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竹伶会の歴史
 発祥は朝日生命保険相互会社のクラブ活動です。昭和八年頃の活動の記録が残っております。
 琴古流の川崎洋童(佐馬の助)を指導者として、栗田 山田 木下 松崎、等で活動していました。
 昭和43年川崎氏が亡くなられて、山田流箏曲の檜垣先生の世話で童門会の荒屋夢童先生を迎え、青符から白符に変わりました。この頃諸先輩に混じって、当時は若手の星野さん、岩崎さんおりました。二人は童門会二代目の納富寿童より荒屋先生の引き立てで童号を頂きました。その後 転勤等で会員の移動もあり、昭和五十年頃は竹伶会も休眠状態であったようです。
松崎康童氏が本社検査部に戻られ
、彼は柏の松本悦童先生より童号を頂き、竹伶会を復活しました。星野、岩崎さんは転勤で不在、又稽古は青符に戻りました。
 朝日生命文化祭にも参加し、檜垣先生との箏曲合奏も盛んになりました。

                                           昭和53年10月 朝日生命ホール文化祭発表会  
  平成6年 松崎康童さんの高齢化で、指導者が星野忠童氏に替わり、稽古は白符に戻った。文化祭活動、糸方との合奏等活動が盛んになった。童門会との交流も増えてきた。
 この頃、バブル期に入り朝日生命も本社売却の状態になった。 朝日生命の和室も使えなくなり、大宮のさいたま市の生涯教育センターを利用した稽古が再開された。 朝日生命を離れ、会主 星野忠童氏を中心に活動している。一般からの会員も増え、さいたま三曲協会、浦和邦楽会等部外活動も多くなる。童門会との交流も密になる。
 
    平成10年10月B1和室 文化祭