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平成29年度

74号

75号7月発刊









































74


  

あづま路 74号 平成29年1月
巻 頭 言 堀川 幸夫
あの時、ぼくらは13才だった 安東  達
「人生は旅である」 安東  達
「我が青春の賛歌」 二丸 雄策
旧芝離宮恩賜庭園 近藤 美明
真田丸を巡る旅 依田 武敏
整形外科「赤司先生」 安東  達
 75年前の沼津の生活 綿貫  昭
 小牧営業所の思い出  栗原  弘




















































29-01

巻 頭 言            
               SKK理事長 堀川 幸夫
 平成29年 明けましておめでとうございます。今年のお正月は晴天に恵まれ、初詣に出かけられた方も多いと思います。私は毎年の恒例として、家族全員で近くに神社にお参りし、家内安全、無病息災を願って手を合わせてきました。  さて昨年はNHKの大河ドラマ“真田丸”が人気となり、SKKの旅行会でも11月に信州上田 上州沼田を訪ね ボランテアガイドさんの熱心な説明に耳を傾けてきました。この歴史ドラマで私の一番の興味は、真田家が生き残りを懸け、戦国武将との権謀術策を駆使した戦いのストーリーでした。真田家は小藩で一豪族ぬ過ぎず、北条、武田、上杉といった大藩に囲まれ、終には徳川との戦いになり、信州上田城から大坂冬の陣へと続く因縁の物語で、結論的には豊臣家は滅びますが、真田家は明治へと続きます。さて家康ですが、当時としては珍しく長寿で、冬の陣の二年後に75歳で亡くなっています。家康は「長寿こそ勝ち残りの源である」と考えていて「食事へのこだわり」と「からだの鍛錬」を常に怠らなかったと言われています。

 思えば私事ですが、私の亡き父も94歳まで、よく食べよく働き、身だしなみや身の回りはいつもきちんとしていました。朝起きたら先ずワイシャツを着てネクタイを締め背広を着る、それが習慣でした。父だけでなく明治生まれの人は、けじめを大事にして生きていたのかなと、言葉では言い難いですが、ある種の気骨を感じます。お陰様で父は96歳で天寿を全うしました。日本は今世界一の長寿国ですが、これからは「健康寿命」をいかに永く保つかが大切になるでしょう。

 さて、SKKは今年も理事全員の努力と涙ぐましい奮闘で、各種の事業を行って参ります。

 どうぞ 会員の皆様におかれましても、リフレッシュ(啓発)と、会員相互の「懇親」を基本理念とするSKKの事業活動をご理解いただき、各種の事業活動に参加して下さることを願います。毎日を「是れ日々新しく」清々しい気持ちで過ごせたらと思います。
 年頭に当たり、SKKのますますの発展と会員及びご家族の皆様の健勝を記念いたします。








































29-02

 公開講演会 日韓友好史(平成28624日偕行社)
   「あの時、ぼくらは13才だった」
                                安東 達

 624日、テレビプロデューサー.寒河江正氏にお願いし、誰も知らない ”日韓友好史”の講話を行って戴いた。

 昭和204月、日本統治下にあった朝鮮半島の城津中学(現北朝鮮)1年に入学間もない時のことである。当時禁止されていた朝鮮語をクラスメイトの少年が思わず口走ってしまい、級友に”いじめ”に遭っていた。その時朝鮮人少年をかばい「朝鮮人が朝鮮語を使って何故悪い」と一喝、その場を納めた。その時の少年が羅逸星少年だった。昭和208月終戦となり、家族とソウルへ逃げ引き上げ難民、命からがら日本へたどり着き、父君の故郷仙台へ帰った。その後仙台で高校を終え同志社大学に入学、文学部で新聞学を学び、グリークラブで青春を謳歌、卒業後は放送人として、現在も第一線で活躍されている

 一方羅少年は、韓国.延世大学教授になり、天文学者としても名を馳せて居られる。

13歳で別れた二人の奇跡的な再会は41年後の昭和61年、金浦空港で実現。わずか4ヶ月の中学生活の一コマを寒河江少年は忘れていたが、羅少年ははっきりと覚えていて、戦後、NHKの「尋ね人の時間」や日本人の知人らを通じて探し続けて居たのだ。ソウルでの再会は二人だけでなく、当時のクラスメイト12人も駆けつけた、感動のドラマだった。以後、グリークラブのOB会「クローバークラブ」を主体に日韓民間交流が続いている。平成23年、二人の共著「あの時、ぼくらは13才だった」を発刊。全編二人の対話形式で、あの時の小さな事件を皮切りに、ソ連軍の参戦、日本人の壮絶な帰国行列、朝鮮戦争、それぞれの学生時代、二人の友情と少年時代の心を通して語られている。その少年目線で語り合う素朴な対話が、生々しい歴史の現場に誘ってくれる。「今なら二人の記憶は、はっきりと心に刻まれている。単に二人の友情に止めてはいけない」とセピア色に染まった記憶を掘り起こし、発刊された。

 氏の講演会ではスライドを使って話を進めていただき、心に残る講話であった。








































29-03

   公開講演会(平成28916日偕行社    
    「人生は旅である」
     =時代とともに変わりゆく「観光」と関連産業=  安東 達

 916日、近畿日本ツーリストで要職を務められ、北海学園大学を始め、立教大学、桜美林大学で教鞭を執られ、現在、北見市観光大使をなさっている松本益弘氏に”旅”のお話をお願いした。松本氏は当会の会員 二丸雄策氏 私、安東と学部は違うが同志社大学の同期である。

 講話レジメを添付してあります、参考にして下さい。

 1)旅行の移り変わり

 2)観光関連産業の対応

 3)自分にとっての旅

 

観光庁が平成20年に講じようとする施策等について大変参考になるお話でした。















































29-04

         「我が青春の賛歌」
           
                          二ノ丸 雄策

学生時代、京都 岩倉にあった紫明寮という30人そこそこの小さな寮での4年間を過ごした。この寮は戦前農協の事務所だったものを、大学が買い入れ、寮に改造したものだけの木造2階建で昭和26年に開寮、32年に取り壊されて、今は中学校の一部になっている極めて短命の寮であった。

 だがそこで一時期を過ごしたものにとっては、終生忘れることのできない思い出の地であり、時折アルバムを捲っては、失われた建物と帰らざる青春の思い出を馳せているのである。

 50歳半ばの声を聞く年代になり、人恋しくなったのであろうか、30余人が集まってきた。実に4半世紀ぶりの再会、北は北海道、南は九州に至るまで青春の志を抱いただけに卒業後も全国に散らばって、高度成長時代を必死に生き抜いてきた仲間達だ。

 学校から帰ると“おかえりやす”と言うやさしい京都弁で暖かく包んでくれた寮母さん、発会式開催の時、喜寿を迎えた数年後で、東京まで杖をつき京都から出かけてくれたが、“長生きして本当に良かったですわ”と言って手を合わせた姿に胸が締め付けられた。それぞれの髪に混じった白髪が時の移り変わりを物語っていたが、“よう 久しぶりだったな”と手を握り、肩を寄せ合った瞬間 30年前の「貴様」と「オレ」に戻ってしまう。ビジネス仲間では味わえない一味も二味も違った華やかで賑やかな小宴であった。そろそろ老後のことに関心が移っている世代だが、二次会に繰り込んだクラブでは、やはりカラオケ、学生時代には経験もない一面を披露してくれた。

 帰宅したその夜は興奮のあまりとろとろ眠られぬまま朝を迎えたほどであった。「オレもこんなに騒ぐ血が残っていたのか」と思うと愉快でもあり痛快でもあった。傍らの女房に「あなたもそれだけ年
をとった証拠なんですよ」と一笑されたのには参った。それでも鮮やかに青春を蘇えらせてくれた仲間に 乾杯!といきたい。

 それから20数年たち、他界する仲間の知らせを受け、過ぎ去った青春を思い出しながら、毎年11月 寮の会合「紫友会」を楽しみにしている。 







































29-05

   又旧芝離宮恩賜庭園鑑賞と  
      NEC倶楽部会食の集い

                                             近藤 美明

 1014日会員18名がJR浜松町北口に集合、2分ほど歩いて旧芝離宮恩賜庭園に入園しました。秋たけなわの日和でした。

 旧芝離宮恩賜庭園は池泉回遊式の大名庭園です。日本庭園は二つの大きな方式に分かれていますが、もう一つの方式は、京都龍安寺の石庭に代表される枯山水の庭園です。

 1030分から1130分ころまで園内をゆっくり散策しました。壮麗な石組み、樹木も、花木も、水辺の草も、手入れが行き届いていました。池
の鯉も悠然として泳いでいました。

 1130分過ぎ、地下鉄大門より乗車、三田駅下車、11時少し前にNEC芝倶楽部に到着、直ちに会員の交流会に入りました。庭園での1時間ほどの散策によるほどよい疲れと、少し汗ばむ陽気の中、喉の渇きも相俟って、食事もビールもジュース、コーヒー、ワインなど、とっても美味しく、盛り上がりました。堀川副理事長の音頭で合唱したりして楽しい時間を持つことができました。予定より30分時間をオーバーしましたが、そこはNECの社員倶楽部なので一切お咎めなしで、3時前には会場前で解散しました。




































29-06

    「真田丸を巡る旅」を終えて
                                  依田 武敏

 7時前に上野駅公園口で改札に着く、すでに原さん鈴木さんが話し合っていた。

7時半には皆さんほぼそろう。中原さんが誘ってくださった山崎さん横尾さんも参加してくださり、珍しく栗原さんが最後に来て下さり全員15名が揃う。隅田川バスの中里さん、運転手の渡辺さんも7時30分には来て下さり、集合時間の745分には出発できた。

 首都高5号の飯田橋インターから入り大宮に向けて順調に走る。対向車線は仕事に向かう人々の車列ができる中、反対路線を走る我々の車はスイスイと走れる。志村を超え戸田橋南インターを過ぎ外環道に入る外環道も順調に走ったが、関越道に入るところで導入路が一車線になり渋滞はするスピードは落ちたが止まることもなく関越道に入る。ゲートもETCで通過、三芳サービスエリアは通過、高坂サービスエリアで最初のトイレ休憩をとる。藤岡ジャンクションで左折、信越自動車道に入る。下仁田、南牧サービスエリアを過ぎ、横川サービスエリアで二度目のトイレ休憩をとる。1017

碓氷峠にかかり紅葉、黄葉真っ盛り、見事な景色に声を飲むほど。浅間山山頂あたり、白く雪をかぶった姿を見せる。佐久、小諸を過ぎ、上田菅平インターで高速道を降りる。

 上田の街に入り「信州の蕎麦店」で昼食をとる。城趾公園に行く前に、真田の屋敷跡、現高校の門を案内して下さる。(渡辺さんの配慮)細い道を曲がり曲がりして広い道に出、城址公園駐車場に入る。案内をして下さるボランテアの方が待っていて下さり、上田城趾を見学する。二の丸入り口の二の丸橋標柱の説明、それと二ノ丸堀のプラットホーム跡の説明、上田泥流層と河床礫層の説明。(泥流の要害を作る特徴的な地層について説明)本丸に入る前にある石垣、「真田石」は直径三㍍の大石である。七つの角櫓の説明、現存するのは三つ、北櫓、南櫓、西櫓で西櫓は県宝で築城時のまま建物とのことである。真田井戸等々本丸跡を一周、ここでも紅葉、黄葉の真っ盛り、最高の色調で目を楽しませてくれた。その後、信州上田真田丸大河ドラマ館の見学、テレビ画面でお馴染みの物を種々と見学する。上田城趾の見学を終え、バスに戻り、次の真田の里へ向かう途中、昔の街道筋、柳町を車窓から見せて頂く、これも渡辺運転手さんの配慮、バスでは入りづらい細い道筋だが小型バスなので通って頂けた。ここも北国街道の一部とのことである。

 真田の郷に向かう。「真田氏歴史館」周辺施設として御屋敷公園真田庵、真田氏本城跡、幸隆、昌幸の墓 長谷寺(ちょうこくじ)等、館内には真田三代記、NHK時代劇「真田太平記」で使用された真田親子の鎧、天正13年(1585)真田昌幸宛、秀吉の書状、大坂夏の陣図屏風(複製)等々見学を終える。

 今日の宿泊予定の草津に向け走る。鳥居峠越えの144号線、途中菅平への道を左と右へ草津への三叉路あり、鳥居峠で信州から上州へ群馬県に入る。唐松林の続く鳥居峠を越え右手の小川が現れる。小池川、鳥居川、湯尻川が合流して吾妻川になる。この川は144号線と併行して流れる。またこの道にはトンネルがない。JRの終点、万座鹿沢口駅を右に三原大橋の交差点を左折、県道59号線(草津嬬恋線)に入り草津に向かう。途中292号線に突き当たり左折して草津に入る。

 今日の宿「櫻井」は草津で一番大きなホテル、430分前にホテルに入る。各部屋に分散673676、四部屋に分かれる。630分宴会開始を約束してそれぞれの部屋へ、自室でTV観戦、座談のひとときを過ごす。湯畑を見学する人も...630分宴会に入るしばらく歓談、開会で堀川さんに挨拶をお願いし、乾杯の音頭を最年長者、佐々木さんにお願いする。堀川さん夫妻によるオカリナ演奏による合唱、歌詞本も用意して下さる。その後栗原、佐々木、志田さんによる尺八合奏に入る。飲みかつ食し歓談するも楽しい時間は早く過ぎる。中締め後、ホテルが行っている湯もみ、太鼓の演奏など見学し、幹事室での二次会に入る。飲みかつ語り時間も過ぎ、明日の時間を確認してお開きとする。

 朝風呂を楽しみ、バイキングの朝食を済ませ、朝の散歩を楽しむ方もあり、9時の出発に合わせてフロントに集合、渡辺運転手さんに八ッ場ダム見学について了解を頂く。

浅間酒造が第一の見学場所、お土産を買う方などそれぞれ時間を過ごす。ホテルの金庫の鍵を持ってきてしまった方がおりバスがホテルに戻る。待つ時間50分ほど。バスが戻ってきて出発する。八ッ場ダム見学の高台に登り見学する。手前の部分が水没するところになると思うと景色がまるっきり変わるのが分かる。川原湯温泉の部分が水没する。コンクリートを運ぶクレーンが小さくオモチャの様だ。

 次に岩櫃山の下「郷原」駅で車を止める。見上げる岩櫃山は岩山の独特の地形、山の右手に城があった旨説明を受ける。トイレを済ませ次の見学場所「名胡桃城趾」に向かう。会員の綿貫さんの住む中之条を通過、145号線を高山村に入る。中山交差点を左折三国街道に入る。全山紅葉が真っ盛りでそれは見事である。天狗で有名な迦葉山を正面に見る。

 バイパスの名胡桃城趾前の交差点に突き当たり新しくできた駐車場に入る。ここも六文銭の旗が並ぶ。北条氏が名胡桃城を攻めたことで秀吉が北条攻めに入ったと言われる小さな城だが歴史的には大きな役割をはたした城である。見学を終えて月夜野インターチェンジに入り沼田インターで降りる。昼食場所であるりんご園で「お切り込み」で昼食を済ませる。お土産にリンゴ二個を頂き最後の見学場所、沼田城址公園に向かう。

 沼田城址公園、ここもボランテアの案内人の説明を聞きながら見学するかってこの地に五層の天守閣を持つ沼田城がありました。三の丸には城鐘があり、昼夜12回時を告げ、その音色を大空いっぱいに響かせていたと言います。400年の時を超えた現在、沼田城址公園に姿を変えた。鐘楼は約14mで川越の鐘楼より1mほど低いそうです。
 真田信之小松姫像が真新しい。見学を終えて帰途につく。

 沼田インターから高速道に入り一路東京へ、寄居パーキングでトイレ休憩。三芳パーキングエリアで2回目のトイレ休憩を取り、外環道、首都高速五号線を通り飯田橋インターで降りる。上野公園口改札前でバスの旅を終える。

 予報では1日目午後、2日目午前は雨の予報でしたが、お天気に恵まれ、走行中小雨はあったが、本当によい天気で楽しい旅ができました。隅田川バスの渡辺さん、中里さんへの感謝を述べ無事旅行を終わることができました。 以上

















































29-07

     整形外科の名医「赤司先生」講話
                                     安東 達 

 121日、整形外科の専門医、赤司先生にお願いし、講演を行った。高齢になると誰もが迎える「腰痛」「膝痛」等々のお話を、人体模型を使っての説明であり、懇談会の席上では個々の相談に応じて戴き大変有意義な講演で会った。当会での初の医学分野の講演であり、今後機会を見て医学の世界で活躍されているドクターに講演をお願いしたいと思っ
ている。特に成人病の三大疾病「脳梗塞」「心筋梗塞」「癌」等の専門の分野で活躍されている方々を考えている。又会員の皆々から「この分野の専門医の講演」の要望があれば申し出て戴きたい。検討します。

 













































29-08

      八ッ場ダムの投稿で           
       よみがえる75年前の沼津の生活

                                      綿貫 昭

前書き

 桑原親子さんと言う人が平成281125日、投稿した「上毛新聞」の「ダムの底に沈む思い出」と題する記事が載りました。その中にあった 三つの言葉 「桑原」「牧水」「沼津の千本松原」から 従姉妹の 桑原知子 を連想し、上毛新聞に、表題で投稿しました。その記事が123日に掲載されましたので披露致します。

 

上毛新聞記事        綿貫昭(中之条町 88歳)

 「ひろば」欄に掲載された桑原親子さんの「ダムの底に沈む思い出」を読み「桑原」「牧水」「沼津の千本松」の三つの言葉から、75年前を思い起こした。

 19419月、父の仕事の関係で東京から静岡県沼津市の沼津中(旧制)2年に転校した当時の出来事だ。3ヶ月後の128日に太平洋戦争が開戦。直後の冬休み、前橋高女3年だったいとこの桑原和子がわが家に泊まった時に聞いた話が忘れられない。

 前橋高女の全生徒が慰問袋を作り、群馬県出身の出征軍人に贈った。彼女の作った慰問袋は偶然にもハワイ真珠湾攻撃に出撃して戦死した岩佐直治海軍大尉(前橋出身.戦死後2階級特進で中佐)に配られ、開戦後まもなくお礼のはがきが届き学校で大騒ぎになったという。「一生の宝物」というはがきも見せてもらった。その彼女も先月90歳で他界した。

 父が静岡市に転勤となったが、私は転校を拒否して沼津の千本松原(通称千本浜道)の若山牧水碑まで100㍍ほどの写真館に下宿した。卒業を待たずに進学で上京、富士山や千本松原をいつも見ていた3年間の沼津生活を終えた。懐かしい日々を思い出させてくれた桑原さんに感謝したい。













































29-09

     小牧営業所の思い出              
                     昭和354月~373            栗原 弘

27歳、朝日生命入社5年、昭和354月、主任から名古屋営業部、小牧営業所の新設を拝命した。小牧営業所はゼロスタートの新設で、店舗はなし、外務職員はゼロ、預けられた集金カード、40枚ほどの顧客が開拓の手がかりのすべてである。

 小牧山は80メートルほどの高さの山で、登ると市街地が一望に見渡せる,山の麓に市街地が少しあり、広々とした田圃が周りを取りまいている。まだ田植え前で二毛作の小麦畑が遠くまで緑色に続く,南の方に遠く小牧空港が見える。人口5万,市街地人口が約2万,ここをどうやって開拓して行くか、不安の方が多かった。

 保険の募集活動をする外務職員の採用が第一の仕事。馴染みになった駅前食堂の主人にも人集めの協力を頼んだが、気の毒がるが協力はない。集金先を一軒一軒回り,採用の話をするが、よそ者の若僧は信用されない。バスの中で、このまま朝日生命をやめて、水戸へ帰ってしまいたい不安に駆られたりした。

 名古屋営業部で小使さん用の自転車が廃棄処分であったので、200円で譲って貰った。この自転車で、営業部のある矢場町から小牧までは結構の道のりで尻が痛くなって到着した。

 店舗は足を棒にして探し、4月末、中村肉店の家作(四軒の棟割り長屋で各間口は二間、小牧市小牧)が内定した。2階は自分の借り上げ社宅とする。40枚のカードを頼りに集金しながら職員募集活動をやったが反応はない。

 床屋さんにかかりながら、人捜しの話をしたら、前の下駄屋さんの奥さんが、暇らしいとのこと,早速たずねた。

 保険の勧誘は出来ないと強い断り,「募集は出来なくても良い。私が教えるから」の条件で。集金だけでもと、やっと入社して貰うことになった。小牧営業所職員第一号,H さん の採用が決まった。

  そういった中でHさんはすごく心強かったが,約束は集金だけだったので新契約はゼロ,やむを得ず東京にいる弟の1,000円掛の契約を彼女につけた。創設間もない月払営業部の機関330営業所の中で業績リストには最下位で表示された。当時業績リストは最後から見る癖がついてしまった。

 朝礼は相手一人、保険商品の仕組みやら、集金の心得をお話しする。行動や言動で、気持ちが通ずるのか,私の様子を見ていて、5月はHさんはすごく頑張ってくれた。職員採用も協力してくれ段々見込みが出てきた。

 6月にはHさんの他に,小牧でTさん、犬山市楽田でKさんを採用し,職員3人体制が出来た。正規の職員昇格は3ヶ月の期間を要する。職員昇格の要件やら給与規定など同行の途中で教えたりした。事務職員も名古屋から一名決まり,自信が少し湧いてきたりした。

 こうした中で7月朝日の月、名古屋営業部の所長会を終わって、だいぶ意欲も充電し,夕方7時頃、小牧営業所に戻った。

 職員3人が、私に聞きたい事があると言って、待っていた。         職員一号のHさん と 依田主任
「月5,000円の手当は3カ月過ぎて職員に昇格出来ないときはどうなるか」

「職員に昇格出来るように私が面倒を見る」と言うと,

「それでも出来なかったら」と聞く,

「嘱託になり5,000円はなくなる」それでもやめなくて良い,募集手数料はある等話した。

「やっぱり話が違う,私たちは止めさせて頂きます」取り付く島がない。

「居て欲しいが、縄をつけて置いとく事も出来ない。また振り出しの一人から僕は頑張りますよ」 必死だった。彼女たちは帰って行った。

 その日、有力採用見込み者の説得を、3人に頼んで私は名古屋営業部に出向いた。後で聞かされたことだが、ミイラ取りがミイラになってしまったのだ。

「あなた達は何処の馬の骨か分からない若造によく付いてくわね,保障給だって3カ月後、間違いなく出るかチャンと聞いてるの?」

「そう言えばそうだわねぇ,所長に聞いてみなくては」と言うことで私を待っていたのだ。

 7月、朝日の月はこれでメチャクチャだ。いやいや,元々一人でスタートしたんだ。元に戻っただけだ。これから頑張れば良い。いろんな気持ちが去来する。独身の身で誰も居ない。とても食事どころではない。

 二階の部屋は道具類もなくガランと広い。畳に仰向けにひっくり返った。どれ位経ったろうか,下でガラス戸を叩く音がする。

「所長さん居りますか?」 Hさんだ。時計を見ると9時を回っている。どうなっても良い気持ちで下に降りて行った。

「お父さんに話したら,怒られちゃった。自分の損得だけで辞めるの、入るのって、仕事はそんなものじゃないって。 所長さん,ごめんなさい。」

 「一人で又やってく所長さんと私もやって行きます」

 ああ助かった。内心で叫んだ。抱きつきたいほど嬉しかった。

 それから彼女は、ほかの二人のところへ説得してくると言って、出かけた。

 この時に楽田の校長先生上がりの男性、Oさんが入社した。こうして7月はスタートすることが出来た。

 市街地から6km 程東の小牧市大草に警察学校がある。Hさんのご主人がそこの守衛をしている。その関係で職域(団体月払)の新契約募集によく出かけた。自転車で小一時間,7月14日も朝礼後、Hさんと一緒に訪問中だった。

 11時頃,町の方が火事だと言う。外に出ると小牧の方向に黒い煙が立ち上がっている。 汗だくだく、一生懸命、自転車をこいで戻った。家具屋の角を曲がると朝日生命小牧営業所が見えるはずだが、4軒長屋は焼け落ちて見えない。大変だなどと思う余裕はなかった。事務員は私の顔を見ると泣きだしてしまった。二階は完全に焼失。カード類の貴重品は持ち出してから、焼け落ちたと言う。中華そば屋が火元と言うことだったが。アマチュア無線開局前で機器類の加熱も疑われた。消防署の調査が済むまで手を付けられなかった。 火事は泥棒よりひどいと言うが,残ったものは自転車と靴,ズボンにシャツ,とにかく身につけたものだけで,アカイのテープレコーダー,オーディオ機器,アマチュア無線機器等、私に取っての財産は皆、無くなってしまった。

 大変だという困惑は通り過ぎていたようである。大変だと思う余裕もなかったのであろうか,名古屋支社所属の小牧支部にカード類をお願いし,職員と善後策を打ち合わせた。 自分の住まいの一部を提供しようとか平静では考えられない職員の協力、団結が得られた。その日は名古屋、上司の部長宅に泊まった。 23日は近くの名鉄観光小牧営業所が夜は空になるので、用心を兼ねてと、泊まることになった。

 中村肉店の奥さんが心配して、中村肉店系列の床屋さんを廃業して、営業所店舗に空けてくれた。

 私の住まいと食事の賄いも当分、肉屋の奥さんが引き受けてくれた。豚足やら牛の尻尾の味噌汁、ジンギスカンとか肉屋さんならではの食事を堪能した。人の付き合いの有り難さを感じた。  

 岐阜市は既製服で有名である。自転車で犬山、各務ヶ原経由で岐阜を尋ね、背広一着8,000円,コート8,000円で買い求めた。

 火元は中華料理店だったが補償はなかった。自身の火災保険も未加入であった。

  火災の後、職員の協力は強くなり,採用も徐々に出来、小牧市文津のNさん、文津のYさんは若手男性の一号になった。年度末には職員6名,在籍も8名程になった。

 職員の同行指導等は中古自転車の払い下げを使っていたが、機動力が欲しかった。楽田は良いにしても、犬山は電車を利用しないと無理である。職員のYさんが二人乗り軽自動車、マツダクーペを購入したのがすごくうらやましく思えた。8月頃、軽自動車の免許を取り、Hさんの親戚の伊藤モータースから三菱のシルバービジョンの中古を購入した。3万円前後払ったように記憶するが、私にとっては大金だった。機動力が大分増えた。岐阜から大垣まで活動範囲は広がる。

 いつまでも肉屋さんの下宿と言うわけにも行かず、小牧市二重堀974に借り上げ社宅を決めた。二軒棟割り長屋、左側が私の住まい。古い住宅を解体、ここで再建築したので、材料も古く、すきま風がよく通る。冬は寒い家だった。

 11月は生命保険の月(特別募集月)である。全力投球で募集活動を行う。目標も普段の月の倍以上で、販売成績を上げなければならない。

 小牧の街中は商店でも農業兼業が多い。丁度11月が稲の刈り入れ時、Hさんの家でも稲刈りが始まった。時期をずらすと実がこぼれてしまい、保険の仕事どころではなかった。11月、休む職員が目立った。これには閉口した。

 日曜日、Hさんの家に稲刈りの手伝いに行くことにする。夫婦に私が加わって3人で一日稲刈り、並んで、56株ずつ刈り取っていくが、なれない私は直ぐ追いつかれてしまう。食事を頂いて我が家に帰る。誰もいない、疲れが身にしみる。1週間ほど足腰の痛みが続いた。

 昭和363月の給与日,Hさんが給与を受け取ってから外出し、30分程居なくなってしまった。給与日には全職員が集まる。給与支給後、茶菓子を食べたりして団らんの一時を用意してあった。暫くして彼女は帰ってきた。

 私の机の前に立ち、彼女はそっと包みを差し出した。

「所長さん これをどうぞ」   中身はセイコーの腕時計だった。

「こんな高価なもの,受け取れません,どうして又?」 彼女は説明した。

「今月の給与は35,000円ありました。所長さんは1年後に3万円の給与にしますと、入社の時、約束しました。今月の給料が約束を越えたので、とても嬉しかったんです。越えた分で買ったんですからどうぞ使って下さい」。当時、私は母が入社の時買ってくれたシチズンの古い時計を使っていた。又,私の給与も2万円そこそこで,営業所経営費も1万円余りだった。その時計が非常に高価に思え,又彼女の気持ちが良く分かり,所長冥利に尽きる思いであった。

 収入でもない,業績でもない,人と人とのつながり,信頼関係のすばらしさが得られ,その方が価値が大きいように思えた。    

 昭和369 やっと小牧営業所も、安定職員が8名ぐらいになる。

 職員採用のため夜7時頃、H職員をスクーターに乗せて国道40号線を南下中、トラックの荷台からずれ落ちかかった材木が、すれ違いざま、私の肩にぶつかり、私は転倒し、意識不明になってしまった。Hさんは転がっただけですぐに起きられ、怪我はなかった。

 小牧中央病院のベッドで意識回復。鎖骨骨折で1ヶ月間の入院となった。石膏で体を固められてしまい、かゆい所に手が届かない時間を過ごした。

 石膏を外し、体調がよくなると、11月の「生命保険の月」特別募集月の多忙な日々が待っていた。 当て逃げトラックは警察の調査にも関わらず不明の儘で、結局、自損事故で処理をした。

 浦和転勤 3月に入り、昭和37年度は4月に新設される浦和営業部勤務に決まった。担当機関は21名在籍の北浦和営業所である。前任者は同期の御崎善旦さんだ。

 同時に小牧営業所は閉鎖、小牧営業所の職員は名古屋東営業所に編入された。職員に申し訳ない気持ちで一杯になる。「私の努力は何だったんだろう」 誰かに向かって思い切り叫びたい気持ちだった。

 私の朝日生命生活にとってこの2年間は、但し、非常に肥やしになりました。








































29-10







































 
























































75

あづま路 75号 平成29年7月
イ! 堀川 幸夫
安東  達
川崎 賢治
近藤 美明

二丸 雄策
依田 武敏
   栗原 弘
川和 作二




















































28-21

 イギリスがEUから離脱する!
            
 副理事長 堀川 幸夫
















































28-22

講師 日本成功学会代表 黒木安馬氏
『面白くなければ 人生じゃない』
                     安東 達

 






































28-23

『菊水の光芒』
                           川崎 賢治

 




































28-24


國學院大學博物館と渋谷区郷土博物館.   
        文学館の見学

                    近藤 美明




































28-25

「走り始めて30年」仲間と共に
              
     二丸 雄策

                                                                                                     

  









































28-26

 


藤の花を楽しむ
                  依田 武敏































28-27

岩櫃山登山
                 栗原 弘


















28-28

  

大木戸句会 1月~月雑詠
                  関口 利夫

 

      




























 
 
あづま路