健康問題全般について


  A 肺がん  平成5年1月

  1.人間ドック              国立がんセンター東病院   
  2.検査入院
  3.右上葉 摘出
  4.手術後入院生活
  5.通院生活5年
      新しい勤務
       海外旅行
       登山について
  6.雑 感


 B 前立腺肥大手術   平成15年1月 

 C 不 整 脈             平成18年5月 

 D 後腹膜線維症    平成20年11月

                                   







































1.人間ドック
 定年後のことも考えて、ここ数年は地元の柏厚生病院に人間ドッグは変更していた。地元のかかりつけの病院を作ることが,何かと便利に思えたから。
 平成4年9月26日 柏厚生病院で日帰り人間ドッグを受ける。弁当が豪勢なのと、バリュウムの便秘はいつものことである。
  11月に、病院から、問題の箇所があるので来院してほしいとの連絡を、健康に自信過剰の私は無視してきたが、女房のたってのすすめで12月7日厚生病院を尋ねる。
 肺に影があるとのことで、「肺結核かガンのどちらかですね?」 私の問いに先生はうなずいている。レントゲンの予約をして帰る。知らない内に軽い結核でもかかったのか?全く自覚症状のない健康体なのだから。
 15日に正面と横のレントゲンを撮り、更に21日念入りに、CTスキャンを撮った。
その結果を年の瀬も近い24日、聞きに行く、担当は望月先生で若い医師である。「肺癌の疑いがあるので、ガンセンターを紹介します。非常に小さな影だが、ここの設備では無理だ」とのこと。
 翌1月13日、再度柏厚生病院の望月先生に会う。紹介状を受け取って帰る。
 衝撃だったが、私がガンになるわけはないと心の中で繰り返した。
 手術後、女房から聞いた話だが「肺癌の疑い濃厚」との電話が11月に厚生病院から入って、「頭が真っ白になった」と言っていた。
 肺癌で亡くなった次兄の1周忌法事を水戸、六地蔵寺で10月11日にすましたばかりだ。
 「渋柿の 渋さに優る 甘さかな」 六地蔵寺の境内に掲げてあった。
 


 


















































2.検査入院 国立ガンセンター東病院
  平成5年、新年は役員会やら、ゴルフ初打ち、尺八の吹き初め新年会、長男の結婚相手家族との顔合わせ等、忙しく過ぎていく。
 紹介状を持って1月20日午後、国立ガンセンター東病院を尋ねる。この病院は一昨年柏市に建設され、まだ真新しい、9階建ての建物。ゆったりした大きなロビーは吹き抜けで明るい。 受付で,アンケートに「ガンの告知は希望する」に丸をつけた。 担当の先生(内科)と、厚生病院のレントゲン写真を見て、検査日取りの打ち合わせをする。
 26日午後、気管支内視鏡、初めてで喉に差し込まれ何度も、もどしそうになる。
 28日午後、肺のレントゲン、CTスキャンを撮る。レントゲン室の待合い廊下に全紙大の富士山の写
真がかけてある。忍野あたりからだろうか、構図も良く、登山道のトレールまではっきりと見える。こんな写真を撮れたらなあ、うらやましく拝見した。
 2月2日午前 ガンセンター検診。血液検査、血中酸素濃度検査、心電図、レントゲン(断層写真)をすませる。
 9日、更なる検査の為入院決定。午後勤務先の常務に状況報告する。ガンでないかも知れない、いや、もう手遅れかな、自分に都合のいい結論、理由付けを一生懸命探しているようだ。
 担当課長と業務計画、嘱託の給与問題等、打ち合わせ以後の事は課長に託する。
 2月9日 入院等の準備は女の方が気がきく。パジャマやら洗面道具やら、名前を書いたり幼稚園児のようだ。
 6階A棟8号室(A608)は4人部屋で、3人の同年代の先輩患者がいる。挨拶もそこそこに、気管支鏡検査、血中酸素濃度検査、を受ける。気管支内視鏡検査では組織を取って検査をしてもガン細胞は見つからないようだ。  内科担当医はK先生に代わった。
 













 10日11日は担当医のK先生が往診に回る。兄弟やら知人が見舞いに現れ、屋上のガンセンターの看板を見て、不治の病の同情やら、慰めの言葉。運を天にまかせきる気持ちが強くなりつつある私の方が、のんびりしていたかも知れない。
 12日耳鼻咽喉科で、首、喉、内視鏡検診、午後、骨シンチの検査、造影剤を飲み(100万人に1人ぐらいで危険があるとか同意書にサインをした。)トンネルのような機械の中を往復した。ガンの転移を調べるとか。
 13日土曜日 自宅泊まりの許可がおり午前10時に帰る。二階の増築工事が進んでおり、我が家が久しぶりのような気がする。健康人と変わらないのに、なんかヘンナ感じだ。翌14日午後7時頃病院に戻る。
 気管支内視鏡ではガンの組織が発見されず、17日午後十数センチの針を2本、腫瘍とおぼしきところにダイレクトに差し込んで組織を取り検査を行う。見舞客が増えてくる
 翌16日、K先生の面談で、針検査の結果、ガン組織が発見され、正式のガン宣告を受ける。来るものが来た。覚悟は出来ているつもりだが?。センガン、腫瘍は1センチほどになっている。
 手術日まで、毎日器具を使っての腹式呼吸の練習が30分ほど続く、血中酸素量検査も指の爪には器具をさんで検査が続けられた。飽和度は99から100lを維持している。
 巡回図書館や、差し入れの本で暇つぶしをする。落合信彦の「聖地は荒れて」「狼達への伝言」「柳生十兵衛」等 手術までの間、読書三昧で過ごす。
 4人部屋の同居人は、同年輩の男性二人が抗ガン剤治療で投与から1週間ぐらい大分辛いらしい。もう一人は豆粒ほどの腫瘍を手術で摘出するとか。 
 

  




















































3.右肺上葉 摘出手術
肺癌の種類は4種類あり
  1.腺ガンが一番多く、肺の末梢に出来る、喫煙とは 関係なく女性に多いガンだそ
    うです。
  2.扁平上皮ガン、これは喫煙者に多く、発生部位は気管支の中心部分に出来る。
  3.大細胞ガン。
  4.小細胞ガン、どちらも中心部から末梢部分に出来るそうです。

 私の場合は腺ガン、右上葉に1センチ程度の大きさで、右上葉の摘出手術(リンパ節の切除を含めて)を24日午後と決まりました。
 担当医は K 先生から N 外科部長、と二名のスタッフで19日夕、手術についての30分ほどの面接説明がありました。経過は早期ガン、摘出手術で殆ど完治が見込まれる。納得のいく説明で大分気持ちが落ち着き、この先生に総て任せる気持ちと信頼感が湧いてきました。 「スキーは出来るようになりますか?」私の質問に「大丈夫です」と付け加えた。
 その後、麻酔担当の医師の説明があり、「痛さはこらえる必要はありませんから、遠慮無く言ってください」とのこと。先生達に任せるのがベストと思いこみ、大分気持ちが楽になった。
22日 ICU(中央処置室)の担当看護婦が挨拶に見える 抗生物質のアレルギー検査、再度の胸部CTスキャン、採血等忙しく過ぎる。
 24日正午、看護婦室で全身麻酔の注射を受ける。10まで数えない内に意識朦朧から無意識の状態にはいる。
 3階の手術室控え室まで同道した妻と由布子(長女)、充(長男)は昼から7時まで長い手術時間を待ち続けた。手術中の私は知るよしもない。
 昭和35年の小牧市での交通事故で右鎖骨の手術跡が癒着していて時間がかかったとか5時頃の終了予定が午後7時を過ぎてしまった。脇腹から背中にかけて切開し、背中の肋骨を一本取り外し、右肺上葉、中葉、下葉3つの内上葉を切除摘出、周りのリンパ節も切除した。
 













   8時過ぎに頭の位置の苦しさで目を覚ました。直角に近く頭をのけぞらせて、気管支の空気の通りを良くしてるのだろうか、苦しさで目を覚ます。心配そうに妻がのぞいている。管だらけのスパゲッテー、又うつらうつら。
 夜中に看護婦の声で目を覚ます。血圧が200になっているとか、舌下錠を口に含ませられる。きつい痛みはないが鈍痛でまんじりともしない夜を過ごした。
体につけた管は 1.背中の麻酔注射 
           2.心電計  
           3.血圧計 
           4.酸素マスク
           5.尿管       
           6.点滴2本 
           7.ドレーンパイプ(廃血吸出)
           8.酸素計測(爪)  
           9.肺圧調整のポンプ
びっくりするほど繋がっている。それらの計測結果がモニターテレビに映し出されている。異様な光景だ。心拍の緑の波形がせわしく動いている、私の生きてる証だろうか?
 朝、看護婦がベッドの端に結んだ布のひもを、これをたよりに引っ張って起きてくださいという。もう動いても大丈夫か不安で体を起こす。おもゆ、ジュウス類の朝食がでる。部屋全体が給食室の調理場のようだ。昼にはお粥がでる。
 N 先生は昼頃検診に見えた。外科的の治癒を待つしかない。転移再発がないことを祈るばかり。けだるい1日が過ぎる。
 食事は流動食から少し歯ごたえのあるものに、妻が帰ってしまうとモニターをにらめたりうとうとする。
 3日目に ICU から、6階の601看護婦控え室の隣の部屋に移動する。麻酔注射、血圧計、心電計がはずされた。 28日見舞いの客に会うのもおっくうな気持ち、三番目の兄が見舞いに来た。毎日往診の先生は順調ですの言葉が返ってくる。 
                  

  















































4.手術後の入院生活
 3月1日に、点滴が中止され、元の部屋608号室に戻る
 久しぶりのような気がする。Yさんはもう退院して姿がない。小さな腫瘍は悪性かどうかの判断が難しく、結局、胸2カ所穴をあけて、腫瘍部分を摘出したそうだ。
 同室の2人が心配そうに見守ってくれる。Tさんは、「でも手術できる人はうらやましいですよ、抗ガン剤は本当に憂鬱だ」 慰めるように話す。抗ガン剤の投与の苦痛は1週間近く続く、放射線治療も同じだという。
 Kさんは、「この間の外出で柏駅の階段が息が切れて、2回も休んだよ」 年輩だけにつらそうに話す。私だけが苦労しているのではないと思った。
 3日に酸素マスクがはずされた。4日一部抜糸。傷口がかゆい感じになってきた。
看護婦が手を上にあげたり、首を回したり、上体をねじる運動をするように、紙に書いた体操マニアルを置いていった。
 胸の中は外気圧よりも気圧が少なく、胸に穴があくと、肺はしぼんでしまうそうだ。気胸と言われてるが、手術後管を通じてポンプで気圧調整をしている。このポンプと、ドレーンパイプ(胸部内の手術後の廃液を外部に出しているパイプ)は5日、一緒にはずされた。






















 この時期、読書と見舞客の来訪が嬉しい。各ベットの有料TV、地下売店の買い物に使う、院内キャシュカードも、買い増しの時期になってきた。
 9日入浴の許可がでる。ガンセンター東病院は9階が食堂と喫茶室になっており、見舞客とお茶も飲める。その奥に、銭湯並みの風呂がある。大きなガラス窓が広がり、筑波山がきれいに見える。なだらかな浅間山が雪をかぶっている。脇腹から肩胛骨を巻くように背中までの傷を気にしながら、この眺めを楽しんだ。
 院内散策も平気になって、最初は1階から6階まで階段をゆっくりと歩き、、だんだん延ばして地階から9階まで歩けるようになる。   
 肺自身は痛みの神経がないらしく、1,2期の初期癌は全く自覚症状はないとか、この時期は定期検診を受けるより発見の方法はないようだ。肺癌を予防する会(正式名不詳)等の検診で早期癌の発見が容易となり、完治している方も多いという。進行癌になる前で私は助かった。
 17日 N先生より20日退院してよろしい旨連絡が入る。      
 






















































5.通院生活 5年
 3月20日午前中、退院事務会計をすませ、昼は家で食事を済ませる。看護婦やお世話になった人にお礼の挨拶をすませる。兄弟や身近の人に退院お礼の電話で一日は早い。
 長男の充は4月早々の結婚を控え、新居への引っ越し準備で忙しい。
 当分は3日に1回の通院を指示された。3年前のレントゲン写真が欲しいというので、千葉支社時代の人間ドックを受けた、山王病院に電話をかけ、千葉市へ車で向かう。16号線はトラックも多く相変わらずの混雑、大型車の黒い排ガスが気になる。肺癌の原因はこういったところにあるのではと思ったりする。石原都知事の発言まで誰も気がつかなかったのだろうか?
 充は27日に川崎のマンションに引っ越し、4月,本人達の希望で軽井沢のセントパウロ教会で結婚式を挙げた。娘の夫の車で病後初めての遠出、身内だけの質素な結婚式、帰りは少し疲れた。
 1ヶ月ほどで、ガンセンター東病院の通院は2週間に1回になる。「異常なし」が続き、更に1ヶ月に1回、3年目ぐらいには2ヶ月から3ヶ月に1回検診となった。
 退院後2ヶ月ほどした頃、N先生から血圧の指摘を受ける。「常時100〜160は高血圧で要治療の段階。薬害よりも高血圧による害の方がずっと大きいですよ」。
 最低血圧100はもう10年以上も続いているが、自信過剰が医者に行かせなかった。柏厚生病院で診察、3錠の錠剤から2錠服用で現在も続いている。お陰で血圧は80〜140を現在も維持している。 


















 平成5年11月、還暦を迎える。神楽坂の料理屋で、由布子夫妻、充夫妻のお祝いを受ける。かっての社宅近く、白銀公園まで散歩、懐かしかった。 平成5年11月13日、柏厚生病院での人間ドッグ再検査の結果、胃の異常を指摘された。転移か!一瞬ギクッとする。ガンセンター通院中の旨を伝え、胃カメラはガンセンター東病院
に依頼、12月1日に胃カメラ検査、気管支内視鏡より大分楽で、お話をしながら
十二指腸まで見てくれる。「軽い潰瘍があるが問題ありません」とのことだった。
  平成6年2月、充と安比スキー場、友人と赤倉スキ場と先生の言ったとおり、1年後に、スキーが出来た。 平成7年2月、ジャスコスポーツクラブ入会、水泳教室でクロールは折り返しが出来るようになった。山、写真と忙しく、欠席がちになり1年ほどで退会した。
 3ヶ月に1回の割合で検診に通っていたが、肺に関しては異常なし、「誤診じゃなかったの?」強く
主張する友人もいたが、私は初期発見の完治と思っておる。
 平成10年2月10日、N先生より「5年間の診療は終了しました」終了宣言の言葉があった。
 肺には痛みの神経がないのか痛みとか自覚症状は全くなかった。全く人間ドックと、柏厚生病院の望月先生のお陰である。
 平成12年 N先生は二見書房より、いちばん新しい「はいがんの本」を出版した。これを読んで目から鱗が取れた、と言う状態になれた。
























































5. 1.新しい勤務
 3月26日新宿の朝日実業損害保険部に初出社、早期の出社に皆びっくりしている。一昨日の移動通知は安心していいのやら、ちょっとひがみ根性がでたり複雑な気持ち。損害保険部はある面で激職だから、朝日実業の思いやりと思うことにする。
 新任会社は新宿センタービルにある陽日興産、社長、良く知っており、思いやりのある方である。催事会場、貸し室 ギャラリー、レストラン、セミナールーム等、朝日生命の資産運用の一部をたづさわる会社である。29日損害保険部の新部長への事務引継を行い、4月1日,陽日興産出社、年始進発式に参加する。
 新しい仕事は、大手町の朝日東海ビル27階の催事会場、会議室等の貸し室業の担当部長。担当課長が出来た人で病後の私には大変助かる職場環境である。
 5月、陽気が良くなり、昼休みの散歩を少しづつ増やした。日本ビル地下街で食事を済ませ、常磐公園、大手門、二重橋まで昼休みに往復する。体が汗ばみ、元気を自覚できるようになった。
 山を歩いてみたい、衝動に駆られ、暮れあたりから階段登りを始めた。このビルは地下鉄大手町駅の通路とB3で連絡している。最終的にはB3から29階まで一汗かいた。
事務職、課長、私の3人所帯で、二人のお陰で元気になれたようなものだ。
 6年6月23日、陽日興産退任 リハビリの時期に良い職場に恵まれたことを感謝している。
 

























































5. 2.海外旅行
 朝日東海ビルの職場には友人、後輩等色んな人が訪ねて来る
その中で I 氏は冒険心の強い男で、彼からネパールトレッキングでのマチャプチャレーの写真を見せられた。聞けば単独行との事、話が弾んでネパールトレッキングをしようと言うことになる。丁度手術後一年くらいの頃で、定期検診でレントゲン、血液検査とも順調で担当の先生も無理をしなければとOKしてくれる。 
 大分乗り気になり具体的な計画調査にはいる。寝袋やらザック、防寒具等買い物もそろい、平成6年4月27日出発と決まる。
 合計4人、ネパールでの宿その他は現地調達、言うことで、香港の宿と、ネパールはカトマンズ、ポカラまでの往復航空券だけを旅行業者に頼んだ。香港一泊、カトマンズで2泊、トレッキング1日目はポカラ空港から、ゴレパニ峠へ向かう。 
 ゴレパニ峠に向かう途中、ロバの隊列にあう。

 タクシーでビレタンテー(高度千b)へ、正午から歩き始め、途中でバッティ(山小屋)に一泊、2日目は3000b高度のゴレパニのバッテイ泊まり。
 3日目早朝、中空に聳えるような、純白のダウラギリをプーンヒルから展望する。その日は一日中歩き、ガンドルンの宿所に泊まる。
 4日目はアンナプルナサウスとマチャプチャレの早朝の白峰を眺め、ビレタンテから車でポカラへ、
 














 ポカラで3泊、10日間の旅だった。ポカラでのトレッキングと滞在費用は1万円足らずで済んだ。

     プーンヒルからダウラギリー一峰

私にとっては一つの挑戦であった。肺の摘出手術後一年でどれだけ耐えられるか、気力の充実を意識できた。3人の仲間に感謝している。
 ヒマラヤの展望は美しい。翌年、平成7年5月、今度は北から見てみたい衝動が盛り上がり、チベット行きを企画する。
 チベットはダライラマの亡命等解放後、ガイドなしの旅行は出来ないとか。車とガイドを用意しての旅行を今度は3人で計画。上海,成都経由でチベットにはいる。
 

















 チベット、クンガル空港にはガイドとトヨタのランドクルザーと運転手が待っていた。ラサで2泊、高山病をならし、荒涼たる原野をシガツエ1泊、2日目はテングリーへ、途中 5,220m の峠を越える。  3日目は早朝にチョモランマ、チョ オウ等眼前に眺める   
帰路はシュガツエ(1泊) ガンツエ経由、カロラ峠を越えてラサに戻る。 
 ガイドが日本語がよくわからなかったり、車のエンコがあったり、ラサではチベット仏教を見学した。
  1,000k 近いドライブ、 5,000m を超える高度順応、体力に大分自信が湧いてきた。
     
               カンパラ峠
 

 





















































5. 3.登山を始める
 友人の薦めで、手術した年の10月、上野の「とらや」でロ−バの山靴を買った。歩行の疲れと靴は非常に関係が深い。どの位歩けるか、自宅から手賀沼までをあるいた。午前10時頃我が家を出発、国道6号線を越えて手賀沼の見えるところまで3キロほど、大分ゆっくり歩く。
手賀大橋、我孫子市役所下のレストランで12時頃、食事を取る。ゆっくりペースで南部手賀まで、靴はなじんで歩きやすい。家にたどり着いたのが5時を過ぎていた。疲れも異常も見られない。
 昭和33年朝日生命入社3年目、新宿のケルン山岳会に入会、山歩きに熱中した時期があった。三つ峠の岩場訓練、2月の富士5合目、谷川西黒での雪上訓練やザイルさばきの練習をして、1月の木曽駒登頂をやった。檜尾尾根から入りベースを張り、空木の見える稜線近くにC1、セッピを越えて宝剣前にC2、木曽駒と8日間山に入っていた。その後名古屋転勤で殆ど山にはご無沙汰していた。
















 友人の属する悠遊会に入り11月、丹沢はずれの仏果山に参加、山頂えの30bの登りが非常につらく、何度も休んで、息を整えた。
 12月滝子山に登る。ゆっくりのせいか、息切れはない。頂上は一面の雪で、富士山が手に取るようだ。大分自信をつける。
 尺八仲間の友人の所属する中高年グループの、好山好山旅会にはいる。    この頃はコワゴワ登山で、山行の申し込みも大丈夫かどうか非常に不安だった。        
 悠遊会の7月会津駒に参加、最初の急登も、途中中門岳での土砂降りも少し自信になる。
 好山好の那須山行に初参加、白笹、牛首、はどうやら通過、茶臼の登りは皆のペースについてゆけず5分ほど遅れる。今日も無事に済んだ。有り難うという気持ちだった。
 道志の山、中央線沿いの山行は積極的に参加、毎回今日も無事だったと、安堵感で胸をなでる感じだ。
 平成7年7月、好山好の山形朝日連峰、のんびり組に参加、大鳥小屋、狐穴小屋、天狗小屋と3泊4日、花のきれいな山歩きで、山の楽しみを堪能。
 続いて8月悠遊会で北海道大雪連峰の黒岳、旭縦走と利尻岳4泊4日(山小屋2泊)の強行軍だ。旭の登りは大分息が切れたが、頂上のキタキツネに慰められた。 
 平成8年7月好山好の会で日光、太郎を順調に終わって、鞍部から山王帽子への登り、私がトップで、調子に乗りすぎて頑張りすぎ、息切れから動けなくなってしまった。胸がつかえ、胃が嘔吐でねじれる。頂に近くゆっくり登りリーダーに頂上で休憩を取ってもらう。胃がストライキを起こしたような嘔吐気は休んでいる内になくなり、平静に戻る。呼吸困難による酸欠からだろうか。その後、光徳牧場まで一気に下っても何の異常もない。肺を一つ切ってるのだから無理をするなと言う信号だろう。


















 嘔吐で胃がねじれる現象は、その後、日原から鷹取山、武川山であった。急登を無理に頑張り通した時が多い。10分から20分も休めば元に戻る。太り気味で荷物の他に10キロは余分に荷物(体重76s)を持って歩いてるようなものだ。それが原因だろうか。
 平成9年7月 好山好の白馬三山に参加、大池から白馬まで、中間組4人のサブパーティ、花を愛でながらの登行だった。ゆっくり自分のペースが第一。次の日の帰らずの剣から唐松岳も自分のペースにして貰い、問題なく行けた。ありがたい山行だった。
 8月、悠遊会の燕から蝶が岳山行は一眼レフに28-200mをいつものように持参したがカメラも十分活用できた。胃のつかえもも心配したが一度もでなかった。
 疲れるほど頑張り過ぎない。急登はそれなりにペースダウンする。美しい山並みや樹景、草花も十分堪能する。見ることの楽しみをカメラは増やしてくれる、感動を残せる道具だ。
 平成8年1月 好山好でリーダーを仰せつかったがゆっくりペースで、自然を堪能することを目的としたい。


     





































6.雑 感
  昭和60年代、板東33観音札所巡りをしてみよう、と思い立ち、日曜日、車で、妻と二人で始めた。
 昭和61年4月NHK第2放送に「こころを読む」と言う番組があり、東洋大学教授の金岡 秀友さんの「般若心経」の解説放送が3ヶ月ありました。 理解するまでには至りませんが、東洋哲学の奥深さ、仏教の深淵さにふれたような気がしました。丁度観音巡りを始めた頃で、般若心経の262文字は唱名出来るようになった。
 お寺によっては事務的に朱印をくれるところ、お話をしてくれるところ、お茶までいれてくれるところもある。私の実家は真言宗豊山派なので真言宗(16寺)ときくと親しみを覚えた。最初は観光気分半分でしたが、惹かれるものも多く有意義な札所巡りでした。
 般若心経の中に「心無罫礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃」の文言がある。 心にこだわりがなければ、恐れはなくなる。間違った考えや夢のようなことから離れて、悟りの世界を究める。と言うような意味でしょうか。
 こだわり、煩悩、死への恐怖が、自分の心をどれだけ虐めることでしょう。いつも思い悩む自分が、小さく見えます 生への執着や、自分を実力より高く見せようと、どれだけ自分が振り回されたことでしょう。





















 あるがままで、そのままで結構。恥をかいても、失敗してもそれが自分だから、縁を切るわけにもいかない。琴古流尺八の童号は松本悦童先生から「有童」を頂いた時、有るがままでいい、と自分なりに気に入った。
 癌の宣告を受けた時、恐怖がなかったと言えば嘘になる。
 生へのこだわりを捨て切れたら、さっぱりする。気が楽になる。これでおしまいなら、いずれは避けられないのだから、それはそれでいいではないか。今を前向きに精一杯生きることが、大事に思える。無になる者が、恥を気にしたり、周りの人に気兼ねするのは、まだまだ甘えている。さっぱりした気持ちで手術を受けることが出来た。
 先生に任せきって、信頼して、手術を受けられた。治ればもうけもの、「スキーも出来るようになります。」先生の言葉に総てを任せようと思った。
 心の葛藤や苦悩はなかった。これが反対に、心配で心配で、胃が痛くなるほど苦悩したら、胃炎にはなる、ノイローゼになる、肺癌の進行はますます加速されたことと思う。一昔前は50年が人生だった。私は20年近くもも長生きしてる。

 






















































zenritu

前立腺の手術 平成15年2月
経 過
 段々尿の勢いが弱り、尿間が近くなり、加齢現象かと思っていたが12年夏頃、思い切って柏総合病院泌尿器科を訪ねた。
お尻からの触診で、前立腺肥大と診断、夕食後「ハルナール」服用を始める。夜間の4,5回の排尿が1,2回に改善された。
 その後、尿勢が弱く 平成14年10月から12月にかけて、再度検査、腫瘍マーカー検査は無事、お尻からのエコー検査は前立腺が膀胱側に肥大している。尿道からの内視鏡検査で、先生から手術した方がよいと言われた。内視鏡検査の後は1日血尿で弱った。

1月20日
 柏厚生総合病院に入院 担当医師の手術の説明 入院予定10日 アレルギー検査 点滴始まる。

1月21日
 朝より食事無し 1時手術用寝間着に着替え肩に注射、3階の手術室へ。脊髄への麻酔注射で下半身は意識無し。
手術しているかどうか全く意識がない、うつらうつら一眠りしたようだ。3時半手術終了。内視鏡手術で尿道から内視鏡パイプを挿入、電気メスで肥大した前立腺を焼き切る手術と先生から聞いていたが、進行は全く不明。「無事終了しました」先生の声で安心。自室へ戻る。
 排尿管がビニールバッグへ、点滴で洗浄液が排尿管の中を通って膀胱に注がれている。排尿管が二重になって尿道から膀胱に刺さっている感じ。貯尿バッグは洗浄液と血液で鮮血のように赤い。点滴は栄養剤?と化膿防止剤の抗生物質の2種類。夜10時頃まで麻酔で感覚がない。足をずらそうにも意識がなかったが、少し動くようになった。












 尿意をもよおすが出ない、満杯で苦しくなってくる。ナースボタンを押す。看護婦が尿パイプを一生懸命動かすが出ない。手術の残滓が詰まってるような感じ、脂汗が出てくる。「出やすく太いのにならないんですか?」思わず言ってしまう。尿管が差し替えられたようで、苦しみがとれる。しばらく安眠、目が覚めて時計を見るとまだ12時、長い夜だ。2,3度同じような苦しみはあったが、看護婦さんが良くしてくれた。

1月22日
  まんじりともしない夜が明けた。朝の食事は全部たいらげた。尿管の詰まる感じは1時間から2時間と間隔は長くなるが恐怖だ。2重になった尿管の出口を電気メスで削った残滓物が排出口をふさいでると、この痛みが出るようだ。黒い固まりの残滓が尿管を出ていくとすっとする。尿や廃液がバッグの中に落ちる時、引力でバキュウム効果で膀胱から廃液を吸い取るようで、看護婦さんの物まねでしてみるとスッキリする。黒い固まりがパイプの中を落ちていくのが見える。
 10時 担当の先生が回診、「いいですね」と言う。これが手術後の正常な状態のようだ。「鮮血が少し茶色になったら、洗浄液は取りましょう」という。夜中何度かパイプをたぐって血尿をおとす。そして眠り、その間に尿バッグが交換されているので看護婦さんがこまめに回ってるようだ。

1月23日
 膀胱以外は健康なので、食事は全部平らげる。少し足りない。血の固まりや詰まりも痛みも慣れてきた。10時担当医師の回診、「もう、この色なら、洗浄液は良いでしょう」。これからは自分の尿と出血だけの排出になり満杯感の間隔も長くなる。
点滴は午前、午後1回ずつの抗生物質。ベッドよりおりて歩行の許可が出る。昼食は自分で取りに行ったが、ベッドに横になると鼓動が大きい。体力が弱っている。












 前日より大分楽になる。3回程夜中起きたが、ゆっくり休めた。
1月24日
 10時 医師回診 尿道パイプをはずす。はずした時大分廃液が出たようだ。シーツや寝間着が汚れる。これからは自分の力で排尿だ。
30分ほどして尿意、立ち上がったら床に全部漏れてしまった。あわててタオルを敷き、廃血が出て、黒い血ごこりが出た。
ナースを呼び手当、T字帯、寝間着を取り替える。全くしまりがない、コントロール不可だ。横になる痛みはない。「ダラ漏れが続いたらどうしよう」嫌だ。看護婦が紙パンツを持ってきてくれ履き替える。12時前、尿意があり立ち上がったら漏れてしまったようだ。パンツが濡れて不快、トイレに着いた頃尿意はない。1リットルのプラコップにわずか、私の貯尿タンクだけが血の色だ。
 昼食は自分で運んで食べる。午後病室を変わる。痛みはないが、排尿コントロールが出来ないのは困る。妻が紙パンツを買ってくる。午後4時 尿がもたないので溲瓶をナースに頼む。これで大分助かった。尿意を催したらすぐ溲瓶に入れられる。後は安眠出来る。

1月25日
 非常に快適になる。早朝尿意は少ないがトイレに立った。血は混じってるが気持ちよく出る。最後のイキミで血の塊がどろっと出た。気分はよい、パンツもあまり汚れてないが取り替えた。抗生物質の点滴も午後1回。朝から昼まで2回排尿、漏らすことなく出来た。もう溲瓶はいらない。夕方パジャマに着替えてすっとする。尿間が2時間くらいになる。

1月26日
 爽快な目覚め、久しぶりに髭を丁寧に剃った。まだ血の色は消えない、先生は順調と言ってる。尿量は1.5リットル。夜2回排尿。もれなくなった。











1月27日
 9時過ぎ担当医師回診、順調に行ってる。出血と排尿管の詰まりは多いほうだったようだ。午後院内入浴 さっぱり出来た。

1月28日
 尿間も2時間−3時間にのびた。9時過ぎの回診で明日退院の許可が出た。尿勢は手術前より大分良くなった。朝は1回200ml 昼は 80ml 程度の尿量 1日 1.5 リットル 大分回復した。

1月29日
 10時 退院 アルコール 登山 当分御法度 経費は10万円でおつりがあった。
メールが大量にたまっていた。社友連絡帳も書き込みが増えている。

1月31日
 血尿は大分薄れたが、よそ目にも赤は分かる。午後銀座に出る。模型帆船展と写真展2会場、普通の生活には耐えられる。

2月1日
 血量はだいぶうすれ、人目には分からないようになる。出始めが少し 赤い程度、尿勢は大分強くなる。

2月6日
 外来疹 まだ尿はきれいになってないが、順調との診断。手術をして良かった。









年後 平成16年2月
結果は非常に良い。2ヶ月後位から平常に変わった。
尿勢が良くなり、非常に排尿が早くなった。
バス旅行が気にならない。尿意を感じてから、1時間から1時間半は我慢が出来るようになった。
夜間排尿は夜明け頃1回となった。

平成18年12月
上記の通り、前立腺関係 異常なし。






















































husei

不 整 脈  発作性上室性頻脈 平成18年5月
 今年(h18)の3月18日 「わいわい会」の皆さんと石老山に登山中に倒れた。顕鏡寺まで一登り、休憩中、スナップ撮影中、頭がホワ〜としふらついたのをかろうじて止め土手に腰をおろす。頭がボ〜っとし意識を失った。休めば大丈夫と思ったが皆に迷惑をかけてもいけないし、仲間が、彼岸で墓参の軽自動車にお願いして、津久井町の森田病院で送ってもらい診察。医師は不整脈を疑い心電図をとるが別に異常はない。すっかり正常に戻って帰宅する。「わいわい会」の皆さんにお世話になった。
 柏厚生病院で診察、血圧降下剤のせいか、暫く様子を見る。

 高血圧症状は50歳代から 上150 下100 の状況が続いていたが健康過信で放って置いたが肺癌の手術後 先生より薬害より高血圧症からの病気のほうが命に関わると言われ、以後コニールとフルイトランを朝食後常用していた。

 平成13年頃 武甲山頂上で休憩中、直立が不可能なくらいの目眩がしたが、安静後 昼食を摂り、間もなく直ってしまう。
 翌年 八甲田山から下山中にバランスが崩れ後ろに倒れそうになる。
目眩症状は無し、血圧降下剤2錠誤飲のためかと思っていた。、脳外科の診断 MRI、MRA,頸椎エコー検査等で異常なし、最低血圧を70以下にしなさいとバイアスピリンを追加、以後血圧降下剤と合わせて3錠を服用した。その後の山行は異常なしで続いた。脳の問題は無いとの診断。

















 昨年暮れ当たりから、早朝の電車で目眩が2回ほど続いた。駅の階段を急いだせいと思っていた、貧血性の目眩と思っていた。
2月の丹沢大山は、私にはきつい山行だったが、特別の異常なし。

 3月18日石老山の前に迄は以上の様な症状であった。

 3月31日 SKKの公開講演会 バスにのるため2,30メートルほど駈け足で走ったが乗れず、駅まで20分近く頑張る。柏で電車に乗ってからがいけない、意識がもうろうとし出し、松戸までは解らない、しっかりせねばとあせるが、北千住辺りで落ち着いてくる。SKKの用件は済ませて帰る。
 4月に入っての身延旅行で帰りの高速道路、笹子トンネルを出た辺りの下りで運転中に目眩発作、すぐに戻ったが、SAで大休止をして帰る。

 定年前に近くの柏厚生病院を掛かり付け病院にしていたが、総合病院は医師がよく変わり、私のことを知ってもらえない。掛かり付け医院を「Oクリニック」に変更。妻の肝臓癌の手術した頃、妻の担当医O先生が厚生病院から独立開業、妻の診察の様子から、この病院は自分の専門以外や、機器不足は、知識設備の整った専門医師を紹介してくれたり(妻はガンセンター東病院を紹介されて、手術)専門医と良くコンタクトをとり、患者の身になって対応してくれ、気に入っていた。
 「Oクリニック」で本格検査、24時間心電図(ホルター)で不整脈の異常が見つかる。睡眠中の
頻脈がある。今まで無かった尺八演奏中に目眩が出る。クリニックの指示で、
◎ 専門の心臓外科で心臓エコー検査、ホルター分析、心臓の異常はない、不整脈の改善のための薬(メキシチール)服用開始する。
◎ 耳鼻科で平衡感覚検査、聴力検査は異常なく、自律神経失調症の薬服用。
1週間で止める。
















◎ 更に 睡眠時無呼吸検査(自宅で睡眠時機器を付けて、鼻呼吸と血中酸素濃度の検査)で一晩22回の無呼吸有り治療を要するほどではないという。

◎ 脳外科の検査 MRI(脳部スキャン撮影),MRA(脳血管検査),頸椎エコー 検査で脳外科の先生は特に異常なしと言う。

 5月上旬 4月末からの風邪が一向に良くならない。鼻詰まりがひどく、口呼吸で 睡眠時無呼吸が意識される。年齢を考えなければいけない年齢になったようだ。早朝高血圧が意識される。Oクリニックでミカルデス錠の夕食後服用追加となる。
 結果は不整脈によるものと思われるので、高血圧治療と不整脈の治療を進めることになった。メキシチール服用後は目立つ目眩はないが急激な運動は心臓がトクトクする。2,3日に一度大堀川の5〜7km程度の散歩はのんびりやっている。
 5月12日現在 朝の高血圧は85 140に戻る。健康を意識できる様になる。山や過激な運動を避けて当分は大堀川散歩と撮影旅行ぐらいは大丈夫のようだ。

 今年で73才になる。高齢者とは思わないが、老いの忍びよりをつくづく感じる。もう山は止めるべきだろう。走ったりしてはいけない。
 小旅行や撮影旅行で様子を見たい。
 安心老後の三題要件 健康と収入と人間関係(生きがい)、これが確保できない老後は惨めになる。自助努力がものを言う。健康と収入は儘にならない、他人様のお世話になる前にこれらのパイプが止まったら、潔くしよう。
 「いつ死んでもいい、と言いながら病院通いはまじめね」、女房に冷やかされる。
今の状況ではまだまだ楽しめると思うのだが、連れが居ることは幸せである。    5月13日記





















5月22日 再度24時間心電計計測、大分改善された。
              4月14日         5月22日
正常心拍        89.2%     →  99.7%
心室性期外収縮  2,484 ビート  →  22 ビート
不整脈連発          1       →   0
   2連発         49       →    2
    単発      2,383       →   18

このまま 薬服用で 普通の生活に戻り状況を見ることになった。
 6月21日記

平成18年9月某日
松ヶ崎バス停にて、止まってるバスに乗ろうと30bぐらい全力疾走した。
バスに乗ってから、いけない、目眩が来た。座れたから良かったが、柏駅に
着くまで6,7分意識朦朧になりかけては頑張らなければと取り戻す。駅に着く頃は修まってきたので大事はなかった。ゆっくり階段を上り切符を買うとき少しふらついたが、その後異常はなく正常に戻った。そんなことをしては駄目とひどく咎められた。絶対駈け足は駄目。


平成18年12月6日
 山の会の誘いで三浦半島の小山、「三浦冨士」山行参加。城ヶ島の民宿「長津呂荘」に宿泊、真っ赤な朝焼けの早朝撮影も出来、2時間ほどの登りを足を一歩一歩踏めしめるようにゆっくり登る。異常はない。快適な山行だった。
 来年も3時間程度の低山に挑戦したい。 12月30日記

平成19年度は山行の回数は減ったが不整脈については大きな問題はなく経過した。












松戸新東京病院に緊急入院 平成20年5月22日
 しばらく落ち着いていた不整脈がまたで始めた。平成20年5月21日、市の直腸癌検診で近隣センター体育館で受け付けを待ってる間に、頭がホワーとして視力が亡くなり意識を失いかけ、椅子に座ってこらえる。5,6秒だろうか意識が戻って事なきを得た。
  翌日早朝思い立って手賀沼の撮影に出掛ける。午前 5 時前、車で家を出て手賀沼の千葉北第U揚水機場の駐車場に車を入れ、遊歩道に登る。5時少し過ぎ、対岸の木立越しに大きな太陽が登り初め、思わずシャッターを切る。 湖面もヨシ原も、遠くの手賀大橋も、朝は美しい姿を見せる。撮影を楽しみながら2km 近く、大津川の橋を過ぎる。ここからは沼南だが、今は柏市に合併された。6時過ぎヨシ原の奥に手賀大橋、ファインダーを覗く視野が霞んで頭がホワーっとしてきた。とたんに意識を失った。
どのぐらいの時間たったのか、夢から覚めるように気がついた。目の前は草が茂っている。何処にいるんだろう、意識をたどる。そうだ撮影に来ていたんだ。体を起こしてみると、三脚が倒れている。先にEOS40Dのボディと200mmレンズが二つに割れて破壊している。大破、これは駄目だ。脈をとると大分途切れている。頭は元の状態になる。ザックにボディとレンズを入れ、三脚を担いでゆっくりと車へ、運転は異常なく出来て、帰宅。朝食も普通どおり、でも今回はおかしい。
 午後、大久保医院に行くと、車の運転は駄目、タクシーで直ぐ緊急入院をするようにとの指示。カメラどころでは無い。
 松戸の新東京病院に恵子に付き添われて、入院となった。担当はS先生。救急室で、点滴を受けながら、心電図、心臓エコーを撮る。処置室で脳スキャン、心臓レントゲン、脳とエコーからは脳及び心臓の異常はないという。
病名は一過性意識喪失。原因としては
 心臓関係20% 心筋梗塞 狭心症    弁膜症の疑いは無い。
 頻脈関係は疑問。心電図モニターを付けて入院調査。
 脳関係20% 脳梗塞 脳出血はMRI を見る限りない。 神経反射関係40% 
現病歴からはない。 てんかん、ヒステリー  とにかく心電計を付けて入院となった。












運動負荷を掛けた心電図測定 5月24日

 歩行機の上で20分ほど、速度を上げながら S 医師付き添いで測定。頻脈が見られる。心拍 180/m以上が数回出る。この後、心拍停止が続くと失神するようだ。
 27日 I 部長の指示で冠状動脈のカテーテル検査、右腕静脈より造影剤を入れながらの検査でこれは異常なし。夕方手術の模様を動画を見ながら説明を受ける。狭心症、心臓を囲む血管がきれいに写っている。心筋梗塞の疑いは無し。心臓内部の問題である。
一番多いの(95%)は発作性心房(上室)頻脈、心房内に発生した電気信号を結節を通して心室へ脈動を伝える。その電気信号が隔壁を漏れて再び結節へ、この回帰が繰り返されて頻脈になるそうだ。そこを電気メスで焼く手術、カテーテル心筋焼灼術(アブレーション)をするという。
2番目に心房頻脈、3番目に心室頻脈、相互に内部で反射し合っての頻脈と聞いた。
4番目は神経調節性失神とあると説明を受ける。 29日手術決定。
  時々頭がボワーとすることがある。看護師が飛んでくる。「今、発作があったようです」「そうでしょう。モニターが乱れてました。」そう言う事が何度か続いた。それ以外は元気そのもの、退屈な日々を過ごした。
手術前の説明文
病名 発作性上室性頻脈 または心房頻脈の疑い。
治療に伴う危険はゼロではありません。死亡や重度障害、合併症の起こる可能性はまれながら存在します。
カテーテルアブレーションは、局所麻酔下でカテーテルという直径2mmほどの管を心臓の中に挿入し高周波電流を流して40〜45度まで熱し、不整脈の元になる異常部分の焼灼を行い、不整脈を根治させます。
 28日 メキシチール服薬中止













手 術 5月29日
 29日 1時点滴、 2時手術室へ I 部長 S 先生のコンビで手術開始
麻酔後 太ももから3本、首より1本カテーテルを入れる。
 I 部長が「ァやっぱり」と言うのが聞こえる。心房に回帰性の頻脈が解ったのだろうか、ポーポーと聞こえる私の脈音が時々早くなったりする。
 「ハイ入れて」指示にジーと焼灼が始まったのか聞こえる。「20W」 I 部長の指示に S 先生が応える。「止めて」 この繰り返しは20回以上続く。
 「栗原さん 結節の近くまでやってるんですが、難しいですね、ペースメーカーになる可能性があります。」「そうですか」私の返事に
「もう一度やってみましょう」と先生は焼灼を始めた。
「もう大丈夫かな」部長は言いながら、
「心臓がドクドクしますよ」と予告してある処置をした。暑くなってくるが異常はない。
「誘発しませんね」、頻脈誘発の処置だったようだ。
「大丈夫です」 先生の声でアブレーション処置は終わった。
廊下に出ると妻が待っていた。5時を大分過ぎている。
手術後 5時間は足腰を動かしてはいけないという。食事も 9時にして貰ったが、聞いてたほど大変な事もなく、食事トイレと順調に進む。
 翌朝 S 先生が見えて「あれから不整脈役はありませんね」と嬉しそうに声を掛けてくれた。
「有り難う御座います」 ずっと不整脈が出ない事を祈る。
「2,3日 様子を見て、出なければ退院だね」先生は言う。
「このまま不整脈の様子を見ましょう、外来は26日にお願いします」 と先生のコメント。もう不整脈は出ないような気もするが。

 5月2日に退院が決まり、家に帰りパソコンを開けるとメールがどっさり。やっぱり家はよい。
 循環器系では優れた病院と聞いていた新東京病院を紹介してくれた大久保先生に感謝有るのみ。
 自宅を出て、大堀川沿いに下ると手賀沼に出る。1時間足らずで千葉北第2導水機場、大津川橋を越えて倒れたらしい現場に来てみた。相変わらず散歩客が遊歩道を歩いている。


 その後不整脈によるめまいや動悸は ずっとなくなった。

平成20年6月17日 EOS40D レンズ 無事修理完了する。      完
   
                   






























sennisyou
  
後腹膜線維症 平成20年11月
 足のむくみがひどくなる。11/27 便秘と連動か

 最悪の状態になる。手首はゆっくり指が回る状態で普通70kg前後なのに75kgを超えて、足は筋が見えないほどふくれている。体脂肪計は10まで下がり、浮腫で体重が増加してるのが分かる。12月6日のさいたま三曲の発表会では、こはぜがはまらなくなった。大久保先生は 血液検査、心臓エコーを取ったりし、心臓、腎臓からの浮腫ではないという。

12月8日、厚生病院で腰部のCTスキャンを取り、尾てい骨の先に腫瘍らしきものがあると言う。リンパ腫の疑いもあるという。同時進行で便秘がひどくなり、酸化カルシュウムでは効かず、薬を変えて貰った。腸の検査を兼ねてと大久保先生は中辻医院を紹介してくれる。
 「中辻病院」にて大腸検査 12/11
 便秘が続くため大久保先生は大腸検査を薦め、当院で検査を受ける。
3日前より特殊な下剤で前日は食事なし。2リットルぐらいの液体を午前中一杯のみ、便が水と同じくらいまで住んだ頃、昼から内視鏡検査、悪性ではないが腫瘍が3つほど有り、内視鏡で削除する。3個以上は一泊とかその晩は止まって帰る。苦痛はなかった。それ以外には以上はないとのこと、来年も来て下さいという。


癌センター診察 1/5
 腰痛と浮腫は改善されない。大久保医院からの紹介で癌センター東病院を訪ねる。宇津先生から血液検査と腰椎部CTスキャンを指示される。

後腹膜線維症 2/13
 癌センター東病院診断の結果、「後腹膜線維症」の検査の結果が発表された。後腹膜線維症、非常に珍しい病気で200万人に1人ぐらいの発症率、悪性でなければ命の別状はない。先ず腫瘍検査の指示あり。











 
 3月2日 がんセンター1日入院。後腹膜線維症は尾てい骨と腹膜との間らしい。部位が混み入っていて、癌細胞は針を刺しての生体検査しかないようだ。10時入院で午後3時頃CTスキャン室に赴く、給食調理室か工場のようだ。うつぶせに寝て機械の中を行ったり来たり、モニターを見ながら女医がそこで止めてと指示する。針を刺した先がビシッと刺激感が来る。2カ所ほど部位を採って終了する。
 その日は安静が必要とか入院する。翌10時過ぎに退院する。

24日 癌センター東病院の向井先生の所に伺う。悪性腫瘍の心配はゼロで当病院では扱いませんので他の医院を紹介しますとのこと、慈恵医大の紹介状とCTスキャンの画像CDを預かった。
 勝利 癌センター東病院入院 4/1
 一番下の弟が肺と脳に癌細胞が見つかった。ステージは4だそうだ。本人は手遅れだと言っているが、癌センター東病院に入院した。検査の結果では、血液中にも癌細胞が溢れているとか。手術は当然不可で、抗がん剤による治療に入るための入院である。













慈恵医大病院 4/6 大草先生初診診断
 慈恵医科大学病院 神経内科 大草先生の診察を受ける。後腹膜線維症と病名は解っているが、あらためての診断はなく。大久保先生と同じ血圧降下剤を指定してよこした。
 腰椎部は就寝中、仰向けに寝ると辛いが、海老のように腰を曲げて寝ると痛みはなく楽だ。小便がたまると大便をしたくなった様に腰椎部の痛みが強くなり、排尿を済ませると大便は出ないが楽になる。血圧は常時 120〜70台を保ち、利尿剤入りを朝昼飲んでるせいか、浮腫はひどくはない。階段歩行や、散歩は大分疲れて敬遠してしまう。大堀川も2、3キロmに減らす。ヘルスメーターの体脂肪率は16〜19 の間を行ったり来たりしている。
 このまま生きるだけ生きて人生を楽しむか、あまり焦らない様に考える。  
 厚生病院にて、6月15日胸部CTスキャン、16日腰部CTスキャンを取り、23日に大久保先生を訪ねる。
 ステロイド30mm投与を薦められる。病変が危ぶまれるので入院設備のあるところが望ましいとのこと。マリヤの病院を検討中とか。もっと病院情報を探してみますと言っていた。












 
8月2日 近江八幡 長浜 伊吹山 郡上八幡 旅行
 3日 伊吹山頂上駐車場からの登り「中央道」20分の階段コースを選択した。筋肉の疲れと腰の痛みで5分ごとの腰を下ろす休憩。40分掛かって、やっと頂上を極めた。「後腹膜線維症」大分進行している。体力減退をこれほど感じたことはなかった。頂上が見えて、ホットする。
イブキジャコウソウ。伊吹は花の名所、数え切れないほどの花にお目にかかれた。シモズケソウ、この群生は以前はもっとすごかった様に思えたが、心なしか少ない。
 下りは「西コース」琵琶湖を眺めながらのなだらかな下り。ツアー客でごった返しである。
 山を下りると「関ヶ原町」天下分け目の戦い関ヶ原合戦場、石田三成陣屋の小高い丘に登るが、腰が痛んで思うように歩けない。
 郡上八幡の円空サン。  郡上は二度目の訪問になる。郡上踊りが近いせいか、暑さと共に賑わっている。郡上八幡博物館で「郡上踊り」デモを見学する。「川崎」は知っていたが踊りの数の多いのにびっくり。
「宗祇水」と斉藤美術館を回る。この前は霧の中だったお城が綺麗に見えた。














 8月7日  ステロイド 30mm 投薬開始
こちらからお願いしてステロイド投薬を始める。入院はせず、5mmのプレドニンを朝、昼、夜2錠筒服用開始。 慈恵医大柏病院 大草医師
 尿酸過多の為ザイロリックス、骨折予防のベネットを服用
 8月10日 腰痛 浮腫が無くなる
 8月12日 大堀川 4km コースを歩き始める
 8月29日 72kg の体重が 65kgになる
 8月30日 平常時脈拍が100 を越え120 に達し、動悸がする。アーチスト服用始
        める
 9月3日 尺八演奏時に手がしびれる。10分ぐらい続く。
 9月 4日 プレドニン20mmに減らす
 9月11日 血糖値が400と高くなり、セイブル服用 血糖と測定開始
 9月14日 じんま疹が出来る。湯痛、浮腫はない。
 9月19日 プレドニン15mmに減らす。
10月9日プレドニン10mに減らす。
10月16日 味覚障害 醤油の味が渋い。
10月24日 プレドニン5mm にへらす。  味覚障害のためザイロリックス中止
11月11日 風邪を引く。味覚障害は続く11月16日 プレドニン 5mm 継続
11月21日 風邪が落ち着き風呂へ
11月25日 腰部MRI検診体重56kg
血圧 70〜120維持
12月14日 MRI筋肉種は認められず。
炎症マーカーは強い。 ステロイド 5mm 継続
12月15日 降圧剤ミカルデス20mm追加
  味覚障害は減ってくる。
 ステロイドの効用は驚くほどよく効くが副作用は非常に多い













 平成22年4月5日 慈恵医 後腹膜線維症診察
  足腰の痛みは驚くほどなくなった。山歩きの70歳代の足腰になってきた。
体重は75kgから63kgまで減った。こんなに効く薬は珍しいのではないか。
副作用の多い多いのには驚いたが、その他免疫不全の体となり、外部病原菌は気をつけなければならない。異常な感染もなく現在続いている。
一日 5mmステロイドは継続している。
  4月29日 慈恵医大柏病院 エコー検査4/28
 後腹膜線維症の経過は非常によい。状況を見るためにエコーを取る。去年の腰痛やむくみが嘘のように治った。体重61kg になる。


                



































 


 
肺癌