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平成22年度

60号

61号











































   

あづま路 61号 平成22年7月
ボランティア活動! 落合登美雄
海蝕に耐えている金門橋 皆本義博
戸毎に日の丸を 関口利夫
酒の文化論    安東 達
大木戸句会 川和 作二
「植物の恩恵」 東 隆昭
模擬患者になって 近藤 美明




















































61-01

ボランティア活動!!   
              
理事長 落合登美雄
 約2年前、ナルク(NALC)日本アクティブライフクラブに入会致しました。この会は全国に134拠点で 30,000 人の会員が存在している全国組織で本部は大阪にあります。この組織は自立、奉仕、助け合いをモットーに中高年の生き甲斐と社会参加を実現して、高齢化社会に相応しい地域社会をすすめるボランティア団体です。
 今、日本は世界一の長寿国(男79歳、女86歳)になった訳ですが、65歳以上の一人暮らしは 400 万人で、その中で 近所付き合い無し……40% 相談相手無し……20% といった状況で、60%以上が不安を持っているというのが現状です。
 ナルクの特色は
1.第2の人生を生き生きと過ごすために自立を求める中高年の団体である。
2.会員同士が困ったときにお互いに助け合うという双方向型の「助け合い
ボランテア」で時間預託制度を用いている。
会員預託制度とは 会員相互の助け合いによるボランテア活動をした時間を、1時間1点としてナルクに点数を預託(貯金)しておき、自分が必要になったときに預託しておいた点数を引き出して、それに見合った時間のボランテア提供が 受けられる制度です。困ったときは何時でも利用出来るのは勿論として、いわば老後の備えを時間で貯めておくシステムです。
3.会員がお互いに教え合い、学び合い、高め合うサークル活動は、健康づくり、趣味習い事、教養講座など活発多彩に行っています。
 地域のコミュニティが崩れかけている今日、愛情とふれあいの理論に基づくこの「助け合い」の精神こそ今の時代に求められていると思います。
  同好会サークル活動のベスト10は
①パソコンクラブ ②歩こう会 ③カラオケクラブ ④料理教室
⑤健康麻雀 ⑥ハイキングの会 ⑦ゴルフクラブ ⑧グランドゴルフ
⑨旅行会 ⑩麻雀
 これからの日本は 1.年金が危ない
2.健康の負担増
3.介護保険の給付抑制 等がささやかれている今日
 病気要介護にならない生き方....自助 
要支援者を継続して支える社会の担い手は元気な高齢者...共助
 の二つが必要と思われます。

  最後に次の小唄を紹介します。NALC事務局に掲示してあったものです
<ぼけない小唄> お座敷小唄で唄う
1.お前いつからそうなんだ (男)  2.定年過ぎてねぇあなた (女)
  夢も希望も無い姿            何かすること無いのかな
  たまにゃ お化粧お洒落して     テレビ 昼寝で 日を過ごす
  ニッコリ笑ってくれないか        今じゃ 私の濡れ落葉

3.ボケたくないと言いながら      4.散歩しようよ そうしましょ
  こんな暮らしじゃ能がない        誘い誘われイソイソと
  脳みそ暇にさせないで          行けば嬉しや 恥ずかしや
  鍛えましょうよ足腰を           おしどり夫婦とはやされて

5.俳句 トランプ 囲碁 将棋     6.笑う門には 福が来る
  今日も集まる楽しさよ           笑う家には ボケがない
  飛ばすジョークに大笑い         家族揃ってワイワイと
  ボケにご用はありません         食べる食事のありがたさ

7.シワは増えても白髪でも
  足が強けりゃ 気も若い
  ときめく心 捨てないで
  カクシャク目指す心意気
                          健康で日々を頑張りましょう
















































61-02

  海蝕に耐えている金門橋  皆本義博
 1961年(昭和36年)6月末、私は米国陸軍工兵学校アドヴァンス・コースを終え、工兵第18旅団隊付きののち、バス利用10,000kmを12日間かけて、ワシントンからサンフランシスコに着いた。
 世界的に著名な金門橋(ゴールデンゲートブリッジ)を見に赴いた。
金門橋は、1933年着工、1937年に完成、1964年ニューヨークのヴェラザノ・ナローズ橋が完成する迠、世界一の吊り橋であった。全長2,737m、中央径間 1,280m、橋桁は海面から70m、吊り橋ケーブルは直径90cm、中央主塔は海面から227m、路巾は車道6車線と両端は歩道で、中央分離帯は移動式で、朝通勤時は南行き4車線となっている。
 私が橋の入り口に立ったとき、米国の古老が寄ってきて話しかけてきた。この橋の建設当時、排日が擡頭してきたときであった。激しい海蝕に耐え得るコンクリート用セメントは、建設主任の技師が、日本のアサノセメント以外にないと声を大にして論じ、採用
されねば手を引くと決意の程を示した。関係者は、日本からの輸入は 港湾労働者のサボタージュがあると反論したが、主任技師の毅然たる眼差しに同意を決し、結果はアサノを消して香港へ輸入し、そこから米国が再輸入した。
 今日、厳然として海蝕に耐えている橋脚はアサノのおかげであると、私の手を強く握ってくれた。























































61-03

    戸毎に日の丸を     関口利夫
 ことし一月のSKK総会会場には、初めて日章旗が掲げられ、まことに清々しい感じがいたしました。
 私たちの子供の頃には、祝祭日には、戸毎に日の丸が掲げられ、学校ではそれぞれ祝いの式が催されて心が引き締まったのを懐かしく思い出します。
 国旗については、「あづま路」31号(平成11年)にある程度書きましたので重複は避けますが、私はあの頃、祝祭日にはよく自冶会(145世帯)を
回って歩きました。何時も日の丸を掲げている常連は8軒でした。しかし間もなく『国旗国歌法』が制定された後は14軒に増えたので喜んだものです。いまは足腰が弱ってしまったので見回りませんので分かりません。
 国旗を掲揚するということは大変勇気が要るようで、ある青年に話しましたところ「右翼と間違えられるから...」と答えが返ってきたことは前にも書きましたが、その考えで行くと、国会も官庁も学校もオリンピックも野球もサッカーなども、みな右翼がやっていることになります。冗談じゃない...
 これは、日本の国に誇りを持っていないということでしょう。いや日本人としての自覚も持っていないということでしょう。

 戦後の学校教育が正常でなかったため、日本の国の本当の歴史を知らない人が多すぎます。日の丸についても「戦争に使われたもの」という理由で未だに騒いでいる人間がいるのは困ったことです。何処の国の国旗も戦争を乗り切ったものばかりです。

 日本という国は実は、『世界に冠たる素晴らしい歴史を持った国』なのです。まともな日本の歴史を勉強してみましょう。「幕末から昭和20年まで」は重点を置いてください。日本の誇る道徳(心)-武士道- は幕末から明治にかけて完成したようですから。また、戦争の歴史は避けて通ることは出来ませんから。最近は一流の文筆家の書いた本がいろいろ出版されていますから好都合です。

 それに併せて、すでに実行されている方もいるでしょうが、思い切って祝祭日に自宅に日の丸を掲げてみましょう。自分で掲げてこそ本当の国旗の美しさが分かります。また日本人としての誇りを持つ第一歩となることを疑いません。熊本県 菊陽町の鉄砲小路というところでは、祝祭日に、この道路沿いの全戸が掲げる3キロも続く「日の丸の道」があるとのことです。
 私は、日の丸を掲げる勇気を持った家こそが本当の日本人としての自覚を持った家庭と思っています。そして一人でも多くの人に掲揚して頂けるよう念願しています。

<追記>
 今、日本は大非常時に直面しております。核武装をしている国がわが国を取り巻き、その上日米関係がうまくいかなくなったら日本はどうなるのか。また国土問題にしても、北方四島をはじめ、竹島、対馬、尖閣諸島など問題が山積みしているにも拘わらず、国会では防衛予算が年々削られ、そして多くの国民はそれに対して全く関心を持たず、まぼろしの平和にうつつを抜かしています。つまり国会議員をはじめ国民の国家意識がきわめて希薄ということでしょう。
 わが国は何十年も前から「国家なき国」とか「日本という国土には日本人はあまり居ない」と言われていることはご存じでしょう。本当の独立国とは認められていないのです。国旗を掲げる家がきわめて少ないことを見ても認められなくて当然と思います。
 最近、日本駐在の外国人や、台湾、中国から帰化した人々が、盛んに日本人に対して厳しい警告を発していますが、中身を読むと、外国人から見て如何に我々が国家意識を抜き取られて植民地の住民のようになっているかに改めて気付かされます。「日本が再起できないように」との、アメリカ占領軍の施策が見事に成功したのです。日本は彼等によって完全に歴史を断たれました。文明は進み何不自由ない社会になりましたが、最も大切な『心』を無惨にも打ち砕かれました。
 「その民族を滅ぼさんとすればその歴史を断て」と言われていますが、今のままで過ぎるなら日本は必ず滅びるであろうことを心から憂えます。
                       (22.5.15記 SKK創設者 元理事長)























































61-04

酒の文化論   安東 達
――はじめに――
 食文化の頂点に位置しているのが酒である事は論ずるまでもない。酒は太古の時代から人類が愛用して止まなかった嗜好飲料で、いかなる民族も酒類を飲用しない民族はない。
 アルコールは糖が酵母菌(イースト)によってアルコールに変化することで出来る。現在愛飲されている酒類の原料になる主たるものは、ブドウ、リンゴ等の果実と米麦などの穀物である。
 果物は果物についている酵母菌によって自然にアルコールに変わる。これを単発酵という。人間が農耕を営む様になって穀類から酒をつくるようになった。先ずデンプン等の糖質を分解して糖にし、次に糖を発酵させてアルコールをつくる。これを複発酵という。
『麦芽と麹』
 世界的に見て穀物酒には二通りの方法がある。西洋の穀物酒であるビール、ウイスキー、ウオッカ等は麦類を原料とする。この麦類を水に浸して発芽させると穀粒の中に糖質を糖に変える糖化酵素が生成され、麦自身の力で糖がつくられる。これに酵母菌が働けばビールである酒が出来る。これを蒸留したのがウイスキー、ウオッカである。したがって、この麦の芽が出た麦芽(モルト)の力でアルコールの原料糖分が作られる。原料は麦芽であり、微生物の酵母菌は一種類だけである。
 東洋の酒作りは、穀物に微生物であるカビを繁殖させ、麹をつくり、そのカビの分泌する糖化酵素で糖をつくる。この糖を酵母菌がアルコールに変化させる。カビと酵母の二種類の微生物を利用して酒が造られる。
 糖化の方法にはもう一つの原始的な方法がある。デンプン類を口の中に入れ、よくかんで、唾液によって糖化させ、これを容器に入れ、自然の発酵菌によって発酵させる方法である。この方法は昔、新大陸の原住民や、台湾、沖縄等で広く行われていたが、最近では殆ど見なくなった。
 酒づくりの文化圏を見ると、ヒマラヤ山脈を境界として東西に分かれており、麹文化はアジア、麦芽文化はヨーロッパという事が出来る。以上の事を念頭に置いて、酒を文化面から見ていきたい。

第一章   世界の酒の歴史
1) 西洋
 西暦五千年から六千年前、シュメール人の住むメソポタミア、バビロニア、古代エジプトが、考古学的に見て、四大文明の中で、最古の酒の歴史と見る事が出来る。他の三大文明でも酒は当然つくられていたことは、予想できるが、考古学面で実証されている最古のものであり、ビールの歴史の始まりである。
 ワインは九千年とも六千年とも言われている。ワインと人とのかかわり合いを書いた本の中で、最初に取り上げられたのは、ノアの箱船のエピソードである。古代エジプトでは、すでにワインの本格的醸造がなされている。古代ローマではディオニソスがバッカスに変身して、ワインのご先祖様に祭り上げられ、威光を示すことになる。まさに神話の世界である。
2) 中国
 古代中国の主要な酒類は穀物酒であって、果実酒ではない。当時穀物の保管がよくなかった為、発芽して変質した穀物を煮熟したのち食べつくさず、放置しておいたのが、自然にアルコール発酵したものである。
 河北省藁城市台西村の殷代の遺跡から出土した酒器の中に、灰白色の沈殿物があったが、これは人工培養された酵母であることが、鑑定の結果明らかになっている。龍山文化と大汶文化の遺跡で発見されている殷代のものと同じ様な大量の酒器に基づいて、穀物による醸造は六千年余り前に始まったと見なす学者もいる。当時飲酒は社会の一般的な風潮になっており、より以前より醸造が行われていたことは論ずるまでもないことである。
3) 日本
 人が口でかむ方法で酒を造っていた日本に、麹による酒づくりを伝えたのは、百済から来た仁番(ニホ)、または須須保理(ススホリ)、或いは須曽己利である。古事記の応神の項に記されており、応神天皇の時に朝鮮から伝わったことがはっきりしている。ドブロクである。須須保理は今日の味噌漬、麹漬、ぬか漬の元祖とみられる。
 当人は帰化し、造酒司(みきのつかさ)の任を受ける。平安時代までは、小麦にカビを生やして小麦麹を作る。これを蒸した米を加え酒を作った。すなわち小麦と米とで出来た酒である。まさに朝鮮の酒造りの方法であった。朝鮮の酒の歴史は定かでない。記録では紀元前一世紀の扶余の時代に行われた迎鼓(ヨンゴ)の催しの時、酒が飲まれた。この行事は秋の取り入れが終わり、12月に各部落の人が集まり、天の神に祈りを捧げ、歌や踊りをたのしんだ。
 日本の酒の始まりは、縄文時代に遡る。長野県諏訪富士見町の井戸尻遺跡から、様々な形をした土器類が出土している。液果類である。ヤマブドウ、クサイチゴ、アケビ等で液果酒が造られた。またすぐ近くの曽利遺跡から、パンの様なものが出土、鑑定されたが、何の植物のデンプンかは判明しなかった。縄文中期には木の実の酒が作られた事が推理できる。約五千年前の時代のことである。
 日本の文化は朝鮮半島を通じて多くの分野で伝わってきたことは申すまでもないが、中国、東南アジアからの流れもある。山陰、九州方面での酒造りは神話時代に遡る。日本書紀の日向神話、古事記の出雲神話、日本書紀の同一神話等に記されている。
  次回は第二章として、世界の酒について論じる予定である。













































61-05

 大木戸句会 当期雑詠    編 川和作治
               三句宛紹介いたします。(作者五十音順)

                       飯倉 豊司
   きぬさやの白き花弁に風止まず
  ネオンの灯ドナウに映えて街は夏
  くぐり摘む洩れ日眩しき葡萄棚


                       釜谷 石瀬
  錆松に月をぼかしの陶おぼろ
  水芭蕉大葉の錆びて夏逝くか
  笛に乗せ蝮捕るとや在祭


                      川和 作二
  入れ食いの釣具投げ出す夕立かな
  腕白に掃き散らされし蟻の道
  桔梗や雨招きゐる濃むらさき


                      杉野 昌子
  蝉落ちて割れんばかりに鳴きゐたり
  新涼や子の温もりの心地よく
  童唄聞ゆる野辺の柿たわわ


                    
関口 湖舟
   蚊遣して親子の会話はづみけり
  風とほる明治の座敷暑気払
  虹立つと媼は野良に腰のばす


                      中本 保子
  老の身につけし香水面映し
  子規堂は明治の香り風涼し
  立山を吹き下ろす風汗引きぬ




























61-06

    「植物の恩恵」    東 隆昭
 地球上の全ての生物は、植物と何らかの関わりを持って生存している。
私たちも植物(農業、林業、食糧、園芸でも)を大切に思い、研究し、増やし続けよう。
地球という星が誕生して46億年、陸上に生物が出現してから4億年、人類(ホモサピエンス)が登場して100万年、その人類が農耕を始めたのが(縄文、弥生時代)5,000年前、現代文明は1,000 年、近代科学技術の発達は100年前から....といわれる。

 2000年の地球人口は60億人、40年後(たぶん私たちは存在しないでしょうが)2050年には総人口100億人に達するという。
地球上の耕作可能な土地で養うことの出来る人口は80億人と言われ、20億人の人間が餓えにさらされることになる。
 この人類生存の危機を救うには、取りあえず植物作物の収量を上げること、耕作可能な土地を拡大すること、現代の科学技術を駆使した新しい発明が必要になる。
 地球の表面は70%が海で、陸地は30%。その中の日本国土面積はその0.03%、日本陸地の67%が森林だ。その面積率は過去100年間殆ど変わっていない。主要先進国の中で、これほど森林面積を長期間、維持している国は他にない。
 森林の40%は戦後に植林されたスギ、ヒノキ、カラマツの針葉樹林だ。40~60年間で伐採可能な木材となっている人工林だ。大量の木材を消費する国であるにもかかわらず、自国の森林を温存出来るのは、需要の80%を輸入でまかなうことの出来る経済力があったからこそである。これからはどうなることやら…
 日本で森と川のつながりが(緑のダム造り)問題になっているとはいっても、それは森林が減少して、その影響によって困っているのではなく、逆に森林が生長しているのに、それを切る人がいないので困っているのだから、考えてみれば贅沢な話である。
 地球温暖化防止も、国土緑化推進も、緑のダム構想も、食糧自給問題も、エコ、エコと叫ばれる商業ベースに踊らされている感がある。
 たしかに、長野県、信州の山暮らしをしているとそれを実感できる。
この長野地域は、米、野菜、果実、木材を生産する、稀に見る豊かで穏やかな土地だ。慌てて植林を行う必要は感じられないし、植林する場所もないほどだが… 近年、野生の鹿が急激に増え、長野県では鹿の食害が問題になっている。条例で駆除した鹿の肉をレストラン、料理店での人気メニューを募集、鹿肉を食べよう!と奨励しているほどだ。
   
 我が庭にも、食欲旺盛な野生の鹿の家族が現れるが、鹿たちも食べないと生きていけない。(なんとか共存できないものか...)食糧問題は人間だけではなさそうだ。動物たちは食料を食べ尽くすと他へ移動するしかない。...食糧増産、それをできるのは人間だけだ。ようやく食糧自給率アップが国でも取り上げられる様になったが、
 春近し、私も自然薯や山菜、クリ、リンゴ、柿など果実のなる木を育て、米、肉類を除き、我が家の自給率65%を目指し、挑戦。5000年ほど昔、自給自足で不便の感じないで、それなりに高度な楽しい生活をしていただろう「八ヶ岳縄文人」になれるように、今年も頑張ってみます。




























61-07

  模擬患者になって     近藤 美明
平成21年10月26日 朝日新聞朝刊23面掲載の写真、模擬患者は小生です。
 平成18年4月より薬学部は6年制になり、4年生の12月に、薬学共用試験(客観的臨
床能力試験)が行われる事になった。本試験に合格しなければ5年生に進級出来ない。
平成21年8月 1年間にわたる第1回の東京薬科大学模擬患者基礎講習課程を修了し、直ちに模擬患者研究会会員の登録を行い会
員証を授与されました。4年生約330名に対して9月より、1学生当たり4回 12月上旬まで実務実習が行われて、私は延13日出勤しました。脳梗塞、狭心症、喘息などで入院した患者に成りきっての演技をしなければならないので、毎回緊張します。1回の学習に学生5~6名がグループを作り、交互に薬剤師評価者を務め、患者へのインタビューが5分で終わった後、病気によっては10分間のインタビューもある。学生の評価者がチェックシートにより評価を行い、次に教員がアドバイス、最後に第3者の模擬患者がコメントをします。模擬患者の経歴は学生には全く知らされていないので、私たちの言葉を本当に素直に聞いてくれます。12月19日の薬学共用試験にも選ばれ、守秘義務を守って試験場に入りました。インタビューを受けた学生は、延130名を超すのではないかと思います。
 平成22年度の4年生は約410名、昨年より80名の増加となっています。実務実習教育も更にレベルアップして、4月より7月までのカリキュラムも順調にスタートしました。私は4月より7月まで延17日出勤する事が決定しています。





































 






































      























   









  





      
 







































あづま路 60号 平成22年1月
イチロー選手に学ぶ 落合登美雄
自衛隊記念日に寄せて
皆本 義博
日本語に主語は必要か
高崎栄一郎
昭和2086
          815
藤井 清司
追憶の満州
  敗戦後の1年間
大石 道子
大木戸句会より  川和 作二
五島列島 
  長崎の旅を終えて
 依田 武敏
 秋の新宿御苑を訪ねて
 大橋 春男





















































 
イチロー選手に学ぶ
 

                       SKK理事長 落合 登美雄

 米大リーグで9年連続シーズン200 安打のメジャー新記録を樹立したシアトルマリナーズのイチロー選手(本名 鈴木一朗)15年前オリックス時代日本球界に「シーズン200安打」という新たな歴史を刻んだ。米大リーグでもその数字をクリアすることが自らの使命のように挑み続け、偉業に結びつけた。野球殿堂入りしているウイリーキーラーが8年連続200安打を樹立したのは大リーグ草創期の1901年だったと読売新聞に記してあった。3月の W,B,C、(ワールドベースボールクラシック)決勝で日本の連覇を決めるヒットも放った。また今年は大リーグ通算2000本安打も達成している。テレビ1012日イチロー選手への単独インタービューがあり、大記録への達成経過を語っている。その要旨を記してみます。

1. 怪我をしない体を作る。
2.小さな事の積み重ねや、細かいことを大事にする。
3.集中力を高めるために、同じポーズをとる。

   4.バット等は代えないで道具に合わせていく。
     5.止めようと思ったことはないが、止めたら楽しいだろうと迷った時もある。またイチローのような選手でも重圧には弱く、血が引いていくこともあったと告白している。そしてプレッシャーは恐怖に代えることもあったとか。
 終わりに 大記録を達成するには何が必要かの問いに対しては、それは野球が好きだと言うことにあると結んだ。私はこのインタービューの中に学ぶべきものが多々あると思った次第です。
 
最後に史上最年少18歳でゴルフの賞金王に輝いた石川遼選手がテレビインタービューで次のようなことを言っていたのが印象に残っています。

 それは  1.ミスすることは怖くない。
       2.負けることが怖くない。
 この言葉に私は感ずるものがありました。彼の積極性、心の強さが勝利をもたらし、賞金王に輝いたものと思います。両選手の今後の活躍と発展を祈る者です。

















































 
自衛隊記念日に寄せて
     
                                             皆本義博
  

 国の行く末を見通す確たる政策なしに、政権の交代という目睫の香餌のみをもって国民を盲導した民主党政権は、一番重要な安全保障に、きわめて懸念が大きい。
 私は自衛隊記念日に、産経新聞から勧められ、多年に亘り、地方紙に所論を掲載致しました。甚だ駄文ですが、微意をお汲み下さればと存じます。

自衛隊記念日に寄せて(自衛隊OB)

             (社)日本郷友連盟埼玉県郷友会
                      会長 皆本義博

 自衛隊は、昭和258月、警察予備隊として創設され、以来60年の歴史を重ねた。誠に目出度いことである。時世の移りかわりと共に、種々の変遷はあったが、当初から今日迄貫かれているのは、自分の国は自分で守るという素朴ではあるが崇高な民族愛、郷土愛であった。今や自衛隊は、戦技の練度、規律、その精強度において、世界超一流であり、国民の皆様の絶対の信頼を担っている。
 私は、創設後程なく米国陸軍の学校に学生として留学した。肩に日章旗のシンボルをつけた私が、私も戦ったかっての戦争相手国の米国で、軍は勿論、市民のすべてから心から熱い友情で接してもらった。それは自分の国は命をかけて自ら守るという民主主義の理念に基づいている友情と考えた。私が防衛庁で募集採用の統括責任者だった時、日本国籍を取ったインドネシアの青年が訪れた。目的は 日本人になったからには、先ず軍務に服したいということであった。言葉は満足ではなかったが、私は涙して握手し、合格とした。彼の脳裏には必ずしも恵まれてない環境であっても黙々として勤務している日本の自衛隊員に憧憬があったからであろう。素晴らしい活動を続けている彼らの尊い行動と、それに支えられている自衛隊の活動に心から期待を寄せ、その発展を祈っている。

                                                以上
























































日本語に主語は必要か

 
                                                  高崎栄一郎

 2009年7月の定例懇話会で、「日本人の外国語」と題する発表をさせていただきました。この発表では、記憶の仕組み、バイリンガルになれる条件、日本語と英語の違いについてお話ししましたが、とくに日本語の主語に関する議論に、問題意識をもっていただいた出席者が何人もいらっしゃいました。

 議論のきっかけとなったのは、川端康成(1899-1972)「雪国」の冒頭『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった』の英訳ですThe train came out of the long tunnel into the snow country. これを日本語に再翻訳すると「汽車は長いトンネルを抜け雪国に出た」となるでしょう。

 この英訳はエドワード・サイデンステッカー(1921-2007)によるものであり、川端康成のノーベル文学賞受賞に大いに貢献したとされる翻訳です。川端の日本語には主語がないのに、サイデンステッカー訳では「汽車」が主語となっています。主語のない英文は成立しないからです。

 この導入部に続く「雪国」は、東京から来た島村という男と、雪国の芸者駒子と葉子とのかかわりを描いています。そこで川端の導入部は、汽車に乗っている島村の側から雪国に到着した時の気分が表現されていると感じられます。一方、サイデンステッカー訳は、「汽車が雪国に出た」という客観的な事実を表現しています。サイデンステッカーの主語の選択が妥当かどうかの議論はさておいて、日本語の原文にはない主語を英訳では補わなければならない典型的な例だと思います。実務文書の翻訳に従事している私などが苦労している問題のひとつです。

 「主語」が不可欠であるヨーロッパ言語に基づいて考えると「日本語では主語がよく省略される」と言うことができます。一方では「日本語に主語はいらない」(金谷武洋、2002 講談社)という議論もあります。

 日本語では主語がなくても通じる場合が多いのは、日本語が「コンテキストが高い文化」、すなわち前後関係や背景知識に依存する文化に基づいているからです。「コンテキストが高い文化」とは、人々が共通の社会常識や認識を共有し、言葉がなくとも「あうん」の呼吸で通じ合える、そんな均質な文化です。逆に「コンテキストが低い文化」の国として、米国が挙げられます。米国は多民族・多文化なので、相手に物事を伝えるのにできるだけ表現をはっきりさせる必要があります。契約社会でもあります。ヨーロッパも「コンテキストが低い文化」の社会です

 日本のようなコンテキストが高い文化な文化においては、現地人との背景知識を共有していない外国人は住みづらいし、現地にも受け入れられにくい傾向があります。逆にコンテキストが低い文化は、外部から来た者にもわかりやすいということになります。

 海外で仕事したり生活したりする、あるいは海外から日本に来た外国人と接する日本人は、この違いを常に頭においておかなければなりません。欧米の文化では、日本では通じるようなあいまいさは許されません。情報は明確に伝えないとわかってもらえない、という前提に立つべきです。

 グローバル化が加速しつつある現在、われわれ日本人も、コンテキストが高い文化に基づくあいまいなコミュニケーションに甘んじていてはなりません。コンテキストが低い文化になじみ、論理的で明確なコミュニケーションを駆使する必要がります。                              

























































昭和2086815

藤井 清司

 私は、中学高校の同級生である高崎栄一郎理事の勧誘により、昨年7月、SKKに入会させて頂きました。未だ、先輩諸兄姉のお名前と顔が一致せず、例会の際に隣り合った方々と話を交わす程度ですので、この際、「あづま路」に寄稿して、自己紹介をさせて頂くこととしました。私は、広島の被爆者の一人ですが、横浜の鶴見に生を享けました。昭和9年生まれで当年75歳になりますが、未だに煙草を吸っております。SKKの例会の休憩時間に、廊下で煙草を吸っている男を見かけたら、それが私です。

 先ず、戦時中の私の家族について触れておきます。父は、日本鋼管の川崎製鉄所に勤める技術者でした。生まれは広島県の吉田(毛利家発祥の地)ですが、縁あって尾道在の藤井家の母と、養子縁組の形を取っています。結婚後は女3人、男3人の子宝にも恵まれ、父は順調な人生を送っていたと思います。

 大東亜戦争の行方も定まりつつあった昭和19年の暮れ、42歳だった父にも召集令状が届きました。3ヶ月の訓練を経て父は、広島市横川の陸軍鉄道部隊に、小隊長として赴任することになりました。当時の広島市には父の実兄が家を構えていたこともあって、海軍兵学校に入学したばかりの兄を除く家族全員が、父と共に横浜から広島に移転して、広島市の南部、舟入川口町の二階建ての長屋(市の中心部から直線距離にして約2km)に入居しました。昭和204月のことでした。(当時内地では、将校は自宅から部隊に通勤することが出来ました。)
  86日の815分、新型爆弾が市中心部の上空で炸裂しました。その後の広島の状況については、殆ど家に引き籠もっていた子供の目ではお伝えすることは余りありません。爆弾が炸裂した時、母と私、幼い妹と弟は、幸いなことに未だ家の中に居りました。(当日の早朝には、4人揃って市の中心部へ行く筈だったのですが、偶々予定よりも遅れていたためです)家は半壊状態になったものの、大した怪我もなく皆無事で済みました。 市の中心部の上空は、真っ黒な煙に覆われており、大火災が発生していることが見てとれました。そのうちに火の手が我が家の方へも迫って来るので、不安に駆られた私は、近くの軍の施設に勤めていた長姉の助けを求めるべく家を飛び出しました。

 外へ出てみると、舟入の街の風景は一変しておりました。路上には瓦礫、木片が散乱し、無傷の家は一軒もありません。長屋建ては何とか家の格好を保ってましたが、一戸建ての中には、潰れてしまった家もありました。市電の通る大通りまで走って、北の中心部の方を窺いました。一面に立ち込めている煙と粉塵の中から、トボトボと歩いてくる人が何人か見えました。いずれも衣服は襤褸切れのようになり、火傷で皮膚が赤剥けていました。顔面がフットボールのように腫れあがってしまった人もいました。あの悲惨な光景は、今も忘れることは出来ません。

 父はその日の午後、ひょっこりと帰宅しました。爆発のあった時は部隊の手前、市電の中にいたとのこと。大した怪我もなく、その時は元気そうでした。広島市役所付近に動員されていた次姉は、とうとう帰って来ませんでした。翌日から父と長姉は、次姉の消息を求めて市の中心部や病院、救護所を尋ね歩きました。二日目に二人は、疎開作業の現場近くで、姉が携帯していた救急袋を見つける事が出来ました。(姉の救急袋は原爆資料館に今も保存されています。)疎開作業に動員されていた姉の同級生、広島市立女学校の2年生200余人は全員亡くなっています。その殆どは、病院に収容されることなく行方不明のままです。

 5日後の811日、勤務のある父と長姉を広島に残して、母と子供達は母の実家を頼って尾道へ避難しました。小隊長付きの兵隊さん二人に伴われ、舟入の家から東に歩き、比治山の麓に達してから北の方、広島駅を目指しました。途中は一面の焼け野原で、焼け死んで膨れあがった遺体が何体も放置されていました。
(父は原爆症が重くなり、824日に広島で死亡しました。父と一緒に中心部などを歩き回った長姉は、その後体調の優れない状態が数ヶ月続きました。私は被爆者健康手帳を所持していますが、格別の異常もなく今日に至っております。)

 広島では毎年86日に原爆犠牲者の追悼式典が開催され、815分になると犠牲者への黙祷が捧げられます。私はこれまで広島の式典に参列したことはなく、今後もその心算はありません。その理由は、式典があまりにも偽善的であり、また感傷的に過ぎることにあります。主催者に協力する団体は職業的平和主義者の集まりで「戦前の日本は全て悪」と言い立てることに快感を覚える人達です。86日の式典は、これからの日本の平和にとって何の役にも立たないと思っています。

 最近私は、雑誌 Will に掲載された諏訪澄氏(ジャーナリスト)の論説「広島の嘘 NHKの嘘」を読み、目から鱗の心地がしました。氏の調査によると、新型爆弾が広島上空で炸裂した815分という時刻は、綿密な調査検討を経た上で設定された、軍事的に最も効果の高い結果が得られる-当時の広島市民にとっては最悪の結果をもたらす-時刻であると言うのです。
 氏の論説に触れる以前から私は、新型爆弾の投下候補都市として、広島、小倉、長崎及び新潟が選定されていたこと、また8月11日 朝の雲に覆われていたため、投下機は目標を長崎に変更したこと、などを聞いておりました。また一方で長らくの間、既に継戦能力を失ってしまっていた日本に対して、アメリカが新型爆弾を投下したことについては、憤りと疑問を覚え、自分なりに考えを纏めようとしておりました。新型爆弾の投下が、日本の強硬な軍部をして戦争の継続を諦めさせるに有効であったということは、国内的に明らかになっております。しかし当時のアメリカから見ても、戦争の終結は時間の問題であって、残虐無道な新兵器を使用する必要が何もなかった、と思われたが故です。私の得た結論は、原爆投下は、敵対関係にあったソビエトに対し、アメリカの優位を誇示しようという戦略であり、更にまた、原爆を使用するに至った根底には、人種差別意識があったに違いないと言うことです。

(ヤルタ会談当時 耄碌してしまっていたルーズベルトとは異なり、後継者のトルーマンは冷徹であったと思います。彼は新型爆弾の実験成功との報告を受け、直ちにこれの投下命令に署名しております。)

 原子爆弾の問題を軍事的な観点から調査、検討した諏訪氏の論説を読み、私はつくづく感服しました。またそれと同時に、戦後民主主義に毒されて視野狭窄に陥り、軍事的な思考力を欠いたままの私自身を情けなく思いました。氏の論説を以下に要約します。

 アメリカの目的は、敵国である日本人のみならず世界の人々の眼にも、新型爆弾の効果を鮮烈に焼き付かせることにありました。そのために先ず、投下対象候補の4都市に対しては、一般市民を目標として実施してきた「絨毯爆撃」を手控えることにしました。既に甚大な被害を被った都市に新型爆弾を投下したところで、その効果が鮮明に写らないからです。

 次に、爆発そのものの効果を最大限に発揮させる条件を求めます。地表で爆発させたのでは影響範囲が限定されるので、空中で爆発させる必要があります。しかしそれが高すぎれば、投下機が待避する余裕が失われます。かくして、1万mの高空から進入するB29 は目標の上空 600m で爆発するようにセットした新型爆弾を投下した後、直ちに待避する、という作戦が決定されたのです。また爆撃に当たって完璧な成果を期するためにレーダー爆撃ではなく、目視によって目標位置を確認する、ということも併せて決定されています。

 他方、爆発させる時刻も重要であると考えています。当時の広島の多くの施設では朝8時から8時半の間に、人々はグラウンドに出て朝礼などを行っていました。この時間帯に投下すれば、爆発の殺傷効果を最大に発揮出来る、と判断したのです。

 リトルボーイを搭載したエノラゲイは86日の815分に広島に到着すべく、テニアン島の基地を飛び立ちます。そしてその日の広島の上空は、不運なことに雲一つなく晴れ渡っていたのでした。

(私は、アメリカ政府が今後も原爆投下について謝罪することはあり得ないし、また日本政府がアメリカに謝罪を要求することは出来ない、と考えています。しかし日本人の一人一人はアメリカ人に対して、折に触れて原爆投下の罪を指摘し、これを非難しなければならない、と考えます。)














































追憶の満州 敗戦後の1年間

                                             大石 道子

 第二次大戦中、両親とともに私は旧満州の鞍山に住んでいましたが、1945年の終戦は、夏休みを過ごしていた遼陽の叔母の家で迎えました。敗戦 ・・・ 満州に取り残された私たちの生活は一変しました。八路軍と国府軍の内戦に遭遇、敗戦と内戦という二重の苦難を味わうことになりました。

 翌年、時おり雪が降る氷点下10度という寒い朝のことでした。当時八路軍が敗走、無政府状態が続いて不安の日々の中、騒々しい物音。道を隔てた向かい側の広大な敷地に日本人の伯爵邸があり、その邸内に雲霞のように集まった中国人の群れが、みるみるうちに暴徒と化しました。暴徒の中には幼い子供もいるではありませんか。

 ピアノ、家具、衣類など、邸内のものを根こそぎ略奪する異様な光景を、子供の私たちは窓に打ち付けられた板の節穴からこわごわ眺めていました。叔母たちは危険を察知して、畳の下の床板をはずして、床下に衣類をつめ、リュックや夜具など生活に必要な最小限のものを投げ入れ、お金を土の中に埋め、畳を敷き終わろうとしたとき、ガチャンと窓ガラスに当たる投石の音。暴徒の侵入を防ぐために窓に打ち付けた板をはずすギーという金具の音。暴徒の襲来です。叔母に持ち出すものを指示されていましたが、気が動転して頭の中は真っ白。

 貴重品を首にぶら下げ、下駄と靴を片方ずつ持って逃げまどい、従姉妹たちと親日家の王さんの家に逃げ込み、かくまってもらいました。叔母は石がビュンビュン飛んでくるので、投石よけに綿入れの丹前を頭からすっぽりかぶり、朝炊いたご飯の釜を大事に小脇にかかえていた。ところがいつもやさしい王さんが険しい顔で、「日本人をかくまっていることがわかれば自分も危ない。しばらくしたら出て行ってくれ。」と言う。外に出れば殺気立った暴徒に殺されるので、もう少しかくまってください、と叔母は必死に懇願する。

 数十分たったでしょうか、あたりでワッーという歓声がひびきわたり、力強い軍靴のザク、ザクという音。国府軍が凱旋、無血入城したのです。

 恐怖の中で助かったという安堵で、手を取り合って喜びました。治安が安定し、家に戻れば寒空の下、戸も窓も略奪され廃墟の中、遠くから「畳があるよ」との声。暴徒は国府軍の急速な入城で持ち出す時間がなかったのでしょう。畳の下の宝物があったので、引き揚げまで何とか生活できました。助かったとたんに空腹を感じ、叔母が唯一持ち出した釜の蓋を開けると、美味しい白米。あの味を忘れることができません。

 翌日、町を歩くと略奪した品々の市が立ち、彼等の生活力のたくましさに驚きました。数日後、私の正月の晴れ着で作ったチャイナドレスを着ている少女の姿を、複雑な気持ちで見たものです。鮮やかな晴れ着の模様が今でも脳裏に焼きついています。

 鞍山にいて安否がわからなかった両親はやつれはてて、わざと汚い中国服を身にまとい、聾唖者の中国人を演じて命からがら遼陽にたどりつきました。日本人とわかれば列車からふり落とされるからです。それでも両親と合流できて安堵したものです。

 7月に入り、待ちに待った引揚げ命令。持ち物は1人千円と30キロの荷物に制限。駅に着いて、各人が唯一の財産であるリュックを開けて国府軍の検閲を待ちました。金目のものは有無を言わせず没収です。息つく間もなく家畜を運ぶような無蓋列車に乗せられ、振動のたびに振り落とされないように必死でした。

 錦州へと一路列車は進み、収容所に到着。引揚げを待つ大勢の日本人が終結していました。収容所とは名ばかりで、廃墟と化した建物。窓もなければむき出しのコンクリートの上にアンペラを敷いて、数週間にわたって待機。

 やっと出港地であるコロ島に向かう。乗船できる喜びに胸をはずませ、赤十字のやさしい係官よりご苦労さまでしたのねぎらいの言葉とともに、頭からDDT散布の歓迎を受けて全身真っ白。引揚げ船に翩翻とひるがえる日の丸を見上げて感激し、敗戦から1年間、国家の後ろ盾のない身から、生きて祖国に帰れるという実感がわいて、涙がとめどなく頬を流れました。

 サヨウナラ、満州。終戦前のよき時代と戦後の恐怖が交錯して、感慨深いものがありました。戦後60年。テレビの映像で戦渦に追われ、安全を求めて逃げ惑う人々の姿を見るとあの時代とオーバラップして、戦争の悲惨さ、平和の尊さを改めて考えさせられます。




















































 大木戸句会より   
   

大木戸句会 当期雑詠 
       
三句宛紹介いたします。(作者五十音順)

                       飯倉 豊司

奥利根の照葉静けし遭難碑

羽衣の名残りの松や新松子

菊活けて無沙汰詫びをり父母の墓

                       釜谷 石瀬

サイロより白蝶一つ秋深む

亡き友に捧ぐる悼歌星月夜

水鳥や五風十雨の湖晴れて

           川和 作二

野分けあと夕日に映ゆる赤鳥居

薄紅葉して一景の大樹かな

短日や山の端にはや月出でし

            杉野 昌子

旅仕度野分に備へ鉢を寄す

学舎の欅高きに薄紅葉

林ぬけ広がる景のみな枯野

            関口 湖舟

遠吠えや久の里曲の星月夜

産土の祭近づく新松子

菊の酒いま我しかと傘寿なる

            中本 保子

古寺の歴史をのせて萩ゆるる

つくばいの水澄みうつす流れ雲

険峻の山にやさしき鰯雲

  




















































 
五島列島 長崎の旅を終えて
 

                                                    依田 武敏

 今回の旅もおかげさまで天候に恵まれ、何よりの旅になりました。

1日目夕刻、最後の観光地では「長崎は今日も雨だった」の歌の文句の通り小雨に見舞われましたが、傘なしで済ませる程度のものでした。

1日目>
 早く来られる方もいらっしゃると思い、
810分集合のところ、7時には羽田の集合場所に着いたとき、既に23名の方が居られびっくりしたり、早く来て良かったと思ったりしました。搭乗時刻には全員そろい、9時発に福岡行きに乗り、1055分には福岡空港に着き、現地添乗員さんが待っていました。観光バスに乗り、11時25分発で1日目の観光旅行に入りました。九州自動車道
に入り、太宰府、佐賀平野を抜け、バスの中で昼食を済ませるうち、
145分頃
、第一の観光地、「展開峰」に到着、西海国立公園 九十九島の眺望を楽しめるこの場所は本当に眺めが良く、一同感嘆の声を上げました。約
30分の散策の後第二の観光地(外海観光)を目指して出発、海岸の道、山中の道を走り、夕陽が丘、外海(ソトメ)観光地に着く。ここは遠藤周作の「沈黙」の舞台となったところ、隣接して遠藤周作の文学館も建っている。豊かな自然、歴史と文化の道「202号線」サンセットロードと呼ばれている所。フランス人宣教師 ロ・ド神父の事績(日本で初めてパスタを製造)も紹介されている。ここで小雨にあう。因みにここは長崎市東出津町。ここを出て、今夜の宿「ホテル長崎」に5時頃到着する。高台にあり、長崎湾を中心に長崎の夜景が一望出来る。2日目出発が早いので、早めに就寝する。

              一日目走行距離 約240km

2日目>
 朝
715分出発、長崎港よりジェットフォイル高速船「ペガサス」に乗船、約2時間の船旅、波も穏やかで薄日の差すなか、約80kmの高速でとばす。福江港を経由して上五島の奈良尾港に着く。添乗員さんを含め、28名 中型バスで観光に入る。約5分程で、「あこう樹」見学、奈良尾神社の鳥居をくぐってすぐ、通路にかぶさる大木(タイボク)、気根が多く、太く二股に分かれ、その下を通って神社に向かう。境内で婦人会の人々がつくった羊羹をご馳走になる。

 第2の観光地「若松大橋」に向かう。橋を渡った所で、約30m下の遊歩道に降り、散策する。橋の下は時間帯により、渦潮が強く現れるとのこと。海と島の景観を楽しむ。降りた分登らねばならず、急な坂を登る。

 民宿「えび屋」で昼食。
刺身、焼き魚
等、美味でした。跡次教会等、車窓から展望しながら、矢樫眼の塩本舗で食塩製造を見学、説明を受ける。
今回の旅の目的の一つは教会見学、ガイドを務めてくれた方が博識の方で
細々と説明して頂く。教会は信者の方々の寄付が中心で建てられており、
信仰心が如何に強いかと思わずにはいられない。「青砂ヶ浦教会」やや小振りな「頭ヶ島教会」いずれも素晴らしい造りでした。この後、海童神社を見学、
2日目の宿「ホテル マリンピア」に4時頃到着、この日は分宿で、我々13人だけの泊まりとなり、漁り火会席の夕食で、満足出来るものでした。

            2日目の走行距離 約110km

3日目>
 朝
8時出発、郷の首港まで、宿の車で送ってもらい20分、他の参加者と落ち合う。海のタクシーで若松瀬戸大橋の下を通り、キリシタン洞窟を眺め、ハリノメンド(里の浦キリシタン迫害、明治元年、五島崩れ)に上陸、平和キリスト像の下で記念写真を撮る。隠れキリシタンの苦労を偲ぶ。
 福江島の奥浦港を目指して航行する途中、大型観光船とすれ違う。やや遅れてくる大きな横波を受け、我々の小さな舟は波にもてあそばれ、大揺れにゆれる。船首にいて上下に大きくゆすられ、体がほおり投げられる体験をする。
 奥浦港に上陸。旧教会、現在は記念館となっている、堂崎天主堂を見学する。記念館に行く途中、海岸に沿って造られた5段ほどの石積の階段は、昔、船で来る信者の方々の船泊りの場所として造られたもの。現在は車で来られる方々の便利を考え、少々離れた所に教会が建てられていると
のこと。天主堂(記念館)では教会の造りの説明、殉教の歴史、器物などの説明をお年寄りの男性ガイドさんがしてくれた。
3カ所見学した教会の建物は少々は異なるが、ほぼ同じ、他の教会も大同小異だと思われる。

 鎧瀬溶岩海岸を展望台より見学の後、鬼岳に上る。天文台、ゴルフ場など遠望しながら、頂上付近には、鬼岳神社がひっそりと存在する。

順序は逆になったが、この二つの見学の前に、武家屋敷を見学する。中級武士の屋敷とのことだが、非常に広い家で部屋数八室ほどあり、何れも八畳から 十畳ほどあり、現在80才ほどのお年寄り(女性)が1人で住んでいられる由、その方が家の中を案内して下さる。向かいの記念館も建物は新しい造りに変わっているが、庭は小振りだが、見事な造り。「日本庭園」と言えるほど立派なもの。

城は石垣に囲まれ、一万四千石ほどの大名とのこと。現在は堀で囲まれているように見えるが、当時は周りは海で海城だったとか。

食事処、「心誠」で昼食、大きな蓋付きの朱塗りの器に料理が納められ、これも満足出来る昼食でした。

昼食後バスで福江空港へ。240分頃出発で福岡空港へ約120人乗りの飛行機。30分の空旅でした。添乗員さんとはここで別れ(ご苦労様でした)

4時30分発の飛行機で羽田には予定通り6時10分の到着、途中5時少々過ぎ、暮れかけた雲海の上の夕焼けは素晴らしいものでした。羽田で皆さんとお別れ。天候に恵まれ、本当に楽しい旅でした。



















































   
秋の新宿御苑を訪ねて
  

                                               大橋春男

 1010日 晴天に恵まれ、22名の参加で実施されました。担当の大橋さん、小川さん、高崎さんの協力で、イギリス式庭園でユリノキを堪能、フランス式庭園でプラタナスとバラを楽しく観賞し、日本庭園を回り、レストランで昼食を取り解散しました。

 以下 大橋担当理事の了解を得て、新宿御苑の歴史等、案内文から採録しました。
                       大橋 春男

 明治39年(1906年)に完成した皇室庭園で、明治を代表する西洋庭園です。庭園のスタイルは、明治、大正期の農学者 福羽 逸人 氏の構想のもとで、フランスの造園家 アンリー.マルチネー氏によって設計されました。この大庭園は以下三つの異なる形式の庭園によって構成されております。

イギリス自然風景色庭園
 広大な芝生にケヤキやユリノキなどの巨樹が点在する開放的な庭園。









フランス式整形庭園
  中央にバラ花壇、両側にプラタナスの並木を配し、左右対称のデザインの美しい庭園。










日本式庭園
 水の流れに沿う回遊式庭園。旧御涼亭や楽羽亭.翔天亭などの茶室があります。

新宿御苑の歴史

  ルーツを辿ると江戸時代初期にまで遡ります。その敷地は徳川家康が江戸城に入場した際に譜代の家臣であった内藤重成に授けた江戸屋敷でした。明治に入ると政府は内藤家から上納させた土地とその隣接地を合わせ、近代農業振興を目的とする内藤新宿試験場を設置しました。ここでは西洋の果実.野菜の栽培.養蚕.牧畜などの研究が行われました。その後は宮内省所管の新宿御苑となり、明治39年に皇室庭園となりました。そして昭和24(1949)より一般に公開され、現在は環境庁が所管する国民公園として幅広い世代に愛されております。この日、隅から隅まで探訪致します。




















































 
 
あづま路