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平成27年度

70号

71号









































70


   

あづま路 70号 平成27年1月
会員の心に支えられて 栗原  弘
日本人の誇り 関口 利夫
雄叫会の歩み 皆本 義博
SKKに関する古い話 綿貫 昭
SKK30周年に寄せて 飯倉 豊司
大木戸句会のことなど 川和 作二
陸上自衛隊東部方面音楽隊 原  久子
 東京薬科大学薬用植物園と
      永林寺を巡る
近藤 美明 
 静岡への旅を終えて  依田 武敏
 「朝鮮半島の地政学十則」  藤井 清司
 スポーツと健康  安東 達




















































27-01

        

   
    会員の心に支えられて
              SKK理事長 栗原 弘

 SKK(相互啓発懇話会)は、平成261015日で創立30周年を迎えました。この日を迎えられたことを心よりうれしく思いますと共に、会を支えて下さった皆様にお礼を申し上げます。
 SKKは歴史的に「創業、企業研修の時代」「友の会の時代」「相互啓発懇話会の時代」に分けられます。

 「創業、企業研修の時代」は、創設者であった東富士男氏(陸士48期、朝日生命)と関口利夫氏(陸士56期、朝日生命)の二人の努力により、昭和59年にスタートしました。「SKK(渉外力強化研究会)」の名で、数社の社員研修の委託を受けて発足しましたが、困難の多い時代でもありました。詳しくは「SKKの足跡」(関口利夫著、栗原弘編)をご覧下さい。

 平成元年にSKKを支援する「友の会」がスタートしました。平成6年に会則を改正し、友の会の会員募集が熱心に行われ60名近くが参加、この会員がSKKを支える基礎となりました。私もこの時に綿貫氏の紹介で入会致しました。
平成
7年、東理事長が亡くなり、関口氏が2代目理事長に就任、SKKの主要課題を

    日本の歴史、文化、などの研究と普及、及び次世代への継承
    変化する社会環境に対応できる情報の入手 

に置きました。関口理事長の努力で会員数も110名を超え、公開講演会も定着し、安定した時期を迎えました。12年末、理事長は耳が不自由になり退任の申し出がありました。

3代目、横山登氏(陸士57期)が平成13年に就任し、「SKK(相互啓発懇話会)」の時代がスタートしました。100名に達していた会員数も、この時期会員増強に力を抜いたため徐々に減少し始めました。横山理事長は体調を崩され、平成177月に帰らぬ人となりました。

 4代目理事長は副理事長の林寅三郎氏(自衛隊幹部)が平成178月に就任しました。会員数79名。病魔に冒され、林理事長は苦労されましたが、理事長職を退任後平成19年末に亡くなられました。

 5代目理事長は落合登美雄氏(朝日生命)が平成19年に就任(会員数68名)、安定した運営で6年間、会員が楽しめる会をモットーに進めて参りました。この間同志社関係の会員増強に努力されたものの、会員の高齢化、減少に歯止めが効かず55名台の会員となりました。
 6代目理事長 栗原弘(朝日生命)は偕行社との関係強化を図り、ゲスト会員増強等に努力しましたが、会員の減少は続き、会員の平均年齢は80歳を超えました。会員増強の努力不足が悔やまれます。以上SKKの歴史を振り返りましたが、今後も会員の満足できる運営に努めて参りたいと思います。会員数48名。


 終戦後、GHQ主導による戦後レジームは、70年の間に大きな変化を日本にもたらしました。アメリカの傘の下、安穏とした平和ぼけの現状は反省する必要があると思います。

 公と私、個人尊重と公無視の考え、家族、家の崩壊の原因は、戦後のアメリカ主導による法改正にあります。少子化の原因もこの辺りに起因していると思えてきます。占領下だったから止むを得ないではなく、日本は独立国なのですから自ら考えるべきです。

 日本的心の美しさはまだまだ残っております。価値判断の基準を損得だけに置くのではなく、アメリカ的合理主義に重点を置くのでもなく、相手に対する思いやり、公の心を大切にしていきたい。日本人の心、SKKの心を残してゆきたいと思います。  以上         
















































2727-02


日本人の誇り
                  関口 利夫

SKK発足以来30年が過ぎたとは夢のような気がします。しかし自分の齢を考えると成程と納得できます。ただここまで長続きするとは思ってもいませんでした。この間、会の目的に賛同しご協力いただいた諸兄姉に改めて心から感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

 ところで、憲法改正が安倍政権によって漸く取組みはじめられたことは、誠に頼もしいことです。

 しかしこれを成功させることは大変な事業と思います。最も心配なのは、日本は独立国なのだという自覚の足りない事なかれ主義の人が多いことです。

 これはアメリカ占領軍(GHQ)が、日本が二度と立ち上がれないように精神的武装解除を行ってきたためでしょう。GHQは日本の過去をすべて悪と決め付けて抹殺しました。そしてアメリカに都合の良いように日本の歴史を作り替え、約7年にわたってNHKをはじめとするマスコミ、教科書などを通じて日本人の心に浸透させてきました。教育に関して利用したのは日教組です。その他の施策も見事なほど徹底したものでした。

 また大きな問題はアメリカが作った憲法の押しつけです。日本に軍を無くしアメリカの保護国同様に扱い、日本国民が自分で自分の国を守るという精神を失わせたのです。また親子、家族、社会、国についての意識を削り、個人の権利のみを尊重するという偏頗な憲法が現憲法です。

 その結果、戦後の教育を受けた者は、祖国に対する愛国心をなくし、誇りを持てず、根無し草になってしまいました。

 あれから70年、日本は変わりました。くどくど述べる必要もなく、ひどく殺伐としたものになってきました。

 SKKが会の目的の重点事項として「日本の歴史・文化・伝統の研究、普及と次世代への継承」とうたったのは、「昔の日本の美しさを掘り起こし、誇りを持ってこれを後輩に申し送って行こう」ということです。

 私が感じた昔の日本の素晴らしいもの。

 先ずは『武士道』です。特に頭に残っているのは、日露戦争で旅順の要塞を陥落させた乃木希典将軍です。「水師営の会見」という歌がありますが、多くの方はご存じ無いかと思います(昔小学校の教科書に載った)。敵の将軍ステッセルとの会談ですが、普通敗者は帯刀を許されなかったのに乃木は敢えてステッセルに帯刀を許すなど、敵将を優しく厚く遇した乃木将軍の「惻隠の情」は、正に武士道の権化とも言えるものでしょう。

 日本には鎌倉時代から何百年もかけて武士によって練り上げられた「弓矢の道」があり、それが次第に町民にも浸透し、明治になってからは国民道徳の中心とされ「武士道」という名前になりました。義、勇、仁、礼、信・・・など内容は多様なものでありますが、日本人の品性はこれに根差しているものと思われます。戦後は武士道という言葉は抹殺されましたが、この精神は日本人の心の中に未だに生きています。

 並べれば日本の誇りは山ほどありますが省略します。

わが国は、中国、韓国、北朝鮮をのぞいた東洋の各国から尊敬され感謝されています。これは多くの人が現地へ行って始めて知ったと言っています。

 それは日本のお陰で独立した国が沢山あるからです。

 アジアでは大東亜戦争の前には独立国は日本とタイだけでした。また世界でも戦前の独立国は90ぐらいだったのが、今は190以上あります。多くの独立国ができたきっかけは、日露戦争で日本が白色人種に勝ったことで、「有色の我々でも・・・」という気が有色人種の間で起きたのですが、直接的には大東亜戦争です。

 日本は戦争中に、ビルマの指導者アウンサン(アウンサン・スーチーさんの父)やインドのチャンドラボース等に独立運動の指導までしたのです。

 アウンサンはその後暗殺されましたが、ビルマ独立の父として今でも奥地にまで戸毎に写真が掲げられています。チャンドラボースはインドの独立に活躍しましたが、一時期はインド国民軍を率いて旧日本軍とともにインパール作戦に参加しました。しかし首相のガンジーと折り合いが悪く、その後台北で飛行機事故死しました。遺骨は日本に運ばれ、杉並の連光寺に安置されています。

 インドネシアでは、終戦後現地の旧日本軍人が多数残留して、独立戦争に協力参加しています。


 日本が侵略国でないということは、これだけでも明らかでしょう。
しく大東亜共栄圏を目指しての進撃だったのです。

 威張ってはいけませんが『誇り』を持って新しい国作りに参加しましょう。

 思い出しましたが、平成8年のSKK公開講演会の講師渡辺明氏(東京裁判資料刊行会編纂主任)と個人的に話し合った時、私が「今の日本の風潮がまともになるには50~60年かかるでしょう」と言ったところ「とんでもない、我々仲間では300年かかるというのが常識です」と言われて驚いたものでした。 (平成261016日 記)









































27-03


雄叫会の歩み
                     皆本義博

 SKK(相互啓発懇話会)創立30周年に関し、嚆矢となった雄叫会につき、ふれたいと考えます。その経過はスペースを省して記します。

 雄叫会は、昭和43年西新宿の裏町の割烹料亭()()で第一回を開催いたしました。その頃は戦後の復興も、先人の汗と努力の賜でやっと軌道に乗って参りました。雲珠の女将塩谷淖子女史が、店内を貸切で懸命に奉仕され、ご兄弟の方もお手伝いされていました。ここに著名な三上卓さんが合流され、意気軒昂たる会になりました。

 三上さんは佐賀出身で、海兵54期(陸士39期相等)上海陸戦隊、妙高勤務海軍中尉、昭和7515日満州の危機を憂い、政党政治の腐敗・農村の疲弊を嘆じ「昭和維新」を訴え、陸海軍青年将校が決起し、海軍士官10名・陸士本科生徒11名、民間人も呼応し、主要閣僚・警視庁・変電所等を襲い、犬養首相を殺害、軍法会議で海軍士官6名が死刑、その他の陸海軍とも憂国の至情を認められ、3名づつ求刑となった。三上卓氏は免官となった後も憂国の士として、世相を憂い革新の血に燃えて「青年日本の歌」を作られた。

 新宿雄叫会は料亭雲珠を発祥の地となし、三上卓さんを中心に、青年日本の歌を38名が意気軒昂合唱いたしました。料亭に直筆の青年日本の歌の額が寄贈され、私も昭和42年再録を頂戴、深謝致しました。料亭雲珠は、残念ながら新宿西口の再開発のため店じまいとなり、会場を新宿百人町の「いかりや」に移し、ここで会の継続を図りました。

 たまたま第36回の雄叫会を昭和60127日「鍋茶屋」で行い、陸士大先輩を含む34名が参集し、盛大で華やかな会となり、SKKとの連携の深さを確認しました。
 雄叫会は、高齢化が進み参加者も毎年減ずる方向にあり、平成182月の第73回雄叫会で、存続は難しいとの意見で一致し、8名の会員を迎えて最後の解散大会を「いかりや」で実施した。親しい友人同志は、会と離れて逢うことにした。

 多年に亘り雄叫会の中心で奉仕した老翁は、まず埼玉県朝霞市西原の「スターシップ」で平成52月から71月まで実施し、店長の婦人が病没された後はさいたま市に移り、埼玉歌唱親睦会を今日までつづけ、同好の士女が頑張っております。











































27-04


SKKに関する古い話
           
                        綿貫 昭

 SKK創立30周年記念号に、“SKKの長老の一人として古い時代の話を投稿して欲しい。”との声あり。

 ここで「長老」とは、年齢ではなく会員期間が長いことと推察し、平成264月現在の会員名簿を調べてみたら私(平成元年入会)より古い会員は何と2人しかいない。長老と言われても止むを得ないと思うことにした。しかし、古い時代の話となると、認知症直前年齢の私としては、至って自信がない。記憶違いの内容があったら、お許し頂きたい。

 さて、SKKの古い時代というと、SKK規約が昭和591016日に制定されているので、この頃の時代ということになるが、私はまだ入会してないので詳しい話はできない。しかし、私の手許に、SKK発足直前の昭和5984日に偕行社で写された「新宿雄叫(おたけび)会」の写真がある。写っている出席会員34名。この中にはSKK初代理事長だった東富士男さん、2代目理事長だった関口利夫さん、後日SKK役員をされた方達、および平成元年71日に設立された「SKK友の会」の会員達が、私や皆本義博さん(平成8年入会)を含め多数写っているのである。即ち、SKKは新宿雄叫会が母体になっているのではないかということである。

 では、新宿雄叫会とは何ぞやということになるが、会則というようなものはあったのか、役員は東さん以外にどんな人達がいたのか、正直なところ知らないことが多い。私が知っているのは、この会は原則として12月と8月に会合があったこと。12月は昭和1612月(大東亜戦争開戦)、8月は昭和208月(同終戦)を意味する。昭和628月に創立20周年を祝う大会を開催しているので、昭和42年発足の筈である。会合は原則として新宿で開かれ、料亭「いかりや」で開催されることが多かった。会合では難しい話はない。ひたすら酒を呑み懐古談や憂国論で盛り上がり、軍歌などを歌っておとなしく解散するという具合だった。会員は元軍人や自衛隊退職者が多かったが、朝日生命教育部OBを含む男女一般会員も多数含まれていた。


 次に、私がこの雄叫会になぜ入会したのか説明したい。

 私が朝日生命に在職し、北九州で支社長をしていた昭和482月に、本社の某重役から電話がかかってきた。内容は“新年度から本社の教育部に特別養成職員を教育する特養課を新設することになった。その初代課長をあなたにして頂く。仕事内容は教育部の東富士男さんに聞いて欲しい。”ということ。特別養成職員(通称特養生)とは、高卒・大卒(20歳代~40歳代)の中途採用者で将来の営業管理職候補者のこと。東さんは、終戦後旧陸海軍将校を営業管理職候補者として特別採用する「特殊増員施策」により入社して来られた方で、防衛庁開拓に大きく貢献されたことは勿論、北九州・大阪・松江等で支社長を歴任し、教育部在任中は、支部長・営業所長等の教育に加えて、昭和42年に発足した特養生の教育も担当。後にタレントとして有名になったタモリが福岡支社の特養生だった頃、直接教育したことで評判になった方である。
 このような訳で私は早速
4月から東さんの教えを受けること正味15日間。理由は東さんの定年退職が4月末だったから。東さん60歳、私は45歳の頃である。

 一方、当時の教育部は4課1研修所で構成されていて、私の左隣は教育課長の関口利夫さん、右隣は大卒の研修生を教育する研修所長の笠原修さん(現SKK会員)の席で、東さんと共に何れも酒豪、一緒に呑むことが多く3年後に私が北海道に転勤後も文通は続いていた。

 それから6年後の昭和57年に私は本社の官公法人部勤務となり、防衛庁(現防衛省)を担当し自衛隊の開拓をすることとなって、退職後であるのに東さんから再びアドバイスを頂くことになる。又、本社内の趣味の会である「俳画愛好会」の会長をされていた関口利夫さんに勧められ同会に入って俳画の勉強をすることとなるが、俳画の先生は自衛隊の定年退職者。更にこの会の上部団体「薫和会」の先生も自衛隊の定年退職者。この人達が全部「新宿雄叫会」の会員になっている。関口さんの勧めもあって、昭和58年頃には雄叫会に入会し会合を楽しんだものである。俳画愛好会は関口さんの定年退職後、私が後任会長となり、会社から助成金を得るため「朝日生命俳画部」と改称されるが、その後も関口さんの勧めで部員の半数位がSKKに入会、今でも8名が在籍している。即ち、会社命令で東さんの教えを受け、その職場で関口さんと知り合い新宿雄叫会に入会したということになる。

 この雄叫会は、昭和59年にSKKが発足した後も、独自に会合を開いていて平成7年頃まで続いていたように思うが、その後解散して消滅したのか、それともSKKに合流したのか残念ながら私は知らない。


 SKKは昭和59年に「渉外力強化研究会(略称SKK)」として発足し、昭和63年に「造的究」を目的に追加し「コンサルタントグループSKK」と改称、平成元年に「SKK友の会」を作り後に合流、更に平成12128日に「SKK(相互啓発懇話会)」と名称を変えてきた。しかし、そのルーツは「新宿雄叫会」にあると思えてならないのであるが、最長老の関口利夫さんのお考えを一度聞いてみたいと思っていた。しかし関口さんも私も体調が余り良くなく、お会いする機会がないので残念と思っている。

 以上古過ぎる話で恐縮だが、新宿雄叫会発足の主旨とSKK発足の主旨に、何等かの共通点があったのではないかとも思われるので、一筆した次第。SKKの益々の発展を祈り擱筆する。                               以上































27-05

 
  SKK30周年に寄せて
                             飯倉 豊司

        創立30周年おめでとうございます。

 私は、関口利夫元理事長とは長いお付合いをしておりますが、SKKには途中参加(平成6年入会)のため、創業当時の皆様のご苦労話は存じません。

 創業時の代表者東富士男氏とも、朝日生命外務教育部の先輩として、長いお付合いをいただいておりました。そこで、「あづま路」の既刊40号~49号「SKKのあしあと」(関口氏記)を拠り所に、私自身とSKKとのかかわりあいを述べてみたいと思います。

 

(創業時の背景)

 敗戦後廃墟の中から立ち上がった日本経済は、昭和30年頃から形を整え、発展期に突入する。競争に打ち勝つため、各企業は体力をつけるべく、社員教育に力を注ぐようになる。所謂経営学ブームの時代となった。ドラッカーが読まれ、作戦要務令が注目され、各企業は社員教育のため、資金を投じて外部から講師をむかえたものである。

 東氏は陸軍大学出(戦中一握りの秀才)、華やかな軍歴に加え、戦後の管理職プログラムを習得し、これが得難い武器になってインストラクター(講師)として、社内・社外の研修に引っ張り凧の人気であった。当時はこのような軍歴にあった方々が、社外講師として歓迎されたようである。

 このような経験を経て、東氏は関口氏と話し合い、“多くの頭脳を集めて教育訓練請負会社を設立しよう”と思い至ったのではないかと思われる。

(SKKと私)

 関口氏の記述(あづま路40号)によれば、昭和57年秋の夕べ、東、関口、山沢、飯倉が懇親会で集まったとあるが、これがSKK発足の端緒になったようで、私にとっては遥か記憶の彼方のことであるが、大変名誉な記録である。しかし、当時私は現役であったので、関口氏からはSKK事業には誘われなかった。

 その後私は、教育部門から広報部門に転属した。守備範囲は広く、社内広報、社外広報、パブリシテイ(マスコミへの情報提供)-これが本来の仕事、このほか①古河三水会(古河グループ)広報委員、②生命保険協会広報委員も兼ねていたので、講演会の開催や、広報誌の作成、著名人とのインタヴユーなど、広く浅い仕事に忙殺される毎日であった。

 内容は違うが、仕事は現在のSKKと近い仕事をしていたものだ。従って、毎月関口氏と趣味の俳画の会で会うと、情報を交換したりしたものである。頼まれてSKKニュース(現あづま路)に掲載した「新宿今と昔」は、3回に亘る長編である。

 不確かな記憶であるが、講演会のことで関口氏から、当時マスコミを賑わした鬼検事が退任した、「あれを呼べないか」と。講演料を打診すると、1回30万円いただきたいとのこと。SKKでは難しいことが判った。

 こうした経験を経て「講演会の講師は安いほうが良い」、有名人でなくとも、時の話題ならマスコミ記者、理科学系なら若い研究者・医者(健康問題など)で、十分期待に応えられると考えるようになった。

(SKK今後の課題)                                              
   会員の増強について

関口理事長時代100名を突破した会員数が、現在半数以下になったのは残念である。毎年の退会者が入会者を上回っているのである。最大の原因は会員の高齢化である。

 私が入会した平成6年頃は、公開講演会(45~50人出席)では、受講者のうち元軍人さんが向かって右側の席に178人ずらりと並んで見事な風景であった。先日(1112日)の講演会では皆本さん(顧問)と難波さんの2人しか見当たらなかった。明らかな大変化である。

 セミナー団体は集客が勝負である。先ず会員増強である。1対1の縁故増員は基本的で当然のことであるが、その奥、水源地の確保に目を付けてはどうか。「自衛隊の退職者をねらう」、「大学のOB会をねらう」など人の系統的集団を掴むのである。

 現在同志社大関係の方々が活躍されているが、前理事長の落合氏、前理事の長坂氏のご尽力が、実ったものではなかろうか。
  SKKの主体性について
 もう一つ会員として気になっていることは、主体性の確立である。言葉を換えて言えば、左・右の〇〇主義者に占領されないこと。曽ては、会の都度日の丸を掲げては、という右翼賛美の意見もあったが、外形よりも考え方である。近頃は戦争反対、原発反対などの市民運動の動きもあるが、困ったものである。

 無色中立を時計の針で12時とすれば、12時前が左側、12時過ぎが右側、巾を持った運営をして欲しい。      以上


















































27-06


大木戸句会のことなど
                         川和 作二

 私達の句会の名称は「大木戸句会」です。新宿御苑への入口「大木戸門」近くの居酒屋で初会合を開き、句会がスタートしました。そのご縁で、会の呼称を「大木戸句会」とすることに、全員が一致して賛同した次第です。

 SKKの会報「あづま路」の「(あづま)」は、創立者である「東 富士男」氏の名前にちなんでいます。東氏は陸士、陸大出身で、「朝日生命保険相互会社」の営業教育部門担当を長く勤められ、米国での営業職員教育を研鑽され、本場での生保研修を経験されて来られた方です。

 「SKK」とは「相互啓発懇話会」(Sougo  Keihatsu  Konwakai )の頭文字です。

(送り状の中で川和氏は、 「SKK創立30周年記念号」に寄稿していただきたいとの要請がありましたので、役不足・筆不足ですが、思い付いたところを一筆送付いたします。と述べておられることを申し添えます。)








































27-07

      

陸上自衛隊東部方面音楽隊
                                原 久子

 陸上自衛隊東部方面音楽隊は、昭和35年に創隊され東京都練馬区の朝霞駐屯地に所在しています。関東甲信越に静岡県を含む1都10県を活動範囲として、隊員の士気の高揚、儀式、広報のための演奏を任務とし、これまでに長野オリンピック、大喪の礼、即位の礼などの国家的諸行事に参加。又新潟中越地震・東日本大震災の災害派遣における音楽演奏、など国民と自衛隊の懸け橋として年間約120回の演奏を行って居るそうです。

 皆本氏から頂く招待券で再三拝聴させて頂いて居り、いつも乍ら感動と感謝です。この場を借りてお礼申し上げます。有難う御座います。







































   27-08
   


東京薬科大学薬用植物園と永林寺を巡る
                                  近藤 美明

 京王線北野駅に、5201045分ごろ参加者17名が集合しました。1110分発の平山城址公園行のバスに乗り、1130分ごろ東京薬科大学の正門前に到着、青葉若葉が目に染みる様な大学のキャンパスを歩いて、1140分ごろ薬用植物園に入園しました。

 その面積は41,000㎡もあり、都内随一を誇る規模です。山あり谷あり小川あり、湧水の池には、わさびが植えられていて、夏には蛍がとびかいます。広大なので2時間自由に見学する事にしました。予定より10分ほど早い130分に退園し、すぐ隣の都立平山城址公園へ行きました。木立の間を緑のやさしい風が流れる静かなベンチで、それぞれの
お弁当・ビール・ジュース・お茶などをひろげて楽しいだんらんの
一時(ひととき)を過しました。ウグイスや小鳥がしきりに鳴いていました。

 楽しい語らいを終えて、1分ほど歩くと平山城址公園の入り口に出ました。そこには(すえ)(しげ)神社があります。平山季重が祭神(さいじん)となっています。季重は源氏の武将で、保元の乱では源義朝に従い、平治の乱では義朝の長男義平に従い、
義朝敗死の後は平家に従い、頼朝が挙兵すると駆けつけて頼朝に従い、命により義経率いる平家追討
軍に熊谷直実と共に加わり、平家滅亡に至るまで、数々の輝かしい武勲をあげています。季重の子孫はこのあたり一帯の領主として、戦国時代の終りまで治めていたので、「平山」という地名が現在まで残っています。

 季重神社から大学のキャンパスに戻り、正門前で記念撮影、永林寺に向かいました。近道の農道を通り、ゆっくり歩いて15時ごろ永林寺に着きました。境内は高い木立におおわれています。ここでもウグイスと小鳥がさえずっていました。

 永林寺は曹洞宗の名刹です。総門・三門・仏殿・鐘楼・三重塔・浄光殿と、寺院としての風格ある建造物が多い。由木城主であった大石定久が滝山城へ移るに際して、由木城33,065坪を叔父である一種長純大和尚に譲り、天文元年(1532年)3月永麟寺として創建されました。大石定久の養子になった北条氏照により、天文15年七堂伽藍が完成し、大寺院となりました。

 天正15年、後陽成天皇より勅願寺の綸旨をいただき、護国殿の勅願を受けました。天正199月徳川家康より、朱印十石公卿格式10万石を授けられ、大名寺院となって名も永林寺と改め赤門の建立が許され、当地に十ケ寺の末寺を擁しています。

 当寺院は五つの紋を有しています。大石家丸三つ星、北条家三つ鱗、天皇家菊、五三
の桐、徳川家三葉葵等です。永林寺の一番奥の小高い所に、由木城址の石碑が建っています。そのそばに大石定久が弓を小脇にかかえた、鷹狩り姿の銅像があります。定久の墓も境内にまつられています。

 参加者に多少疲れもみえたので永林寺を後にして、付近の由木中央小学校前のバス停で、JR八王子駅行と京王相模線南大沢駅行の二手に別れて、それぞれ帰路につきました。                                 以上

































27-09

静岡への旅を終えて
                     依田 武敏

 
820分に上野駅公園口の改札に着く。未だ誰も居ないと思いながら、改札の内外を見ると篠崎さん、鈴木さん、中村さん、山田さんが外に集まっていた。その後すぐに堀川さん、高安さんも来られ、集合時間の845分には、中原さんを除く全ての方が揃う。9時少し前には中原さんも到着して全員が揃い、小雨のぱらつく中をバスは出発する。中里さんと運転手の渡辺さんが挨拶し、“吉永小百合と高倉健”との自己紹介に、皆の雰囲気が一瞬で明るくなる。バスは上野インターから首都高に入り、一路東名高速に向かう。渋谷を過ぎる頃にはワイパーをつけたり、止めたり。

 今年も特別添乗員として同行してくださる隅田川バスの中里専務さんが姿を見せ、バスは向こうに来ていると伝えてくれる。私の携帯に2度程電話を入れて下さったとか(後で確認すると、確かに2回伝言が入っていた)。皆さんにバスに乗っていただき、中原さんを待つ。

 9時少し前には中原さんも到着して全員が揃い、小雨のぱらつく中をバスは出発する。中里さんと運転手の渡辺さんが挨拶し、“吉永小百合と高倉健”との自己紹介に、皆の雰囲気が一瞬で明るくなる。バスは上野インターから首都高に入り、一路東名高速に向かう。渋谷を過ぎる頃
にはワイパーをつけたり、止めたり。

 東名高速は、御殿場までの間は集中工事のため渋滞の恐れありとのこと。案の定、横浜町田インター辺りからは渋滞に巻き込まれる。海老名サービスエリアでトイレ休憩を取る。その後、太井松田あたりから車の流れが良くなる。

 高速を下りて蒲原町を抜け、由比町に入る。今日の昼食会場は、静岡市清水区由比町の食事処、四季菜館・開花亭である。桜エビ尽くしの昼食に皆な満足。1250分頃出発、天候を気にしながら日本平へ向かう。

 幸い雨が上がり、陽も差すようになる。日本平からロープウエイで下りて、久能山東照宮に参拝する。東照宮の石段は、一段一段が高く、上り下りに苦労する。東照宮から見下ろすと、陽に映えた海の色が美しい。参拝を済ませ、ロープウエイでバスに戻り、次の目的地三保の松
原へ向かう。イチゴ畑のビニールハウスの並ぶ道を走るうち、
右手上方に先程参拝した東照宮の建物を仰ぎ見ることが出来た。

 三保の松原は、世界遺産にめでたく登録されたため駐車場が不足しており、松原まで相当遠いところでバスを降りる羽目に。「御穂神社・天羽衣神社」の参道である板張りの道を、三保の松原へ向かう 参道の左右には松並木が。松原までは結構遠く、15分程もかかった。こんもりとした砂丘に松原が広がり、「羽衣の松」は三代目とか?駿河灘を一望にする砂浜を歩く。雲間をぬってお日様が出たり隠れたり。残念ながら富士山は見えず(ちょっと見えたという方もいた)。

三保の松原での散策を終え、バスは一路焼津温泉松風閣へと向かう。松風閣は、焼津の市街地と駿河灘を見下ろす高台の上に聳えていた。430分頃宿に到着。

630分からの宴会を確認し、部屋に向かう。男女7人ずつを夫々3+4人で部屋割り。522号-525号の4室のうち、525号室が幹事部屋。部屋で一服後温泉へ。宴会は中里さんを加えて女性8人、男性7人なので、男女が交互に席に着く。2時間ほど飲みかつ食し、楽しい時間はすぐに過ぎる。続いて幹事部屋での二次会へ。ここでも話題が盛り上がり、楽しいひとときでした。昨年と同様中里さんが宴会、二次会を差配して下さり、気配りの行き届いた楽しい時間を過すことができた。今回は10時頃そろそろお開きにとの声があり、早めの解散となる。自分は二度目の風呂に入り、11時前に就寝。朝の目覚めは6時ごろ、充分な睡眠がとれました。


 翌朝もまず風呂。露天に入ると、頭に雨がかかってくる。残念ながら今日も雨かと思いながら、室内風呂に戻る。645分からバイキングの朝食。原、中村、中原さん達と同じテーブルで、栗原、堀川、依田6人の食事でした。食後も会話が弾み、30分程余分に居座ることに。835分フロントに集合、皆が揃ったところで記念写真を撮って出発。宿の方々が多数手を振って見送って下さった。

 二日目の最初の訪問地は魚市場。夫々に買物を終えて、大覚寺全珠院へ向かう
。住職から話を聞かせていただいた後、眼近に近寄って高さ一丈八尺の千手観音像を拝観。参拝を済ませると、雨が上がり若干陽も差すようになった。次の見学場所は、田丸屋のわさび工場である。清潔な製造工程を見学後、売店で買物も済す。

 清水インターから高速に上がり東へ向かう。第二東名を走り、太井松田インターで高速を下りる。酒匂川の欄干に乗っかった「金時さん」の像が可愛らしい。やがて足柄の「アサヒビール園」に到着。園内のレストランとで、焼肉とおにぎりの昼食に舌鼓を打ったが、残念ながら工場見学の時間が迫ったため、肉を大量に残してしまったテーブルもあった。

「アサヒビール神奈川工場」は、安藤忠雄の設計になる広い敷地、緑の木々の茂る素晴らしい環境の中にある。ビールのできるまでの説明を聴き、ガラス越しながら製造工程を見学の後、楽しみにしていた試飲会場に案内される。三杯まで試飲可と言われていたが、食後直ぐの事とて一杯だけで終わる人多く、少々残念でした。物産館で買物を済ませ、工場を後に帰京の途に。この頃には雨が本降り。

太井松田インターへ戻り、東名高速に上がって一路東京へ。雨が激しく振る中、補修工事も休んでいるせいか渋滞はあまりなし。首都高に入って渋谷辺りから渋滞したが、上野駅前に5時頃到着。自宅に着くまでが旅行ゆえ気を付けてと挨拶し、別れを惜しみつつ解散。本降りの雨が続いていた。
                                                       以上


































27-10

福山隆先生講演
「朝鮮半島の地政学.十則」
                               平成26年6月11日   藤井清司

 元西部方面総監部幕僚長の福山隆先生は、1989年から韓国に駐在して情報収集に努められた。情報を制する者は世界を制すると言われる。情報は未来を解く鍵である。(大阪冬の陣の折、千姫付きの侍女と織田有楽斉は、徳川方のスパイであったと言われるが、とかく日本人は情報に価値を見出せなかった。)

 日本が、アメリカのポチと呼ばれるようになって久しい。他方近年の米国は、世界の警察官の役割を放棄しようとしている。しかも中国の武力進出の動きは益々露骨になり、日本の安全保障の環境は著しく悪化しつつある。特に朝鮮半島においては、同盟国である筈の韓国も、中国に擦り寄ろうとしている。

 「風水学」では、家の「立ち位置」が、家運の吉凶を左右すると考えるが、「地政学」の考えに従えば、国家についても「その国が地球上に占める位置」によって、その栄枯盛衰が左右されるとしている。古来、ユーラシア大陸(ハートランド)を制覇した強大な国家(王朝)は、その辺境部(リムランド)の諸国に対して圧倒的な影響力を及ぼした。その典型的な事例が、中国と朝鮮半島の関係である。

 中朝関係は、冊封の歴史であり、朝鮮に「恨の文化」をもたらした。朝鮮では紀元前三世紀頃の前漢初期に、衛氏朝鮮が漢の皇帝に貢物を捧げて朝鮮の王として冊封されて以降、日清戦争が終わるまで朝鮮はほぼ一貫して中国の冊封国(従属国)であった。朝鮮では事大主義がはびこり、対外的には宗主国の意向にすべて従う一方、国内では弱者を搾取した。とかく辺境の国々は、中心国の影響を受け易い。これが朝鮮半島の地政学・第1則である。(我が国は幸運にも、四方を海に囲まれている。九世紀末に遣唐使を廃止したが、それ以前にも、大陸の王朝の冊封国となっていたわけではなかった。)


 朝鮮半島は、大陸の勢力(古来からの中国に加え近年はロシア)と、海洋の勢力(日本に加えて近年はアメリカ)とのせめぎあいの地となり、古来
900回以上の戦乱(内乱を含む)が生起している。これが第2則である。

 「朝鮮動乱」後の休戦協定が締結された時点では、中・ソが北朝鮮の後ろ盾となり、また韓国は米・国連軍の駐留を得て、冷戦中の南・北の軍事力は
バランスしていた。冷戦後はソビエトが崩壊して、秤は南に傾いたが、中国の台頭・ロシアの復興、一方では米国の凋落もあって、現在の軍事バランスは北に傾いている。

 他方、大陸側の中・ロの間でも、朝鮮半島の覇権を巡って確執がある。両国にとっては、朝鮮半島を押さえた方が、極東戦略上有利な体制を占めることが出来るからである。これが朝鮮半島を巡る第3則である。


極東における中・ロ衝突の歴史は長いが、朝鮮半島に関しては地政上・歴史的に中国の優位は動かない。北京はモスクワよりも朝鮮半島に遥かに近く、長い冊封の歴史があり、ソ連崩壊後は中国の影響力が、朝鮮半島では圧倒的となった。

 元来、シベリア・極東地域のロシア領の人口密度は低く、中国人がこの地域に流入する傾向にあり、ロシアにとっては頭の痛い問題である。そのため近年のロシアは、ユーラシア鉄道と石油・ガスパイプラインの建設を進め、極東ロシアへの中国人の流入を阻止すると共に、朝鮮半島への影響力の拡大を図りつつある。

中国にせよ、ロシアにせよ、朝鮮半島での覇権を確立すれば、それは日本の脇腹に匕首(あいくち)を突きつけることになる。これが第4則である。


 ところで金日成は、日本防衛の功労者であったとの見方も、逆説的には出来る。金日成は対中・ソ外交に当って、主体(チュチェ)性の堅持に努め、結果的には中・ソの脅威の日本への伝播を阻止したのではなかろうか。

 最近の北朝鮮と韓国を巡る大陸国家の中・ロと、海洋国家の米・日との対立の情勢は、チエスでいう「手詰まり」の状態にあるのではなかろうか。これが第5則である。

 そもそも北朝鮮は、中国による核の傘を信頼していなかった節がある。だからこそ、それまでの通常戦力によって韓国民を人質に取っていた状況から、核・ミサイルの開発に踏み切って、日本・米国(グアム・ハワイなど)をも巻き込んでしまった。

 朝鮮半島は、古来「遠攻近交」戦略適用の地であった。現在の北朝鮮は、日・米への接近を図り、また韓国は、中・ロに(おもね)ようとしている。これが第6則である。


 また朝鮮半島及びその周辺の地域(海域)は、海・空戦力を展開し易い地域である。朝鮮半島の地政学・第7則。現に朝鮮戦争の折には、日本を基地とするアメリカの海・空軍及び海兵隊が、絶大な威力を発揮した。

 朝鮮半島を巡っては、「分割統治」(”Divide & Rule”)戦略を適用し易い。これが第8則である。特に中国としてば、金正恩と朴槿恵の対立を活用して、南北朝鮮をDivide & Rule することにより、半島全体をコントロールしようとしている。また北朝鮮に対しては、体制内の亀裂を利用して、傀儡政権とすることにより、チベット化を図ろうとする。また日韓の分断、米韓の分離を策している。

 これに対抗して日米の海洋勢力側は、朝鮮半島と台湾・東南アジア・中東などとのリンケージを図り、対中包囲網をつくろうとしている。これが第9則である。

 これに対して中国は、朝鮮半島をその内戦作戦の一正面ととらえ、日米の外線作戦を突破しようとしている。これが第10則である。


 ここで金正恩王朝について考察することとしたい。北の政権の国家戦略目標は、金王朝の体制維持にある。そのためには先軍政治を優先し、アメリカを射程距離に置く核・ミサイルの開発を優先し、これを既成事実化しようとしている。また外交政策としては中国の「第二のチベット」にならないことと併行して、アメリカからの体制承認を獲得しようとしている。他方経済回復のためには、一定の改革開放政策を推進するものと思われる。金正恩は無能ではなく、また、日成・正日二代で構築した権力システムも強固である。

 「中国の台頭・アメリカの凋落」の構図が続けば、朝鮮半島は中国の支配下に陥り、朝鮮半島正面の我が国国防の第一線は、壱岐・対馬及び五島列島となる。(沖縄・奄美大島方面からの中国の侵攻、北海道からのロシアの侵攻も、当然考えなければならない。)

 最後に、「まとめ」として福山先生は、


 日本国民は、有史以来最大の危機に向き合っていることを自覚すべきだ。
 このような国難を悲嘆しているよりも、「
狂瀾(きょうらん)既倒(きとう)にめぐ
 らす」
くらいの気概を持って、①中国からの国家防衛②米国の戦後支
 配からの脱却
の両方を達成しなければならない。


 自主防衛体制構築のためには、脱脂粉乳なみに「配給された憲法」下の戦
 後レジーム
を受け入れてきた日本の国論を「回天」する必要がある。尖閣
 諸島に押し寄せる中国の公船を“平成の黒船”と捉え、国論を「回天」す
 る。


 「生気 -日本本来の精神的エネルギー-」の回復を。アメリカから刷り
 込まれた東京裁判史観(日本人の自立・自尊の精神をスポイル)や国防の
 他力本願志向
、ソ連から刷り込まれた左翼思想・非武装中立などを早急に
 克服する必要がある。


と述べて、講演を結ばれたのであった。



























27-11

スポーツと健康
           中高年を健康に生きる為に 安東 達
 1015日の定例懇話会で講演を行った「健康シリーズ」の最後のテーマである「スポーツと健康」について、要点のみ記述する。皆様の参考にして戴ければ幸いである。日本の社会は少子化・高齢化・超高齢化が急速に進み、社会構造は人口の大都市への集中、地方の高齢者の偏在、農林業の後継者不足からくる田畑の荒廃、野生動物の繁殖による食害等々問題が山積しており、益々深刻度を増やしているのが現状である。一方高齢化は医療費の増大となり、今や国家財政を根底から揺さぶり、大問題となってきている。世界一の長寿国になった日本にあって、健康で長生きをする為には、「スポーツをする」ことが最も大切な事であり、是非実行して戴きたいとお勧めする次第である。

  Ⅰ 現代社会は運動不足

1.文明の加速度的な変化は生活を豊かにしたが、一方で様々な有害な諸
  条件をもたらし、本来不自然な人工的環境が「自然的な環境」となり、
  自己家畜化現象」と呼ばれる健康問題を引き起こしているのが現状であ
  る。
2.
工業化・都市化は環境破壊、環境汚染、更には様々な生活公害をもたら
  す等々、国民の健康を根底から脅かしつつある。
3. 生活水準の向上、食生活の改善と洋風化は、子供の発育・発達、栄養改
  善等に寄与したが、一方では肥満や成人病の原因となっている。
   
4.労働・家事の合理化、交通機関の発達・冷暖房の普及は、反面身体的諸
  能力の低下、「運動不足病」をもたらしている。

5.生活の複雑化、家族・近隣関係の希薄化、過重な労働等は、ストレスの  増大や人間性を失うなど多様な精神的・社会的病理を引き起こし、労働  の機械化・合理化は、職業病を多発させている。
6.核家族化と兄弟数の減少、過度の受験競争、遊びの変質等は、子供の生
  活から身体活動を少なくし、体格と体力のアンバランス、持久力の低下
  をもたらした。更に不適切な食生活が「小児成人病」を引き起こし、非
  行・暴力へとつながり、大きな社会問題となりつつある。
  
7.医療体制の充実は、人口の高齢化、医療費の高騰、老人の介護、さらに
  医療過度による薬害等、社会問題が益々増加している。

 

 Ⅱ 体の健康

  身体的に健康であることは、人体の生理機能が正常に作動している状態である。生理機能の正常とは、生体の恒常性(ホメオスタシス)によって維持されている。人間の退縮期は、加齢と共に「老化」と呼ばれる時期である。老化現象は、40歳前後からすでに明確になってくる。成熟期以降の体の健康について、老化の速度を律している環境要因(栄養・運動等)をいかに適正化するかである。エイジングの過程では、重要な諸臓器の重量は減少する。一般に、脳、・心臓・腎臓・肺・筋肉等の実質細胞は、70歳代で最盛期の約60%に減少すると云われている。その結果は、機能低下として現れ、予備能力が著しく低下してくる。エイジングによって増加するものに結合組織がある。結合組織の主成分は繊維状で存在しているコラーゲンである。このコラーゲンが年齢と共に増加し、体内組織の弾力性・柔軟性を失い硬くなる。分解されにくい結合組織が蓄積されると、正常な細胞の機能低下を来たし、ストレスや負荷が加わると生理機能の顕著な低下が現れる。

Ⅲ 運動不足と健康障害

 運動不足は成人病を引き起こす原因である。酸素や栄養素を運ぶ血液の運搬を司どる循環器系への害、その中心は心臓というポンプであるが、需要量が少なければ機能は低下する。ポンプ容量が減少し、酸素が速やかに送り出されず、持久力の低下につながり、体の動作がにぶくなる。流れのよどんだ血管は、身体活動量の低下により使い切れなかったエネルギー(脂肪等)の余剰が沈着し、血管をつまらせ、動脈硬化などを引き起こす原因となる。エネルギーの産出する代謝系への害が生ずる。肥満やこれに伴う糖尿病、高脂血症、高尿酸血症等の代謝疾患をもたらす。重い頭を支える首や肩、上半身を支える腰が真っ先にダメージを受け、内部を支える骨の空洞化をまねき、折れやすくなる障害が急増する。

 Ⅳ 運動の身体的効果

 運動を行った時に、呼吸や心臓の鼓動が速くなるが、体が一時的に適応する為である。これを長期間繰り返すと、実行した運動に特異的な形態的・機能的変化が起こる。この変化を永続的適応という。これを運動の効果(トレーニング効果)という。

 
 Ⅴ 運動による健康づくり

 個人の生活形態に応じて多様であること、日常生活に組み入れられていること、健康づくりは一生の課題である。「継続は力なり」という考えに立って続けることが最も大切である。酸素を用いて発生するエネルギーに依存する運動が有酸素運動(エアロビック・エクササイズ)である。

a)有酸素運動が良い理由
   1)血圧上昇が比較的軽く、循環系に無理のない負荷を与え、心臓への負
   担が軽い、
 
2)心機能を強化し、骨格筋の毛細管を発達させ、動脈の弾性を回復
   させるので全身の活動能力が向上する、

  3)生活習慣病の予防的効果、治療的効果が大きい、  
  4)乳酸の蓄積が少ない、
 
  5)脂肪の燃焼が増大する、
 
  6)マイペースで出来る。

b)運動能力と健康体力
  1) 心肺持久力  最も基本的な体力要素

  2) 筋力・筋持久力  一回の短時間の最大努力で発揮される力を筋    力という。一方で荷物を持ち続けたり、腕立て伏せ運動を繰り返す
    ような力が筋持久力。

  3) 柔軟性  関節が本来持っている最大の可動範囲の程度動かせる
    か。
  
4) 身体組成  身体の脂肪とそれ以外のものとの割合、必要以上に
    摂取したカロリーが脂肪となって皮下や内臓に貯められ、体脂肪の
    割合が増加を来たし、動脈硬化症の引き金となる。

C) 心の健康                                

 社会の急激な変化や、価値観の多様化に伴い、心の健康は重要な課題とな
 っている。WHO(世界保健機構)では「精神的、社会的に完全に良好な
 状態」と定義しているが、具体的内容として、以下の5点をあげている。

   1) 
自分の生活を意識的にコントロールできること
     2)   自分は誰か、自分は何であるか知っていること
  3)
現在進行している「いま、ここで」の事態に、真正面から取り組
    むこと

    4)   挑戦し、新しい目標や経験をめざしていること

    5)   その人らしい独自性をもっていること  日常的には、目標に向か
    って積極的に生きている人は、「心の健康」が維持されているので
    はないだろうか。

 一般的に、スポーツマンの社会的性格の研究では、社交性、指導性、自己統制力等が優れているという報告が多い。企業が新卒の学生を採用する時点で、積極的にアスリートを採用するのは、思想面を含めてこの点を重要視しているのであろう。

Ⅵ スポーツと脳の働き 

 「健康な身体に健全な精神が宿る」という言葉がある。ローマの詩人・ユーベナーリスの言葉である。まず体の健康が基礎にないと、精神の健康はない。体の一部の脳という器官の中にある神経細胞がつくる神経回路網が働くと、精神現象(考える、悩む等)が発生する。精神、身体の健康な状態つまり精神的、肉体的に良好な状態を、英語で「フィットネス」という言葉で表現する。スポーツは競争するということが意味を持っていて、ルールに従って勝つことがゴールになる。競争は近代文明に根ざされたもので、だれもが逃れることの出来ない社会過程であり、スポーツで競争することは、脳の同じ場所を使うという点で、実社会にプラスに働かせる。負けるより勝った方が気持ちがよい。実社会に於いても競争原理がはっきりと存在している。ここではスポーツ理論・社会のしくみ等を論ずる場ではないので、削除する。要は健康な体をスポーツする事で、高年齢であっても作り直せる、そして健康寿命を維持出来る、今からでも決して「おそくない」「今からでも充分間に合う」そう信じて頑張ってみたいものである。

                         以上 













































あづま路 71号 平成27年7月

チェルノブイリ原発
    事故から
30

藤井 清司
昭和の日に寄せて 関口 利夫
深掘泰一氏と
   パラオについて
綿貫 昭
中高年を
 健康に生きるために
安東  達

サンクトペテルブルグ
       の雑感

二丸 雄策
国宝に指定されている
    五城について
依田 武敏
大木戸句会 川和 作二
 皆本義博さん逝去  栗原  弘




















































27-21

 チェルノブイリ原発事故から30
            
 理事長 藤井 清司

 たまたま夜のNHKニュースをみていたら、チェルノブイリ原発事故から 30年ということで、事故を起こした旧原子炉をコンクリートで覆う工事の状況が写されていました。工事は予定通りには進んでいないようですが、当面放射能汚染が拡がるという状況でもないようです。しかし今回、チェルノブイリを取り上げたNHKの報道姿勢は、矢張り偏っている(日本のマスメデイアすべてに通ずる)と思いました。被害者のことは取り上げるけれども、現場にいた従業員については無視しているのです。

あの事故は、ソビエト当局の運転ミスにより発生したとされています。しかし事故発生の直後に、何十人ものソビエト人(ウクライナ人)従業員が危険な現場に飛び込み、暴走する原子炉の制御に当っています。その結果彼等の多くは放射能障害で亡くなったのです。その尊い犠牲については、今回触れようともしませんでした。(福島原発事故の場合も、故吉田所長以下多くの東電社員・下請け従業員が、献身的に事態に対処したことは今になれば知れ渡っています。しかし福島事故発生時に、現場の従業員の対応振りを報道したマスコミは殆どありませんでした。)日本のマスコミは、事故が起きれば面白おかしく報道するだけで、現場の生身の人間のことを伝えようとはしない。一方被害者については、これでもかこれでもかとばかり、誇大妄想に伝えようとする。マスコミの報道をそのまま受け止めていれば、日本人は馬鹿になってしまうのではないかと思います。

 このような風潮に影響されて政・官界もおかしくなっています。気象庁による気象情報・予測も聞きようによっては、異常気象についての脅かしが過ぎるように感じられます。来たるべき震災に伴う被害予測に至っては、世界の中で日本人ほど、不運な国土に住んでいる国民はないのではないか、とすら思わせられます。

また福井の裁判官は、あの悪評高い原子炉規制委員会(小生はそう考えております)の規制基準ですら信頼できないとして、高浜原発の運転再開を差し止めました。今年の真夏日に大停電が発生しても、この裁判官は涼しい顔をしていることでしょう。現在の原子力発電の実態を、彼は勉強していないと思いました。ご本家のアメリカでは、GEもウエスチングハウスも、すべて日本の仕様に改良しているのです。このことを彼が知っていれば、差し止め判決には至らなかったでしょうに。

         

 それに加えて最近、首相官邸にドローンを侵入させた男が現れました。原発反対のために飛ばしたのだそうで、とんでもない人騒がせな男です。

 チェルノブイリ事故のニュースに接しているうちに、現実のもっと恐ろしい可能性に気付きました。日本の場合はさておき、現在多くの発展途上国では、原子力発電所の建設に大童です。その中には中国も含まれます。日本の技術を導入して、原発を建設しようとする国の場合は大丈夫(小生はそう信じています)でしょうが、コワイのは中国です。「中国の新幹線」事故でご存知の通り、誇り高い中華思想にまみれた中国当局は、当初は技術導入であってもすぐにこれを模倣した「自前技術」を開発します。しかしそのレベルは勿論低い。にも拘らず中国では、中国仕様の原子力発電所を何十基も建設中なのです。その信頼性がチェルノブイリ以下の水準であろうことは、容易に推測されます。もしも中国の原子力発電所で、重大事故が発生した場合はどうなるのでしょうか。

チェルノブイリ事故の場合とは異なり、無責任で自分本位な中国人のことですから、現場の従業員は皆逃げ散ってしまうものと想像されます。その結果原子炉の暴走は止まらず、放射能は近隣諸国にまで撒き散らされ、偏西風の風下にある朝鮮と日本は、大変な影響を受けることになります。日本のマスコミは、事故の恐れのある対象を見誤っているのではないでしょうか。

 
















































27-22

昭和の日に寄せて
                     関口利夫

 大正年の関東大震災の翌月に生まれた私は、物心ついてから朝日生命を定年で辞めるまで、まるまる昭和の時代を生きた。
 大正から昭和の初期までは平和で素敵な時代だったようだが全く知らない。世の中のことを意識し始めたのは、昭和11年中学に入った頃からだ。
 昭和12 年には支那事変が始まって、その頃から世の中が緊張し始めたようだが、その後戦局は徐々に深みに嵌まっていった。 
 私は軍人の道を志し14年末陸士に入校した。16年には大東亜戦争が勃発。17年末陸士卒業、翌18年春にはビルマに進駐していた野戦重砲兵18連隊へ赴任、19 年3月からインパール作戦に参加したが敗退、続くイラワジ会戦、メイクティラー会戦を経て、結局わが部隊は全滅状態で終戦を迎えたのである。
 部隊の火砲16: 門は全部破壊され、約3000名の兵員は500名を残すのみとなったのである。我が目の前で戦死する者、負傷する者を数多く目にした。
 戦争とは悲惨なものよとつくづく思ったものである。しかしこれは戦場の常であり、戦線に立つ者は既に覚悟していたものである。

 21年6月に復員したのだが、その後聞いたところによると、内地にいた人々のご苦労もまた大変なものだったのだ。備えのないところへ何時来るかわからぬ空襲におびえ、ろくな食料もなく、青年男女は徴用に駆り出され、そして大都市をはじめ何箇所も違法な空爆にあって命を落とした人も数多く、最後は広島.長崎への原子爆弾ということだった。内地にいた人々はいわば不意打ちを食らった訳で、何とも気の毒な事であった。
  昭和20年8月15日 大戦は終わった。しかし大都市をはじめ日本国内は焼け野原となったところも多く、食糧は乏しく、生き残った者の生活は決してまともなものではなかった。 だが生きていくためには何とかしなければならぬと、国民はがむしゃらに出来る限りの努力を強いられたのである。

 ところで、この間の昭和天皇は如何在らせられたであろう。昭和天皇は「無私」「慈愛」の人といわれております。
 大東亜戦争も反対であられたのに、立憲君主制であるため、お志に反してやむなく開戦のみことのりを発せられたのである。開戦当時は順調であったが、次第に戦局は芳しくなくなってきた。天皇は「早く止めよ」としばしば内閣に要請されたが、軍部がこれに応ぜず、遂に原爆を投下されるまでに行ってしまった。しかしそれでも止めようとせず、「本土決戦をしても民族の誇りを...」と軍部、特に陸軍が強硬であった。しかし天皇は「これ以上国民を犠牲にすることは出来ない」と終戦に強く踏み切られたのであった。
 そして8月15日の玉音放送となったのである。この天皇の一声で国内外約500万と言われる軍隊が、多少の混乱はあったにせよ概ね整斉と戦争を止めたのである。
  「こんな統制のとれた国は見たことがない」と世界の国が驚いたのであるが、昭和天皇のご聖断がなかったら、 誰がやっても大混乱に陥ったことであろう。終戦に最後まで反対だった陸軍大臣は責任を負って自刃した。

 終戦後、マッカーサーが駐留軍司令官に就任したが、天皇は早々にマッカーサーを訪ねられた。その時マッカーサーは「天皇が戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴えに来るのだろう」と思っていたそうである。

 ところが天皇は

「今回の戦争の責任はすべて自分にあるのだから、私に対してどのような処置をとられても構わない。ただ現在国民は飢餓に瀕している。米国にぜひ食料援助をお願いしたい」と仰せられた。

 マッカーサーはびっくりした。私は初めて神のごとき帝王を見た、お帰りの時は出口までお見送りの礼をとった。

  ...この事は、天皇とマッカーサーとの間で秘密にしようとの約束を

交わした事だったが、約10年後、鳩山内閣の時、重光外相が訪米時のマッカーサーから直接聞かされたものであるということである。

 昭和天皇は、復興の努力をしている国民の慰問と激励のため、翌21 年から全国の巡幸をなされたのである。国民と一体となって苦労を共にされようと思われたのであろう。振り出しは21219日神奈川県の昭和電工であった。

 *前にも書いたが。元SKK会員故深掘泰一(陸士56期)氏の所属する部隊第14師団歩兵59連隊が激戦地パラオから復員し、横須賀に上陸した時が、たまたま巡幸の日であり、期せずして昭和天皇の最後の閲兵を受ける栄に浴したのであった。

 

 ご巡幸は29年北海道まで、ご視察日数165日、全コース3,3000キロに及んだとのことである。九州の炭鉱では地下300メートルまでも下りられたとのことである。従業員は感激し生産量は五割り増しにもなったと言う。かくしてわが国は不死鳥のごとくたちあがり、39年のオリンピックをわが国で開催するまでになったのである。その後も経済大国になって世界を驚かせた。これみな天皇のお力あっての成果と言えよう。

 

 昭和63年末頃、天皇のご容態が案じられ、平癒を祈って国民が続々と宮城に集まった。坂下門に記帳所が設けられた。その日は雨の降る中であったが、人々は傘の波をつくっていた。私もその中の一人であった。

 6417日朝 崩御遊ばされた。

 

 「昭和の日」は、もともと昭和天皇のお誕生日だった。崩御された後は「みどりの日」となり、その後「昭和の日」と改称され、昭和を偲ぶ日となったのであるが、この長い激動の時代を、常に国民のため、世界平和のため、懸命にお歩きになられた昭和天皇のご事績を、親しくお偲びし感謝申しあげる日としたいと思う。

 また、この様な天皇を戴く日本のような国は他にないことを誇りに思うとともに、日本人に生まれて本当に幸せだと心から思うのである。






































27-23


故 深掘泰一氏とパラオについて
                           綿貫  昭

 平成27489日、天皇、皇后両陛下がパラオ諸島において大東亜戦争で戦死された人達の慰霊の為、パラオ国を訪問された。

 これは、パラオのレメンゲサウ大統領が昨年来日され、両陛下をお招きされた結果のSKK会員で平成161220日に81歳で他界された深堀泰一氏のことだった。理由は、深堀氏がパラオにおける日米戦の生存者であったからである。

 深堀氏は 群馬県高崎市の出身で、福田赳夫.中曽根康弘両元首相の出身校の県立高崎中学校(現高崎高校)で学び陸軍士官学校(56期)へ進み将校となって、終戦時は大尉に昇進していたが、復員後中央大学へ入り卒業。昭和25年朝日生命の幹部社員養成を目的とした講習生第1期生として入社。期待通り文書課長等の
要職を経て、不動産部長を最後に関連会社に出向。常務取締役や専務取締役等の役員を終え定年退職。その後、役職経験のある定年退職者の会「朝日生命社友クラブ」のクラブ報編集担当幹事として、飯倉豊司氏(
SKK会員)や私と共に約10年間苦楽を共にした間柄であった。特に私とは、同郷であることと、当時の住所が共に保谷市(現西東京市)であったことから、夕方新宿や池袋で「チョイと一杯」やることが多かった。その際の雑談の中で深堀氏のパラオに関する話が多々あったので記憶に残っていることを記して見たい。(以下 深堀氏談)

パラオは第一次大戦後、日本が統治することとなった南洋群島の中で最も大きな諸島で、30年間に及ぶ日本語教育で会話には全く不自由しなかった。

パラオ諸島は、日本から3千kmも離れているのに、内地からの移住者が非常に多く、現地人よりも日系人の方が多くなっているため、非常に日本軍に協力的で、老若男女を問わず我々と一緒に戦ってくれた。当時、現地人とかパラオ人と言う言葉はなかった様に思う。全部「日本人」だった。

パラオの守備隊は第15連隊(高崎連隊)だったので殆どの隊員は群馬県人だった。ペリリュー島には、高崎湾という地名があり、今でも使われている。

ペリリュー島の日本守備隊員1400人に対し米軍は約3万人の戦いで日本軍は勝てる筈はないと思っていた。

<注>最近の新聞報道ではペリリュー島の日本軍死者数1万人以上とある。その差8600人は? パラオ全体の日本軍死者は16千人。

パラオ玉砕とか、アンガウル玉砕等の言葉を聞くが全滅した訳ではない。苦しい戦いではあったが、関口利夫氏(陸士同期.SKK2代目理事長)の「二百里二人旅」の戦いに比べれば、楽だったとは言えないが軽い方ではなかったかと思っている。

戦後、パラオから復員船が横須賀に上陸した際、偶然昭和天皇が横須賀を訪問されていて、急遽復員兵にお会いされることとなった。深堀氏を含む復員兵全員の前で隊長(大佐)がパラオ戦の報告をし「武運つたなく負けてしまい申し訳ありません」と謝罪したが、後にも先にも復員兵が天皇陛下に直接お会いし、復員報告をしたのはこの1件だけ。このことは当時各新聞で大きく報道されたが、昭和天皇はこのことを皇太子だった現天皇にも伝えられている筈。いつか天皇にパラオへ慰霊訪問をして頂きたいと思っている。

パラオを守備していた高崎連隊の関係で群馬にはパラオからの帰還者や遺族で構成している「群馬県パラオ会」(昭和40年発足)があり、慰霊旅行、遺骨収集活動等でパラオとの関係を深めている。一例として、群馬県では有名な切り絵作家関口コオ氏の作品が、パラオ国の切手に採用されているが、この会が関与している由。(筆者もこの切手シートを購入した。)

 

以上の通りであるが、⑥ で紹介した深堀氏の願望が没後11年経過して実現されたことを心から喜びたい。改めて深堀氏のご冥福を祈る次第である。

なお、⑦で紹介した群馬県パラオ会は、生存者、遺族の高齢化や死亡で会員減少となり、天皇.皇后両陛下のパラオ訪問を機に発足後50年の歴史の幕を閉じたことを申し添える。



































27-24


  スポーツと健康Ⅱ           
中高年を健康に生きるために
                    安東  達

 あづま路 第70号で健康シリーズの最後とする予定であったが、講演でケーススタディとして、私の卓球歴と健康のために、半世紀後に再開したことのお話をしたが、欠席された会員の皆様にも参考にして頂きたく筆を執ることにした。

 終戦の翌年(昭和21年)4月、旧制中学の最後の入学生として、津山中学に入学した。終戦と同時にマッカーサー指令により「柔道」「剣道」が禁止され、剣道場に卓球台が置かれていて、先輩達が練習している姿を見、卓球部に入部した。津中は津山藩の学問所の延長線上にあり、現在の校舎に移設されたが、校門の正面にある木造建築の建物は、木造洋館として  昭和262人の先生と3年の選手、優勝旗カップ、盾
の建物で、国の重要文化財に指定、保存されている。文武両道の学校で、戦前「全国中等学校柔道大会」で6回優勝、剣道は一度の優勝がある。

 卓球も戦前から盛んな所で、第一回全日本学生
選手権大会個人戦で粟崎先輩が優勝している。東京歯科医専の学生の頃の事である。直近の卓球部の先輩の中に、私の入学時
4年生の“安田昇”さんという方がいて、金沢で開催された第二回國体(当時は個人戦)で準優勝(卒業後大阪大学文学部仏文科卒、仏文学者)2級上の先輩に2人の強い人が居たが、団体戦県大会で優勝し全国大会に出場することはなかった。
 私の卓球歴は、中3の時、岡山県中学選手権大会、個人戦、団体戦共に優勝、中学チャンピオンになった。高校3年の夏、全日本高校選手権大会団体戦が名古屋金山体育館で行われ、残念ながら準優勝に終わった。この年の秋、広島呉で第五回国体が開催され、少年の部で全国優勝したが、その時の代表メンバーの一人であった。この年の高校 選手権大会岡山県予選会で、シングルス.ダブルス共優勝し高校チャンピオンになった。
                大学時代ダブルススナップ 正面サウスポーが筆者

昭和27年、同志社大学に入学し、卓球部に入部、昭和28年の全日本学生選手権大会個人戦の部で、時の世界チャンピオンであり全日本チャンピオンであった日大の萩村伊智郎選手と準決勝でフルセットの末競り勝ったが、決勝は専
修大学の富田芳男選手に負け、準優勝に終わるも、この年が一番輝いた年になった。昭和29年の秋から1年間、日本学生卓球連盟の技術委員に選出され、勝負の世界だけでなく、マネジメント、又他大学のハイレベルの技術を持った選手との友情関係が結ばれて、今日迄交遊が続いていることに感謝している。卒業と同時にラケットを捨て、以来50年間ボールに接する機会はなかった。同志社大学卓球部OBが主力で結成している「クロ-バ-.クラブ」の忘年会の席上、後輩に進められその気になったのは72歳の時のことである。その時が体重73kg、身長172cmからすると太り過ぎではないが、当時“メタボ”毎年の様に健康診断で引っかかり、様々な薬のお世話になっていた。

 クロ-バ-.クラブでは、毎年一回 一泊二日で場所を変えて合宿を行っており、最初参加したのは7月末に熱海の伊藤園ホテル泊り、湯河原の体育館で練習を行った。半世紀ぶり、ボールが78ヶに見え、筋力なく足を取られ“ひっくり返る”始末。これでは話にならない、帰宅した翌日から毎朝5時起床、近くの運動公園でラジオ体操を中心に前後1時間計2時間程ウォーキング.ランニング.ストレッチを続け、1ヶ月で5kg体重が減少、4ヶ月で計12kg減り、筋力が付き、グランド一周フルスピードで走っても息切れしなくなった。4ヶ月後、当時から練習会場として使っている港区スポーツセンターに行き本格的練習に取り組むことにした。参加しているメンバーから、スリムになった私に“びっくり”。それ以来所沢のクラブ.小平のクラブ等で水曜、土曜は他に用件がない限りラケットを振り、白球を追いかけている。お陰様で健康診断では内蔵に悪いところはなく、医者も続けて下さい、中高年のモデルケースだと感心されている。快食、快眠、快便、あの世に行くまで続けたい。皆さんも参考にして頂いて、医者の世話にならずに日々を送られることを期待する。




































27-25

思い出の               
大サンクトペテルブルグ 雑感

              
     二丸 雄策

10年前の8月、ヘルシンキ経由して10時間のフライトでモスクワに着いた。

199112月、ソビエット連邦は74年の歴史閉じた。テレビでお馴染みのクレムリンに立つネギ坊主頭の聖ワイナリー寺院は世界的に歴史を残す数々の出来事をじっと見守ってきたのだろうか?かっての古都サンクト.ペテルブルグはロシアの人たちに、夢や希望を乗せて船出した。

 丁度サンクト.ペテルブルグ建都300年で成立の由来、歴史、景観など、どこから見ても、これは人類史上大きな出来事である。日本でそれに相応しい記事が出るのを楽しみにしているが、まだ見つからない。

 計画したのは、テレビでエカテリーヌ宮殿、エルミタージュ美術館とドイツから返還された「琥珀の間」が紹介されたので急に思い立った。そこから学んだ小さな旅の思い出を交えながら、世界Ⅰ級の名都に寄せるささやかな記録として、紹介を兼ね、感想文として留め置くことにしたい。

 一口に言えば「時間と犠牲をかけた都市計画」「傑出した芸術家の伝統脈々」と言えよう。300年前、当時の
ロシア皇帝ピョートルⅠ世が一念発起して作り上げた。それまでのロシアの歴史から大きく転換して「西に向けた窓」としての都市建設を構想した。自然発生的とは正反対の都市を作るには不適当な土壌と自然の条件の場所(ベネチアと共通点のある湿地帯)であり極北の気象に加え、洪水にも見舞われる覚悟の上で莫大な資材を注ぎ込み、無数の労働力を無理やり動員し、甚大な人的犠牲を厭わず
150年の歳月をかけ、やっと成し遂げた壮大無比のものだった。

元来、底なしの沼地みたいな所に、黄金の天蓋や尖塔を持ったバロック様式の荘厳な宮殿をはじめ大建築が軒を並べる大街路、広場は出現することになる。従来のロシアの木造を中心とした建造物ではなく、石造りという破天荒のものであり、その内部には外観に劣らぬ革新的な産業、文化、学問、芸術と言った面の充実が図られたものである。壮麗な面の裏の悲惨、貧困、苦痛と言ったものが計り知れない量と質が渦巻いてきた。この国の底知れぬ凄さはゴーリキ、ドストエフスキーらの文学となって結晶している。

「罪と罰」のこの街に放つ悪臭、行き詰まるような蒸し暑さと骨身にしみる寒さが、頭に叩き込まれている。この両面性は1917年の10月革命を通じても解決されなかった。この都市がレーニンの出生の地で革命後レニングラードと改称され首都の誇りをモスクワに奪い取られた後でも傑出した詩人音楽家は脈々と保たれている。

 モスクワもレニングラード.フィル、キーロフ劇場に取って代わるものはないと思う。言えることは、伝統的なヨーロッパの文化と比較すれば、都市、建造物、宮殿、協会等は表面的なきらびやかさと模倣の文化ではないかと思われる。

 しかし 日本の代表東京は近代的な街作りで、伝統文化は亡くなりつつあり、残念な事である。

(注)サンクトベルグ大学出身者、ウラジミール.レーニン、ソ連最高指導者、プーチン現大統領、メドヴェーゼフ現首相、ノーベル賞受賞者として、化学、物理、経済の各分野で、多数の逸材を輩出している。









































27-26

 


国宝に指定されている五城について
                  依田 武敏

 いままで国宝に指定されていたお城は四城であったが、今年新たに松江城が国宝に指定され、国宝は五城となった。

 

姫路城

 5年に及ぶ平成の保存修理を終えて生まれ変わった。

白亜の連立式天守、
    甦った美しい白鷺城

 

 

 松本城

 無駄を省いた実践的な工夫が生かされている。質実剛健な松本城

 

 

 

 

彦根城

 彦根山頂に多種多様な破風が彩る三屋の天守。玄宮園よりの展望

 

 

 

犬山城

 木曽川のほとりで美濃を睨む、国盗りの要諦となった犬山城。木曽川よりの展望








 松江城

「関ヶ原」の後に築かれながら、その漆黒の外観や、極めて実戦的な構造が特徴の城。今年国宝に指定された。




























27-27

  

大木戸句会 1月~5月雑詠
                  川和 作治

大木戸句会 1月~5月雑詠(作者五十音順)

 

                        飯倉豊司

建国祭蒼天高く晴れ渡る

春時雨物干す主婦を慌てさす


さ緑に朝日を受けぬ柿若葉


白木蓮文学館に花開く

 


                  
                      
  川和作二

早春の晴れ着まぶしき孫娘


新蕎麦の香りを先ずは仏前に


容良く富士裾野まで雪化粧


農小屋に肥料積まれて春近し

 


          栗原 弘

初護摩や読経の声盛り上がり

落日に遠富士見えし余寒かな

土手日向姫踊子草林立す

茶の花のほのかに白し日暮れ時

 


    

        杉野昌子

年の豆福は内のみ声張りて

ゆっくりと歩く坂道花吹雪

雪柳先の一輪咲き初むる

雨雫乗せて売らるる蕗の薹

 


         関口 湖舟

茫茫と槻の梢より春立ちぬ

花蘇枋事多き日の続きたる

初筑波やはら日返す柞原

孫兵衛てふ家号の墓や長閑なる







































27-28


常任顧問 皆本義博さん逝去

                
  栗原 弘

 本年46日皆本義博さんが逝去されました。92歳でした。SKKの公開講演会では稲田朋美さんを始め多くの政、財界人、学者等の講師の紹介を頂き、SKKの公開講演会を高いレベルに押し上げて頂きました。

 陸士57期、渡嘉敷の陸軍特攻に参戦、戦後部下の遺品を両親に届けるなど人柄の偲ばれる逸話も沢山残しました。戦後は自衛隊に入隊、米国陸軍に2年間留学、東郷元帥を崇拝していた、ニミッツ元帥の熱烈なファンでした。将補で退官。

 ユーモアにも富み、自宅の志木に、帰宅中のタクシーの運転手が「お客さん志木が近づきました」「そうか、俺もその年か」とユーモアを返す話も幾度か聞かされました。

 毎年実施されている長瀞宝登山の保守著名人の集まる会合を今年も楽しみにされ、無事終了したことを電話で伺いました。その後、肺炎を併発入院三日後に帰らぬ人となりました。

 皆本さんのSKKへの貢献に感謝申しあげると共にご冥福をお祈り申しあげます。
































 
 
あづま路