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あづま路 72号 | 平成28年1月 |
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テロ事件の痛ましい報 に接して |
藤井 清司 |
憲法改正間近か |
関口 利夫 |
特攻基地知覧始末記 | 安東 達 |
どうなるアベノミクス | 安東 達 |
寸又峡温泉への旅 | 依田 武敏 |
晩秋の蘆花恒春園と 世田谷文学館を訪れて |
近藤 美明 |
大木戸句会 | 関口 利夫 |
私のパソコン奮闘記 |
鈴木千代子 |
11月中旬パリで大規模なテロ事件が発生し、多くの犠牲者が出ました。いわゆる「イスラム国」の狂信者-同調者による犯行とされており、犯人の多くは高性能の爆弾を身に帯び銃を乱射して自爆し、多くの一般市民が巻き込まれました。これまでにないタイプの犯罪です。
民俗学者の梅棹忠夫は、その著書「文明の生態史観」の中で、世界各地の神々の気質について論じております。唯一神であれ多数神であれ、「その土地において閉じた体系をつくり.....体系外の神々が傍にいることを許さないのが、本来の性質である。」と述べています。宗教はともすれば、他の宗教、宗派との間に争いをおこし易いということです。
日本人の宗教心のような全般的に緩やかなものであれば兎も角、ガチガチの一神教であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教の間では、古来多くの衝突-紛争が起きています。しかし今回のテロ事件のような、一般市民に対する無差別な攻撃は、全く新たなタイプです。フランスは原子力空母を地中海に派遣して、「イスラム国」武装勢力に対する攻撃を強めておりますが、フランス一国だけでは、彼らを根絶やしにすることは困難でしょう。
「イスラム国」武装勢力は、シリア北部からイラク西北部を占拠しております。シリアのアサド政権は、反政府組織 –欧米諸国が支援- との間で内戦状態にあります。又イラク政府も弱体のままです。それに加えて、米国のオバマ大統領はレイムダックの状態です。今のままでは、中東の秩序回復の先行きを見通すことは極めて困難です。
これから述べることは、小生の乱暴な私見です。小生は、中東の秩序回復と、「イスラム国」武装勢力に対する徹底攻撃の二点を最優先すべきだと考えます。そのためには、イラク政府を国際的に支援する。シリアの反政府組織に対する支援は中断する。そして「イスラム国」武装勢力に対しては、国際的に連携して徹底した攻撃を加える。彼等に対して武器を供給する組織を摘発する等々です。
一日も早く、「イスラム国」武装勢力が消滅することを願っています。 |
いま、安倍首相は命を張って飛び歩いている。 過日安保関連法案が成立し、次の大目標は憲法改正である。私はこの問題が一刻も早く達成することを心底願う一人であるが、心配なことが一つある。それは国民投票をする人の大部分が戦争を知らないということである。それは即ち戦前、戦後の日本の歴史を知らないということであり、当然のこととして現憲法の成り立ちを知らない。そして「この平和憲法をなぜ変えなければならないのか、9条は世界に誇れるもので、これがあるから70年平和が守れたのに...」と思っているのである。
このようになったのは何故か...それはアメリカが約7年の占領期間中に、徹底的に日本人を洗脳したからに他ならない。詳しくは『日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと』高橋史郎著(致知出版社刊)を読むとよい。「ここまでやったか!」と驚く程であるが、今回はその中から決定的な二点を取り上げてみる。
1.日本の歴史を絶った
「その民族を滅ぼさんとせばその史を絶て」とは古来何人かの賢人が言った言葉だが、アメリカは完全にこれを実行した。
占領当初アメリカは「日本は侵略戦争をして敗れた。日本の過去はすべて悪であるから全部切り捨てよ、これから民主主義を学ぶのだ」と言って当時の学校の教科書ををはじめ、政府の発行文書、民間の図書、手紙などまですべて検閲して、少しでも歴史に関したものは抹殺したのである。
かくして日本国民は祖国の歴史を勉強出来なくなったのである。占領期間が過ぎて日本が独立し自由を回復しても、こんどは先生が教え方が出来なくなってしまった。教科書もろくなものがなかった。現在も文科省はおかしい、今でも高校で日本史を選択科目にしているなど言語道断、自分の國の歴史を知らずに世界史がどうして分かるというのか。
平成12年の講演会に招いた中条高徳氏の著書『おじいちゃん戦争のこと教えて』に載っている如く、アメリカなどに行く日本人留学生は、他国から来た留学生のお国自慢を聞くだけで、祖国日本の自慢話は出来ない。
自分がどんな国の人間なのか、誇りも何も分からないから話しようがない。本当に「根無し草」になってしまったのである。
正にこのまま行ったら民族滅亡であろう。ただ幸いにしてこの頃は近現代史を扱った図書が沢山出版されているから心ある人々には好都合である。大いに勉強して貰いたい。
ところで、現在の国会議員の中にも祖国の歴史を知らない人間が多くいるように思われるがどうだろう。
2. アメリカに都合の良い憲法を押しつけていった。
1)家族制度を廃し、個人の権利を強調した
そのため日本が大切にしてきた家族の温かさ、お互いを思いやる惻隠の情がなくなり、利己主義が助長され、道義心は退廃した。
嘘をつかず、卑怯を恥じとし、清潔に規則正しく暮らす...いわゆる武士道は微かに残っているが、親族の殺し合い、詐欺、大会社のごまかしなど数え切れないが、毎日いろいろな昔は考えもしなかったような事件が世の中を騒がせているのはそのせいだ。このところ毎日連続してニュースに登場している旭化成建材のくい打ち事件は、人が見ていなければ何でもすると言う、明らかに道徳心の欠如の代表的な問題であろう。
*平成25年5月9日の産経新聞に参議院議員中山恭子氏が、戦後不法にソ連によって抑留された日本人(約60万人内死亡6万)について次のように述べている。
「シベリアに抑留され中央アジアで重労働に従事させられた日本国民の働きぶり生活ぶりは、現地の人々に感銘を与え今も語り継がれている。66年に首都を大地震が襲い、周りの建物は全く崩壊したにもかかわらず、この劇場はびくともしなかったという。戦争に負け帰国出来るかさえ分からない中にあってなお、若者達は日本人として恥ずかしくないように陰日向なく働き、良いものを残した」
日本人の心の今と昔の対照的な話である。
2)国軍を無くして国防の観念をなくした 独立国であれば、国民が国を衛ることは当たり前のことであるが 日本を狙う国にとって日本の憲法は紙屑同然なのだ。しかし、 *参議院議員佐藤正久氏は、月刊「日本の息吹」9月号に次のように書いている。
「国際的な世論調査<世界価値観調査>で、「戦争が起こったら国のために戦いますか」との設問に「はい」と答えた人の割合が日本は約15%で約80カ国中最下位です。一方、別の世論調査で、自衛隊の支持率は90%を超えています。つまり、いざという時は「自衛隊さんお願いします、でも私は知りません」という平均的な国民意識なのです」 ここまで情けない国民に成り下がってしまった。すべては現憲法の成せる技と言える。前にも書いたことがあるが、日本人は青年期に男女を問わず、1ヶ月くらい、自衛隊か警察署か消防署かに入って、規律ある生活を体験させると随分と違うのではないだろうか。
日本の国には立派な歴史がある。その歴史に相応しい、日本人自身が作った憲法の一日も早い実現を切望する。 (h27.11.11.記)
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9月18日の公開講演会は、ノンフィクション作家の佐藤早苗氏にお願いし、特攻隊員側に立った長期にわたる取材、証言、資料に基ずく講話で、戦後70年の時を経過し、太平になれ切った今日、特攻兵、その家族、恋人等々、当時少年時代であった私には知るよしもない真実の姿を拝聴し、胸 にせまるものがあり感動した。出撃前夜、島原トメさんの経営する富屋食堂で仲間と酒を酌み交わし、娑婆との最後の夜を過ごした。食堂の娘、赤羽礼子さんの話、その一族の人間模様等々。 欠席された会員の皆様には、光人社発行の『特攻基地知覧始末記 特攻隊員異聞』をぜひ一読されるようおすすめする。(ベストセラー作品)
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28-04
11月18日の講演会は、板垣氏にお願いし『アベノミクスと日本経済』について講演を行った。バブル崩壊後失われた20年、二度目となる安倍政権は、デフレ脱却、2%の物価上昇の目標をかかげ、“三本の矢”を基本とし様々な手を打ってきているが、その現状を分析し、消費税.TPP.原発と多岐にわたっての内容であった。90分の講演ではポイント解説であったが、続いての懇談会で出席会員からの質問に答えて戴き、非常に質の高い講演であった。当日のレジメを添付しておきましたので参考にして下さい。
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例年より1時間早い出発を、もう少し早く出発したく、旅行の一週間程前に、汽車の出発時刻、道の混み具合などを考え、出発予定時刻より 15分前、7時45分に集合して戴きたい旨手紙を出したところ、皆さん気配りをして下さり、7時30分前に全員集合、上野駅公園口を7 時30分に出発しました。 上野から首都高速に入り東名にむけて順調に走ることが出来ました。11月16日から27日の間東名高速、東京-沼津間の改修工事が行われている中、横浜町田IC辺りから渋滞が始まり、時速
10km位で走り、海老名SAを過ぎた頃から平常の走りになる。秦野中井あたりでもう一度低速に落ちたが、その後は順調な走りに戻る。第 2東名に入り時間が読める様になる、新清水SAで休憩を取る。さすが新しい道でSA内も綺麗で気持ちが良い。駿河湾も望め、日差しもあり海がきらめいていて美しい。富士山の雪を被った頭の部分だけが雲の間から浮いている様に見えた。
運転手の渡辺さんが先に着いていて改札口で待っていて下さった。バスの駐車場まで約 200m、トイレを済ませて、またここからバスの旅、寸又峡温泉まで山道を走ること約1時間少々、先に行く程道幅が狭くなり、時々すれ違う車は互いに待ち合わせながらすれ違う。以前経験した山形月山八合目での運転者泣かせと言われる道と同様、杉林、紅葉、黄葉を目に楽しみながら、寸又峡温泉に着く。フロントで部屋割りをし、各自荷物を部屋に置いて、再度フロントに集まる。 夢の吊り橋まで散策に出る。約一時間の散策。夢の吊り橋は一方通行、吊り橋を渡ると急な山道を登らなければ帰えられないので止める。途中常緑の杉林あり、紅葉が重なり谿谷の絶景を楽しめた。トンネルを抜けると、舗装道路より急な階段を降り吊り橋まで降った。ここで吊り橋を背景に記念写真を撮る。 のんびりと宿に戻る。今日の宿は寸又峡温泉奥大井観光ホテル「翆紅苑」である。 宿に帰り、6時の宴会までは2時間あまり、お茶を飲みながらしばし歓談したり温泉を楽しんだりした。 5分程 前に宴会場に揃う。添乗の中里さんも入れて15名指定された席に着く。大部屋を二分した宴会場はカラオケが用意されていた。堀川さんが宴会余興プログラムを作って下さり、会食を初めてまもなく余興に入った。富樫さん堀川さんのデユエットに始まり、堀川夫妻のオカリナ演奏、「紅葉」「夜明けの歌」などの合奏、続いて栗原、志田、佐々木さんによる尺八演奏 3曲を楽しむ。「同期の桜」「静かな湖畔」「知床旅情」等合唱、輪唱が続き、最後に賛美歌「もろびとこぞりて」「きよしこの夜」の合唱を楽しむ。カラオケにうつり佐々木さんの熱唱、もう少し楽しみたいと思いつつお開きとなる。 二次会は幹事室で、持ち込みは酒、ウイスキー、残った焼酎にグラスを用意して始まる。添乗の中里さんも参加で、歓談、楽しい一時を過ごしました。お風呂に行く方、寝る方等それぞれで一日は終わる。
ビル街がイルミネーションで飾られており綺麗である。家に着くまでが旅、お互いに気をつけて帰宅をと話し合い解散する。渡辺さん(運転手)中里さん(添乗員)にお礼をして帰途につく。今年の旅行会も無事終了したことを感謝しつつ。 |
10月30日心配していました空も、爽やかな秋晴れとなり、絶好のピクニック日和を迎えました。
19名の参加者が、午前10時に芦花公園駅に集合。歩いて10分足らずの世田谷文学館に立ち寄り、世田谷の地に集まった、作家、文化人達の作品.遺品など、興味深い展示品の数々を鑑賞しました。
蘆花と愛子夫人は、明治40年(1907)より昭和2年(1927)永眠するまでの20年間、人生の後半をこの地(北多摩郡千歳村粕谷366番地)蘆花恒春園で生活していました。館内には書籍、原稿、書画、生活用具その他遺品が展示されていました。
11時50分頃記念館の近くの広い公園の木の下に、車座を作って楽しい宴を始めました。会で用意したお茶、ジュース、ビール、ワイン、おつまみ、会員の方より寄付いただいた
3時前に正門で解散しました。
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飯倉豊司
梅雨明けや久方に見る碧き空
見渡せばパッチワークか葡萄畑
晩鐘の静かに届き涼新た
友からの新米嬉し手の平に
白木蓮狭庭に高く空目指す
川和作二
富士見ゆる終の住処よ若葉風
風鈴や祈祷師しばし息静め
一笛に衆しずもれり夏芝居
図書館の席は満席いわし雲
秋時雨寄り添う親子ひとつ傘
栗原 弘
ポストまで古きなじみの麦藁帽
踏み惑う百日紅の散り小花
上州路芒の奥に町かすむ
葉を揺らし轟き落つる秋の滝
朝寒や味噌汁の湯気恋しかり
杉野昌子
夕立やかばん頭に乗せ走る子ら
秋雨の一日となりぬ書に励む
いもの葉や雨の雫をまろばせて
木犀の香に誘はれ夕散歩
秋茄子のいびつなれども味は良し
関口 湖舟
八重くちなし我が復員日に男の子生れ
百合咲くや空一杯の夕茜
超然と立てる大仏雲の峰
粒ごとに美しき光やみむらさき
秋天や影絵となれる塔高き
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私は現役時代、保険会社に勤務していました。大分前のことですが、仕事の内容は、申込書の入力、会計、事務、その他でした。 姉宅に遊びに行くと廊下にパソコンと数冊の本が置いてありました。「あれはどうするの」と姉に聞きますと、来週にでも破棄するとのことでした。私は譲り受けて、丈夫そうな紙袋を二枚重ねにして入れ、持ち帰りました。 パソコンは姉の亡夫の遺品で、東芝の初期の製品とのことでした。私は教本を片手に、新聞の記事、お茶に、グループの住所録、賀状など色々作成して遊んでいました。 その後、関口氏に勧められてSKKに入会しました。事務担当にまでとは思ってもみませんでしたが、これが苦労の始めでしょうか? 頼りない事務方ですが、皆さまがた、何卒宜しくお願い致します。
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あづま路 73号 | 平成28年7月 |
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イギリス AU離脱! | 堀川 幸夫 |
面白くなければ 人生じゃない |
安東 達 |
『菊水の光芒』 |
川崎 賢治 |
國學院大學博物館と 渋谷区郷土博物館. 文学館の見学報告 |
近藤 美明 |
二丸 雄策 | |
藤の花を楽しむ |
依田 武敏 |
岩櫃山 登山 | 栗原 弘 |
大木戸句会 | 川和 作二 |
イギリスがEUから離脱する! 去る6月24日、イギリスは国民投票を実施し、EUからの離脱を求める投票数が過半数を超えた。 キャメロン首相が辞意を表明し、離脱交渉は後任に委ねるとのことである。 イギリスに拠点を置く企業の中には、早くもEU市場での企業活動を見直し、本部機能の移転を検討するなど影響が広がっている。
離脱派が支持を得た理由の一つには、移民問題が有るらしい。
安価な労働力として重宝される一方で、治安の悪化や職場を奪う存在として排斥されやすい対象でもある。宗教や民族、言語の違いを理由に他を攻撃するのでは何ら問題の解決にならず、国家の分断に繋がる虞れも指摘されている。
テクノロジー失業
先進国の雇用を奪うと云う面では、何も安価な労働力の流入に限ったことではない。 おそらく近い将来に、人間が携わる仕事の半分近くが、ロボットやAI(人口知能)によって代替され、人間とロボットが同じ職場で共に働き補完し合う労働形態が一般化する。ロボットは学習を重ねることで短期間にスキルをアップさせるので、全く同じ業種、領域なら人間は完全に打ち負かされる。
人間が負けない仕事とは何であろうか? 19世紀イギリスでは、機械打ちこわし運動で動力を否定したが、産業革命の流れを止めることは出来なかった。
これからはロボットやAIに出来ない新しい分野が開発され、それが社会の変革をもたらすと予想される。内向き思考はこれに逆行するのではないだろうか。
オバマ大統領がヒロシマで献花
しかし、かって戦った敵国の大統領が被爆地を訪れ、花を捧げるというのは誰が見ても和解の印であり、素晴らしいことではないだろうか。
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28-22
3月18日(金)の公開講演会は、日本航空パーサーから[(株)日本成功学会]を設立.その代表として多くの分野で活躍されている、黒木安馬氏にお願いして講演を行った。
氏のタイトル通りの「面白くなければ人生じゃない」ロング社、「出すぎる杭は打たれない」サンマーク出版は共に50万部を超えるベストセラー作品、是非一読されることをおすすめしたい。
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楠木正成は南北朝時代(1330年代)に南朝を支え、日本の歴史の中で燦然と輝く忠臣である。
その孫に当たる正能が開創した曹洞宗の霊壽山“耕雲寺”が私の故郷.越後村上の北端、緑深い山麓にただずんでいる。耕雲寺は末寺八十、孫寺を合わせると八百にも及ぶという。曹洞宗本山の永平寺総持寺に次ぐ大寺院で、徳川時代には十万石と同じ格式を持っていたという。
私が耕雲寺を知ったのは小学校三年の時遠足で行ったのが初めてであった。しかし学生時代には耕雲寺は大楠公楠木正成の孫が開いた寺であるということだけで、その歴史や、何故越後の山奥に建立されたのかということについては全く語られていなかった。耕雲寺が偉大な寺院であるということを知ったのは就職して村上を離れ、耕雲寺について造詣の深い方々にお会いし、教えられたためである。
今日でも村上から耕雲寺に行くのに交通機関が不便で苦労するのに、あの南北朝時代に他国からよくぞ耕雲寺にと思った。大楠公の名声が如何に国内に広まっていたのかと痛感した。
その後村上に帰郷する度に耕雲寺についていろいろの人に会って、その歴史を尋ねて回った。
一人は鈴木鉀三氏である。氏は村上地方の神社仏閣の歴史や代々の村上城主の業績を調査してこられた方である。氏により耕雲寺は現在寺が建立されている門前町から山辺里川を80キロほど遡った大粟田という山村に最初庵を結んだという。この大粟田は戦いに敗れた楠木の家来達が逃れて住み着いた村で、その縁を頼って正能が能勝と改名して庵を結んだということを知った。ここで大きな疑問は河内を中心に活躍したかなりの数の楠木の家来達が何故越後村上の山奥に住み着いたかということである。一つの解明は村上の北端に朝日連峰に端を発する三面川という鮭の遡る事で有名な川があり、その本流の奥に平家の落人の住む三面村がある。大粟田は三面川の支流、山辺里川の奥であるから、この三面川に深い関係があるのではないかと考えられるが確証はない。
次に風間広吉氏について述べる。彼は旧村上中学の同級生で、中学卒業後、宇都宮高等農林学校に進み林業を専攻した。卒業後、村上桜丘高校の林業科に教師として勤務したが、そのかたわら耕雲寺の山林の管理に携わっていた。
耕雲寺の山林は見事な樹林でその木材の伐採が寺の運営に役立っていたという。
開祖能勝は林業に詳しい僧で、雲水を鍛えるかたわら、山林育成にも注力していたのだ。そのお陰で現在耕雲寺の山林は新潟県では著名な森林公園となっている。
時うつり、取締役に選任され、月一回の取締役会に出席することになって、監査役の小池明氏に会う機会が出来た。小池氏はNECの副社長で日本監査役協会の会長も兼務されておられ、激務のかたわら楠木一族の業績を探求して来られた方である。特に耕雲寺の創設者、能勝の父正儀については特別なご意見をもたれていた。南北朝の歴史書「太平記」には正成および長男の正行、次男の正時については褒めたたえているが、三男正儀については心に締まりのない優柔不断の人と酷評している。小池氏はいろいろ史実を調べられた結果、正儀は君臣和睦を貫いた忠節の武将であると反論しておられる。正儀は小学校時代の国史の教科には出ていなく、又能勝の父であることからいろいろ教えて戴いたが、大粟田の件は解明されなかった。そこで私が企画して小池氏を村上に招き、前述の鈴木氏、風間氏と4人、一晩大粟田の件について遅くまで話し合った。そして翌日、車で山奥の大粟田に出かけた。大粟田は山に囲まれた山村で過疎化が進み十戸ほどになっていた。その半数は『河内』性であるという。村の裏山中腹に寺屋敷と称されるところがあった。耕雲寺発祥の場所だというので暫くただずんで当時を偲んで帰途についた。大粟田に来た謎は解けなかった。
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5月26日雨が降り出し27日は朝から雨でした。しかし大降りする様子もなく、大学の博物館と渋谷区の文学館は、バス停より2,3分の所にあり、雨傘をさせば濡れないですむので不安はありませんでした。
参加者は21名 午前10時40分頃、渋谷区博物館.文学館へ入場し、40分ほど見学しました。
明治.大正.昭和の時代、渋谷には多くの作家.文学者.音楽家などの文化人が、のどかな田園都市に住んでいた様です。その証拠に「春の小川」は尋常小学校の唱歌(作詞高野辰之 作曲岡野貞一)として歌われたものですが、このモデルになった川は河骨川(かぼね)で、現在の小田急参宮橋付近から流れだし、小田急の線路の沿って流れていたようです。現在は恐らく巨大な暗渠となって排水に使われていると思います。渋谷区文学館長の談話です。
午前11時30分ごろ きれいな大学レストランで、12時50分ごろまで、大学食堂コンクールで金賞に輝いた和定食をいただきました。安くて
1.國學院大學の建学の精神 2.国学の研究
3.神道の学問的研究
4.神職の育成
5.伝統文化の研究(継承)
現在日本の大学博物館の中で、その規模と所蔵品の数量は日本一である。日本一の展示室を持っているが、所蔵品が莫大な量なのでごく一部しか展示できない。考古学の研究には大いに活用している。
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大阪から東京に勤務、高円寺の社宅から荻窪に、マンションを持ち、子供の成長と共に、府中に居を構え四十数年の月日が経った。地域社会に生きるため、近所に引っ越してこられた方に進められ「府中多摩川楽走会」のメンバーに登録された。 例会が日曜日、祭日は仲間と共に走ったり、歩いたりで、健康管理に努め、いつの間にか30年が過ぎた。
今年の4月10日(日) 仲間と共に、南アルプス桃源郷マラソンに参加、何時も今年が最後の市民大会と思いながら、参加するのだが、小生にとっては忘れられない場所である。
24年前、アップダウンのある厳しいコース、20kmのハーフマラソンに参加し、5月の終わりにメルボルンのフルマラソンに参加完走した思い出の場所である。 その時の思い出を、オーストラリア旅行とマラソンの雑感と
我々の旅の、最初にメルボルン郊外の美しいアルバート湖面に面した「ラジソンホテル」に宿泊したことは、我々のオーストラリアに対する印象を非常に良くした。特に早朝ジョギングでアルバート湖畔を暗い中を走り始め、朝日が上がるにつれて、紅葉した木立が影を落として見え始めた風景は本当に良かった。また町も落ち着いた古い建物が多く、広い公園が各所にあり、トーチラン、マラソンと共に風景を楽しみながらゆっくりと走ることが出来た。
これに対してシドニーの街作りのあり方は一寸異なる。大阪の活力を連想する。1587年5月、イギリスはその南海岸の軍港ポーツマスから二度と帰国することがないであろう移民団を送り出した。約8ヶ月もかかって翌年の1月26日、シドニーに上陸した日が建国記念日になっている。何時も望郷の思いに駆られながら、各地にイギリスの地名を付け、懸命に町作りに励んだように思われる。
シドニーは「オペラハウス」を持ち我々を感嘆させた。現在のオーストラリアはイギリスのEC加盟により、従来のイギリス一辺倒から、貿易相手国として日本、アメリカに顔を向けているようだ。我々の利用したカンタス航空主催の「メルボルンマラソン」はその一貫かもしれない。
5月31日、ラジソンホテルを6時30分、スタート地点のグランドで仲間のリードで軽く予備体操、気持ちを落ち着かせ、体調を整える。場内を流れるメロディも太鼓の音もあまり聞き取れなくて緊張感のみが、頭の中を走る。
生まれて初めてのフルマラソン。しかも海外。LSD(Long,Slow,
Distance)と自分の心に言い聞かせて町中に入る。仲間が見える距離で走っていたが、いつの間にか遠く彼方で見えない。海岸線が長い。写真を撮りながら楽しく余裕のある仲間に出会い励まされ、元気を取り戻す。25km地点から足が思うように動かない。“もう駄目だ”と思うが走るしかない。何とか完走したい気持ちで一杯。気力で走っている。35km地点、宿泊したホテル近くのセントアルバート公園でSTAツアーの焼津の女性集団から応援のチョコレートを貰って励まされたが、空腹と披露は極限状態で動かない。
前を歩いていたメルボルンの学生(?)に『レッツゴー』と声を掛けたら走り出した。彼女のゼリビーンズの入った筒が狙いだった。慣れない英語で話しながら、男の子がいる若い奥様だと分かり、ご主人がゴールに迎えに来ているとのことで、お互いに励まし合いながら、ワンツーワンツーのかけ声で走る。
やがてゴールのメイン通りに出るが、長い長い通りで足が動かない。走っては歩き歩いては走り、ゴール100メーター地点でご主人、仲間のカメラマンが出迎えてくれた。これが走る限界だった。タイムはどうでもよかった。
走りきった感激と助けてくれたメルボルンのミセスの握手が、激しく美しいドラマを締めくくってくれた。
家内の嬉々とした声、声援してくれた仲間の声と共に 完走記念メタルが光る。
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快適な日、久しぶりに城峰山の新緑を見たくなり、車を走らせる。金鑚神社(武蔵二宮)を左に見て峠を下り、神流川を渡り鬼石町に入る。ここから下久保ダム迄の山道に薄紫の花が目に付く。山藤の花と桐の花だ。久し振りの道で左折する道を見落とし、少々走ってから間違えたことに気づき反転する。ダム湖の上の道に入る場所を探す。トンネル手前まで戻りようやく見つける。ダムの上を走り埼玉県に戻る。城峯山への道、つづら折りの道を登ってゆく、ようやく頂上近くの駐車場に、車を止め、そば屋を探すが閉店してしまっている。頂上近くが広場になっていてバンガローなどがあったことを思いだし、徒歩で登って行くと売店と事務所があり、そこで昼食を済ます。何組かの客が新緑を楽しんでいた。ゴールデンウイークなのに大変のどかな雰囲気、あまり見るものもなく、昼食後山を降る。埼玉県側の道を下っていくと、途中釣り堀などもあり、家族ずれの子供達が楽しんでいた。三波石の集石場などもあり、462号線に戻り、神流川を渡り、神泉町役場のある町の中心部に入る皆野に向かう峠道に入り、しばらく走ると右折 皆野 吉田 左折 児玉 本庄への看板あり、左折して長泉寺に向かう。長泉寺の境内、藤は見事なもので、古い木は650年の歴史を持つ、紫の藤棚があり、1本の木で縦横25m程の藤棚となっている。白藤は250年の歴史を持った、それは
帰路熊谷の喫茶店でコーヒーを楽しみ帰宅する。
翌日4日も日帰り旅行で「あしかがフラワーパーク」の藤を見に行く。太田市の北部運動公園の芝桜ネモフィラと館林の「つつじが岡」公園のヤマツツジも見学コースに入っていたが、こちらは盛りを超えていた。
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平成28年度の大河ドラマ「真田丸」は順調な滑り出しで、視聴率も比較的高いようです。真田の城として岩櫃城がクローズアップされ、かって登った岩櫃山、下山時に通過した本丸跡を懐かしく思い出しました。
岩櫃山は草津方面に向かう吾妻線、中之条を超えて無人駅の郷原駅の北に聳える標高597メートルほどの岩山です。低山ながら岩山のスリルも供え登山者には人気の名山でした。
平成14年11月10日。岩櫃山の紅葉と岩場の素晴らしさを求めて参加を申し込みました。当時、私は好山好山旅会に所属山歩きを楽しんでいました。
無人駅の郷原駅下車、車掌が切符を受け取るがメンバーの何人かが乗り越し精算、5分程はかかったと思われるが、遅れなど気にしないローカル線ののんきな列車だ。
下りは群馬原町方面に向かって緩やかな、今を盛りの紅葉の雑木林を歩く。明るい尾根上の道を行き「岩櫃城本丸跡」のベンチで休憩。ここからは10分ほど歩いて駐車場に下山する。
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飯倉豊司
山茶花や盛りの長き宮の垣
甘き香の足とめにけり夜の梅
靖国の桜賑はう顔合わせ
七草や妣思い出す囃し唄
栗原 弘
合格の知らせ届きし春一番
寒風にしぶきを散らす荒岬
ふる里や梅の盛りの一周忌
峰二つ初日に映ゆる遠筑波
杉野昌子
晴れ渡りこぶし咲く道お茶会へ
囀りの一樹の下にバスを待つ
蕗の薹さ緑こぼす畑の隅
窓越しに星瞬きて山眠る
関口 湖舟
嫁ぐてふ孫の便りや梅盛り
杖つきて翁見上ぐる はなこぶし
終の句会芍薬の芽のほぐるる日
除夜の鐘六十余年の二人旅
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