会    編 川和作二
    大木戸句会当期雑詠 三句宛 紹介いたします。(作者名五十音順)
 
                                          飯倉 豊司
               潮風に 烏賊焼く匂ひ 浜薄暑
          蝶曳きて 帆船の如く 蟻の列
          虹の橋 大河跨ぎて 地平まで

 
                                          釜谷 石瀬 
          枝移り 目細声澄む 登山口
          岩庇 目深に宮居 滴れる
          幕垂れて 懺悔室あり ほととぎす

                                          川和 作二
          西瓜切るや 真っ赤な太陽 真っ二つ
          新宿に 大八車 つばめ 来る
          キャンパスの 門閉ざされて 蝉時雨


                                          杉野 昌子
          冷奴 薬味は庭で 採れしもの
          我れ先と 西瓜に顔を 埋めをり
          背に団扇 幼児 母に 手を引かれ


                                           関口 湖舟
          うぐいすの 高音や大気 引き締むる
          柚子苗木 余生の手もて 植ゑにけり
          妻の手に さみどり溢れ 蕗のたう


                                           中本 保子
          葉桜の 中に静もる 武家屋敷
          花りんご 耳にやさしき 津軽弁
          羊歯若葉 群れて明るし 杉木立


                              以上SKK会員の作品を抜粋しました。





























59-07  奇数「3」の不思議と「勘」     東 隆昭
   私の「国語辞典、暇つぶし」                東 隆昭
 昔から日本には奇数1,3,5,7,9を好む習慣があるようだ。
「三」を国語辞典で引いてみると
三悪、三位、三猿、三界、三回忌、三角関係、三角州、三方、三箇日、三冠王、
三寒四温、三脚、三曲、三軍、三弦、三原色、三顧、三国、三混、三彩、三叉路、
三士、三三九度、三々五々、三思、三色、三次元、三下、三枝の礼、三種、三重、
三周忌、三十六計、三唱、三乗、三速、三振、三進、三味線、三等親、三竦み、
三助、三ず主義、三途の川、三世、七五三、三昧、三流、三役、三都、三次元、
三門、三文、三面、三拓、三直、三幕、三省、三聖、三遷、三千世界、三層、三尊
三体、三代、三択、三太夫、三太郎、三嘆、三段跳び、三段目、三段論法、三訂、
三度、三盗、三等、三拝、三杯酢、三羽烏、三白眼、三幕、三拍子、三部作、
三幅対、三分の理、三隣亡、三方面、三宝、三本締め、三枚目、三昧、三位、
三面、三文、三門、三役、三里、三陸、三景、三流、三塁、三輪、三和音、三連勝
三大指標、・・・・等が出てくる。
 これら「一つの言葉」を確認し、連想するのも面白い。
「3」は物事を簡潔明瞭に解り易く表現する役目?。
「7」の奇数もラッキーセブン、七不思議、七変化、七光り・・など面白そうだ。

 また、奇数「3」の時間の区切りも興味深い。
3秒、3分、3時間、3日、3週間、3ヶ月、3年、30年・・・など。
「3秒」で物事の善し悪しを判断する人がいる。「3秒」という瞬間にできあがったものが、役立つか、売れるか、OKか、ダメか・・・を判断してしまう。「勘」なのだろうが驚く。考えるのではなく、感じているようだ。この「勘」の働く人は、どんな職業にしろ「30年」という長い多くの経験を積んだ人に多い。「3秒」で閃かないものは、「3時間」考えても「3日」考えても答えは出ない。何日「沈思黙考」しても余計な雑念、欲が生じ、判断が狂い出すのだろう。
 人間の脳にはスーパーコンピューター何十台分の能力があると言われているが、実際に使っているのは脳の何パーセントでしょうか、また人間には「五感(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚)」という素晴らしいセンサーがある。摩訶不思議な“第六感”や“直感”はどんな優れたスーパーコンピューターにもあり得ない。
 ソロバンが電卓に変わり、パソコン、携帯電話が普及し、ロボット登場の時代だ。何もかも便利になった。しかし、人間は思考、記憶とか +、-、×、÷ 計算もする必要が無くなってしまったのだろうか?。
 最近私も、この人間ならではの“勘”が鈍り、記憶も悪くなってきた。現代病か、 認知症か!? 幾つになっても、何をするにも、人間らしい「直感力」「勘」を失わず「3秒」の感性 は大切にしたいものです。


















  


















59-08 上野公園・谷中霊園を巡る       
          自然史跡に親しむ会        小川 日出夫
 今回も何時ものように下見を致しました。建国記念日の2月11日、午前10時に日暮里駅で大橋さん鈴木さんと合流し、先ず谷中霊園に行く、回っている内にボランテアのガイドさんに会い、徳川家の話を中心に熱心に説明してくれた。谷中から上野に向かう道順を確認しながら行くが、かなり歩くので、慣れた靴で安全に行きたいとつくづく思う。上野公園の西郷さんの近辺で昼食の場所を確認するが、ブルーシートの方々が意外に多く、ベンチを占有していることが気になった。

 当日、4月3日(金)はお天気も良く、気温も17℃で、桜も満開に近く、大橋さんと良い日に設定したことを喜び合う。
午前10時に集合だが、9時過ぎ集合場所に待機してると、鈴木千代子さんが来られた。三々五々、予定に皆様が集まり、最後の相沢栄子さん、鎌田八重子さんと谷中霊園に行く。
徳川一族、勝海舟、横山大観、鳩山一郎など著名人が多いが、割に整備が行き届いていた。
 墓地の桜は古木が多いが、満開で

美しい。周辺の高層ビルと妙にマッチして仲々のものでした。寛永寺から上野公園に向かうが、人出が多くなり、参加 された28名の方々の動向を心配しながら進む。工事中の上野東照宮を見ながら、通り抜けるが、人混みの中に結婚式のカップルが居たり、大変な所をぬいながら 昼食場所の西郷さんの所に行きました。
弁当のない方々と、ブル-シートの気になる方が集まり公園下の中華店に行き、程良く疲れた体をビールで癒しました。






































      
59-09 SKK























   









  





      
59-10  大橋 春男
 











































   

あづま路 58号 平成21年1月
 「オバマ旋風に思う」 落合登美雄
  「あづま路」の表記について 大橋 春男
  価値ある国家への奉仕 皆本 義博
  「葛西臨海公園」後記 小川日出夫
  「大文字焼き」の旅
依田 武敏
   大木戸句会より  川和作二





















































5801 ”オバマ旋風に思う”  

                       SKK理事長 落合 登美雄
  1月20日第44代アメリカ大統領に民主党のバラク.オバマ上院議員が就任する。
長い民主党の予備選を戦って、ヒラリー.クリントン氏を破り、そして本戦では共和党のジョン.マケイン上院議員を破っての就任である。 元来アメリカは奴隷制度という過去を持ち、人種問題を抱える国で、奴隷の子孫ではないものの、アフリカ系(黒人)大統領を選んだのは歴史的
にアメリカが変わったということが言えるだろう。(奴隷がアフリカから北米に輸入されて389年、リンカーン大統領の奴隷解放宣言から145年になるという)
 オバマ氏が大統領に当選した大きな理由は、選挙戦で面前に終始掲げたチェンジ(Channge)、変革を訴えたことにあった。同時に政策面で経済政策は勿論のこと「リベラル」「保守」といったレッテルに縛られることを特に嫌ったことも勝因の一つであったと思う。アメリカは一つである。リベラルなアメリカも、保守のアメリカもない。黒人のアメリカも、白人のアメリカも、アジア系のアメリカもない、アメリカは一つだけだ、と主張したのも効果があったと思う。初めて投票に臨んだある大学生(18歳)は「歴史を作る一員になっている気がして感激している。」とオバマ氏支持の理由を語っているとも報じられた。それ程までに今回の大統領選挙は意義があるものであったと言えるだろう。
 日本でこの選挙結果が良かったと思う人は79%もあり、20~40代では80%を越えていると朝日新聞は報じている。
日本は今や経済政策、雇用問題、社会福祉問題、医療や教育の問題 等々 チェンジが必要な問題は山積している。政治家の皆さんも党のことばかり考えず、国民のための政治をやってもらいたいものである。国民あっての政治なんだから。
SKKも心新たに、楽しい会に、親睦と啓発が更に高まるようにチェンジしよう。
                               以上

















































 『あづま路』の表記について     
                                           SKK副理事長  大橋春男
①初代SKK理事長『東(アヅマ)さん』。旧軍兵科は機甲(戦車)。職制は機甲本部参謀
②その姓『東・アヅマ』の読み方をとって『あづま路』の機関誌タイトルが誕生した。
③『あづま路』の書体は初代理事長(東富士男元参謀)の直筆である。
④だが、このタイトル字記は正しくは『あずま路』(新仮名遣い)ではないのか。しか し、旧古語遣いとしては『あづま路』も考慮されるかも知れない。(参考⑦)
⑤この書体はSKK初代理事長 東富士男氏のものにつき、長くなじんだものとして、
 そのまま継続使用することも可能だが、新表記による『あずま路』の考慮も必要か。
⑥SKK発足は昭和59年。平成20年で創立24周年になる。

⑦参考-----各辞典の(東アズマ)の表記は以下の通り
・岩波古語辞典 [1974. S49]   あづま(東)
・岩波現代用語辞典 [1881.S56]        あずま(東・吾妻・吾嬬)
・新潮国語辞典-現代語・古語- [1965.S40]  あずま(東) あづま->あずま
・広辞苑-岩波書店 [1983.S58]       [あずま] 東・吾妻・吾嬬
                      しかし(あづま)の記載はない。
参考
岩波古語辞典には、上代(奈良時代)から近世(江戸時代前半期を主とする)に至る、日本古典にあらわれる主要な語彙が納められている。編集者は大野晋、佐竹昭広、前田金五郎 (同辞典の凡例より)

(別件)
『参謀』とは“はかりごと”に参画する、つまり指揮官を助けて作戦計画案を練る参謀の職名で、中国から伝わり日本でも古くから使われていた。秀吉の竹中半兵衛、信玄の山本勘助と言った知恵袋は「軍師」であったが、維新戦争には板垣退助参謀や、黒田清隆参謀の名があちこちに見え隠れしていた。(日本軍隊用語集より)
 つまり組織的にはスタッフであり、ラインではないので部隊への指揮権はなく、雑用をする当番や運転手以外の部下はいない。つまり『参謀』とは物凄く優れ、とんでもなく怖い一匹狼とも言えよう。
                                                  以上
























































価値ある国家への奉仕
                日本は尊厳ある振る舞いを   
                                                  皆本 義博
士の崇高な理念 
 65年前の3月下旬、私どもは沖縄本島の西南30km に位置する慶良間列島の中の渡嘉敷島で、海上特攻作戦の失敗から、陸上戦闘を余儀なくされた。米軍は圧倒的航空勢力支援の下、戦艦.空母.巡洋艦を含み周辺を圧する艦艇にて、対抗する火砲皆無の我が軍に対し、想像を絶する艦砲射撃の下、米国精強歩兵師団の戦力を持って上陸を開始した。
 部隊も完全に包囲され言語に絶する銃砲撃火炎放射の猛攻の中、生存は皆無と判断し部隊後方の谷地で、村民の方々は親子兄弟相擁して集団で自決された。
 私は将校斥候を命ぜられ部下4名を伴い、包囲中の敵部隊の配置を確認するため敵中に入った。注意深く周囲を警戒しながら前進するうち、兵が暗がりの中で文書らしきものを拾った。大事に図嚢(ズノウ)に入れ、天然の洞窟に至って明かりに照らしてみると、それは表紙の一部ちぎれたハイスクール用の代数の本であった。
 私は、ただ単なる教科書ではあったが、そこが死闘を続ける戦場であったが故に、背筋に氷を当てられたような気がした。それは私の中には「風は粛々として易水寒し、壮士一度去りてまた帰らず」とする東洋風の国士気取りがあり、これに支配された私には表面を糊塗する虚勢はあっても、戦いとは死の場であり、もはや学びの場ではなかった。
 そして、そこには既に、将来に向かって生きる考えのゆとりを欠いていたように思えたからであった。
 これに引き替え、若い彼は、おそらく米国の善良な青年として、淡々として学生生活の延長を、あの苛烈な戦場に置き、静かにかつ勇敢に戦っていたのであろうと考えた。
 昭和43年頃、在日米軍司令部のカンシー.ヤマシタ陸軍中佐の府中の自宅に妻と参上した。この時彼の家に、これからベトナム戦争に参加する若い陸軍中尉が挨拶に来た。彼は与えられた任務を、如何に危険な場所においても貫き通すことが出来ねば、米国社会では良き市民としての交友は得られない、戦場でフェアーな振る舞いをやってきたいと、目を輝かしながら答えた。
 ジョン.F.ケネディが大統領に就任した時、米国民に「国家が何をしてくれるかではなく、国家のために何が出来るかを問おうではないか」と求めた。この中尉も、若きアメリカのモラールを若武者らしく、如何にして果たすかに懸命の努力をしたものと考える。 ヒトラー.ナチスによって欧州に第2次世界大戦が開かれたとき、英国では先ず第一番目に義勇兵志願をしたのは、名門イートン校の学生であった。彼らは自由を守るためには、かけがえのない程の大きな犠牲を払うことの要を、誰よりも先に見抜いて、自らをそこに投じたのである。
 イートン校のチャペルの壁には、盲目の詩人ミルトンの詩の一節と、卒業生または在校生で祖国の防衛のために果てていった人々の名が刻まれている。「ここには涙を流すべき何物もない。弱々しさも、軽蔑すべきことも、ののしるべきこともない。立派な公正なことのほか、またかくも気高い死に方によって、我々の心を鎮めることのほか何物もない」古来ヨーロッパにはノーブレス.オブリージ(noblesse oblige)と言う伝統がある。これは貴族には貴族としての義務が伴うと解される。そこに、国家の危急の際に、身を苦難に投じて難局に当たる勇気とフェアーが貫かれて来ているものと考えられる。

世界平和を担う資格
 私は先年、米国テキサス州フリデリックスバーグでの太平洋戦争沖縄シンポジュウムに招かれた。会が終わった時、米国退役空軍大将ビル.ボルオス将軍から沖縄戦の慶良間での島民の集団自決は、我がテキサス独立戦争のとき全員が討死したアラモ砦の輝かしい歴史と比肩すべきものであり、老弱男女が命をかけて国土を守る国こそ、世界平和を担う真の盟主であると固い握手をされた。
経済大国の日本は世界の平和と安寧の維持という、より高い次元において、尊敬される公平な立ち居振る舞いをすべきであり、そのためには要路の人、有識の人は、ノーブレス.オブリージを貫いて貰いたいし、また国民は、国家の奉仕について賢明な選択を肩をいからせることなく行うべきだと考える。
                               (NPO埼玉県国民保護協会会長)
























































葛西臨海公園後記
                                              小川日出夫
 自然史跡に親しむ会で随分色々な所にいきました。特にここ2,3年は大橋さんのお
手伝いで本番前の下見からのお付き合いでした。
 今回は本番前の2ヶ月以上前の9月12に日に下見で葛西臨海公園に行ってきました。メンバーは大橋さん、小川の他に地元の鈴木さんと何時も印刷を手配されている東さんの4人です。まだ夏の終わりの暑い日で、公園を一回りしてみましたが広くて驚きました。海のそばで開放的な気分にもなり、今まで行ったことのない場所だと思いました。昼食は園内にあるホテル、シーサイド江戸川を予定しました。ホテルオークラの経営とのことで洋食ランチを食べましたがなかなかで、2ヶ月後の予約をしてきました。売りものの水族園、大観覧車は外から確認しただけで、園内を一通り歩き回りました。
 私だけのことですが都民シルバーパスを所有している為それを最大限利用しようと思い、都営地下鉄とバスを調べました。町田から新宿は小田急ですが、新宿からは都営新宿線で一之江まで30分、一之江から葛西臨海公園までバスで20分で大分安く上がりました。(小田急の360円のみで後はフリー)
 本番は予定通り11月21日(金)風が強く、寒くなりましたが、天気が良く助かりました。早めに行くも、既に鈴木さん、栗原さん夫妻が来られておりました。出席予定表のチェックを始める。この所、毎回発生するのがドタキャンと連絡なしの出席でホテルのランチ予約との関連で気になることが多 い。今回は当初28名の参加予定で少なめの25人で予約、増えるのはよいが減るとキャンセル料を頂くとホテルマネージャーのは言うので、25名になるかどうか気がもめる。出席となっていた山崎さんが来られないのでご自宅に電話したりして、事務局の手違いでご迷惑をかけました。結局、急に出席の方が居たりして、25名ぴったりに落ち着く。
 皆さんと公園内散策、鳥類園ウオッチングセンター等、のんびりと大橋さん持参のスコープで探鳥を楽しみました。12時頃ホテルシーサイド江戸川に到着、洋食ランチプレートの前に生ビールを飲みながら歓談する。一番ホットし楽しい時間でありました。
 午後は各自自由に見学することで解散する。私は下見の時、寄らなかった水族園に行く。
想像していたより遥かに立派でスケールも大きい所でありました。特に鮪の回遊するエリア、ペンギンが泳ぎ回っているエリアは素晴らしく、楽しいものでありました。
何時もそうですが、皆さんのお世話で少々疲れが出ると、早く一人になり
たくなり、早々と帰路についたのでありました。














































 京都「大文字焼き」鑑賞の旅を振り返って
                                             依田武敏
  参加者の皆さんの心がけが良かったのでしょう、天候に恵まれた楽しい旅が出来ました。感謝しております。▼ 8月16日 朝8時40分 東京駅新幹線中央改札口集合で始まった旅。7時50分集合場所に行くと小川さん栗原さん浜田さんが既に集まっておられ8時40分には全員がそろい新幹線ホームへ。9時3分発のひかりで一路京都へ。車中で歓談、食事をする内に11時48分京都着。大津より参加の坂本さんと中央口で落ち合い、西八条口で待っていたバスに乗車、大きな荷物はホテルに預けて出発する。
 伏見の寺田屋へ、坂本龍馬の書簡、柱の刀傷等の見学で20分、次の平等院へと向か う。車窓より伏見桃山城を遠望、宇治川を渡り平等院へ鳳凰堂をめぐり、中堂に安置される平安時代を代表する仏師「定朝」作の本尊、阿弥陀如来 座像のお顔が遠望出来る。鳳凰館(10年ほど前に訪ねた時は建設中)に入る。平等院は永承7 年(1052)関白藤原頼道によって開創され、
鳳凰堂はその翌年天喜元年(1053)阿弥陀如来、梵鐘、大和絵九品来迎図、鳳凰一対、11世紀の仏像群 雲中供養菩薩52体等、は何れも国宝である。庭園は浄土式の借景庭園として史跡名勝庭園に指定されて居る。
   国宝 三十三間堂 に向かう。三十三間堂は中央のご本尊「十一面千手千眼観世音」を中心に左右に各500体、1001体の観音像が祭られお堂の柱間が三十三あることか ら三十三間堂と通称されている。
  青蓮院門跡は華頂殿(宮殿、白書院)、小御所、本堂(熾盛堂)寝殿、おお玄関、庭園(伝相阿弥作の築山泉水庭、伝小堀遠州作の霧島の庭、好文亭前の大森有斐作の庭、寝殿前の苔の庭など)好文亭茶室など比較的ゆったり見学、バスに戻る頃雨が降り出した。▼ 少々時間は早いが東亜菜館に向かう。三階までは時代物のエレベーター(日本最
古とか)に乗り、階段を上って屋上へ、この屋上で会食をしながら送り火鑑賞となる。飲食を楽しみながらしばらく歓談、宵闇が迫ると東山におぼろ月が登り始めた。
   大文字焼き五山送り火は、東山に出る「大」の文字、少し遅れて北山に「妙」「法」の文字が出る。その左に「舟形」一番左に出る「鳥居型」と順次点火される。私達は屋上から、東山の「大」の字、その左の「妙」「法」の文字はよく見えたが、その左の「舟形」「左の大」「鳥居型」は建物の影で鑑賞することは出来なかった。
 8時40分頃送り火も静かになり、木屋町
通りスナック「雪」でカラオケを楽しむ。何人かは直接ホテルへ。カラオケも大分盛り上がり11時30分頃タクシーでホテルに向かった。

 17日朝 コーヒーとパンで朝食を済ませ、3台のジャンボタクシーに分乗大原に向かう。北に向かう車窓より東山の大文字の山、更に北上すると「妙」「法」が見えた。
八瀬を抜けて大原三千院に。三千院創建は伝教大師最澄上人が比叡山延暦寺建立の際、草庵を結ばれたのに始まり、別名梶井門跡梨本門跡とも呼ばれる天台宗五箇堂門跡の一つとして、当院は皇子、皇族が住職を務めた宮門跡です。現在の名称は明治4年法親王還俗にともない梶井御殿内の持仏堂に掲げられていた。霊元天皇直筆の勅額により三千院と公称されるよう になった。
  三千院往生極楽院、寛和2年(986)「往生要集」の著者、天台浄土教の大成者恵心僧 源信が父母の菩提を弔うため姉の安要尼と共に建立したと伝えられる。阿弥陀三尊像を納める工夫として天井を船底型に折り上げている。
平成18年秋開館の重要文化財収蔵施設「円融蔵」の展示場に復元模写されている。
  寂光院(聖徳太子開創、本尊六万体地蔵尊立像、平家物語 濩頂巻の舞台、国母建礼門 院徳子閑居御所)天台宗の尼寺で山号は清香山、寺号を玉泉寺という。推古2年(594)聖徳太子が御父用明天皇の菩提を弔うために建立された。初代は聖徳太子の御乳人、玉照姫 敏達13年(548)に出家した日本仏教最初の三比丘尼の一人で慧善比丘尼、第二代の阿波内侍証真比丘尼、建礼門院
に宮中より仕え、草生では大原女のモデルとされる。第三代の建礼門院徳子(平清 盛の娘、高倉天皇の皇后、安徳天皇の国母)は文治元年(1182)入寺、真如堂比丘尼となった。本堂は平成12年火災により焼失、再建された。
 大原から山越えで鞍馬、貴船に向かう。貴船で川床料理昼食。日曜日と夏休みが重なり、貴船川沿いの狭い道は人と車であふれ、食事処「かつ ら」に着くまで大渋滞ジャンボタクシーでないと無理なのが分かる。せせらぎの清流の上で、川風も涼しい。川床料理を楽しむ。
 京都町中に向かう。蓮華寺は帰命山と号する天台宗の寺、加賀前田家家臣、今枝重直が出家して一寺を構えて居住し、石川丈山(詩仙庵を建立)、狩野探幽と厚誼を深めた。孫の近義が重直の菩提を弔うため、七条境小路にあった寺をこの地に移し、延暦寺実蔵坊の末寺としたと伝えられる。本尊は釈迦如来、六角形の傘を持つ珍しい蓮華寺型灯籠や石川丈山の篆額、木下順庵撰文による重の碑がある。池に鶴石と亀石を配した庭園は石川丈山作と言われ、江戸時代の名園の一つで紅葉の名所である。
 石川丈山建立の詩仙堂(丈山寺)は立ち寄れなかったが、詩仙の間は狩野探幽尚信の中国36詩仙の肖像画に丈山が墨書した額がある。
 土産物、八つ橋の工場売店、漬け物の大安本店に立ち寄り買い物を済ませて、本日の宿、京都ガーデンホテルに立ち寄り、荷物を預けて鴨川沿いの料亭「田鶴」に向かう。
 田鶴では舞妓さん二人の踊りを広間で見物するも二人目の舞妓さんの踊りに音声の具合が悪くなりこのハプニングの時間調整に記念写真を撮ったりする。舞子の踊りを堪能した後、「床」に席を移し宴会に入る。舞妓さん達のお酌と歓談で話が弾む。川面の風も涼しく宴会を終わる。カラオケに向 かう人、ホテルに帰る人、二日目の夜は終わった。

 18日 朝、ホテルの向かいにある京都御所の御苑を散策する。7時朝食開始前に、挨拶があり、自由解散。原さんより皆さんを代表して楽しかった旅のお礼の言葉を頂いた。

オプションとして、14名ほどが「保津川の船下り」に参加した。嵯峨野嵐山から嵯峨野観光鉄道トロッコ列車で亀岡まで、そこから乗船場までバスで15分、お客の多さに驚きながら待ったが、以外と早く、前に三艘、後から三艘と次々と船出する。水量が多ければ1時間20分位との話が水量が少なく1時間50分の船旅となる。瀞あり、早瀬あり、奇岩ありで充分楽しめる。満席のためお尻が痛くなってくる。
 嵐山、渡月橋の手前で下船、歩いて15分
ほどでJR嵐山駅。京都駅まで20分ほど、京都駅で解散する。皆さんの無事帰宅を祈念しつつお別れする。




















































 大木戸句会より   
   当期(春)雑詠を三句宛紹介いたします。  (作者名五十音順)
    飯倉 豊司
        薺(なずな)打つ 母の思い出 はやし歌
        七草の 揃わぬ粥や 風邪の床
        亡き人の 墨痕著き 賀状かな

   
釜谷 石瀬
        初雀 微塵となりて 日の山へ
        雪占の 浅間は噴けり 木の芽晴
        蕗味噌を 買う往還の 海野宿  
    

  川和 作二
        鐘撞けば 凛と鎮まる 初山河
        気負い立ち ページはみ出す 初日記
        天日の 映ろふ池に 蝌蚪(かと)の紐


  杉野 昌子
        青天を 支ふるごとし 冬木立
        早春の 空舞う鳶の 乱れけり
        初詣 すこやかにして 古希迎ふ   
 

  関口 湖舟
        二人居の 味付まろし 若菜粥
        雨戸引く 音の乾きや 余寒なほ
        絢爛と 孤を重ねけり 枝垂梅 
        

  中本 保子
        庭石に 寄り添うごとし 福寿草
        初空に 枝あげこぞる 大欅
        梅の香の ふと匂いくる 杣(そま)の道


  
以上SKK会員の作品を抜粋しました。                




















































 大木戸句会    協力 川和作二
      大木戸句会より当期(新春)雑詠を紹介いたします。(作者名は50音順)

                              飯倉 豊司
        ありあけの 月残しけり 初御空
        初山河 色変わりゆく 山の襞

                              釜谷 石瀬
        あらたまの 金色の千木 鳩放つ
        謹賀新年 くわえて獅子の 舞了る

                              川和 作二
        三輪車の ベルにも小さき 注連飾り
        若菜摘  もぐらの穴に 足とられ

                              杉野 昌子
        初日の出 拝む新居の 大窓に
        会津城 指呼にありけり 初景色

                              関口 湖舟
        藤色に 孤高ゆかしき 初筑波
        一族を 寄せ老武者の 年酒かな

                              鶴見 福治
        糟糠の 妻ゐて温し 今朝の春
        去年今年 老いたるなりの 道は在り

                              中本 保子
        庭隅の 水仙生けて 年明くる
        一人酌む 屠蘇も又よし 留守守り

                              深見 正男
        客もなく 妻と二人の 年酒かな
        酒強し  倅も強し  年酒酌む


                              以上SKK会員分を抜粋   




















































 “八重山諸島あこがれの五島めぐり”      
          を振り返って
    依田武敏




















































 
 
あづま路