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平成26年度

68号

69号









































69


   

あづま路 69号 平成26年7月
結婚適齢期 栗原  弘
靖国神社昇殿参拝報告 近藤美明
主治医に出す礼状 皆本 義博
中東のシリコンバレー
イスラエル
秋山 哲
戦後の教育(その1) 安東  達
食と健康 矢野 寬市
朝日・読売・産経を
 読み比べて
      
藤井 清司




















































65-11

        

   
     結婚適齢期
              SKK理事長 栗原 弘

 結婚適齢期は20才台と思っている。大学一年生になった孫と車での帰り、「結婚は20才代にしないとだめだよ」と話しかける。 話が弾んで来る。「男も女も30才代をすぎると、体力は下り坂になる、男としての魅力も女としての魅力も下り坂になる。お肌の曲がり角は25才とも言われている。動物学的にも、一番子孫を残す適齢期がある。四十過ぎの『シイナッコ(粃っ子)』と言う言葉がある。高齢出産は実の入らない子が生まれると言う諺である。20才代が最適でお産も簡単だし健康児が多い。我慢が出来ないほど異性を求める時期が結婚の最適期と思うよ。」以上のようなことを話した。

 動物たちはその事を本能的に知っていて実行している。「娘十八、番茶も出花」、20代は、どんな男でも女でも、美しい。すっぴんでも、ほれぼれする肌を持っている。結婚の適齢期である。このタイミングで親は見合いを進めて結婚へ。今は自由を重んじてそれが少なくなった。最近テレビが良くなり、素肌の美醜は隠せない。50代の歌手の肌が、あごの下のたるみまで、必要以上にはっきり写ってしまう。化粧で相当カバーしていても年は隠せない。

 20才代に結婚しないと売れ残りになって、私たちの頃は恥ずかしかった。就職できない、結婚できない事は、人生に落伍者のレッテルを貼られたようで恥ずかしかった。親も必死に見合い相手を探した。

 30才過ぎは本能よりも理屈や打算が勝って、自分の鮮度が落ちていくことを、棚に上げ、相手を見る目が肥えてくる。選り好みが強くなる。なおさら婚期が遅れる。40才代になると、よほど手入れをしない限り、異性として振り向いてくれなくなってしまう。結婚相談所に駆け込んでも若さは取り戻せない。親も必死に見合い相手を探すが遅い。

 「娘が孫を連れて戻り、今が最高に幸せだわ」ある母親の言葉。妻は「孫が父なし子になってしまうのに」と私に言う。近所の奥さんの会話に妻が腹を立てている。娘の行く末よりも、親の打算を感じるが、最近、比較的聞く言葉である。嫁ぐ娘に「我が家の敷居は二度と踏むな(戻るな)」と、「嫌だったら、いつでも帰ってきて良いのよ」と言う親。親の感覚が、自分を中心にした自由を大切にするようになったのだろうか。

 親の責任を思う、特に母親の責任を思う。「自分のしたような苦労は子供たちにさせてはいけない」仲間内で良く聞く言葉だが。「苦労は買ってでもせよ」偉人伝を読むと良く感じた言葉を思い出す。見合い結婚が極端に少なくなったと聞く、婚期を迎えた子を手放すのは悲しい。動物たちは巣立ちの働きかけは厳しい。それが種族を守る、子孫を残す手立てと誰が教えたわけでも無い。結婚は子供の巣立ちである。それをしないで40才まで置いている母親に違和感を感ずる。自分の子供たちだけにでも、その事は伝えておきたい。

















































65-12


靖国神社昇殿参拝報告
                  近藤 美明

 平成2511221230分、定刻通り靖国神社に18名が集合、午後1時に参集殿の控室に入りました。先に入場している団体の参拝が終わるまでの間、靖国神社神職の禰宜(ねぎ)祭務部長さんから、15分ほど靖国神社の由緒・創建の理念とくに御祭神について、静粛で厳かな雰囲気の中で、私達によく理解できる言葉で丁寧にお話しいただきました。祖国に殉じられた尊い英霊に仕える神職のお人柄が随所に滲み出ているご説明でした。担当職員(神職)の案内で長い渡り廊下を進んで本殿に昇りました。皆本顧問、栗原理事長と担当の私の3名で、玉串を御神霊に奉奠(ほうてん)しました。

 本殿には、2466千余柱の御神霊が、私達を見守っておられると思うと、言葉では表現できない私の心が洗われるような風が、静かに流れているように思いました。その時、年令が近く親しく共に暮らした従兄が自ら志願して、レイテ沖海戦(昭和191024日)で航空母艦と運命を共にしてから70年、いま英霊として姿は見えないけれど、今ここにいる、よく会いに来てくれたと、従兄の笑顔が浮かんだ様な気がしました。

 午後150分ごろ参集殿を退出し、午後2時には遊就館に入場しました。遊就館では、大東亜戦争70年展PARTⅡの特別展が行われていました。午後4時まで自由に拝観することにしました。午後4時には、全員遊就館を退出して参集館前で解散しました。

 私が今回、靖国神社昇殿参拝の担当として先ず考えた事は、靖国神社の歴史と正しい姿を知る事だと考えました。幸い 別冊宝島2049号 靖国神社のすべて が発売されていましたので、すぐ購入して読みました。とてもすばらしい内容で、靖国神社に関わる諸問題・事件・訴訟・その他日本国民として知っておくべき事項が、秘蔵写真も含めて、史実に基づき明確に解説されています。








































69-13


主治医に出す礼状
                     皆本義博

 謹啓 盂蘭盆も近づく酷暑が訪れて参ります。先生には、いよいよご清祥に亘らせられ、寧日なく私ども患者の健康保全のため、ご介護ご高尊を賜り、衷心から深謝申し上げます。とりわけご厚情をいただき、おかげをもって懸念なく警醒(けいせい)のよろこびを得ております。

 甚だ些少でございますが、熊本菊池の新茶をお届け申しあげます。

 

 沖縄戦場で、慶良間から沖縄本島の軍司令部に、海上特攻艇の爆装を外し、船舶団長大町茂閣下を護送させた中島一郎中尉(入間郡金子村根岸出身)も、閣下ともども消息を絶ち、戦死と認定されました。

 一物もとどめずの成佛、復員するとき、彼が愛した海岸の石を持参し、お父上中島幸太郎様(狭山茶連合会会長)が、ご葬儀をなされ、熊本菊池に茶の種をとどけ、これをご縁にいたしたいと、ご温情をいただきました。

 私の命令で、海上で散華された、その責任は私が担う、私は長男ですが、父と語り、埼玉県に墓地を求め、所澤聖地霊園に収まることになりました。熊本菊池のお茶は、立派につづいております。

 

 気候不順の折、皆様方のご健勝を、心から念じております。  合掌  敬具

            平成24710

 浅野病院 院長 浅野寛治先生
                   皆本 義博












































65-14


中東のシリコンバレー・イスラエル
           秋山先生講演要旨文責
 藤井清司

 秋山哲先生は1934年生まれで、同志社大学経済学部を卒業された。紹介者の安東達理事と同窓である。毎日新聞大阪本社に長らく勤められ、奈良産業大学教授等を歴任、現在は日本イスラエル親善協会の会長を務めておられる。2時間余りに亘り、立ったまま講演を続けられる若々しさには敬服させられた。(日イ協会は、創立50周年を迎えた昨年、東北大震災の被災児童13人をイスラエルに招いたとの由。)

 

 BC1250年頃、モーゼに導かれて出エジプトを行いカナンに移住したユダヤ人は、BC1000年頃ダビデ王を仰いでユダ・イスラエル統一王国を成立させ、エルサレムを都とした。続くソロモン王は第一神殿を建設しており、この頃が古代イスラエル王国の最盛期とされる。しかしその後アッシリア、バビロニアによる侵略を受け、ユダヤ人は一時期、バビロン捕囚の身となった。BC500年頃バビロンから帰還することを得たが、その後ローマに征服され、AD70年以降のユダヤ人は、エルサレムから追放されて彷徨える民(デイアスポラ)となってしまった。

 各地に散ったユダヤ人は、それぞれの移住先でもユダヤ教の戒律を堅く守り続けた。他方パレスチナの地は、イスラム教徒(アラブ人)により長らくの間占拠されるところとなった。またイギリス、スペイン、ロシアの各地に移住していたユダヤ人は、迫害・追放(「ポグロム」という、「迫害」の意。)を受けるようになり、1880年頃からユダヤ人のパレスチナ移住(「アリア」という、「故郷に帰る」の意。)が始まる。そのために1890年以降パレスチナでの、入植ユダヤ人と先住アラブ人の間の対立、紛争が深まった。

 第一次世界大戦(1914~1919)中に英、仏、露の諸国は、トルコに対する反乱をアラブ人に使嗾すると共に、トルコ領分割(アラブ人国家の建設を含む)の密約を結んだ。さらに、パレスチナの地にユダヤ人の民族郷土建設を認めるバルフォア宣言が発表され、パレスチナの地は、英国の委任統治とされた。第二次大戦(1939~1945)中はヒトラーによるホロコーストが本格化したが、大戦終了と共に強制収用所からユダヤ人は解放された。1947年国連はパレスチナ分割を決議、英国によるパレスチナ委任統治は終了し、イスラエルは、1948年に悲願の建国を果たすことができた。その当時のユダヤ人の数は、全世界で1200万人といわれる。

 欧米諸国による一方的なイスラエル建国の容認に反発した周辺のアラブ諸国は、度々イスラエルに戦争を仕掛けた。しかし、1948年の第一次中東戦争から1973年の第四次中東戦争に至る攻撃に対し、建国後間もないイスラエルは、これを悉く凌ぐことが出来た。イスラエルという国は、アラブ人居住区で内部を分断され、地勢的にも守るに難しい地域である。そのような条件下で、イスラエルが第一次中東戦争に際しても勝利を収めたことは、奇蹟と言うしかない。

 

 秋山先生に言わせると、ユダヤ教の聖典の中身は、矛盾だらけなのだそうである。そのために信者の間では徹底的に議論され、それに伴って聖典について様々な解釈が成り立つと認識されるに至っている。ユダヤ人は、議論することが大好きな民族なのである。その結果ユダヤ人は、他人と違うことに興味を持ち、他人と同じことはやらない傾向がある。技術開発を得意とする国になったということも、その民族性に起因するようである。

 イスラエルの面積は四国と同程度だが、灌漑が行き届き食料自給率は95%と高い。人口は約800万人で、その内ユダヤ人は約600万人。イスラエル国民の中でユダヤ人には徴兵が義務付けられ、また予備役も整えられている(他人種の国民の場合には、志願兵は認められている)。なお全世界のユダヤ人の人口は現在約1600万人、アメリカに居住するユダヤ人が最大である。イスラエルの一人当たりGDP3万ドルを超え、2010年にはOECD加入が認められ、新興国から成長力の高い発展国家へと転換している。

 イスラエル経済の特質は、国際性と先進技術性にある。経営開発国際研究所(IMD)によれば、2012年におけるイスラエルの研究開発投資は、GDP4,25%に達し、世界一である(OECD平均は2,28%)。国内の熟練労働者比率が高く、教育支出も高い。政府は技術開発型の企業育成策を取っており、70以上の内外ベンチャーキャピタルが活動している。

 投資の大きな分野は、2011年でインターネットが資本調達の23%を占め、コミュニケイションが20%、ソフトウエアーが19%、生命科学分野で13%となっている。

 イスラエルに進出して研究開発を進めている主な外国資本を例示すれば、モトローラー、GEHP、インテル、マイクロソフト、IBM等がある。また、イスラエル国内資本で日本に進出している企業名を挙げれば、ネタフィム(灌漑システムの会社)、ギブン・イメージング(カプセル内視鏡メーカー)、イスカル(切削工具の会社)、チェック・ポイント(インターネット・セキュリテイ技術で世界をリードする会社)、テバ(ジェネリック薬品の世界的な会社)、マクテシム・アガン(ジェネリック農薬の世界的な会社)等がある。なお、最近中国資本が、マクテシム・アガンのイスラエル本社の株式60%を、買収したとのこと。

 イスラエルの高い技術開発力、特にITやバイオ技術は世界から注目され、「中東のシリコンバレー」と呼ばれるようになった。世界の主要なハイテク企業の略すべてが、イスラエルに研究開発拠点を持っているが、日本企業の拠点はない。他方近年の日本は、近隣諸国によるサイバー攻撃の危険に曝されており、この面でもイスラエルに教えを乞う立場にある。経団連が近くミッションを派遣するとのことであるが、政府サイドによる真剣な取り組みが切望される。






























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  戦後の教育(その1)
                       安東 達

     ―〈 はじめに 〉―

1945年(昭和20年)815日、日本が「ポツダム宣言」を受諾し、戦争が終結した。連合国軍は、本土決戦で決定的な惨敗を見るまで日本は絶対に降伏しないだろうと考えていた。特にアメリカの戦略家達にとっては(降伏は)驚きであった。原爆投下とソ連参戦が大きな引金になったのは事実である。日本の統治は軍政による占領機構の構築よりも、日本国民の抵抗の少ない「間接統治」方式でのぞむことになる。

ドイツの敗戦は58日、日本より数ヶ月早く占領下に置かれ、米・英・仏・ソ連の4カ国による分割統治であった。日本の占領は連合国による占領ではあったが、米国が主導権を握ることが要求されていたと考えられ、実際にはアメリカの単独占領である。

「ポツダム宣言」の中に、教育改革の方針を決定づけるような意味を持つ表現は

“4っの文章”の中に見られる。先ず第一に、日本国民は、「日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及ビ勢力ハ永久ニ」除去する必要がある。これに合せて、「日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障壁ヲ」除去すべきであるとしている。日本に対して「言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重」が確立することを要求している。最後に、宣言文書は、これらの目的が完遂され、「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルル」までは、日本国を占領下に置くことを明確に述べている。194582日、米・英・ソ連の三国首脳によって「ポツダム協定」が結ばれた。日本の「ポツダム宣言には教育に関する条項は含まれていないが、「ポツダム協定」には「ドイツの教育は、ナチズムや軍国主義の教育が完全に払拭され、民主主義の理念の成果ある発展が可能となるように規制されなくてはならない」と教育に関する特別な条項が明確に規定されている。

 ドイツの場合軍事統治という明確な政策があったが、日本の場合は必ずしも十分な合意に達していなかった。結局このことが逆に日本側に「ポツダム宣言」の拡大解釈を許容することになったと考えられる。日本政府は「ポツダム宣言」のなかに連合国側の行動の限界が暗示されていることを巧妙に読み取っていたと思われる。連合国軍の最高司令官であったマッカーサーは、1)できる限り早急に、法律面と実施面で、民主的教育形態の枠組みを確立すること。2)軍事的占領下で可能な限り、又日本の環境条件の範囲内で、占領軍の権限と影響力、そして改革政策の適用によって民主的過程のもとで教育内容を制定すべきこと。3)日本国民は占領軍から「指導と援助」を受けながら、連合国軍の基本方針から離れていない限り、自らの改革の計画と実施に取り組むべきこと。以上の三点の指針を柱に対処した。

 占領下の教育改革は、1945年(昭和20年)末迄の4ケ月余りの短期間で否定的改革を完了、1946年(昭和21年)からは一転して積極的な改革へと移行していった。前者では占領軍が主導権を、後者では米国教育使節団によってその改革案が提示された。占領全体を通して、1945年(昭和20年)末までは、戦前の軍国主義及び国家主義を排除し、1946年(昭和21年)元旦の天皇の「人間宣言」からは一転して、日本の民主化をはじめようとしたマッカーサーの計画の中で、教育改革も行われたのである。昭和天皇の「人間宣言」は、戦後日本の民主主義の出発点であった。

 

      Ⅰ)戦後教育問題処理の実態

 米国教育使節団は、1946年(昭和21年)3月と1950年(昭和25年)8月に来日し、それぞれの報告書を作成して連合国軍最高司令官マッカーサーに提出、前者は国防省主導のもとに形成されたのに対し、後者は陸軍省及び連合軍最高司令官総司令部(GHQSCAP)、民間情報教育局(CI&E)によって計画されたものである。1950年(昭和25年)の「第二次米国教育使節団報告書」の中で、「極東に於いて共産主義に対抗する最大の武器の一つは、日本の啓発された選挙民である」との一節は顕著な例で政治的色彩を帯びて急転換する占領状況下での占領政策をみることが出来る。

米国教育使節団に協力すべき日本側教育家の委員会がGHQ指令により発足、委員長に南原繁東大総長をすえ、1946年(昭和21年)3末頃に「6・3・3・4」制などGHQ・文部大臣に報告書を提出、35日第一次米国教育使節団来日、330日に最高司令官に報告書を提出、6・3制などの教育の民主化を勧告した。47日、GHQは米国教育使節団報告書を発表、1947年(昭和22年)25日、文部省は新学制の実施方針(小・中:昭和22年度から、高校:昭和23年度から、大学:昭和24年度から)を発表し、331日には教育基本法・学校教育法を公布して、国民学校令などを廃止した。

同年53日、日本国憲法施行、枢密院を廃止、同年68日、日本教職員組合(日教組)結成、822日にはGHQは追放教員11万名を発表した。又101日帝国大学の名称を廃止し国立総合大学に変更。

1948年(昭和23年)210日、文部省は、大学・高専進学希望者に進学適性検査を一斉実施し、昭和24年度から29年度まで大学進学希望者に実施した。41日、新制高等学校が発足となる。

同年619日、衆議院では「教育勅語等排除に関する決議」、参議院は「教育勅語等の失効確認に関する決議」を可決した。

99日、CIEのオア教育課長は、教育委員には政党支持者・日教組員は望ましくないと発表。918日、全日本学生自治会総連合(全学連)結成大会が開催。

この年の34日、GHQは祝祭日の国旗掲揚を許可。722日、公務員の争議行為禁止のマッカーサー書簡(31日、政令として公布施行)、又1224日、GHQは岸信介らA級戦犯を釈放。

国外にあっては、414日、イスラエル建国を宣言。815日、大韓民国樹立。99日、朝鮮民主主義人民共和国樹立。101日、中華人民共和国成立。107日、ドイツ人民共和国(東独)成立。

 

1950年(昭和25年)

 213日、東京都教育庁、「赤い教員」246人に退職勧告(レッドパージ)。411日、9県の高校教員、日教組から脱退し全国高校職員組合協議会発足。422日、日本戦没学生記念会(わだつみ会)結成大会。617日、文部省、学生の政治集会・デモ参加禁止を通達。91日、天野貞祐文相、教職員のレッド・パージ実施を声明(各地の大学で試験ボイコット・反対スト)。1020日、日教組、君が代斉唱反対・新国歌制定運動推進を決定。

 一方国内に於いては、11日、マッカーサー、日本国憲法は自己防衛の権利を否定せずとの声明を行う。66日、マッカーサー、日本共産党中央委員24名の追放を指令。616日、政府、国内治安確保のため集会・デモ全国的に禁止。マッカーサー、朝鮮戦争についての報道態度を理由に、共産党機関紙「アカハタ」の発行を禁止(718日無期限停止指令)。78日、マッカーサー、警察予備隊75千人創設、海上保安庁8千人増を指令。724日、日本労働組合総評議会(総評)結成。724日、GHQ、新聞協会代表にレッドパージを勧告。1013日、約1万人の公職追放を解除する。1110日、政府、旧軍人の3千5百人の追放解除(翌年31日、警察予備隊、旧軍人の特別募集を開始)。

 国際面では、625日、朝鮮戦争勃発。国連安保理、北朝鮮を侵略者とする米国の決議案を可決(ソ連欠席)。トルーマン、対日講和・日米安全保障条約締結予備交渉の開始を、国務省に許可。103日、連合軍、38度線を越えて北上。1025日、中国人民義勇軍が、朝鮮戦線に参加。

 

1951年(昭和26年)

28日、文部省、道徳教育振興方策を発表(道徳科は新設せず、426日、手引書要綱小学校編、529日、中学校・高校編を配布)。622日、教職員追放令改正、教職員適格再審査会令公布(74日、文部省、第一次教職員追放解除者298人発表)。711日、米国対日工業教育顧問団来日(826日報告書提出、「産学協同」を示唆)。828日、米国留学に関する「フルブライト法」に基づく日米教育交換計画に調印(19527月第1回留学生出発)。8月、生活難から児童福祉法違反事件(人身売買等)激増、山形・東京・福岡等々約5千人。1110日、日教組、第一回全国教育研究大会(教研集会)を開催(1112日 於日光)。1116日、政令改正諮問委員会、「教育制度の改革に関する答申」を決定(戦後教育改革の再改革の提案、複線型制度・教育委員会任命制等)。1222日、東大海後宗臣教授等教育学者14名、「教育制度の改革に関する答申」に反対する意見書を発表。

この年の国内の出来事は、1月元旦、マッカーサー、年頭声明で講和と日本の再武装の必要を強調。22日、ダレス特使、対日講和の基本原則(集団安保・米軍駐留)を表明。411日、連合軍最高司令官マッカーサー解任(後任にリッジウエイ中将)さる。51日、リッジウエイ、占領下諸法令の再検討を許可。618日、公職追放改正政令・公職資格審査会設置令公布。620日、政府は第一次追放解除、政財界2958人。86日、第二次解除、各界13904人。816日、陸海軍正規将校、11185人の追放解除。

94日、サンフランシスコ講和会議開催。98日、対日講和条約調印(ソ連・ポーランド・チエコは拒否)。日米安全保障条約調印。

国外では、21日、国連総会で朝鮮戦争に関し、中国を侵略者と決議。324日、マッカーサーは、中国本土攻撃をも辞さずと声明。710日、朝鮮休戦会談。918日、周恩来、中国不参加の対日講和条約は非合法・無効と声明。

この年のサンフランシスコ講和条約調印によって、日本は、戦後やっと国際社会に復帰出来ることになった。


















































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食と健康
                         矢野 寬市

417日の定例懇話会で講演された矢野寛市先生は、その後、態々講演の要旨をご自身で取りまとめた上、安東理事に送って下さった。ここに深く感謝申し上げます。)

 

 今、食の世界でパラダイムシフトが起こっている。戦後、アメリカや日本で脳疾患、心疾患、糖尿病、腎臓病、ガンなどの生活習慣病が増えたのは脂肪の撮りすぎだといわれ、脂肪の摂取を控えて糖質(炭水化物から繊維質を引いたもの)の摂取を増やすことが奨励された。そのためアメリカでは和食ブームが起こったが、アメリカの死因第一位である心筋梗塞は、その後減るどころかむしろ増えている。生活習慣病が増えたのは脂肪の撮りすぎが原因ではなく、糖質の摂りすぎにあったのである。

 私は12年前の68才の時、前立腺の全摘手術を受けたが、何とかがんを克服できないものかと思い、近所の書店で見つけた新谷弘美「病気にならない生き方」という本に書いてあった食生活を六年ほど、続いて石原結実「がんも生活習慣病も体を温めれば治る」という本に書いてあった食生活を三年ほど実践した結果、64キロあった体重は53キロに11キロ減少し、血液の数値は全ての項目で基準値をクリアした。

 ところが、二年半ほど前にルポライターである桐山秀樹が書いた「糖尿病治療の深い闇」という本を読んで、糖尿病が糖質を摂らないようにすれば劇的に改善することを知り、そのあと立て続けに京都の高尾病院の理事長である江部康二、宇和島の整形外科医である釜池豊明、アメリカの心臓病の専門医であるロバート・アトキンス、同じくアメリカの糖尿病の専門医であるリチャード・バースタインなどが書いた本を読み、糖質の摂取を控えることの重要性に確信を持ち、自らも実践することにした。アトキンスは30年間に3万人のメタボ患者を、95%の確率でダイエットに成功したとされ、著書は1,900万部売れ、著書を読んで糖質制限食を実行している人は100万人に上ると推定されている。アトキンスによると、糖質の摂取量を一日に40gに抑えると脂肪が自動的に燃焼し、しかもその際発生するケトン体は脳のエネルギー源として好ましいものであるということである。

 人類の歴史は400万年とも500万年とも言われているが、一万年前にメソポタミヤで小麦が見つかり農耕が始まって以来、人類は食糧を安定的に得ることができるようになり、人口も増えたが同時に病人も増えた。人の消化器は牛などとは異なりセルロースをエネルギーに変えることはできないので、人は草食動物ではなく本来は肉食動物である。肉を主食としているエスキモー人には病人がいないといわれている。

 二年半に亘って糖質制限食を実践した結果、体重は1キロほど減っただけであったが、血液の数値は中性脂肪値とHDLが驚くほど改善された。(HbA1cは期待したほどよくなく、まだ脇が甘いようである。)さらに熟睡できるようになったせいか、集中力、持久力も高まったように思われる。

 糖質制限食の要点は、(イ)糖質の摂取を極力控える(ロ)カロリーのことは気にしない(ハ)タンパク質、脂質、ビタミン、ミネラルはしっかり摂るの三点で、至ってシンプルである。具体的には、摂取してもよいのは糖質の少ない肉、魚、バター・チーズなどの乳製品、青物野菜、キノコ類、海草類など。摂取していけないのは糖質の多い穀類、麺類、パン、こんにゃくを除く根菜類、アボカドを除く果物などである。アルコールは、糖質が少ない蒸留酒、赤ワインなどは適量なら飲んでもよい。なお、糖質を全く摂らなくても、肝臓が必要に応じてタンパク質から糖質を作り出すので心配は要らない(これを糖新生という)。

 ブドウ糖をエネルギー源としている脳細胞や赤血球などに、ブドウ糖を供給するために血液中の血糖値は85mg/dl前後に保持されている。糖質を摂りすぎると、糖質がタンパク質と結合してAGE(終末糖化産物)という物質になり、これが細胞に蓄積し、種々の体の調節機能を破壊する。糖質を摂取するとすい臓からインシュリンが出てブドウ糖を細胞に配給するが、余ったものは脂肪細胞に押し込む。太るとインシュリンの効きが悪くなる。糖質を多量に摂り続け、すい臓が疲弊するとインシュリンの出が悪くなり、血糖値が高止まりすることになる。血糖値を上げるのは糖質のみであり、脂質、タンパク質は血糖値を全く上げない。

 イギリスの学者が既に18世紀に糖質の摂取を控えるとやせることができることを発見していたが、欧米の糖尿病学会がこれを公式に認めたのは2008年で、それまでのロバート・アトキンスやリチャード・バースタインなどの治療実績や主張が漸く実ったのである。

 日本では、糖質制限食による治療の歴史が1415年と浅いためか、日本の糖尿病学会が総会でこれを正式に議題として取り上げたのは二年前からで、未だに糖質制限食による治療を認めていない。今や日本の糖尿病患者は950万人、予備軍を加えると2,000万人を超えており、高血圧の人も何千万人に上るといわれる。糖質の摂取を控え、脂肪、タンパク質を主たる栄養源とする食のパラダイムシフトを定着させ、生活習慣病に罹る人を減らすことが急務であり、このことが40兆円を超えるといわれる医療費を大幅に削減することを可能にすると思われる。

 なお、糖質制限食を始める場合は、念のために医師の指導の下に行うのがよいと思われる。銀座にある「AGE牧田クリニック」は、院長の牧田善二がアメリカでAGEの研究をし糖質制限食に通じていて、糖尿病などの治療に顕著な治療実績を上げているようである(「糖尿病はご飯よりステーキを食べなさい」「老けたくないならAGEを減らしなさい ― カラダが糖化しない賢い生活術」)。  以上 








































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朝日.読売.産経を読み比べて
                       藤井 清司

 去年の930日、小生は行きつけの碁会所で朝日新聞を広げていた。いつもは囲碁の名人戦の頁を見るだけなのだが、その日は社会面の記事に、偶々目が留まった。見出しは「外国人船員逮捕」とある。ひと目で、その頃発生していた中国漁船事故の関連記事と察知した。記事内容に目を通すと、“中国人漁船員が・・・・の容疑で逮捕され・・・・”と、真っ当な内容である。しかしその見出しには、少なからぬ違和感を覚えた。中国当局に気兼ねした朝日のデスクが、「中国人船員逮捕」と書かれてあった見出しに、手を加えたのではないだろうか?

 

 小生は産経新聞の購読者である。他紙の購読を勧誘される度に、いつも謝絶してきた。しかしその日の夕刻、小生は新聞取次店に自分から電話して、朝日と読売の3ヶ月購読(+1ヶ月のサービス)を申し込んだ。翌101日から、3紙の朝刊(朝日、読売は夕刊も)が配達されるようになったが、先ずは折り込み広告の量に圧倒された。朝日新聞に挟み込まれる広告量は、産経新聞のそれの3~4倍に達する。朝刊のヴォリュームもすごい。朝日、読売共に40頁もある(産経は僅か30頁)。これらの記事の全てに目を通すことは、至難のことと覚悟した。

 

 先ずは3紙の編集紙面の違いについて大まかに述べる。産経と読売の社説の配置はオーソドックスである。産経は2頁の右欄に、読売は3頁の左欄に夫々社説(産経の表題は「主張」)を載せている(昔の新聞の社説は1頁に載せていたように記憶するのだが)。これに対して朝日の社説は、14頁まで紙面をめくってやっと出てくる。頁全体(日によっては次の15頁も含めて)が「オピニオン」として取り扱われ、14頁の左欄に社説が、右欄には読者からの投稿「声」が掲載される。他紙の投稿について述べると、読売の場合は10頁に「気流」として投稿が載せられており、産経の場合は「正論」を掲載する7頁の下欄に、「談話室」の名で掲載される。このような紙面の枠組みの違いが、夫々の新聞社の考えや主張を読者に伝えるに当って、どのように効果的かということであるが、4ヶ月の併読を経て、朝日の枠組みは自社のキャンペインを実施する上で効果的であり、かつ最適であるとの感を深くした。

 

 折りしも「特定秘密保護法案」が国会に提出されて、マスコミでは大問題となっていた。平成25年1126日、同法案が衆議院で可決されるや(いやその前から)、朝日新聞社は、凄まじい反対キャンペインを展開した。「社説」や「天声人語」、夕刊の「素粒子」に掲載する反対の論説に加えて、数多くの有識者や文化人が動員され、連日のように批判や憂慮の念が、朝日の紙面を覆った。朝日の12面から社会面に至るまで、反対や批判の記事ばかりだった。その上、オピニオン頁の「声」に掲載される朝日新聞講読者からの投稿が加わる。どのような基準で投稿が採用されるのかは定かではないが、左欄の「社説」の論調に対応するかの如く、右欄の「声」も、激越な反対や批判の大合唱である。特に目立ったのは6080歳台の男性読者からの集団的な投稿で、判で押したように似通っていた。占領軍によるWar Guilt Information Programの刷り込みが完璧なことには、今更ながら恐れ入るしかなかった。(とは言え、平成5年(1993年)に慰安婦問題に関する「河野談話」が、2年後の平成7年(1995年)に「植民地支配と侵略」を認め謝罪する「村山談話」が、相次いで発表された頃の日本人一般の意識は、極めて曖昧模糊としていて、占領時のそれを引きずっていたことは認めざるを得ないが。)これに対して、今回の期間中に読売、産経に寄せられた読者の投稿は、その年齢層が偏ることもなく、又かってのようにその時の気分に流されることも少なく、至極穏健であったことを申し添えておきたい。(両紙の読者の多くは、「東京裁判史観」や、「河野談話」、「村山談話」の意識から脱却しつつあるのではないだろうか。)

 

 桜井よしこ氏は、平成2623日付けの産経新聞への投稿「美しき勁き国へ」の中で、次のように述べておられる。 【先に成立した特定秘密保護法について、昨年8月から今年1月末までに、「朝日」は反対の社説を26本、「天声人語」子は10本のコラムを書いた。だが内容は次のように、ほとんど的外れである。 「米軍基地や原子力発電所などにかかわる情報を得ようとだれかと話し合っただけでも、一般市民が処罰されかねない」(2013118日、社説) 「ふつうの市民の暮らしをめぐる調査活動も違法となりかねない。法案そのものが社会を萎縮させてしまう」(同月6日、社説) 

天声人語子が社説に輪をかけてあおる。「秘密法に暗がりからじっと見られているような社会はごめん被りたい」(1211日) 「戦前の日本に逆戻りすることはないか。心配が杞憂に終わる保障はない」「安倍政権の野望が成就すれば、平和国家という戦後体制(レジーム)は終わる」(8日) ・・・・・・・   

(安倍政権を)非難し続ける「朝日」は、軍拡に血道を上げている中国の脅威を、どう捉えているのか明らかにしてほしいものだ。・・・・・・ 】

 

 SKK入会以前からの小生の持論は、“日本が良くなるためには、朝日の読者が半減し、NHKは民営化されなければならない。”だったのです。SKK会員の中には、「朝日」を長らく愛読されている方も多いのではないかと考えます。そのような方々には、小生の論調は甚だ不快であろうことを重々承知の上で、筆を取っている次第です。

朝日に限らず毎日、東京新聞等も、何かあると政府に反対するキャンペインを繰り広げますが、NHKも同様です。先日の「クローズアップ現代」をご覧になりましたか?ケネデイ大使へのインタビューです。NHKは、安倍首相の靖国神社参拝は中・韓の反発を招いただけであって、アメリカ政府が安倍政権に不快感を表明したことは至極尤もであると、アメリカの大使に阿る(おもねる)だけでした。日本政府の考えを大使に伝えようともしないNHKに、「どこの国の報道機関か?」と呆れかえったものでした。

 これに比べると読売や産経の報道は、(小生の身びいきもありますが)至極客観的であり、穏健なものでした。桜井氏が指摘した中・韓の動きに対する真っ当な指摘も、両紙は述べています。これに対し朝日等は、内なる政権に反対することに熱中する余り、外敵に対する警戒心は、意識的に失念している風を装っております。もしかすると彼等は、自己主張に酔ってしまった挙句に、日本が滅びることすら厭わないところまで、堕ちてしまっているのではないでしょうか。

 

 ところで小生は川柳を好みます(自分から発句するわけではありませんが)。折角3紙を併読したのですから、この機会に3紙に掲載された川柳についても、触れてみたいと思います。

朝日新聞は「朝日川柳」の題で「声」の頁に、また読売は「よみうり時事川柳」として「気流」の頁に、夫々連日のように、読者から寄せられた川柳を掲載しています。産経の場合は他2紙とは扱いが異なり、週一回のみ「文化」の頁に、テーマを指定して募集した川柳を「産経歌壇」の和歌と併せて載せています(読者の層が薄いためでしょうか)。

面白さから云えば、よみうりが段トツと思いますが、朝日の読者(投稿者)も中々のものです。併読期間中、小生の気に入った句を二・三挙げて、本稿の締め括りといたします。

歩数計 今日の出来高 犬次第

     みんなとは もう言い(づら)い 党になり

      内蔵助 秘密保護には 気を遣い

      まだ下が いると清盛 八重なだめ

            以上「よみうり時事川柳」より

      東電の 名が出て 納得5千万

      元元コンビ ダメで元元

      悠々と こちらの元は 名誉職

           以上「朝日川柳」より

      やり直し できる気がする 除夜の鐘

           以上産経「テーマ川柳」より























   









  





   65-09
   


大木戸句会より - 短編集
                  当期雑詠三句宛紹介いたします(作者名五十音順)

               飯倉 豊司

         

 

                    川和 作二

         

                    栗原 弘

         

 

         

                    関口 湖舟

         


















































あづま路 68号 平成26年1月

楽天日本一 
   東北に元気を

栗原 弘
沖縄戦における統率
     (その2)
皆本 義博
教育問題 (その1) 安東  達
「八重のさくら」
  会津の旅を終えて
依田 武敏
沈む夕日の日本海 近藤 美明
宮家準先生講演
「遊びとしての旅」
藤井 清司
志方俊之先生講演
「危機、
 平和ボケ日本に迫る」
藤井 清司
 大木戸句会  川和 作二





















































 楽天日本一 東北に元気を
            
 理事長 栗原 弘

球団創設から9年目、プロ野球日本シリーズは楽天が巨人を43敗で下し、頂上決戦を制した。お立ち台に上がった星野仙一監督は「こんなに嬉しいことはない。東北の子供達、全国の子供達、被災者
の皆さんに勇気を与えてくれた選手たちを褒めてやって下さい。(監督)就任当時、大震災で苦労なさっている皆さ
んを見て、日本一になって癒してあげたいと、この
3年間戦って来た。」と喜びを語った。納得のいく言葉が胸にしみた。

強烈な野球フアンとは言えないが、日本シリーズ最後の二戦はテレビ観戦した。112日は、孫の農大収穫祭を経堂まで行き雨模様の中を見学して帰り、王手のかかったシリーズ第6戦を観戦した。元巨人軍監督川上哲治氏の訃報もあってか、巨人の打線は盛り上がり、楽天田中に勝つことが出来た。試合成績を対に持ち込んだことは、巨人フアンを勇気付け、シリーズに面白さを増してきた。

 二人っきりのすき焼きパーテイも早めに切り上げて、11月3日の第7戦、日本製紙クリネックススタジアム宮城(Kスタ宮城)の決定戦は、テレビの前に釘付けとなった。

 楽天は序盤、小刻みに得点を重ね3得点、美馬、則本、田中のリレーで巨人に5安打しか許さず、巨人打線は沈黙をつづける。美馬の好投がフアンを沸かせ、観客席は東北一色の赤に埋まった感じである。プラカードの文字に東北の意気を感じた。

 巨人フアンには申し訳ないが、この3点を守りきって欲しい、ピッチャーの制球力に願いがこもった。最後は田中への投手交代、監督が、昨日の屈辱を晴らす場を作ってくれている、と思いながら観戦する。最後の一球が空振りさせる見事な投球ぶりで、試合終了となった。

真摯な努力に対する賞賛、打算も利害関係も無い人々の共感を呼ぶ渦を感じ取ることが出来た。巨人軍、原辰徳監督の「途上のチームということだ」という言葉が印象に残る。

 


















































 

沖縄戦における統率(その2)
                     皆本義博
 
(4)  沖縄県知事  島田 叡    (兵庫県)

 大14 旧制三高から東京帝大法科卒。高文合格、内務省入省。徳山.岡山.三重.長崎.福岡大阪勤務、佐賀県警察部長、上海領事、千葉県内政部長、愛知県警察部長、大阪府内政部長、昭和20.1沖縄県知事

 「決戦場の沖縄に送る知事の人選ほど難しい人事はなかった。よほどの人物を送らねばならない。群が決戦場の軍司令官として、取って置きの牛島中将を選んだように、内務省は80万県民の人心を統一して、戦争に突入する統率力のある人物として、島田知事を選んだ。知事は長参謀長とは、上海事変以来のともであった。」(沖縄軍司令官牛島満伝から)
 県民一丸となって戦闘支援に努め、昭和20.6.18 新井警察部長と一緒に自決した。


(5) 沖縄師範学校長  野田 貞雄     (熊本県)

大8東京高師卒、大10同専攻科卒。各高等女学校校長、視学官、茨城女子師範学校長、昭18沖縄師範学校長に着任。昭19暮に文部省の会議に出席するも、沖縄帰任の方途なく、陸軍省に頼み軍用機で帰県した。* 昭20.6.教え子の鉄血勤皇隊の南部への撤退を見送り、母校焼け跡で自決。
(*編集者注 田村洋三著「沖縄の島守」によれば、昭19.12ー20.2の間、本土へ出張したまま、沖縄を離脱した官公吏は多かったという)


(6) 沖縄県立第一中学校校長 藤野 憲夫   (静岡県)

東京帝大選科修了昭17沖縄師範女子部.第一高女で教鞭.昭18県立第一中学校長。昭20.6右大腿部貫通銃創、学校の運営につてうわごとを言いつつ戦死。
文部大臣 太田耕造の感謝状(昭20.7.8)
「......挙校一体、戦時教育の本義に徹し、資性尽忠、平素の鍛錬の成果を遺憾なく発揮せるものにして、真に教職員学徒の亀鑑たり。」

この師にして、沖縄健児隊の崇高な働きがあった。


      むすび
 明治5年(1872)「邑に不学の戸なく、戸に不学の徒なからしめんことを期す」と大旆を掲げた建学の精神と、明治6年(1873)に武士道を基として樹てられた健軍の伝統は、この沖縄戦において見事に開花した。これを終焉さしてはならない。
 今や感情が集団化し、思考が政治化する中にあって、かっての戦いの場で、荒廃した絶望ではなく、ヒューマニティを凝縮した、またの人があったことを忘れてはなるまい。

 沖縄戦で果てられた幾多の軍.官.民の方々に
     心から敬弔の誠を捧げます。
























   


教育問題(その一)
                           安東 達

 今年の419日の定例懇話会で、戦前の教育について座談会を開催し、司会進行役を飯倉さんと共に進めさせて戴きました。参加した会員の全員の皆様から積極的な発言があり、有意義な会となりました。ここに報告をかねて、書面にしました。なお戦後の教育問題については、次号で「そのⅡ」として連載させて戴く予定です。

 

Ⅰ)原始・古代の教育

西暦紀元前1万年の頃より縄文文化が開け、同約2,500年頃までは原始共産制の集団の中で、両親や集団を構成する人々から、生産の技術や生活の方法を教わりながら、青少年は成長していった。縄文時代の晩期より弥生時代(紀元前後)にかけては、大陸特に朝鮮からの影響を強く受け、広く農耕が営まれるようになったが、農耕だけでなく慣習や心構えを、青少年に植えつけておくことが大切となった。豊穣を神に祈る祭事、冠婚葬祭の儀式は、次世代を育む場となった。こうした育成の方法は、中世・近世を経てごく最近に到るまで伝えられ、日本人の人間形成の原点ともいえるものが多く含まれている。「魏志倭人伝」の耶(邪)馬台国は、農耕文化の進展と共に、私有財産制を成立させ、階級社会を作り出した。豪族とその傘下の多数の氏族(姓)制を組織し、やがていくつかの氏族は手を結んで一つの国を形成することになる。天皇家が中心となって諸氏族や諸国を糾合し、一大国家をつくりあげたのが3~4世紀の頃とされている。この国家は巨大な権力をバックに、民衆を一元的に支配・統制していった。氏族(首長)に対し、さらにその上に(いま)す国家=天皇に対し、忠誠の心と奉仕の精神を養うことが、大事な目標に据えられた。やがて天皇専制による国家組織が成立するに伴い、支那大陸の隋制・唐制を範とし、大陸の王朝の理念的支えである仏教・儒教の思想が、国の基本となった。多数の帰化人と共に、遣隋使・遣唐使、更には留学生・留学僧によって、これらの思想が移入された。聖徳太子は「十七条の憲法」の制定、位階制の確立、その他諸改革を試みた。中大兄皇子(のちの天智天皇)は文化改新(文化元年―645年)を断行して天皇を「一天万乗の君」とする専制的国家体制の成立を期した。天武天皇は壬申の乱(弘文天皇元年―672年)に勝利して専制的体制の確立を進め、文武天皇の代に「大宝律令」(大宝元年―701年)の制定をもって法的完成をみた。その過程で文字を使って記録し、法制をつくって政治・政策を進める、つまり「文字」、「文書」の使用が不可欠となり、文字教育が要請されるに到った。天智天皇(在位661~671年)は大津京に、天武天皇(673~686年)は藤原京に、官僚の育成をめざす「大学寮」を設けた。財政的に整備された機構と方針をもって、実効を発揮できるようになったのは、文武天皇の「大宝令」の学制によって首都に大学寮が、地方の国々に一つずつの国学が建営された。この形に至るまで、履中天皇の四年(403年)以来実に三百年近い年月を要した。大学寮には明経・音・書・算の四科が設けられ、中心となった明経は、儒教の古典をテキストにして、その読みと解釈の学習を中心とする学科であった。

 平安時代の10世紀になると、律令体制は崩れて私的な荘園に基づく摂関政治に移り、12世紀には院政一色になる。大学寮は衰運に向かうと同時に{家学}が生まれ、又官職は世襲化されるようになった。

 

Ⅱ)中世の教育(足利学校)

 足利学校は鎌倉末から南北朝期には存在し、応仁元年(1467年)に学校を現在地(足利市昌平町)に移したが、創設時期には諸説があり確定出来ない。戦国時代の足利学校は、金沢文庫(学校)とともに中世教育史上の二大金字塔の一つとして、海外にもその名を喧伝されるに至った。紙面の関係上、足利学校の内容は省略するが、学徒は全国に及んだ。最盛期を現出した「九華時代」には、上野を支配していた上杉憲正が、後北条氏の圧力により長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後に逃れ、上野の国は上杉・北条の抗争の渦中に巻き込まれたが、やがて北条氏が統治する安定期に入る。応仁元年から七世九華の没年(天正6年―1578年)に至るまでの110年間の学校の教育内容は、収蔵書から見るに、仏書・漢書・国書(学規三条)は1,500冊近くに及んでいる。学徒は、入学前にすでに僧侶として修行を経た者、蔵王職の役職を経験した者で、年令は19才~20才が多かった。来学者は高度の既有知識、社会的経験の上に立って、より高度の専門教育を受けるために入学した。金沢文庫が、印可・印信・印明といった僧位を授与する為の施設であったのに対し、足利学校は、世俗教育機関としての機能を果たした点に相違が見られる。いづれにしても戦国時代、時の勢力の保護を受け、体制の影響を受けながらも、中世から近世の学校へと転換していった。庶民教育についてはここでは省略する。

 

Ⅲ) 近世の教育

 織田信長が安土に城を築いた天正4年(1576年)より、徳川慶喜が大政を奉還した慶応3年(1867年)ないしは廃藩置県が実施された明治4年(1871年)に至る約300年にわたる時代が近世である。

 中世より引続いて農業が基幹産業であり、しかも相変らずの農奴制のもとで農業は営まれていた。治める幕府・諸藩の側、治められる農民の側にとっても、農業と農村教育は、中軸的な課題であった。近世社会は、商品経済・貨幣経済が著しく進み、商人・職人層の勢力が、急速に力をつけて来た時代でもあり、彼等は経済的には、武士階層をはるかにしのぐ力を得るに至った。商人・職人層の大多数は都市部に居住し、封建的公権力と癒着しながら、その教育は独自の教育理念に基づく非封建的な性格を帯びていた。

 武家の数は、明治6年(1873年)1月現在で41万戸、190万人(郷士・浪士を除く)を数えた。この武家は江戸や城下町に集まって常住していた。近世に入って

武家の生活は一変し、貨幣・商品経済の渦中に巻き込まれたために、彼等の思想や意識も変革せざるを得なかった。2世紀半もの間戦争のない状態が続いて、社会体制内部の諸矛盾が高まるとともに、武士階級の存在意義・使命・生活に対して、庶民の鋭い批判の矢が向けられるようになった。また武士階級内部でも、深刻な反省が生ずるに至り、この矛盾を克服する政策の一環として、江戸や城下町・準城下町等に、学校を設けて教育を施すことが必要となって来た。近世特に18世紀の中頃の享保以降には、武士に限らず庶民にも教育を広める方向に、世情は移ろいでいった。

 

イ)                        近世社会成立期の教育

 16世紀末より17世紀(慶長~天和・貞享―1596~1687年)にかけて、近世社会の「上昇期」とも云えるこの時代には、教育史上今日迄その名が知られる儒者が多く輩出した。藤原惺窩・林羅山・中江藤樹・松永尺五・熊沢蕃山・山崎闇斎・山鹿素行と続くその壮観は、中世初期の法然・親鸞・道元・日蓮と連なる思想家群にも比すべきものである。

 藤原惺窩は秀吉・家康に講じ、また多くの門弟を育てた。その門弟であった林羅山は、朱子学を封建社会にふさわしい教学に組み立て、キリスト教思想を論難したりして後世の厳しい批判を受けてはいるが、徳川家康の側近として活躍した。近世の上昇期の当時、身分制度・家族制度の確立・定着は、中世にはみられなかったものであった。

 中江藤樹は公権力に仕えることなく民間の儒者として、王陽明の「気一元論」を取り入れた「孝」の理念を実践に生かすその教説は、後世に迄革新の思想と影響を与えつづけた。

 この様な儒者が活動したのが家塾である。林羅山の開いた林家塾(上野忍岡、当時の最高学府であった)、熊沢蕃山の作成と伝えられる岡山藩主の池田光政が城下に設けた「花畠教場」等が、最も早い時期に設立されたものである。

 私塾は、家塾と違い幕藩に仕えなかった民間の有識者が任意に開いた教育施設であった。中江藤樹の「藤樹書院」、松永尺五の「講習堂」、木下順庵の「雉塾」等が代表的なものである。

 

ロ)                        近世社会成熟期の教育

 五代将軍徳川綱吉の天和・貞享期から、八代の吉宗が没する宝暦の頃迄の17世紀末~18世紀中頃が、近世社会の成熟期である。この時代の前半は、伊藤仁斎・貝原益軒・荻生徂徠・新井白石等の著名な儒者が輩出した。この期は藩校を設ける藩が徐々に増加し、又庶民の教育機関として、郷校の創建、それと同時に寺子屋が本格的な普及に入った時期でもある。

 

ハ)                        近世社会体制破綻期の教育

 江戸時代中期に続く、宝暦のころより天明・寛政を経て天保に到るこの時期(1751~1830年)は、徳川幕府支配体制の破綻が深刻の度を加え、回復不可能の域にまで進展した時である。しかも寛政期以降(1789~)には、帝政ロシアの北方よりの外圧が強まって来たのである。

 この時代は田沼意次が老中として勢威をふるった前半、後半は松平定信とその一統が幕府の中軸を占めて活躍し、後の水野忠邦の政権へと継承されていくが、定信は社会体制崩壊の危機を鮮烈に意識して、公権力による文教の指導・統制を策した。寛政2年(1790年)幕府布達「異学の禁」を発して朱子学を正学とし、これ以外は異学ときめつけ、寛政9年(1797)学問所を幕府の直轄学校とすることを布告した。江戸前期は朱子学派が圧倒したが、次の正徳~天明期(1711~1788年)になると古学派の顕著な進出があり、この動向は「異学の禁」にもかかわらず、江戸後期の寛政~文政期(1789~1829年)まで引き継がれていく。天保以降(1830~)の江戸末期に至ってはじめて、朱子学派は息を吹きかえす。この時代になると儒教以外の分野からも、多くの有能な思想家が輩出した。とりわけ、荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤と続く四大人の路線で、確立し展開した国学思想の影響は顕著であった。又この時代の後半から、杉田玄白・前野良沢・大槻玄沢をはじめ蘭学者の台頭、更に佐藤信淵・二宮尊徳・大原幽学など民間に思想家が輩出し、独自の教育思想を世に問うようになった。武家の子弟を対象とする林家塾を発展・改組した昌平坂学問所、及び藩校の顕著な発展があり、寛文より慶応末年に至る約200年の間(1661~1867年)に219藩が建営している。郷校も私塾も数多くつくられ、又寺子屋の普及もめざましく、大都市・城下町から農山漁村にまで設置された。又幕末にかけては黒住教・金光教・実行教(富士講)・御嶽教のような教派神道が興り、それぞれ固有の教化活動を展開した。

 

Ⅳ 近代の教育

 幕藩体制の崩壊から、明治維新をはさんで明治憲法成立期の明治20年代が、近代の教育の基礎となった。明治2年、新政府は最初の議事機関公議所を開所し、各藩から公議人を召集し、議員は17課に分属したがその中の学校課の議員たちは、学校を国家の制度として認識し、体系的にこれ位置づけようと努力した。明治27月、政府は東京に大学校を開設、昌平校を本校(現在の学士会館の場所であり、安中藩の江戸屋敷であった。同志社創立者、新島ジョーの生誕の地でもある。)、開成と医学両校を大学分局(後に南校と東校に改称)と定め、明治37月、洋学による人材養成の路線が確立した。 

明治4年廃藩置県が実施され、文部省が設置された。明治5年太政官布告をもって「学制」施行が宣言された。翌6年「学制」は公布されて、学校制度を支える行政組織が設立され、当時重要な課題であった海外留学生規則も加えられた。近代的な普通教育制度の急速な導入・実施は、当時の民度や民情を無視して強制的に推進された面も多く、民衆の反感をかい、徴兵令の公布・地租改正などの施策に対する不信・不満と重なって、農民による学校焼打ち事件が多発した。明治6年のことである。明治9年には地租改正反対一揆が発生する。工業化が初期段階であった当時、国としては高等教育は必需品であったが、庶民にとっては、初等教育すら贅沢品であった。

明治22年(1889年)2月、大日本帝国憲法が発布され、立憲政治が歩み始めた。天皇主権・議会制度・大臣助言制・司法権独立・人権保障等は、当時のプロイセン(ドイツ)憲法を模したものである。中央集権政権とその頂点に立つ天皇の権力を、最大限温存することを望んだ明治政府の意向に、ドイツ流の立憲君主制が合致したからである。

明治23年(1890年)1031日、教育勅語が発布され、全国に訓令として伝えられた

 

ア)     義務教育の制定

 明治194月小学校令が公布され、小学校を尋常、高等の二つに分け、尋常小学校を義務教育とすることとなった。明治23年の小学校令、明治33年の小学校令改正で法制的に確立し、授業料を徴収しない義務教育が成立したのである。

 

イ)     女子教育の制定

明治初めの「学制」の施行により、華族、一般人民、士農工商すべての階層の子弟の就学が奨励された。新時代には女性も同じ教育を受けるよう指示されたが、実態的には男子に比してかなり遅れ、明確化するのは明治32年(1899年)2月公布の高等女学校令の制定からである。その教育理念は良妻賢母主義であって、その教育方針は、第二次世界大戦の敗戦に至るまで長く女性を律することとなった。

男女別学としたため、女子のみを対象とする教育機関が必要であるにも拘らず、中等教育以上の公立の女子校は僅かであり、これを私立学校が補うことになる。男子教育は公立優先、女子教育は私立という役割分担が生まれ、以後この傾向が続いた。その中で注目すべきは「キリスト教系の私立学校」である。文明開化の欧化主義の波に乗り、特に明治10年代のキリスト教の浸透により、各地にキリスト教系私立学校の隆盛を見ることになった。キリスト教系の女学校は三つの系統に別れ、一つはプロテスタントのミッション・スクール、二つはミッションに関係のないプロテスタント系、三つはカトリック系の学校である。

明治20年代には国粋主義の風潮が高まり、女子中等教育の主流であったキリスト教系の学校に対する風当りが強くなり、生徒の減少=私立女学校の低迷が、見られるようになった。日清戦争後の国家意識の高揚がこれに拍車をかけ、また、民法の公布により、妻の地位を従属的にする家父長的家族制度が明確化された一方、外国人の住居を居留地内に限っていた制限を撤廃したことに伴い、キリスト教の家庭教育が一般日本人の間にも広まることを危惧した政府は、宗教と教育の分離令を発した。その結果、最も高いレベルのキリスト教系女学校は、窮地に追い込まれることになった。明治32年私立学校令が出され、政府による監督が私立学校にも及ぶことになり、官尊民卑の風潮が広がる中、女子の私学教育も、政府の介入に対応しつつそれに沿って展開していくことになった。

女子の高等教育を認めようとしなかった政府も、教員養成の必要上、女子高等師範学校の設置を認めることとした。現在の「御茶ノ水大」と「奈良女子大」の二校である。明治36年の専門学校令も大きな制約となった。青少年の教育の上で、製糸工女特別教育の歴史があるが、明治44年工場法の成立とともに、工場内不就学児童の教育を進め、その先導的役割を果たしたのが長野県(現在の岡谷市)の製糸業であるが省略する。

 

ウ)     明治から大正にかけての教育

明治43年(1910年)の朝鮮併合後、日本は資本主義の成熟期を迎えることになるが、明治政府は国家体制の強化のため、一方においては国家意識の高揚と統一を図り、他方では社会・経済の「近代化」を進めた。

国家主義が強化される一方で、個人主義・自由主義・国際主義の思想が出現し、明治40年(1907年)以降、自己を問題とする傾向が明確になってくる。これに先立つ明治36年、高山樗牛等によりニーチェの個人主義道徳が、またケーベル博士によりショーペンハウエルの厭世哲学が紹介される等、人生を探求せんとする精神が高揚するところとなった。

大正時代の初期は日露戦争後の不況下にあったが、第一次世界大戦勃発後は好況に転じたことにより、日本資本主義は再び発展することとなった。その結果、財政の安定による学校制度の拡充が可能となり、人材を求める企業の要求にも応えることが出来た。他方、大正デモクラシー、「大正自由教育」の思想と活動が危険視され、様々な国家圧力がかかるようになったが、その内容は省略する。

 

エ) 昭和戦前・戦中期の教育

1920年代後半から1940年代の初めまでに進められた教育改革・学制改革は、全面的な学校教育制度の再編成が、企画乃至は実践された時期である。義務教育の年限延長、高等小学校の改革、師範教育制度刷新や師範大学の構想、女子大学・女子高校の設置等々が論じられ、青年学校の創設、師範学校の専門学校化、中等学校令による中等諸学校の法制的統合等が実施された。この間、中・高等学校教育機関への進学者・在学者数は増え続け、昭和15年(1940年)における旧制度の学校制度は、戦前最高度の安定拡大を見るに至った。(翌年、戦争に伴う修学年限短縮措置等で、学校教育制度は動揺することになるが。)

昭和戦前期の教育・学制改革は、フアシズム教育構築の前提をなす教育体制論の集積として位置づけることが出来る。昭和9年の暮れのワシントン軍縮条約の廃棄通告、昭和12年の支那事変の勃発、朝鮮人民に対する「皇国臣民の誓詞」配布、翌13年近衛内閣に現役陸軍大将である荒木貞夫の文部大臣就任と続く。荒木は帝国大学に対して、自治的慣行の廃止を要求し、軍による教育の要求があからさまとなり、教育体制全体に強権的に浸透した時期であった。

昭和16年4月に、「国民学校」が発足した。これは初等義務教育の、「皇国民」練成機関への施策であった。第一に、国民学校令は国民教育体制全体の戦時下再編成であり、「私」の否定という原理であって、法制上私立ではありえなかった。第二は、国民学校が広義の教育方法の面では、大正以来の自由教育の生んだ最良の成果を取り入れていたことで、特筆に価する。第三は、学校教育の枠内に限定せず、地域・家庭との結合を図る動きが色濃く見られる。これは軍人援護教育に端を発し、隣組組織と学校との結合、母親の国民学校教育への「参加」の要請となって現れる。戦時下での初等教育は、戦前教育の集大成ではあったが、大日本帝国の敗退により終焉を迎える。

私が少年期を過ごした津山の街、空爆が激しくなった昭和18~19年にかけて、神戸からの学童集団疎開のため、2クラスの編成で授業が行われたことが、今でも鮮明に記憶に残っている。

次回は、戦後教育について論じる予定である。

































      

 

「八重のさくら」会津の旅を終えて
           依田 武敏

今回の旅も例年通り好天に恵まれ、(小雨がパラパラと落ちてくることはあったが、幸いバスで移動中)楽しい旅が出来たと思っています。今回の旅行には、「すみだ川バス」の中里専務が“添乗員”として“特別参加”して下さり、見学地での入場券の購入、案内等を含め全て手際良く進めていただき、本当に感謝の旅でした。 10日朝の集合時間845分よりも早く全員がそろい、中里さんに電話連絡したところ、「私の姿が見えるところにバスを停めている。」という。周辺を見渡すと、以前にもお世話になったグリーンのバスが右手すぐのところに停まっていた。参加者は、既に当初の案内通り改札口を出て約200m程のところに行ってしまっており、慌てて呼び戻す。中里さんは、バスを降りて我々を出迎えて下さった。

予定よりも5分程早く上野駅公園口前を出発、千住方面に向かう。朝の時間帯

4号線を走るが渋滞もなく、首都高速に上がり川口、浦和を目指す。首都高速も順調で浦和から東北道に入る。青空が広がり天気は上々。佐野S.A、上河内S.A.で休憩をとり、白河に向かう。車中、昼食を予約している“京橋”に、中里さんが予定より早く着く旨連絡してくれる。白河インターで東北道を降り、一般道を20~30分走って、“白河の関”の近くと私の記憶する料理屋“京橋”に、予定より30分程早く着いた。山中の隠れ家的な一軒家である。おいしく料理をいただき、1時間程で出発、白河インターに戻る。郡山JCTで東北道から磐越道に入り、一路会津へ。磐梯山を右手に、猪苗代湖を左手に眺め、バスは会津若松インターに到着。磐越道を下りて、街中を白虎隊の飯盛山へ向かう。

 下から眺める飯盛山の石段は急峻で高い。これを登るのかと、ギョッとした人もいたが、石段右手にある「動く歩道」で上がると聞いてホッとする。尤も実際に歩道に乗ってみると、急な斜面をズルズルと滑りながら上がるので、乗り心地が良いとは申せなかった。土産物店の方が案内について下さり、山上の広場に上がると、イタリーから贈られた記念塔、自刃した白虎隊士19名を祀った墓所等があった。広場を右手に回ったところの階段を降って行くと、隊士達が自刃した場所がある。周辺は今は一般墓地になっている。階段を戻った最上部には、隊士のうち只1人蘇生した飯沼貞吉(戊辰戦争後、貞雄と改名)の墓があった。土産物店の方が、それらを詳細に説明、案内して下さる。記念碑の前で、白虎隊の詩吟による演舞を観せてもらった後、土産物店の山上の支店に立ち寄り、お茶を戴く。各人、無料案内のお礼のつもりでお土産を買い込んだが、今夜の二次会用にと会津の銘酒を買った人もいた。         

 帰路は、動く歩道とは反対側にある緩やかな坂道を下る。途中さざえ堂に立ち寄り、全員が堂内に入る。建物は六角3層、昇降別々の螺旋形の通路を上り下りさせられた。外から見ると、正に栄螺の形をした珍しい建物である。もう一段下ったところに厳島神社がある。自刃した白虎隊士が通って来たという、水の流れる洞窟を見学した後、だらだら坂を下ってバスに戻る。

 10分程移動して「会津武家屋敷」に着く。敷地内には、鶴ヶ城の北出丸前にあった家老・西郷頼母邸を復元した「家老屋敷」と、中畑から移設した旧中畑「陣屋」(代官所)等がある。家老屋敷は三十八部屋もある広壮な邸宅で、お成り御殿が珍しかった。お殿様のお成りの際に使われる座敷で、一角にはお殿様専用の厠まで備えてある。屋敷の外郭をなす長屋の一室が第二資料館となっており、西郷家一族の自刃の場面が、人形で再現されていた。大分前になるが、以前見学した時には、長屋ではなく屋敷内の一室に人形が配置されていた、という記憶がある。

 家老屋敷の見学を終え、中畑陣屋(県指定重要文化財)等のある一郭を訪れる。陣屋は、1837年(天保八年)に建てられた東北に残る最後の代官所である。茶室(嶺南庵)は、千利休の子である少庵が、鶴ヶ城本丸に造った茶室を復元したものとのこと。その他「会津くらしの資料館」等もあったが、見学は割愛してバスに戻る。全員が揃ったところで出発、10分程で今日の宿、東山温泉の「原瀧」に到着。時間は1640分頃。

 4部屋に分かれて荷物を解き、温泉で疲れを癒した後、1750分から宴会。中里さんも参加して下さる。豪華な料理を戴きながら、約2時間歓談する。一次会の後、引き続き幹事の部屋での二次会となったが、何と14人全員が二次会にも参加! また中里さんが、氷や水、グラスを手際よく手配して下さった上、ご自身も話の輪に加わり、座を盛り上げてくれた。翌朝の朝食時間を740分と決め、22時頃解散。私は中里さんの制止を振り切って、栗原・堀川さんと2回目の温泉に浸かる。

540分に起床。栗原さんは散歩に、私は朝風呂に入り部屋に戻ると、堀川さん、藤井さんも散歩に行くといって出かける。テレビを見ながら、今日もまずまずの天気だなと好天に感謝する。皆さんが散歩から戻り、揃って朝食へ。バイキングなので好きなものを選び、しっかり朝食をとる。

 830分に原瀧を出発。バスに乗ると、フロントガラスに雨がパラついている。

大河ドラマに模した揃いの着物姿で、原瀧の女中さん達が手を振って見送ってくれる。バスは東山温泉の緩やかな勾配を下り、鶴ヶ城の近くに設けられた「ハンサムウーマン八重と会津博・大河ドラマ館」に15分位で到着。雨は上がっていた。我々が今日の最初の入場者。「八重桜回廊・メインキャストフラッシュ」、「山本家ドラマセット“角場(かくば)”(射撃場のこと)の再現」-ついでに鉄砲の試射も体験する- 、「大河ドラマ“美術の世界”」、「シアターコーナー」、「鶴ヶ城・ドラマセット“北出丸”の再現」等を、40分程かけて見学。ドラマ館を出ると、「ふくしま八重隊」の面々【この日は、新島夫妻と日向ユキ(八重さんの幼馴染)の3人】が、我々を出迎えて記念写真にも加わってくれた。この後、メインの会津若松城(鶴ヶ城)-初代の芦名氏が築城した当時は黒川城と呼ばれていた- へバスは移動。

 八重さんが鶴ヶ城の防戦で活躍した北出丸から、本丸へ入る。鶴ヶ城では、地元のボランテイアの方に説明をお願いした。先ずは石垣の石積み工法の説明。天守閣は1965年に再建されたが、その後赤瓦(茶色にも見える赤色で、鉄分が多くて堅牢で
ある)に葺き替えられ、幕末当時の姿に戻ったとのこと。次に、天守閣を横目に、
1990年に本丸庭園に復元された茶室「麟閣」を見学。蒲生氏郷により庇護された利休の子息少庵が、会津に滞在中に建てたと伝えられる。(戊辰戦争後城内の建物はすべて取り壊されることになったが、会津の茶人森川某が城内から移築・保存したという。)天守閣の入り口でボランテイアの方とお別れし、五層の天守閣を登る。第一層では、歴代領主の変遷(芦名-伊達-蒲生-上杉-蒲生-加藤-保科・松平)の説明、第三層では、戊辰戦争の錦絵による説明、最上階の第五層は回廊になっていて、会津の全てを展望出来た。

 時間の制約上、御薬園の見学は割愛することとし、会津藩校日新館に向かう。途中、郡山名物銘菓・薄皮饅頭の柏屋会津店に立ち寄る。30分程でバスは会津河東地区に所在する日新館に到着。戊辰戦争当時は、鶴ヶ城の西出丸に接して建てられていたものを、1987年に、この地に完全復元したとのこと。日新館は会津魂を育んだ学び舎。全国にあった藩校の中でも規模、内容共に充実し、多くの優秀な人材を輩
出している。当時の藩士の子弟に対する教育の内容を知ることが出来た。約
1時間の見学を予定していたが、30分程余分にかかってしまった。

 昼食を予約していた猪苗代湖畔の地ビール館まで、一般道を約30分。ここには「世界のガラス館」、「野口英世記念館」等もある。朝食は充分にとったが、半日も歩いたのと、時刻が1340分にもなっていたので腹ペコ。大変おいしく昼食をいただきました。その後世界のガラス館の中をチョッと覗き、直ぐにバスに戻り帰途につく。

 猪苗代磐梯高原I.C.で高速に上がり、磐越道-東北道と順調に走り、阿武隈P.A.で休憩をとる。館林、加須(かぞ)、岩槻と走り、浦和I.C.を通って川口P.A.で最後の休憩。小菅を過ぎ、千住から一般道へ。スカイツリーをかすめ浅草経由で、上野駅公園口改札前にバスは到着、2日間の旅を終えた。家に帰るまでが旅として、無事自宅へ着くことを祈念して解散する。安全運転に徹した運転手さん、添乗してくださった中里さんに感謝しつつ家路についた。





































大木戸句会より
              
川和 作二
当期雑詠三句宛紹介いたします。(作者名五十音順)

 

          飯倉 豊司

 短か夜の(うたげ)賑はふ島訛り

 新入生母の手離れ友の輪に

 湧き水の息する如く水温む

          川和 作二

 校長も校門出ればサングラス

 生かされて生きて八十路や春の雨

 芽起しの雨鉄瓶のたぎる音

          栗原 弘

 秋立つや浄土平の風の音

 会津路の背あぶり峠うつぼ草

 残雪が霧に溶け込む(ぶな)の森

 

          杉野 昌子

 新涼や散歩の後のカフェテラス

 汗の子の草の匂いをつれて来し

 里山の前にかかりし二重虹

 

          関口 湖舟

 ほろ酔いや子等の寄りたる敬老日

 風鈴の音色床しき生家の夜

 さくら咲くわが出で立ちし忠魂碑

 











































沈む夕日の日本海
                近藤 美明

昭和203月硫黄島玉砕。4月から私は、福井県立三国中学校2年生となりました。加戸村池上(現坂井市三国町池上)の自宅(農家)から、1時間かけて通学しました。

昭和18年に、私達のむらに三国陸軍飛行場が建設されました。戦闘機はあまりとんでいませんでしたが、爆撃機は毎日よく飛行していました。爆撃機は南方向から、あわら温泉の旅館街の屋根をかすめて滑走路に着陸していました。

学校では3年生以上は軍需工場へ動員されて、学校にはいません。1年生と2年生は、授業が普通通り行われていました。学校は東尋坊と日本海を眼下に見下ろす高台にあり、4月は桜花の花吹雪、5月から美しい赤松林から吹きぬける潮風にうつらうつらする毎日でした。福井県にはB29 1機の空襲もなく静かな時間が流れていました。

6月の初め学校より九頭龍川を渡って1時間ほど行った海岸に、米軍の上陸作戦に備える塹壕を掘る作業のため、2年生は動員されました
。砂丘に塹壕を掘る作業は初夏の潮風に吹かれながらの作業でそれ程苦しいものではなく、早く海で泳ぎたいなと透き通る青い海を眺めていました。

作業に動員された2日目から砂丘へ行く狭い道で、戦闘帽と戦闘服を着た若い海軍軍人の一団と、毎日すれ違いました。私達が声を掛けても頷く丈で、声を出す事はありませんでした。

ある日は、海軍士官の服装をして行進してくる事もありました。誰からともなく、学徒動員で海軍の幹部候補生になった人達で、特殊潜航艇の特攻隊の訓練をしている軍人だ、と云う話に納得しました。

私達は、どんな潜航艇でどんな訓練をしているのか見てみたいと思い、砂丘の高い所から目を凝らして見ましたが、兵舎も人も船も、全く見当たりませんでした。作業も終りに近付いた日の事です。九頭龍川の河口に小型の貨物船らしき船が3隻入港してきました。当時は木造の漁船以外は、陸軍の輸送船として戦地に赴き、3隻の貨物船など見かけた事がないので、三国港に軍需品でも運んできたのかと作業をやめて眺めていました。そのうちに小型のカーキー色の鉄船が、いつのまにか3隻の貨物船の後ろに現れました。その形から見て、海軍かなんかの船だと推測しました。しかし日の丸など船体には描かれていませんでした。

その時です。小型の船から大きな鉄のかたまりの様なものが海に放り込まれた瞬間、大爆音と共に大きな水柱が上がりました。その船は貨物船の周りをグルグル廻りながら次々と爆雷を投下、その度に大爆音と巨大な水柱、戦争映画をみている様な気持ちで、私達は眺めていました。5発以上か、その内静かになったと思った頃3隻の船団は、三国港を音もなく出航して行きました。駆潜艇と思われる船も、3隻の後について静かに去ってゆきました。

日本海にも夕暮れが近付いてきて、私達は帰途につきました。海軍の特攻隊が訓練している海岸で、海軍の駆潜艇が米軍の潜水艦と戦闘した事など、2度とみられないドラマを見たと、その時感じました。特攻隊の訓練生のその後の動静については、誰ひとりわかりませんでした。

その日から何にもなかった様に学校に戻り、授業を受けました。

 

平穏な月日が流れて712日、福井県敦賀市をB29 100機が空襲、壊滅的な損害を与えました。19日は、B29 120機が福井市を空襲、人命や建物その他の被災率は93.11%と全国で最高、その激しさは地獄の様であったと記録されています。

私のむらは中学校と同じ丘陵の高台にあり、福井市の空襲をつぶさにみたのですが、B29に対して高射砲1発の発射音も聞いていない。むらの飛行場から1機の戦闘機も迎撃していない。太平洋側の飛行場は、度々爆撃されたと新聞に出ていました。福井市からむらの飛行場までは、B29であれば1~2分で空襲できるのに、敗戦の日まで1発の爆弾も落とされる事はありませんでした。むらの人達は、B29が福井市の上空に殺到し、10万本の焼夷弾爆撃で市街が炎上して、夜空が真っ赤になるのを一晩中ながめて泣き叫ぶ人もいましたが、むらの飛行場に爆弾が落ちたらと、不思議に私も他の人も考えた事はなかったのです。むらの飛行場は、むらの家々を囲んでいましたから、飛行場に爆弾が落ちれば私達もふっとんでいたのです。飛行場には重爆撃機呑龍10機が駐機していた事が、戦後明らかになった。爆弾は木枠に入れられたまま、むらの松林の中に分散して、大量に野積みされていた。陸軍は爆撃機の近くに保管して空襲でやられたら誘爆して、全滅すると考えたものと思う。飛行場の周辺には、高射砲陣地は1か所もありませんでした。

 

722日から中学2年生は、福井市中心部の空襲のあと片付けに、1週間動員されました。市内の中学校・女学校・工業学校・商業学校は、全部破壊されて生徒の安否も不明で、多数の死傷者が出たものと考えられていました。電車と徒歩1時間で福井市の中心部に入り、福井城大手門前の住宅地一帯を割当られ、炎熱下夜がくらくなるまで作業しました。住宅の焼残りの部分がくすぶって煙が上がり、目がいたいほどでした。動物の焼けこげた臭いが一面に立籠めて、もっていった弁当はどうしても食べられませんでした。

この地域は、お城の内堀に面した所の環境のよい高級住宅地で、お屋敷町だったところでした。現在はオフィスビルが林立しています。今城内には県庁・県議会・県警本部・消防本部など県の行政機関のビルが建っています。

後できいた話しでは、空襲の時逃げ場を失った市民が、この堀にとびこんで多くの人が死んだと云う事です。空襲の余燼冷めやらぬ風一つない灼熱の炎天下の臭いは、その人達のものだったようです。1週間黙々と働き、割当られた地区の作業を完了して、学校へ全員揃って帰校しました。

 

やうやく第一学期が終り、夏休みを迎えました。三度(みたび)中学二年生は、陣が丘の丘陵地の松林や雑木林を開墾し、畠を作り食糧増産をするために動員されました。炎天下毎日鋸で木を切り倒し、雑木を刈り、つるはしやトンガ(開墾用の鍬)をふるって根を起こし、集めて燃やすと云う作業です。

汗と土埃りと枯葉などで全身どろどろです。帰り道が同じ方向の友人たちと相談して入浴する代わりに、海へ入ろうと決めました。作業が終わると五・六人の友人達と崎浦の浜へ一目散に走って行き、身ぐるみ海水で洗って岩に干し、六尺褌一つで時間も忘れて泳ぎました。泳ぐ場所を梶浦、浜地と変えて浜地の海岸で泳いでいた或日の事、三国沖から能登半島沖に向かって久しぶりに大型の汽船が航行していました。突然ドーンと言う大きな音がしました。何が起こったのか、汽船の方をみると止まっている様にみえました。目を凝らしてよくみると船の近くにボートらしきものや木材か何か浮かんでいる様でした。やがて船が横倒しの形になり甲板が全部みえたと思っていたら船首が直立になり白波が立った瞬間汽船は海中に姿を消してしまいました。その時そうだ米軍の潜水艦の魚雷攻撃で轟沈したんだと思いました。浜地のむらでは半鐘が打ちならされ、むらの人が浜辺に集まっていました。私達も手伝って船小屋から一番大きな漁船を引き出し、十人ほどの漁師が飛び乗り渾身の力をこめて櫓をこいで、沖へ進んで行きました。

女の人は炊き出しの準備をしていました。沖合いは思ったより遠いのか必死で櫓を漕いでいるのに現場に着きません。ようやくボートの漂流している所へ着いて救助作業をしている頃、三国沖から小型の鉄船が現れました。夕日が海の上に傾きかけた頃、救助の船が帰って来ました。一人も救助した人の姿がないので浜で待っていた人が大声で尋ねた所、軍の輸送船であるから、民間人は救助してはいけない。今日現場で見聞きした事も一切口外してはいけない。すべて軍事機密である。これは軍の命令である。櫓を漕いだ人達は船を浜辺に上げると砂の上に倒れ込んでいました。

真っ赤な夕日が日本海に沈むのを、むらの人と私達は砂浜の上で立ちすくんだまま茫然と眺めていました。




























  

宮沢準先生の講演
「遊びとしての旅」

               文責 藤井 聖司

宗教学者の宮家先生は、慶応大学の名誉教授で日本山岳修験学会の名誉会長も務めておられる。SKKでは旅行会を楽しむ会員も多いことから、「遊びとしての旅 宗教民族学的視点から」という演題で講演していただいた。

 

 世界の宗教の多くは、創始者(教祖)の言葉、教義が基となって、その民族固有の宗教として流布されてきている(特にユダヤ教)。そこでは、教祖による「送り手」の教えが重要視されており、キリスト教、イスラム教などは、民族の枠を越えて世界宗教にまで拡まった。一方日本人の間では、神道であれ仏教であれ、日々の生活のリズムとして宗教が受け入れられており、「受け止め手」としての宗教と言うことができる。これは霊を万物の基調とする精霊崇拝 ― 例えば、山から霊魂が川を流れ下って肉体となり(桃太郎)、死んだ後も魂は残って永遠に続く― が基盤であって、これを「民俗宗教(生活の中の宗教、見えない宗教)」と、先生は定義されている。

 人々の日常生活において、「遊び」は必須な事柄である。折口信夫は、『万葉集事典』で“「遊び」とは、広義には広く心を慰め、はらせる(心をさっぱりとさわやかにする)行為”と述べている。またホイジンガは「遊び」を、“日常生活とは異なる空間の中にあって、そのこと自体に目的を持って自発的に行われる”としている。そこで旅は、「遊び」の一つとして重要な意味を持ってくる。また日本の「民俗宗教」にあっては、様々な形で宗教が旅と結びついている。弘法大師は、布教のために諸国を巡旅し、布教の傍ら各地の民衆の生活改善も指導したという。また昨年の旅行会の折、慈覚大師が東北を巡旅(850年)して、平泉の地に(もう)越寺(つうじ)を建立したと聞いたことを思い出す。他方貴人や武士、高僧、修験者等とは対極にある一般民衆の側も、江戸時代に入ると伊勢詣や富士詣、更には巡礼や遍路の旅に出かけるようになった。

 

 宮家先生は、日本の宗教における遊び(「旅」)に焦点を置いて、四類型の「旅」を設定し、これらについて説明された。

 

1、     遊魂の旅

 先ず夢や臨死体験がある。夢を見るということは、その人の魂が旅をしていると、考えられないだろうか。また、生きていながらあの世を垣間見るということが、臨死体験である。

延暦寺の修行の一つに、千日(せんにち)(かい)(ほう)(ぎょう)がある。比叡山を7年かけて1000回峰する。その間に堂入り、京都大廻りなども行う。 体験者の中には、「回峰の間、草木鳥獣のすべてが、自分に話しかけてくる。また、空を飛んでいるような気分になる。」と語った人もいる。

 悟りを求めて峰々を歩く修験者の抖擻(とそう)がある。修験者は吉野の大峰山や、葛城の山々(出羽の羽黒山も修験場として有名)を歩いて修行する。

 

2、     遊幸の旅(神の旅)

 古くは天照大神の旅によって伊勢神宮が成立した。

 また、天皇の旅としては神武天皇の東征、天武天皇の近江への旅(その後壬申の乱を経て即位)がある。昭和天皇は、戦後全国各地に行幸された。今上陛下、皇后陛下におかれても、国民のため折節に行幸啓されている。

 また、神のような力を有するとされる弘法大師や黄門様の旅も、この類型に属している。

 

3、     遊行(勧進、回壇)の旅

 宗教者、修行者が、各地の民衆の間を巡る旅である。

 遊行とは、宗教者が衆生教化や修行のために、諸国を巡り歩くことをいう。勧進とは、社寺の建立や修復の費用を得るために回国することをいう。また回壇とは、御師が各地の旦那場を回って守札等を配ることをいう。

 

4、     遊楽の旅

 江戸時代に入ると、民衆の間で社寺参詣・登拝が一般化した。社寺参詣としては熊野詣、伊勢詣、善光寺詣等が有名である。また登拝としては富士詣、木曽御嶽詣等がある。

 巡礼と遍路も、江戸時代から流行した。巡礼としては、西国の三十三観音巡礼、東国の坂東三十三観音巡礼と秩父三十四観音巡礼(合計で百観音巡礼)がある。遍路としては、八十八箇所の聖跡を巡礼する四国遍路がある(元首相もその一部である「延命寺」等を廻ったとか)。

 

 以上、旅の四類型について述べたが、これらは相互に関わりを有する。例えば回峰行者の行う「堂入り」は「遊魂」であり、「京都大回り」は「遊幸」である。登拝者・参詣者の中には、訪れた社寺に籍を移してしまって、先達(道案内人)として里に下っては里人を勧誘し、社寺・宿坊に案内することを生業とする人も出てくる(「遊行」と「遊楽」)。このような例は、現代日本の旅行、旅行会社のシステムの原型と見ることができよう。






































志方俊之先生講演
「危機、平和ボケ日本に迫る」

                
文責 藤井清司

志方俊之先生は防衛大学2期の卒業で、在学中皆本さんから薫陶を受けられたとのこと。その後京都大学(工)でも学ばれ、米国陸軍工兵学校に留学。自衛隊の数々の要職を経て、現在は帝京大学法学部教授の傍ら、内閣府中央防災会議専門委員、東京都災害対策担当参与等も務めておられる。当日は、有明で行われていた東京都危機管理センターの会合の、合間を縫っての講演だった。数々のスライドを駆使しての流れるような名講演に、当方はついて行くのが精一杯である。

 

2020年に東京オリンピックが開催される。期間中に、テロ事件を絶対に起こさせてはならない。競技場の多くは、有明地区に集中している。これまでの通常の警戒体制では、上空に10機前後のヘリを飛ばすことになっていたが、期間中は、他府県からの応援の200機を含む300機体制による警戒も検討している。有明地区に対する陸上からのテロ攻撃は、上空からの監視により比較的制御し易い。しかし海側、それも水中を潜って襲来して来る場合はどうなのか?危機管理センターでは、アクアラングを着装したテロリストの呼吸音に着目し、これを探知する方策を検討中とのこと。

東京に非常事態が発生した場合、都知事でなければ決められないことがある。それは、非常事態地域の範囲とその対応策を、直ちに取捨・選択して決断することである。

 

 20世紀は、「革命」と「戦争」の世紀であった。その根底には「現状を維持したい国家・勢力」と「現状を変えたい国家・勢力」との闘争があった。

 21世紀は、「格差拡大」と「是正闘争」の世紀となるのではないか(二つの世紀に共通する流れは、「現状維持」と「現状打破」の両勢力の争い、ということであろう)。 そして21世紀における争いの因となる「格差」とは、

1)核保有国と非保有国との間の国際的発言力の格差

2)資源産出国と非産出国との間の国力の格差

3)高度技術を保有する国と非保有国との技術格差

4)国家的情報収集組織を持つ国と持たない国との情報格差

5)多くの国との間で価値観を共有することは難しい。取り残された国は、自己の価値観を狂信するようになる(価値観のギャップ)

などがあり、何れをとっても「格差」は、大きくなるばかりである。

 

 その結果21世紀においては、国際的なテロリズムの頻発、大量破壊兵器や高度な通常兵器の拡散が進み、更には情報戦争が本格化するようになった。しかも米国の力が相対的に衰えたために、パワーシフト -新興大国の出現- 、パラダイムシフト -政治力学の変化- 、及びテクノロジーシフト -人間社会が技術の発展についてゆけない- が、同時並行的に進みつつある。そのために21世紀は、不安定かつ不確実な時代となるのではないか、と考えられる。

 21世紀における日本と、日本が受ける脅威を考える場合、時間軸(時間的な焦点距離)を念頭に置く必要がある。

 

 「今そこにある脅威」としては、大規模自然災害・大規模事故・大規模テロなどがある。3.11東日本大震災は、地震被害と津波災害、これによって起きた原子炉事故災害とそれに伴う風評被害が複合した、大規模なものとなった。

 また地下鉄サリン事件は、世界初の大規模化学テロであった。世界の各地では、今も武装テロが頻発しているが、これを防ぐ有効な手立てがないのが現状である。更に近年、サイバーテロによる攻撃が激しくなってきており、これへの対応も困難を増している。

 

 「中期的な時間フレームで見積もるべき脅威」には、核と弾道ミサイルを保有する北朝鮮の出現がある。金正恩体制となってからは、中国との政治・経済・外交の一体化が進められるようになり、それまでは北朝鮮の保有する兵器はすべてソビエト製であったのが、兵器も中国から導入されるようになった。就任後間もない金正恩体制の、今後の動きを予測することは難しく、半島情勢が不安定化するかもしれない。

 

 「長期的な時間フレームで見積もるべき脅威」としては、第一に高度経済成長期に入っている中国が挙げられる。経済成長を背景に、中国の軍備拡大路線は止まるところを知らない。「核心的利益」と称して南シナ海、東シナ海に進出し、更に、太平洋はマリアナ諸島の線まで窺っている。

他方習近平政権は、国内に多くの難問を抱えている。それは先ず、暴走する経済成長であり、そのため社会的にも貧富の差が顕在化しつつある。また、「シャドウバンキング」問題の対応を誤れば、バブル崩壊に直面する。次に経済の国際化を要求する外部からの圧力がある。商道徳・国際ルールの遵守要求と、人民元切り上げの圧力が強まっている。そして、軍部の政治的発言権の増大である。このままでは、習近平政権は軍をコントロール出来ず、軍事大国に突き進む可能性が高い。最後に、国内に激増する組織犯罪、麻薬禍やエイズの蔓延等、中国社会の劣化が挙げられる。これら四つの問題を解決することは、容易ではない。

第二の脅威はロシアである。核戦力の強化を含む軍備近代化計画をスタートさせ、極東地域における陸海空の軍事力の強化を図っている。

また、シリア情勢とイラン情勢の今後が我が国の安全保障に与える影響も、長期的に見て重要である。グローバルな戦略環境の変化が、周り回って我が国の安全を脅かす「間接的な脅威」となるからである。

 

このような状況を踏まえて、21世紀における我が国の在るべき姿、平成の国家像について述べる。国家像の一例として、日本は、第一に新しい社会規範を確立した道義国家とならなければならない。第二に、先進的な技術開発体制を整備した知の大国にならねばならない。第三に、これからの危機を管理出来る安全・安心の国をつくらなければならない。更に、世界の情報を収集すると共に、日本からも情報を発信できる、情報大国にならなければならない。そしてそれらの根底には、日本古来の武士道の精神が、脈々と流れていなければならないと考える。

 

上述の日本の国家像を担保するためには、国の危機管理を万全にする緊急事態基本法の整備が必要である。更に、弱体な日本の情報力を強化する事も肝要であると述べられて、志方先生は講演を締めくくられた。

 
































 
 
あづま路